凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~聡side~
12月ももうじき終わる。明日になれば新年がやって来るという、街がそわそわしだす今日、この日。
僕の人生において一番めでたい日が訪れた。
仕事もない、年末休暇の初日。僕は安全運転の範疇で車を全速力で飛ばし、病院へ向かった。駐車場に車を止めると、見慣れた一台の車がある。一番最初に来ようと思っていたのに、どうやら先を越されたみたいだった。
一つ息を吐いて、車から降りる。ドアの閉まる音で向こうも僕の存在に気が付いたのかこちらを向いて、小さく会釈をした。
「おはようございます。保さん、夏帆さん」
「ああ、おはよう」
「おはようございます」
今日の二人はいつになく穏やかな空気を醸し出していた。それもそのはずだ。今日は僕にとって一番喜ぶべき日であり、二人にとってもそうなのだから。
千夏ちゃんが、今日を持って退院する。
四カ月にも及ぶ死闘を終えて、今日、元の世界へ帰って来るのだ。
それはどれだけ喜ばしい事だろう。・・・事故の加害者であることを踏まえると、手放しでただ喜ぶだけとはいかないだろうが、それでも僕の大切に思う人が元気な姿を外で見せてくれることはたまらなく嬉しい。
だからこそ、一番に来たかったんだけどなぁ・・・。
「お二人より早く来ようと思っていたんですけどね・・・」
「自分の娘の退院に立ち会うというのに、他の奴には負けてられんだろう」
保さんはそんな冗談を言いながら小さく笑う。それには夏帆さんも同意していみたいだった。そこにそっと言葉を添える。
「負けず嫌いなんです、私たち」
「知ってますよ。千夏ちゃんがそうですからね」
親あって子供あり、だ。千夏ちゃんの負けず嫌いの片鱗は何度も見てきたし、それは容易に想像できることだ。
ははは、と小さく笑って天を仰ぐ。芽ぐみの雨が明けてからはしばらくの間快晴だった。そして今日もまた、澄み渡るほど蒼が広がっている。
その時、ふと余計なことを思った。
千夏ちゃんが二人のもとに帰ってきたら、僕はどんな顔で二人に会いに行けばいいんだろう。
もちろん、ビジネスなお付き合いを二人としていたわけではない。そこに千夏ちゃんが入ってきても上手くやっていく自信はあった。
が、その光景がどうしても想像できないのは、二年という年月が想像以上に重たいからだろう。
暗い顔なんか見せられない、と邪念を振り払いながら、僕は病院の出入り口の方を見る。その時、付き添いの看護師が扉を開けたと同時に、今日の主役がゆったりとした足取りで外に出てきた。
「・・・こりゃまた豪勢なお出迎えだね」
冗談を言いつつ、千夏ちゃんが苦笑いを浮かべる。ふっと隣を一瞥すると、夏帆さんが口元に手を当て、震えていた。保さんはその背中に手を置き、励ますようにうんうんと頷く。
だから、前に出るべきは僕だった。
「お帰り、千夏ちゃん」
微笑と共に右手を前に差し出す。仮とは言え僕たちは恋人。まだ足元がおぼつかないというのなら、支えになるのは義務みたいなものだ。
千夏ちゃんは少し恥ずかし気に、けれど確かに僕の手を掴んで前に歩き出した。そして保さんと夏帆さんから二歩ほど手前の場所で立ち止まる。
「ただいま」
「ああ、お帰り。・・・よく頑張ったな、ここまで」
僕が手を離すのと一緒に保さんは千夏ちゃんの頭に手を置いて、その髪を撫でた。
「恥ずかしいよ、お父さん」
とは言いつつも、まんざらではない表情で千夏ちゃんはされるがままになる。僕はそんな二人のやり取りを、少し引いたところでただ見守った。
僕はまだ、そこにいるべき人間ではない。
そんなことを思ってしまったのだ。当然だ。親子水入らずの空間に、まだ何者でもない僕が立ち入る隙は無い。それに、この神々しいまでの光景を汚すことをしたくなかった。
しばらくしていると、泣き止んだ夏帆さんが千夏ちゃんの両手をしっかりと握った。それから軽く抱擁をして、口を開く。
「・・・生きててくれて、本当にありがとう」
「大げさだって。・・・大丈夫だよ。もうちゃんと歩いていけるから」
千夏ちゃんは夏帆さんの背中をポンポンと数回叩いた。それから身体を離してようやく僕の方を向く。
「松原さん、今日までありがとうね」
その言葉に他意はないだろう。けれど僕は、単純な感謝の言葉にドキッとしてしまった。
これが、別れの言葉に聞こえてしまったから。
もちろん、そんなつもりはないだろう。約束をしたんだ。その約束が出まかせだったなんてことはきっと、千夏ちゃんもしないはず。
それでも不安になった僕は、少々わざとらしく答えてみた。
「うん。・・・これからもよろしく」
「こっちこそ」
心配は杞憂に終わったようで、千夏ちゃんはちゃんと答えてくれた。約束は嘘や都合のいい言葉ではないと証明してくれた。
「・・・さて、こんなところでずっと立ちっぱなしなのもなんだ。そろそろ行かないか」
ダラダラと停滞していた空気にいち早く気が付いてか、保さんが区切るように声を挙げた。夏帆さんも、千夏ちゃんも、僕も頷く。
千夏ちゃんには、元の居場所が一番似合う。早くそこに辿り着いてほしかった。
そして、まだそこに僕はいらないだろうから。
「それじゃ、今日はこの辺で・・・」
「? 何を言ってるんだ?」
僕が帰りの言葉を切り出そうとすると、何を言っているんだと真っすぐ保さんが尋ねてきた。言葉こそないが、夏帆さんも同じ目をしている。
「このままうちまで来てくれるんじゃないのか?」
「え? ・・・いいんですか?」
「俺たちはてっきり来るものだと思っていたが・・・なあ?」
「ええ」
俺を試すような夏帆さんの笑みがチクリと刺さる。この人の本性が垣間見えた気がした。
「それに、せっかくの年越しだ。一緒にどうだ?」
「松原さん、まさか帰るとか言わないよね?」
・・・どうやら、僕が積み上げてきたものは僕が思っている以上に大きくなっていたらしい。
初めはただ謝罪するだけだと思っていた。けれどそこに「一緒にいたい」と思う心が生まれて、それが膨張して、こんな関係になった。
何度もすれ違ったが、こうして今は受け入れて貰えている。それがどれだけありがたくて、素晴らしい事か。
もう、罪の枷なんていらないと思っていいのだろうか。
罪悪感を全て拭い去って、ただ幸せを望んでいいのだろうか。
調子に乗るとダメになってしまう自分を想像して、少し足踏みをしてしまう。
それでも、心からの本心には勝てなかった。
「ぜひ行かせていただきます。・・・一人で年越しなんて、寂しいじゃないですか」
「じゃあ、決まりだな。・・・千夏」
「ん?」
保さんは自分の車の方を一瞥して、千夏ちゃんに問いかける。
その仕草で何かを感じ取ったのか、千夏ちゃんは「あー」と小さく呟いて、一度だけ頷いた。顔を上げた先の視線には、僕の車が映っている。
「それじゃ、行くか」
保さんは夏帆さんを連れて、少し足早に自分の車に乗り込んだ。そのまま千夏ちゃんが乗るのを待たず発進していく。
「露骨すぎるよね、お父さんも」
「え?」
二人きりになって、千夏ちゃんはもう一度僕の手を握った。保さんは僕と千夏ちゃんの今の間柄を薄々察していたのだろう。だからこうして、二人だけの時間を作ってくれた。
「公認、ってことになっちゃうのかな?」
「さあ・・・。まあでも、バレてはいるだろうね。直接二人に明言したわけじゃないんだけどなぁ」
「まあ、どうでもいいことか。私たちも行こう?」
「そうだね」
千夏ちゃんをエスコートしながら僕は車に向かう。僕は運転席に、千夏ちゃんは助手席に乗り込んで、お互いにドアを閉める。
「こうやって家族以外の車に乗るの、いつぶりだろう」
「そもそもこの街自体車を持ってる人が少ないからね。ちょっと驚いた」
「ね、面白いでしょ? 鷲大師って」
面白い、か。
・・・ああ、面白い街だよ。だから大好きになったんだ。
この街を、あの二人を、千夏ちゃんを。
思いにつられて笑顔は生まれる。小さく鼻で息を吐いて、「そうだね」とだけ答えた。話せば長くなるだけの思いだ。これからゆっくりと語り明かしていけばいいだろう。
「じゃあ、僕たちも行こうか」
「うん」
車が走り出す。後ろめたい思い出と、甘酸っぱい思い出が沢山詰まった病院を後にして、ゆっくりと未来へ走っていく。
ここから先は、誰も知らない世界。そこで僕は何を思い、何をするんだろうか。
・・・分からない。けど、一つだけ確かなこともある。
そこに千夏ちゃんがいて欲しい。
この思いだけは、絶対に揺らぐことはない。
『今日の座談会コーナー』
実に何カ月ぶりでしょうか。煮詰まって放置して、という繰り返しが始まって気が付けばこれだけの期間が開いちゃっていました。前の八カ月よりはマシかぁ・・・。
さて、ここで私は岐路に迫られています。ここで打ち切りの如く終わるか、更に掘り進めて水瀬千夏を幸せにするか。幸せにしたいのはヤマヤマなんですが、前書きにあるように多忙を極めすぎた結果こっちに回せるリソースがないんですよね。進めようと思うと、またかなりの時間がかかります。
なのでまあ、長い目で見てください。そのうち復活します。
と言ったところで、今回はこの辺で。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)