凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~聡side~
一時間ほど車内で仮眠をとって、もう一度海へ出てみる。しばらくの間水面はただ風に揺れるだけだったが、僕がもう一度外に出て三十分ほどして人魚のように海中で体を操る千夏ちゃんが現れた。
その表情は、飛び込む前よりもはるかに清々しく、何かあったのだろうと思うのに時間はかからなかった。
・・・もちろん、千夏ちゃんの中で折り合いがついただけで、それが僕にとって不都合なことかもしれない。そう思うと素直に喜ぶことはなかなかできなかった。
何も発せないまま、千夏ちゃんは陸へと上がる。先ほどみたいに皮膚が体の水滴を全部吸い上げて、何事もなかったかのように千夏ちゃんは体を伸ばした。
「どうだった?」
「うん、色々あったよ。会ったのがいい人でよかった」
「そっか」
そこで言葉に詰まる。色々、と濁された手前、何を聞けばいいのか、何まで聞いていいのか、その線引きに困っていた。
けれど千夏ちゃんがそんなことで気分を害すようなことはなかった。むしろ何も考えてないのではないかと思えるくらいに弾んだ笑顔で、僕の肩を叩いた。
「行こ?」
「行こって・・・もういいの?」
「もともと大した用事があったわけじゃないしね。それよりほら、あそこ行こうよ。私がずっと言ってたやつ」
悩みなどないのではないかと思うほどに千夏ちゃんがせがむものだから、僕もすっかりその気になって、先ほどまでの少々陰鬱としていた心がすっかり晴れてしまった。久しぶりに頭を空っぽにして、朗らかな表情を浮かべて快諾する。
「分かった。今が三時くらいだから・・・今日はそこで終わりでいいかな?」
「うん。明日のことは、また明日になって考えよっか。時間はいくらでもあるんだから」
ここまで来て、ごちゃごちゃと考えるのもばからしい。時間はいくらでもあると千夏ちゃんは言うが、一か月という月日は絶対に短いだろう。二年間目覚めを待ち続けた僕だからこそ分かるものもある。
だから、その与えられた限りある時間は、せめて楽しい思いだけしたい。これからの僕がどうするか、とかではなく、ただ思い出だけを積み重ねたい。
車に乗り込み、シートベルトをして、車はもう一度走り出す。
今度は海に背中を向けて。
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日が沈み、月が山影から顔を出す。あたりはもうすっかり暗くなって、部屋のぼんやりとした明かりがより一層際立つようになった。
ここはどこともしれない山中のとあるコテージ。海になじみがある生活な反面、自然の緑に囲まれる生活というものになじみがなかった千夏ちゃんがねだったのは、キャンプというものだった。
とはいえ、怪我が回復して間もない千夏ちゃんのことを考慮すると、テントを張って準備して、などというのは到底無理。落とし込めた妥協点が、このコテージだった。
当の本人はというと大変満足したみたいで、バタバタとひとしきり建物の中を走り回ってから満足そうに笑んだ。それだけで、僕も満足になる。
それから荷物をほどくなり、買い物袋をさばいて千夏ちゃんはキッチンに向かった。そこに僕のつけ入る隙なんかなく、おとなしくただ料理が並ぶのを待つ。
終わるなり二人で木目のテーブルに並んだ料理を向かい合って食べる。何度かお邪魔しているから分かるけど、千夏ちゃんにしても夏帆さんにしてもずば抜けて料理がうまい。ここまでくると生まれ持ってのセンスなんだろうなと感心。
そして片づけまで終わったところで、僕はコテージに備え付けられたベランダに出た。思ったより座り心地の良い木調の椅子に腰かけて天を仰ぐ。僕が想像している何倍も、月と星が煌びやかだった。
「隣、座るね」
ベランダにつながる扉が開いて、目の前にある机に二人分のコーヒーを置いて千夏ちゃんが隣に腰かける。僕と同じように空を見つめて、綺麗だねと呟きながら、しばらくの間ぼーっとしていた。そんな時間があまりにも愛おしくて、終わってほしくないとさえ思ってしまう。
儚さに包まれ始めたころ、湯気立つカップを一つ持って、千夏ちゃんがこちらを向いた。
「こうして二人きりになるの、なんか新鮮だ」
「そうだね。・・・こんな経験、もう二度とないだろうって思ってた」
「・・・ねえ松原さん、ちょっと失礼なこと聞くけどさ。・・・やっぱりその、前好きだった人のこととかって、結構覚えてたりするのかな」
ズズッとコーヒーを啜って千夏ちゃんは表情を隠す。僕はそれを尻目に嘘偽りなく答えた。
「覚えてるよ。忘れることなんてできなかったし、多分これからも無理だと思う」
「そっか。・・・やっぱり、そうだよね」
「彼のこと?」
「うん、そうなる」
今はもう別の誰かと結婚して、千夏ちゃんのいた世界から遠ざかってしまった彼。千夏ちゃんもそのことは割り切っていると思うのだが、やっぱりまだ思うところはあるのだろう。
「心が痛い、とかそういうことはないんだけどね。こうして年の近い男の人と二人でいるとさ、どうしても思い出すんだよ、遥君のこと。・・・そりゃ、結構長い時間同じ屋根の下で過ごしてたから、仕方がないことなんだけどね」
未練、というわけではないのだろう。
ただ、新しい思い出を作ろうとするのに必ず現れる過去の亡霊が気になっているだけだろう。そしてそれは、僕もまた同様の話。
僕は美浜の、千夏ちゃんは島波さんの亡霊を見ている。
だから、僕たちはちゃんとこの旅でこの亡霊を祓わなければならない。結ばれようと結ばれなくとも、僕たちがこの亡霊のもとへ帰ることはもう二度と出来ないのだから。
「塗りつぶせるといいな」
「何が?」
「あ、いや。・・・僕らの中にある、それぞれの思い出をってことだよ。過去が消せないなら、それ以上のことで上書きするしかないんじゃないかな」
「よかった。松原さんもそう思ってるんだ」
「え?」
考えもみなかった返答に、僕は思わず声を挙げる。千夏ちゃんはカップを机に置いて、まだ少し震えの残る腕で僕の手を柔らかく結んだ。
「こんなことをいうのもなんだけどね・・・私、やっぱりまだ松原さんのこと信じ切れてなかったんだと思う」
「・・・うん、いいよ。聞かせて」
そういうだけの理由があると、僕は知っている。だからちゃんと聞く。これは、未来へ行こうとするサインなんだから。
「私と松原さんが出会ったのは、あの日の事故がきっかけ。これは絶対に変えることができない現実。・・・それをきっかけにして私たちは出会って、松原さんは私のことを好きになってくれたって言ってたけど、やっぱり、負い目とか、責任感とか、そういったものがあるんじゃないかってずっと怖がってたの」
「・・・」
「私のことを好きになってくれたのは嬉しいの。・・・ううん、もう隠せないからちゃんと言うね。私も松原さんのこと好きなの。夢も、この気持ちも諦めたくない。・・・だから、どうしても事故っていうきっかけがノイズになっちゃってる」
なんだかんだ同じ時間をそれなりに過ごしてきて、初めて千夏ちゃんの口から「好きだ」と告げてもらえた気がする。
それはもちろん嬉しいこと。・・・なのに、こんな暗い言葉のさなかで聞かされるとは思ってなかった。
けど、今は聞く時間だ。最後まで聞き届けて、それを受け入れよう。
「私、嫌だった。松原さんが前に好きだった人のことを懐かしんで、『いい思い出だった』って言われることが。じゃないと、最悪のきっかけで出会った私が、一生勝てなくなる気がして・・・!」
「だから、僕が美浜と過ごした記憶を上書きしたいって言ったことを喜んでくれたんだ」
言葉の代わりに首肯が一つ。
「・・・僕らの出会いを、やり直そう」
「え・・・?」
全てを聞いて、やっぱりこの旅が僕らにとってかけがえのないものになると思った。
けど、最初と意味合いはまるで違う。千夏ちゃんの思いが変わったから。
この旅は、僕が千夏ちゃんに振り向いてもらうためのアピール期間のように思っていた。何かを諦め切り捨てようとする千夏ちゃんに、僕は見てもらいたかった。あまり言葉にしたくないけど、それがこの旅の動機だった。
でも、千夏ちゃんは言ってくれた。夢も、この思いも諦めたくないと。
だから、僕たちはもう一度心から巡り合うのだ。事故も、誰かへの配慮もない出会いを果たす。心から嘘偽りない思いで結ばれあう。そのための時間に今、変わった。
もう、取り繕うことはしない。心から結ばれるために、もう一度出会うために、僕は僕の全部を見せよう。千夏ちゃんが素顔で向きあってくれるために。
この旅が、絡まった線路の終着点になるように。
「全部塗り替えよう。それぞれの過去も、出会いも。だから僕は、もういい人にはならないよ。無理やり煽てて一歩引いて、千夏ちゃんが望むがままに、なんてことはしない。それが素顔の僕だから。・・・だから千夏ちゃんもどうか、そうあって欲しいんだ」
「それが、出会いをやり直すってこと?」
「かくいう僕もね、ずっと遠慮してたと思うんだ。一度不幸にしてしまった分、絶対に幸福にしないとって思い詰めてた。・・・だからちゃんと、償いなんて言葉のない思いで千夏ちゃんと結ばれたいんだ。もう、こんなに好きになってしまったから」
こう出来るのは、僕が千夏ちゃんを好きだと思っている感情だけは嘘偽りがないから。あとは、この感情をもっと本物にしたい。
僕のわがままを聞いて、千夏ちゃんは小さく噴き出した。
「何かおかしい?」
「おかしいよ、もう全部。出会いをやり直そう、なんて言い出してさ。松原さんと知り合ってから今日までの日々、忘れられると思う?」
「無理だね」
「だから、上書きして新しい二人として結ばれる。・・・松原さんはすごいな、やっぱり」
いつの間にか目の端にうっすらと溜まった涙をぬぐって、千夏ちゃんはこれまでとは違う笑みを浮かべた。儚さの残る、少し甘酸っぱいような、そんな笑み。そして僕は、初めてそれが千夏ちゃんの本当の姿なのだと知った。
「遠慮しない私は、もっと面倒くさいよ? いちいち悩みこんで、それを吐き出そうともしないで、抱え込もうとする子だよ?」
「それでも好きになれる自信はあるよ」
「・・・それじゃ、明日からどうするか考えよ?」
これまでの自分を脱ぎ捨てるということは、昨日までの自分たちが組んだ行程も全てリセットすること。まあまあしっかりと組み立てただけに、この行程が白紙になるとなると大問題だ。
でも、ああ、楽しいから、いいか。
ようやく、心からの笑みが咲いた。
『今日の座談会コーナー』
ここからがクライマックスです。何話続くかは知りませんが、この外伝を締めくくるために一番な重要なポイントが出てきました。
「事故というきっかけをなかったことにする」、これがこの旅の最終目的です。もちろん、きれいさっぱり忘れるということはできないので、やはり「上書きする」という形で。その上書きするだけの思い出を作れるかどうかというのがキーポイントになるのと、真の意味で遠慮しなくなった二人がちゃんと結ばれるのかどうかというところがメインになってきます。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)