凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~千夏side~
私の隣の部屋のドアをコンコンとノックする。中から聞こえてくる「開いているよ」という声を受けて、私はゆっくりと扉を開いた。
松原さんは、ベッドに腰かけ、ぼんやりとテレビを見ていた。私に気づいてようやく、こちらを向く。
「どうしたの? 千夏ちゃん」
「・・・暇だったから」
違う、こんなことを言いたいんじゃない。もっと素直にならなきゃ。
歯を食いしばる。自分の情けなさが申し訳なかった。
「そっか。まあ、せっかくだしおいでよ。ちょうど観光者向けの番組やってるんだ」
「なら、失礼しようかな」
ようやく、少しだけ素直になった私は歩を進め、靴を脱いで松原さんの後ろに陣取る。私が座り込んだ場所に疑問を抱いたのか、松原さんはテレビに視線を向けたまま困惑の色を織り交ぜて言った。
「見にくくない? そこ」
「ううん、ここがいいの」
「ふーん? ならいいけど」
実際、私の視界はほとんど松原さんの背中で塞がれていた。テレビの音も、集中できていないせいかノイズにしか聞こえない。
けれど、それが今はとても心地よかった。ここまで心穏やかになれるのは結構久しぶりのことで、気を抜いてしまうと泣きそうになる。
いい匂いがする。安心できる匂いだ。
大きく見える目の前の背中が、とても愛おしく思える。・・・なんでだろう、昨日まではここまで胸が弾むことなんてなかったのに。
なんて言っても、答えは決まってるか。
今、目の前にいる人が、遥君を越えたんだ。私が目覚めてからの数か月と、この三週間の道のりで、その存在を上書きしてくれたんだ。
私は、この人を心から好きになりたい。今は間違いなく、そう思ってる。
だから彼のことを、「いい思い出だった」なんて言ってあげない。遠い初恋の相手で、今は程ない関係の友人。それまで。
・・・ねえ、松原さん。さんざん迷惑かけて、いろんなこと言っちゃたんだけどさ、今はもう、こんなにあなたのことが好きなんだよ?
両手を広げて、不意打ちのように後ろから抱き着いて、溢れんばかりの心の声を余すことなく音にする。
「もう、いいよね?」
急に抱き着かれて松原さんはしばらく呆然としていた。そんなことお構いなしに、私は全部、全部を伝える。
「もう、ちゃんと松原さんのこと、好きって言っていいよね? 大好きだって、言ってもいいよね? 新しい私、全部松原さんに見せてあげられたか分からないけど、この言葉、伝えていいんだよね?」
「・・・まいったな。僕の方から切り出そうとしてたのに」
松原さんの第一声はそれだった。頭を掻いて、半ば悔しそうに、けれど嬉しそうに口先でそう語る。手元のリモコンでテレビを消して、抱き着いた私の腕をほどいて、こちらをゆっくりと振り返る。
松原さんは、泣いていた。頬のあたりを小さくしずくが伝う。
「ずっと、不安だった。偽らない僕の姿でいたら、千夏ちゃんの心が遠ざかってしまうんじゃないかって、ずっと不安だった」
「どうして、そんなこと・・・」
「だって、君の後ろにはずっと彼がいただろう?」
震える松原さんの声は、確かに私の心の奥の黒い部分を射抜いた。
松原さんも、ずっと分かっていたみたいだ。私が遥君への思いを消せずにいたこと。彼と目の前の松原さんを重ねていたことを。
分かった上で、松原さんは私のことを心から好きになろうとしてくれていたんだ。被害者と加害者という垣根を超えたやり方で。一人の人間として好きになってほしいという思いを、ただ一心に伝えてくれていたんだ。
・・・うん、だからこそ、あなたは過去の全てを越えたんだよ、松原さん。
鼻がツンとして、涙が溢れそうになる。それをごまかすように、今度は向かい合って松原さんを抱擁した。
「さんざん、言い合っちゃったね。ずいぶんわがままも言ったし、喧嘩もしちゃった」
「うん」
「だけど、こんなこと初めてだったから、私もどうしていいかわからなかったの、ごめん」
「大丈夫だよ」
「・・・これからも多分、こんなことになるだろうけど、でも、一つだけ、ちゃんと言わせて。・・・大好きだよ。何よりも、誰よりも」
誰よりも、という言葉をちゃんと口にして、私はずっと付きまとっていた亡霊を払い去る。
・・・ごめん、遥君。ずっと好きだったよ。
今日の今日まで、ずっと君が好きだったんだよ。もう届かない恋だとしても、これまでの出会いで一番だと思っていたんだよ。
でもね、私、好きな人が出来ちゃったの。私とどこまでも歯車が合う君以上に。
かみ合わないこともあるけど、ちょっと不器用なところもあるけど、それでも、大好きになったんだよ。
ちゃんと私は、君を乗り越えたんだよ。
・・・じゃあね、遥君。私たちが幸せになる世界は別々だけど、私はちゃんと君と美海ちゃんのことを応援できるから。
だからどうか、知らないところで私を応援してほしいな。
「あっ・・・」
もう、ダメだった。
松原さんから体を放して、私は蹲る。嬉しいのか悲しいのかも分からずに、涙は堰を越えてしまったのだ。
声を挙げて、わんわんと泣く。なんで泣いているのかも分からない。
でも、それを掬い上げてくれるのが松原さんだった。崩れそうな体を支えて、さっきの返答をしてくれる。・・・少し不機嫌そうに。
「ずっと言われっぱなしだったから、癪だ」
「え・・・?」
「だって、そうだろ? 僕の方がずっと前から君のことが好きだったのに、さんざん大好きって先に言われて、告白だって奪われて。・・・だからさ」
空気が止まる。
自分の唇に唇が触れていることに気が付くのは、それから間もないころ。
五秒、十秒と時間が経過しても、終わらない接吻。私は目を伏せて、ゆっくりとそれが終わるのを待った。
そしてゆっくりと口づけが終わる。
目を開くと、子供っぽい笑みを浮かべた松原さんが強気に放った。
「彼のことなんて知るもんか」
「松原さん・・・」
「ああ、そうだよ。ずっと悔しかったんだ。何をしても、君の周りの人の心に彼がいて。僕じゃそこにつけ入る隙がないって、何度思ったことか」
多分、私だけじゃない。お父さんもお母さんも、ずっと彼の亡霊に囚われていた。そこに無理やり入り込むようにして、松原さんは自分の居場所を作ったんだ。誰になんと言われようと、自分だけのやり方で。
そしてこの人はここまで来てくれた。彼に囚われない私の心を引っ張り出してくれた。・・・かなわないなぁ、ほんと。
「だから、何回でも言ってやる。僕の方が君のことを愛してる」
「・・・何それ、聞き捨てならない」
涙でぐちゃぐちゃになりながらも、私も口を窄めて食いつく。順番なんてどうにせよ、今の私の気持ちは負けてなんかいない。
「・・・ははっ、あはは」
本当におかしくなって、二人とも笑い出した。こんな場面でも意地を張りあうって、どれだけ不器用なのだと、互いに見合って声を挙げて笑う。
ああ、そうだよ。だから私は松原さんのことが好きなんだ。
冷静沈着で、常識があって、素直で、謙虚で、なんて虚像は遥君のもの。
本当のこの人は、確かに常識があって素直だけど、冷静さなんてすぐなくなるし、決定的に謙虚さが彼と違う。子供っぽくて、すぐに維持を張って、自分の貫きたいわがままを通そうと必死になる。もちろん、極限のラインで相手を気遣いながら。
そんな松原さんが、やっぱり私は好きだ。ごちゃごちゃ理由を考えるまでもなく、好きなんだ。
私が好きになったのは、ありのままの松原さん。事故を起こして常に謙虚に徹した彼じゃなく、無邪気さが残る等身大の彼。
彼が好きになってくれた私は、遥君の亡霊に囚われない私。そう信じてる。
だから今、私たちは出会いをやり直せたんだ。過去の遺恨は全部消えないけど、それを上書きして、ようやく一歩を踏み出せたんだ。
やっぱり、夢も彼も諦めたくない。辛い思いをすることになったって、私は全部を手に入れるんだ。だって、好きなことで苦しめるってことは、素晴らしいことなんだから。
松原さんが私の手をぎゅっと握る。一体何が起こるのだろうと、私は息を飲んで彼の言葉を待った。
そして、予想していたような、そうでもなかったような言葉を聞く。
「結婚しよう」
「・・・そうきたかぁ」
強い瞳の裏側に、してやったりという感情が映っている。きっと、今度こそは自分の方が先に言ってやると思っていたのだろう。
・・・あーあ、先越されちゃったな。
流れのままに私の方が言ってやろうかと思ったみたいだったけど、ダメみたいだ。仕方がないか、松原さんはこの言葉を言うことを、もうずっと前から待っていたみたいだから。
私なんかでいいの、なんてことは言わない。私は選んで欲しいのだから。私はこの人を、選びたいのだから。
短いようで長い間をこの人と一緒に過ごしてきたんだ。もう互いのことはちゃんと知っている。断る理由なんて、何一つない。
「・・・いいよ。結婚しよう」
口約束が、いつ形になるのか知らないけれど、この人は裏切らないことを知っている。だから私は、安心して身を委ねるんだ。
それより今は、この約束が口約束で終わらないように、私はそーっと後ろ手を伸ばして、指が触れたボタンを強く押す。
今は、明かりが消えたこの夜で、それを確かめたい。
『今日の座談会コーナー』
松原聡という人物は冷静沈着で、常識があって、素直で、謙虚な性格という風に描いていましたが、これはどちらかというと千夏と出会ったことではなく美浜と婚姻関係を結ぼうとしていたところに影響しています。文中では語っていませんが、聡は周囲の期待に応えようとする所謂優等生タイプの人間だったので、自然とこういう風に性格が変遷していった、ということになります。そして今見せているのが本当の姿、というところですかね。聡もまた、過去を越えたわけです。
といったところで、今回はこの辺で。
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また会おうね(定期)