凪のあすから~ heart is like a sea~【新装版】 作:白羽凪
~聡side~
ゆら、ゆら、ゆらり。
海の奥底の街で、伸びた海藻がゆっくりと揺れる。水面の向こうの太陽に照らされて、時折色を変えながら。
思えばこの光景も随分と馴染んできた。この街に越してもう五年以上は経つのだから、当然と言えば当然なんだけど。
旅を終えた僕たちは、千夏ちゃんが仕事に就くのと同時に籍を入れた。そこから子供が生まれるまで、およそ一年と少し。
その間も随分といろんなことがあった。ささやかながら結婚式も挙げたし、仕事をどうするかの問題もあった。・・・まあ、仕事に関しては僕があの会社を捨てきれなかったから、結局続けることになったんだけど。
そうして授かった子供。生まれた女の子には、夏菜という名前を託した。小さいころから暴れん坊っぷりを見せて、よく困惑したことを覚えている。・・・それでも、健やかに育ってくれている喜びに勝るものはない。
穏やかに時間が流れていく。まるで、これまでの激動を全て洗い去るかのように。僕の頬にも少しずつしわが増え始め、齢も30をゆうに越えた。
だから僕も、また歩き出さないといけない。
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底冷えするような冬が終わり、地上では桜に少しずつ花が付き始めた、そんな春の日。久々の休暇だというのに、今日は誰も家から出るそぶりを見せなかった。
六歳になり、来年小学校の入学を控えている夏菜が居間で昼寝をしているのを後目に、僕はダイニングのテーブルでぼんやりと窓の外を眺めている。
「はい、紅茶いれたよ」
「ありがとう」
向かいの席に千夏ちゃんが座る。色違いのカップを片手に、僕の顔をまじまじと見つめていた。
「・・・どうしたの?」
「いや? 何考えてるのかなーって」
「何も考えてないよ。そろそろ春だなって」
「そうだね。あと一年すればこの子も入学かー。私も生まれて三十年経ったって考えると、もう恐ろしいのなんの」
最近体も鈍ってきたし、なんて言って、千夏ちゃんは徐に体を伸ばす。それより体が笑えないことになっている僕は、苦笑いを浮かべるほかなかった。
もうすっかり人生の最盛期は過ぎている。ここから緩やかに、あるいは急激に衰退していくのを待つだけの日々だ。
だからこそ、今どう生きるか僕は考えたい。いつ終わるとも限らないこの平穏の中で、何か大切なものを残せたらと、そんなことを思う。
紅茶を啜って、暇を持て余しているかのように千夏ちゃんは指先をいじり始めた。こうした何もない時間も確かに必要だが、どうしても喪失感は否めない。
それを向こうも分かっているのだろう。ため息交じりに口を開いた。
「・・・ね、何かしない?」
「何かしないって言われてもなー・・・」
その時、ふと使命感に駆られた。
昔、僕は千夏ちゃんにある夢を語った。・・・そろそろ、その夢を追いかけてもいい時間じゃないのかと、内なる自分が語りだす。
思いが体にめぐった時、目の色が変わったのだろう。いち早くそれに気が付いた千夏ちゃんが、僕に尋ねる。
「・・・何か思いついた、って顔だ」
「思いついたわけじゃないけどね。ねえ千夏ちゃん、紙とペン、あったっけ」
「えー? あるにはあるけどそんなに枚数なかったような気はする。待ってね、探してくるから」
立ち上がってごそごそと戸棚を漁り、あるだけの紙を引っ張りだしてきた千夏ちゃんが不思議そうに尋ねる。
「で、これをどうするの?」
「昔、僕が千夏ちゃんに語った夢があったよね。・・・今が、その時なんじゃないかなって思ってるんだ」
「夢・・・。あっ」
「うん。一冊の本を、書き上げてみようと思うんだ。もちろん、人生の終わりまで書き続けたいから、簡単にエンディングは迎えないけど、そろそろ書き始めるにはいい時間じゃないかな」
いつか僕も老けて記憶を無くしてしまうかもしれない。保さんが最近物忘れが増えてきたと語っているように、僕もそうなるのだろう。
だから、大切な全てを覚えているうちに、僕は僕の生きてきた道を記したい。そこで触れあった誰かの言葉を残したい。そうすることで、僕の人生はまた形を持つことになると、そう信じているから。
「とりあえず、今まであったことを書き出してみようと思う」
「じゃあ、私が知らない聡さんがまた出てくるってわけ?」
「どうだろう? 小さいころの話も、もうずいぶんと語っちゃったからな」
クスクスと笑いあって、まだ幼かったころの自分を想像してみる。どんな人間だったか、何が夢だったか。
けれど、思ったより出てこない。思い出そうとしてもブレーキがかかったり、明確に思い出せなかったり。もう自分が若くないことを痛感させられる。
「・・・思ったより出てこないな」
「歳?」
「まだまだ大丈夫だと思ってたんだけどなぁ・・・。ちょっとショックだ」
だからこそ、このタイミングでよかったのかもしれないとも思う。もう少しすれば、記憶の最初のほうから少しずつ消えていくのだろうから。
一度コトッとペンを置いたとき、投げ出された僕の手を千夏ちゃんがとった。
「何もできないときは、休憩も大事だよ。聡さん、頑張りすぎなんだから」
「そりゃそうだ。・・・して、休憩しようって言っても」
「せっかくだし、陸の方へ上がってみない? そろそろ桜も満開になるころだと思うし」
千夏ちゃんの提案に頷こうとするその時、居間の方で転がっていた夏菜が動き出す。眠たげな眼をこすって、むっくりと起き上がった。
「あ、おはよう夏菜」
「ん、おはようお母さん」
「起きてすぐだけど、お母さんたち今から陸に遊びに行こうかなと思ってるんだけど、どう? ついてくる?」
「んー、いい。ちょっと探検したいから」
「遊びには行くんだな・・・」
意識がしっかりしたのだろう。グッグッと体を動かした夏菜は、さっきまでのけだるそうな雰囲気はどこへやら、近くにかけてあった帽子を取った。
「それじゃ、遊びに行ってくる!」
「晩御飯までには帰って来いよ? お父さんたちもそのころまでには帰ってくるから。あと鍵」
「大丈夫。ズボンにつけた」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
最後は千夏ちゃんに見送られて、夏菜はバタバタと真昼の汐生鹿に繰り出していく。ドアの閉まる音と同時に、千夏ちゃんは呆れの混じった息を吐いた。
「ほんと、どっちに似たんだろうね」
「千夏ちゃんじゃないかな。インドアってほどじゃないけど、僕はそんなに外に遊びに出るような子じゃなかったし」
「元気なのはいいけど、ちょっと心配かも」
「・・・もし何かあっても、うまくやると思うよ、あの子なら」
なぜか知らないけれど、心からそう思える。自分の子供なら信じられるとでも言うのだろうか。はたまた、オカルト的な何かか。
それでも、あの子から感じる無限の可能性には期待が膨らむ。何か大きなことをやってくれそうな気がするんだ。
「それじゃ、私たちも出ようか」
「そうだね」
一息ついて、今度は僕たちが準備を行う。夏菜とは違い、ゆっくりとした足取りで、急ぐことなく。
十分ほどして家の鍵を閉め、地上へ向け、足を動かす。まるで空を飛ぶかの如く、水中を抵抗なく泳いでいく。
その道中、一度だけ千夏ちゃんが遠くに向けて手を振った。あの子は・・・千夏ちゃんの友達の、美海ちゃんだったか。
そんなことは気にせず、陸に上がる。千夏ちゃんの思い出の場所である堤防を越えて、千夏ちゃんが指をさし案内する場所へ向かう。
たどり着いたのは、小さな丘だった。山頂を囲むように、十本ほどの桜が咲いている。見たところ、八分くらいだろうか。
その中心で僕らは寝転がって、雲一つない晴天を仰いだ。青白く広がる空は、光に照らされて輝く水面に似ている。
「・・・うん、いい景色だ」
「なんだかんだ、二人でこうするのって久しぶりかも。ここ最近はずっと夏菜のことで忙しかったし」
「そうだね。・・・と言っても、ますます忙しくなりそうだけど」
「だから、こういう時間が愛おしく思えるんじゃないかな」
そりゃそうだ、と小さく息をついて笑う。僕らを待ち受けている未来は常に形を変える。だからこそ、変わらない時間が愛おしいんだ。
目を閉じて、そよぐ風に身を任せる。凪のような穏やかな時間に、少しだけさわさわと音が混ざってくる。心地の良い空間だ。
「ねえ、聡さん。人生って何だろうね」
「いきなりどうしたの? 何か悩んでたり・・・」
「悩み事じゃないよ。ただ、今日まで歩んできたたくさんのことを思うとね、人生ってすごいなって思えちゃったの。そんな中で、私たちは何を幸せって言って、何に満足して生きているのかなって」
「そんなに深く考えたことなかったな。・・・でも、案外そんなに深く考えることでもないのかもね」
千夏ちゃんから提示された命題は、とても奥の深いものだ。人生の何たるかは、その終末までたどり着かなければ語ることはできないだろう。
けれど、今の僕にだって言えることはある。
「僕は、今がすごい幸せだって思えてる。これ以上ないくらい最高の時間だよ。・・・でも、運命って奴は姑息な奴でさ、どこかでそれを必ず壊しに来る。生きることを頑張るってことは、それらからこの日々を守ろうとすることなんじゃないかな。人生が何かなんて分からないけど、いい人生ってきっとそうして生きる日々のことを言うんだと思う」
「じゃあ、さぼっちゃいけないわけだ」
「息抜きは必要だけどね。・・・僕はこの日々を、全力で守り切るよ」
「なら私がそばにいないとね」
「そうだよ。その時は夏菜も一緒だ」
家族は、平穏を壊しに来る運命に立ち向かうためのチームだ。一人だって欠かすことはできない。だから互いに守りあって、明日を紡ぐんだ。
僕は、そうして生きていきたい。
きゅっと手が結ばれる。たまには、僕の方から。
満足そうな笑みを一度だけ見せて、千夏ちゃんは目を閉じた。時を同じくして、僕もそうする。
「・・・頑張ろうね、これからも」
「うん」
大事なことは、こうやって宣誓する。誰に聞かれるわけでもないけど、この言葉を受け取っている誰かがいるかもしれないから。それこそ、神様だっていてもおかしくない。
だから誓う。僕たちの物語に祝福が訪れることを願って。
かけがえのない今を守り抜き、幸福を探し続けることを、誓う。
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~side ???~
少女は海をさまよっていた。いつもつけていた目印を失念してしまったのが事の発端だ。
「・・・まいったね、どうも」
こういったことには慣れているのか、後ろ頭を掻きながらやれやれとため息をつく。そこに微かな、誰かのすすり泣く声が聞こえた。声に引き寄せられるように、少女は動く。
そこには男の子がいた。蹲って、寂しそうに真下を見つめている。
「どうしたの? 迷子?」
「・・・」
無言のまま、少年が首を振る。その背中を少女は・・・松原夏菜は叩いた。
「そっか。んじゃ、一緒に帰ろっか」
「えっ・・・?」
「私も迷子だけど、まあそこは心配しないで」
心配しかない、と言わんばかりの目だが、ようやく少年は夏菜に目を合わせた。根拠のない自信が籠った夏菜の瞳を見て、少年はなぜだか安心を覚える。
そのまま、夏菜から差し伸べられた手を取った。二人で行こうという意思を固めて、夏菜を見る。
「そだ。名前、教えてよ。私は松原夏菜」
夏菜が問いかける。
少年はしばらく無音のまま口をパクパクと動かして、そして俯き恥ずかしそうにしながらも、今度はちゃんと音にして、その名前を語った。
「島波、湊」
「そっか。湊くん。よろしくね」
手が繋がれ、また物語が紡がれていく。誰も知らない、海の底の御伽噺が。
~完~
『今日の座談会コーナー』
この外伝もついに最終回を迎えてしまいました。幕間の物語としてちょこちょこかいつまんで書くことがあったとしても、長編物語としてこの話を書くのはこれで最後です。ここまで三年間、本当に本当にありがとうございました。
さて最終回ではありますが、本編最後のところについて説明させていただきます。この時点で最初の三人の関係(遥、美海と千夏)ですが、修復されたとは言っても完全回復とはいかず、会えば話す程度の仲となってます。それについては千夏が聡に遠慮している節もありますし、今更会って何をすることもないというところが挙げられます。またβ最終回で語っているように、遥は陸に住んでいるため、海との関りが減っているところも大きいです(湊は海の小学校に通っているという設定でいますが)。そのため、まだ小学生になっていない夏菜と湊にはっきりとした面識がなかったということですね。
ここからの物語は、想像こそしていますが、書くのは無粋でしょう。この後の物語は皆さんの胸の中に。
さて、外伝いかがだったでしょうか。道中何度も折れかけましたが、やっぱり好きには勝てないんだなというのを痛感させられましたね。
終わってしまうのか、と一番思っているのは多分自分だと思います。
といったところで、今回はこの辺で。
またいつか幕間の物語書くことがあるかもしれません、その時お会いしましょう。
感想、評価等お待ちしております。
また会おうね(定期)