Perspective   作:広田シヘイ

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第一話『始まりの艦』

 

 

 

 

 

 

 私はドジ──なのだと思います。

 というか、ドジなんです。多分。

 いや、多分なんて言ってはいけないくらいに、それはもう白地(あからさま)に──ドジなんです。

 それに加えて、愚かです。

 午前の対空戦闘演習で、私は有ってはならないという程の大失態を演じてしまいました。

 転びました。演習中に、水の上で。

 下着も全部見えてしまっていたと思います。穴があったら入りたい、とは正にこのような心境を言うのでしょう。私の場合、穴は幾つあっても足りないでしょうけど。

 事も有ろうに、演習の最中私はずっと提督(ていとく)のことを考えていました。正確には、提督の懐中時計のこと──と言った方が良いのかもしれません。

 

 ──あの時計のこと、提督は憶えてないんだろうなあ。

   雪風ちゃんや大淀(おおよど)さんが羨ましいなあ。

   提督に、全部言ってしまいたいなあ。

 

 そんなことを考えていると、対抗部隊である赤城(あかぎ)さんの九九艦爆が、私達二駆の対空射撃を潜り抜けて旗艦の夕立(ゆうだち)に降下を始めたのが見えました。夕立は他の航空機に気を取られていて回避も間に合わないと思ったものですから──。

 私が(かば)おうと。

 夕立は私より格段に優秀ですし。

 その方が艦隊の(ため)になると、そう思ったのですが。

 

 ──主機の出力を上げた途端に、自らのコントロールを失いました。

 

 必死に体勢を立て直そうとしているうちに夕立との衝突コースに突入してしまって──。当然の結果ですが、避けようとした私は高速での急激な方向転換により大転倒をしてしまいました。

 海面に顔を付けたままどれだけの時間が過ぎたのかは判りませんが、我に返って顔を上げると、そこにはペイント弾(まみ)れの夕立が立っていました。

 そして夕立は苦笑しながら、

「夕立が悪いっぽい」

 と言いました。

 夕立が悪い訳はありません。どう考えても悪いのは私です。

 急加速だろうが急転回だろうが演習中に転んで良い訳はないですし、(まし)てや他のことを考えて(ほう)けて良い訳はありません。これが実戦だったらと思うと身の縮む思いがします。

 私だけではなく周りの生命(いのち)にも関わるミスです。

 それなのに夕立も村雨(むらさめ)春雨(はるさめ)も、皆私を優しく慰めてくれるものですから、有難いということは理解しつつも、何だか私は余計に落ち込んでしまったのです。

 海水に()かった装備や艤装(ぎそう)のクリーニングも。

 五月雨が終わるまで待つよと言ってくれたお昼ご飯も全部断って。

 

 私は今、一人で食堂に居るのでした。

 

 

 私は間宮(まみや)さんが愛情を込めて作ってくれた五目炒飯の前で判り易く──周囲から見れば大袈裟に映る程に、大きな溜息を()きました。と言っても昼時を()うに過ぎた食堂には私の他に数える程の人数しか居ません。私の四列後方に望月(もちづき)ちゃんと三日月(みかづき)ちゃん、そしてその斜め後ろに雲龍(うんりゅう)さん、天城(あまぎ)さん、葛城(かつらぎ)さんが居ます。その五人だけです。

 時折三日月ちゃんが怒っている声が聴こえて来るんですけど、それは多分望月ちゃんがゲームをしながらご飯を食べているからだと思います。断片的に聴こえる会話から推測するに、望月ちゃんは何度か(すね)を蹴られているようなんですけど、それでもゲームを止めない望月ちゃんも凄いと思います。余程好きなんですね、ゲーム。

 一方雲龍さん達は最近着任されたばかりで、姉妹揃って行動していることが多いように思います。三人共正規空母なので提督の期待も大きいようです。別に羨ましくなんてないですけど。

 

 ──本当ですよ?

 

 ただ、淋しいなあとは思います。私だって本当であれば村雨や夕立、春雨と一緒に──ご飯を食べていた(はず)ですから。まあ、断ったのは私なんですけどね。

 五目炒飯は、いつもより味が()けているような気がしました。

 勿論間宮さんの所為(せい)ではないです。私の気分がいつもより暈けているからだと思います。こんな気持ちでご飯を食べてしまうのは間宮さんにも悪いなあと、再び罪悪感に苛まれながら炒飯を口に運んでいると、突然──。

「お、五月雨(さみだれ)じゃん」

 という声がしました。

 声の主は──提督でした。

 私は驚いてしまって、口許を隠しながら急いで炒飯を飲み込みました。

「お、お疲れ様です。提督、どうしてこんな時間に?」

「ん、ああいや──面倒な仕事を片付けてたらこんな時間になっちゃってね」

 提督は私から目を逸らしながらそう言って、向かいの椅子に座りました。

 何か──怪しいです。

「面倒な、仕事ですか?」

「うん、あのね──ほら、あるでしょ? 色々と」

「全然解らないですけど」

「そ、そりゃあねえ。僕くらいになると五月雨には解らないこともあるだろうねえ」

 

 ──この通り、私達の提督は絶望的に嘘が下手です。

 

 私も別に鋭い方ではないと思うのですが、()(やぶ)るとか勘が働くとかそういう問題以前のような気がします。いやあ大変だなあと白々(しらじら)しく言いながら提督は右手で顔を扇いでいます。

「──嘘ですよね」

「なっ、何言ってんのさ。忙しいよ本当に!」

「別に提督が忙しくないって言ってる訳じゃないですけど」

「じ、じゃあ何だって言うんだよ」

「村雨達──ですよね」

 そう言うと提督は半笑いの表情で固まった後、やがて(うつむ)きました。

 当たってしまったようです。

「村雨達に私が落ち込んでるだろうから少し様子を見に行ってもらえないかとか、そんなこと言われたんじゃないですか?」

「──何なの? 艦娘(かんむす)って皆探偵か何かなの?」

「逆に判らない艦娘は居ないと思いますけど」

 提督の場合、特に。

 すると提督は難しい顔をして(しばら)く考え込んでから、どうして? と聞きました。

「どうしてって──だって提督がこんな時間に食堂に来るっていうのがまず怪訝(おか)しいですし、それにお水と食券持ってないじゃないですか」

「へっ」

「いつも持ってますよね。コップと、指に食券挟んで」

 これは私達の鎮守府では有名な話で知らない娘は居ないと思います。毎日右手にコップを持ち指に半券を挟んで、何処に座ろうかときょろきょろしている提督を、皆そわそわしながら見守っているものですから。

 座って欲しいんです。隣に。

 だから、秘書艦ではない艦娘にとって食堂は大きなチャンスの場だったりします。御多分に漏れず、私も期待して待っている艦娘の一人なんですけど。なので、今の状況が嬉しくないと言えば嘘になります。ただ、こんな風に落ち込んでる時じゃなかったらもっと良かったなと、そう思ってしまうだけで。

 

「よく見てるなあ。なる程ね、ばればれだった訳だ」

「全くもう。五月雨をバカにしちゃいけないんですからね。今お水持って来てあげますから。待ってて」

「あっ、いやいいよ自分で持って来るから!」

 提督はやけに慌てて私を止めました。

「──何ですか。もしかして、またお水(こぼ)すんだろうなって思ってます?」

「お、思ってないよ──あはは」

 思われていたようです。

「もうホントに五月雨怒っちゃいますからね! お水くらいしっかり持って来れるんですから!」

 正直私は何故こんなに苛々してしまっているのかよく判らなかったんですけど、多分提督に甘えているのだと思います。ああ、いけないなあ提督に悪いなあと思いつつコップに水を注ぎ、手近にあった小皿とレンゲを持って席に戻りました。

「何さ、このお皿」

「五月雨一人で食べるのも何か嫌です。提督も一緒に食べてください」

「お昼は食べたし」

「食べてくださいっ」

「お、怒らないでって──わ、解ったよ」

 そう言って提督は炒飯を少量(すく)いました。

 

 暫く二人共無言になって、黙々と炒飯を食べていました。

 やはり、味は何処か曖昧です。

「あ、あのさ五月雨。落ち込む気持ちも解るけど、余り考えても良いことないからさ。完璧な人なんて、何処にも居ないんだから」

 手を止めて前を向くと、提督は何だか困ったように笑っています。

「五月雨はね、自分のことより他人を優先するから、そういう失敗をしちゃうんだと思うよ。それは凄く良いところでもあると思うんだけど、五月雨はもう少し()(まま)になってもいいんじゃないかな」

「もう十分我が儘ですっ」

「やさぐれてるなあ。まあ、いいさ。今日は別に急ぎの仕事もないし、五月雨の気が済むまで付き合うよ。今は──何時かなっと」

 提督が胸ポケットから取り出したのは──あの懐中時計でした。

「時計──」

 私は思わず声に出してしまいます。

「うん? この時計かい? そうか、懐中時計ってのも珍しいよね。腕時計が苦手ってのもあるんだけど──これはね、お祖父(じい)ちゃんの形見なんだ」

 

 ああ──。

 やっぱり憶えてないんですね。

 違います。

 違いますよ、提督。

 その時計は──。

 

 私が提督にあげたものなんですよ。

 

 

 ──二十年前。

 私は茫漠(ぼうばく)とした太平洋の上で、一人ぽつんと(たたず)んでいました。

 左舷五◯メートル程のところには、私がつい先程撃破したイ級が傾斜しつつ沈んで行くのが見えます。

 電探に敵の姿はもう映っていませんでした。それどころか、この世界には深海棲艦(しんかいせいかん)も艦隊の他の皆さんも、誰も居ないのが何となく判りました。今思えば、本隊が活動を始める前に現れてしまったイ級に引き()られるように、私も目醒めてしまったのだと思います。

 私と同じで、そのイ級もドジだったのでしょう。

 

 行く当てもなく帰る場所もなく、見渡す限りの大海原でただただ途方に暮れていると、セーラー服を着たおさげの妖精さんが主砲をよじ上って来るのが見えました。猫ちゃんも一緒のようですが、妖精さんは猫ちゃんの前脚を持って雑にぶら下げています。

 大丈夫なのでしょうか。

 まあ、猫ちゃんも嫌そうな素振(そぶ)りを見せていないので心配することではないのかもしれません。そうして私が不思議そうに見つめていると、妖精さんは私にこう語りかけました。

 

 ──折角(せっかく)だから提督を探しに行こうよ。

 提督を?

 ──提督はもうこの世界に居るよ。

 でも、何処に?

 ──私が連れて行ってあげる。

 ──ほら。

 

 突然の提案に私は困惑しきりだったのですが、妖精さんの自信に満ち溢れた微笑(ドヤ顔と言うらしいです)に誘われるように、ゆっくりと前進を始めました。

 妖精さんの導くままに航行して──三日程が経過した頃だと思います。

 漸く──陸地が見えました。

 艦の私が(おか)を見てほっとするのも何だかおかしな話のような気がしたのですが、当時は何も()(どころ)がなかったものですから、本当に心から安堵したのを憶えています。

 そこは──日本の小さな海沿いの町でした。

 浜辺に上陸して周囲を一頻(ひとしき)り見回した後、

「提督は何処?」

 と妖精さんに尋ねました。

 でも、妖精さんは微笑んだまま答えてはくれませんでした。

 

 仕方ないなあと嘆息しつつも、久し振りに帰って来た日本に──この姿になって初めて踏むことの出来た日本の土に感動してはしゃいでいると、そのうち自分がとても不審な恰好をしていることに気が付いてしまいました。

 艦の生まれ変わりですと言って信じてもらえる訳がありませんし、主砲や魚雷は言い逃れの不可能な次元(レベル)で完全無欠の危険物です。

 私は咄嗟(とっさ)に走り出して浜辺の堤防に張り付きました。張り付いたところで正面一八◯度からは見放題なのですが、背中を預けるものがあるだけで精神的には幾分落ち着きます。ふと視界の(はし)に堤防の昇降階段が映りました。私は何故か忍び足で階段に接近し、忍び足で階段を上り(ここは屋外ですし何より波音が大きいので足音は全く気にしなくて良かったのですが)堤防の天端(てんぱ)から頭をひょこりと出して様子を(うかが)いました。

 堤防の向こうには更地が広がっていました。

 遠くに町の影は見えるのですが、人の影は見当たりません。

 更地の海側──私から見て手前側にトタン造りの小屋を見つけたので、周囲を警戒しつつその小屋に近付きました。

 

 その小屋は、空き家のようでした。

 戸の硝子(ガラス)には(ひび)が入っていて、隙間から合成繊維のテープが飛び出し風に(なび)いているのが見えます。不法侵入とは理解しつつも、私はその空き家で身を隠すことに決めました。

 建て付けの悪い戸を開けると、そこには屋外とは異なった種類の静寂が立ち籠めていました。

 廃屋──という形容がよく似合うと思います。

 廃材や朽ち果てた生活用品を掻き分けて中に進んで行くと、比較的綺麗な部類と思われるビニールシートが敷かれている一角を発見しました。

 私は迷わず腰を下ろしました。

 安心したのだと思います。

 疲れていたのもあったでしょう。

 三日間、休まず航行していたものですから──。

 

 私はすぐに眠ってしまいました。

 

 ──そして、夢を見ていました。

 夢の中で私は迷子でした。

 広い広い海の真ん中で、ここが何処なのか何処に向かえば良いのかも判らないままに、私はただただ泣いていました。

 魚が跳ねて、飛沫(しぶき)が顔に引っ付いて涙と混ざりました。その感覚が酷く不快に思えて顔を(ぬぐ)うと、こちらに近付いて来る人の影が見えます。

 それは提督でした。

 いや、何故か提督だと──確信していました。

 夢の中の私は号泣しながら提督に駆け寄り、思い切り抱き付きました。

 

 

 提督、見つけてくれたんですね。

 待ってたんですよ。

 遅かったじゃないですか。

 淋しかったんですから。

 提督、もう離さないでくださいね。

 

 

 ──お姉ちゃん。

 

 

 お姉ちゃん?

 提督、何を言ってるんですか。

 私は五月雨ですよ。

 提督のお姉ちゃんじゃないですよ。

 

 

 ──おねえちゃん。

 

 

 提督、巫山戯(ふざけ)ないでくださいよ。

 違いますよ。

 私は。

 私は提督のお姉ちゃんじゃ──。

 

 

 ──そう言って見上げた提督の顔は、真っ黒で何も見えませんでした。

 

 

 悲鳴にも似た声を上げて目を醒ますと、目の前には(かが)んでこちらを覗き込んでいる少年が居ました。私が再び短い悲鳴を上げると、少年はそれに動じることもなく口を開きました。

「おねえちゃんは──誰?」

 おねえちゃん──。

 その少年からは敵意のようなものが一切感じられませんでした。(おび)えるでもなく、警戒するでもなく──ただ純粋に私が何処の誰で、何故ここに居るのかを尋ねているような気がしました。

「ねえ、おねえちゃん──誰なのさ」

 夢の中で聴こえていた声の正体が判明して、私は大きく息を吐いて目を擦りました。素性を明かすことは出来ないので、やんわりと話題を逸らします。

「えっと──ここは、君の家?」

 そう言うと少年は口を(とが)らせて、床に落ちていたボールを叩いて転がしました。

「ううん、違うよ。ここはぼくの秘密基地だよ」

「秘密──基地?」

「うん。従兄弟(いとこ)のおにいちゃんに教えてもらった」

 秘密基地なのに?

「だからさ、ここにはぼくと従兄弟のおにいちゃんしか入っちゃダメなんだよ? なのに、おねえちゃん──ぼくに何も言わないで、寝てるんだもん」

 少年は()ねているようでした。

 秘密基地にまんまと侵入されたことが悔しいようです。

 秘密基地だったのに。

「あっ、その、ごめんね。私──お姉ちゃんも、この場所何だか良いなあと思っちゃって。あのね、もし良かったらお姉ちゃんも──」

 

 仲間に入れて──とお願いをしてみました。

 

 気軽に、しかし真剣にです。

 少年は転がったボールを取りに行って戻って来た後、手を合わせている私をちらりと見て再び口を尖らせました。

「──うん、いいけど」

「本当に? 有難う!」

「いいけど──ぼくはいいけど、従兄弟のおにいちゃんにも聞かなくちゃ」

「ちょ、ちょっとそれは──。そのお兄ちゃんには、黙っててくれないかな?」

「無理だよ。ぼくは明日帰っちゃうし」

 

 明日──帰る。

 

「──ええと、君は、この辺に住んでる訳じゃないの?」

 少年はボールを突きながら首肯(うなず)きました。

「うん、違うよ。おじいちゃんのお葬式で来たんだもん。だから、明日帰らなきゃいけないんだもん」

「そう──だったんだ」

 言われてみると、少年は何処となく落ち込んでいるように見えます。伏目がちなのは元からなのかもしれませんが、その瞳には憂いのようなものが浮かんでいました。

「そっか。居なくなっちゃったんだね、お祖父ちゃん」

 少年は再び無言でこくりと首肯きました。

「──淋しいよね」

 わかんない──と少年は言います。

「なんか、みんな泣いてるし、おじいちゃん、死んじゃってるし。なんか、こわいから、逃げて来たの」

 

 少年が何故秘密基地と称するこの場所を訪れたのか、私にはその理由が解ったような気がしました。人が死ぬという現象が少年にはよく理解出来なかったのだと思います。それでも周囲の大人達の反応から何かが起こったのだということは理解出来てしまって──それで、怖くなってこの場所に逃げて来たのでしょう。

 ここは自分と従兄弟のお兄ちゃんだけの、秘密基地だから。

 ここには自分の解らないことはないから。

 私は、そんな少年の緊急避難先に侵入してしまったことを後悔しました。

 

「お姉ちゃん、居ない方が良いかな」

 私がそう言って立ち上がると、少年は私の制服をくいと掴みました。

「おねえちゃんは、ここに居て」

「──居ていいの?」

 すると少年はとても小さな声で、うん──と答えました。

 

 

 それから、少年と色々な話をしました。

 住んでいる街の話。友達の話。

 家の隣の空き地の話。ゲームの話。

 幼稚園の先生の話。来年から通う小学校の話──。

 

 気が付くと、二時間近く経過していました。

 私が時計を見たことで少年は何かを察したのでしょう。声は次第に小さくなって、話も(なか)ばに、やがて途切れました。

「──もうこんな時間なんだね。早く戻らないと、お母さんやお父さんが心配してるよ?」

 少年は首を振ります。

 胸が締め付けられる思いに駆られながらも、私は心を強く持って言いました。

「お姉ちゃんは、そろそろ行かなくちゃ」

「やだ」

「──また会えるよ」

「うそだよ。おじいちゃんも、同じこと言った」

 

 私は少年に何と言ってあげたら良いのか判らなくなってしまいました。大人達の使うさりげない別れの言葉は、純粋で無垢(むく)な子供にとって酷なものなのかもしれません。

 確かにまた会える保証など、何処にもありませんから。

 寧ろ会えないことの方が多いのでしょう。

 でも、そう言わないと別れることが出来ない場面というのは多々あります。それが、根拠のない再会の約束だとしても。私は少年と違って、諦めることに慣れてしまっているのかもしれません。

 私は何故だか意地になって、(おもむろ)に右手を差し出しました。

「じゃあ、これをあげる」

 

 それは私の、懐中時計でした。

 

「君がお姉ちゃんを仲間に入れてくれたから、私も君にこれをあげる」

 少年は恐る恐る時計を手に取りました。

「──いいの?」

勿論(もちろん)。ね、いつかまた絶対に会えるよ。だからその時まで──大切に持っていて」

 時計が必ず再会を約束してくれるとは思わなかったのですが、それでも私と少年の絆をより強固なものにしてくれるような気がしました。物として残ることも、時には重要でしょうから。

 暫くの間、少年は時計を繁々(しげしげ)と眺めていました。

「この時計──止まってる」

「えっ、うそっ」

 慌てて少年の手許を覗き込むと、半端な角度で固まった秒針が見えました。

 さっきまで、ちゃんと動いていた筈なのに。

「な、何でえぇ!」

 私が()頓狂(とんきょう)な声を上げると、あはは、という笑い声が聴こえました。

 

 それは、初めて聴く少年の笑い声でした。

 その笑顔は年相応に無邪気で、眩しいくらいです。

 何だか、私らしいと言えば私らしい恰好の付かない終わり方でしたが、少年のそんな顔を見ていると、これで良かったのかなという気もして来ました。

 そして少年は、そのままの屈託(くったく)のない笑顔で。

「ありがとう」

 と、お礼を言ってくれたのでした。

 

 トタン造りの秘密基地を後にして、堤防の上で夕暮れの空を眺め息を吐きました。ある種の充実感に満たされていたことは確かですが、依然として提督は見つかっていません。少年とお喋りをしていただけですからね。

「提督見つかるのかなあ」

 誰に聞かせる訳でもなくそう呟くと、妖精さんが主砲の上にひょこりと現れて、

 ──もう見つかってるよ。

 と言いました。

 

「みつ、かってる?」

 その言葉の意味するところを理解して咄嗟に振り返ると、少年は恥ずかしそうに、秘密基地の前で手を振っていました。

「嘘──」

 あの、少年が──。

 本当に? と疑うような視線を妖精さんに向けると、妖精さんは得意のドヤ顔で胸を張りました。猫ちゃんがぶらーんと揺れます。

 ──本当だよ。だから、もう帰ろうか。

 ──帰って、もう一度眠ろう。

 ──また、あの時計が動き出す、その時まで。

 少年に手を振り返す私は、何処か放心しているような間抜けな表情をしていたと思います。

 

 そうして私は、海に戻り──。

 広い広い太平洋で、再び眠りに()いたのでした。

 

 

 あの少年がこんなに立派な男性になっているのだと思うと、何だか胸が苦しくなってしまいます。鎮守府に着任し提督と再会した時──そして、提督があの時計をまだ持ってくれていると知った時、私は嬉しくて心がどうにかなってしまいそうでした。

 だから、提督が憶えていなくても良いんです。

 だって、約束通り、また会えたんですから。

 それだけで──。

 

「まあ、そういうことになってるんだけど、それは嘘でね」

「──はっ。えっ、何ですか」

 私の意識の半分はまだ、二十年前を漂っていたようです。

「いや、この時計がさ、お祖父ちゃんの形見ってことになってるんだけど、それは嘘なんだ。自分自身の記憶が曖昧になってる部分もあって説明が難しくてね。形見って言えば、周りには大体(だいたい)それで納得してもらえるから」

「どういう、ことですか」

「あれは多分、お祖父ちゃんの葬式の時だったと思うんだけど、母親にその時計何処から持って来たのって凄く怒られたのは憶えてるんだよね。だから形見じゃないことは確かなんだ。お祖父ちゃんのものだったらそんなこと言わないからさ。大体、この時計変なんだよ」

 提督はチェーンを持って時計を吊り下げました。

「ずっと動かなくてさ、最近まで止まったままだったんだよ。昔修理してもらおうと思って時計屋さん回ったんだけどね、その時どのお店でも言われたのが、この時計はいつ何処で作られたのかも判らないし、そもそもこれは動くように出来てない──って」

 

 今、こうしてちゃんと動いてるのに──と提督は言います。

 

「ちょうど鎮守府に着任した頃かな、気付いたら動いてたんだよ。何だか、不思議だよね」

 時計を見つめて提督は微笑みました。

「──大切ですか?」

「勿論。何故かは判らないけど、僕にとっては凄く大切なものなんだ。それこそ、掛け替えのない何かと繋がってる証のような──そんな、感じ」

 解らないよねと笑った後、提督は時計を置いて咳払いをしました。

「あのさ、五月雨。変なこと言っちゃうかもしれないんだけど、この時計を僕にくれたの──五月雨のような気がするんだよな。そんな訳、ないんだけどさ」

 

 ──提督。

 

「もう二十年も前の話だしまだ子供だったから、それが夢だったのか現実だったのかの区別も付かないんだけど、海沿いの汚い廃屋で女の子と会ったような記憶があってさ。細かいことは憶えてないんだけど──それが凄く可愛くて綺麗な青い髪の女の子でね、五月雨にかなり似てたような気がしないでもないんだよ」

 

 ──提督、憶えていてくれたんですか。

 

「五月雨が着任した時に、あっと思ったんだけど言い出せなくてさ、その後にほら──赤城と二航戦の歓迎会をやった時の、女子トイレの一件もあったでしょ? それで嫌われちゃったかなと思ってたし、さっきも言ったように本当の記憶か自信もないから、今まで言えずにいたんだけど」

 涼風かもしれないからさ──と目を逸らして提督は言いました。

 急に照れちゃったんですね。

 

 私は(たかぶ)る気持ちを抑えられなくなって、席を立ち上がって提督の(かたわら)に移動しました。

「提督、さっき私に我が儘になれって言いましたよね?」

 提督は首肯きます。

「だったら──五月雨を秘書艦にしてください」

「ひ、秘書艦?」

「はい。ドジだし大淀さんみたいに頭が良い訳でもないですけど──私、頑張っちゃいますから!」

 突然のことに提督は目を丸くしていましたが、やがて表情を和らげて、

「勿論良いよ」

 と言いました。

「お任せください! もうドジっ子なんて言わせませんから!」

「──もう。あんまり張り切ると、またやっちゃうよ?」

 

 そんなことを言いながらも、提督は何処となく喜んでくれているような気がします。

 気の所為──ですかね?

「あの、提督。その時計あげたの──五月雨ってことにしてあげても良いですよ? て、提督も、瞭然(はっきり)しないと、落ち着かないでしょうし──」

「あはは。そうだね、是非そういうことにしてくれるかい?」

「勿論です。──ということは、提督の最初の艦は雪風ちゃんでも大淀さんでもなく──五月雨ってことになっちゃいますね」

「そうねえ。そういう考え方も、良いよねえ」

 私は(うなず)いて提督の頭に手を伸ばしました。

 万感の思いを込めて頭を撫でながら、

「大きくなったね」

 と言うと、提督はあの時のままの無邪気な笑顔で──。

「ありがとう」

 と言いました。

 

 

 私はその瞬間に耐えられなくなってしまって。

 嬉しくて。

 懐かしくて。

 幸せで。

 提督のことが大好きで。

 愛おしくて(たま)らなくて──。

 

 昼下がりの食堂で。

 声を上げて──泣いてしまったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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