Perspective   作:広田シヘイ

5 / 9
第五話『白露型駆逐艦二番艦のすべて・前編』

 

 

 

 

 

 

 薄暮の執務室で、僕は夕立が書いた報告書を読んでいる。

 何度読んでもその内容は変わらないのだが、正午前にこの報告書が提出されてからというもの読み返すのは四度目か五度目だ。

 

 報告書の標題は──『白露(しらつゆ)型駆逐艦二番艦時雨(しぐれ)の現状について』。

 

 夕立は時雨と同じ白露型の四番艦で時雨とは姉妹艦である。語尾に「ぽい」を付ける癖が特徴的だ。その影響で発言には曖昧な印象が付き(まと)う反面、性格は真っ直ぐで戦闘能力は駆逐艦の中でも随一である。「狂犬」とも称されるその戦闘スタイルから猪突猛進で無鉄砲な艦娘と誤解されがちだが、彼女の一番の長所は戦況分析能力にあると僕は思っている。

 周囲があっと驚くような行動にも彼女なりの裏付けがあって、それが戦況を優位に進める最適解だと考えているからそうしているだけに過ぎない。まあ、それは(おおむ)ね「突撃」という形で表現されてしまうことが多いから、(はた)()には自暴自棄の異常行動と映ることも無理はないのだけれど。

 艦隊内に()ける事前の意思疎通(コミュニケーション)という課題は置いておくとして、今までに彼女が弾き出したその「最適解」が間違いであった(ためし)はないのである。

 

 だから、僕は夕立の洞察力に全幅の信頼を寄せている。

 夕立がそう言うのなら、多分それはその通りなのだ。

 僕は憂鬱な心持ちで文字を追った。

 報告書の備考欄の末尾には、何度読み返しても──。

 

 ──時雨が海に出るのは無理っぽい。

 

 と、丸みを帯びた文字で夕立の所感が記されていた。

 

 

 雲の隙間から差し込んだ夕方の陽射しが書類に反射する。僕が目を細めるとほぼ同時に窓のブラインドが下ろされた。

 室内が暗くなる。

 窓際に視軸を向けると、そこには秘書艦の五月雨が立っていた。五月雨は僕の胸の内を(うかが)うようにこちらを見ている。

「あ、有難う。眩しかったからちょうど良かった」

 彼女は何か言葉を発しようとしていたが、僕はそのまま続けた。

「五月雨さ、もう六時過ぎちゃったから今日は終わり。食堂行ってていいよ」

「だ、駄目です。私、秘書艦だけじゃなくて護衛艦も兼ねてるんですからね。今日は最後まで提督にお付き合いします」

「そんなに張り切らなくて良いのに」

「別に張り切ってる訳じゃないです。秘書艦として──当然のことだと思いますけど」

 五月雨は視線を一度床に落として、上目遣いで再び僕を見た。

「それに──時雨のことですよね。提督が悩んでるの」

 私も姉妹艦ですからと、五月雨は困ったように微笑んだ。

 僕は頬杖を突いてゆっくりと息を吐く。まあねえ、などと気の抜けた声を発しながら天井を見上げた。

 僕が悩んだところで解決するものではないのだが、考えずにいられる訳もない。

 

 

 彼女──白露型駆逐艦二番艦時雨が着任したのは、去年の年末のことだった。

 

 今にも雪が降って来そうな、低く重い雲が立ち込めた寒い朝だった。岸壁のボラードの(かたわ)らで所在なさげに立ち尽くしているその姿は、他の白露型の姉妹とは違う静かで落ち着いた雰囲気を纏っていた。

 繁々と見つめる僕の視線が気になったのか、それとも沈黙に耐え切れなくなったのか、

「僕に興味があるの? いいよ、何でも聞いてよ」

 と恥ずかしそうにこちらを見上げるその仕草が、今でも印象に残っている。

 時雨は、着任して間もなく頭角を現した。

 砲撃、雷撃、水上航行等の各種訓練では常に高得点(ハイスコア)を記録していた。特に雷撃と水上航行には特筆すべきものがあって、訓練成績上位三名の中に彼女の名前は必ず入っていたように思う。

 何もかもが順調だった。

 

 いや──順調な(はず)だった。

 

 今になって思えば、最初の異変は春の──鎮守府に桜の花弁が舞っていた四月初旬の──あの日の訓練から始まったのだろう。四ヶ月以上も前の話である。

 砲撃、雷撃訓練で大きく的を外し、水上航行訓練ではコースアウトを繰り返した。

 普段の時雨と比較して明らかに様子は怪訝(おか)しかったのだが、その日は警備任務から帰還して休む間もなく実施された訓練だったし、誰しも肉体的、精神的に調子の悪い日はあるだろうから、無理はしないようにと軽く声を掛けてその日は終わったのである。

 しかし──。

 

 その日から、時雨の不調は定期的に訪れるようになった。

 

 初めは数週間の間を置いて。

 その次は数日の間を置いて──。

 不調の周期は、徐々に短くなっていった。

 大丈夫と主張する本人の意思を無視して、時雨を強制的に休ませることに決めたのが十日前のことだ。改善の兆しが全く見られなかったことに加えて、その前日の水上航行訓練で彼女が見せたあの表情が決定打となった。

 転倒した時雨は押し寄せる波に動転し、恐怖に顔を引き()らせながら悲鳴をあげた。それは紛れもなく、生命の危機を感じた者の叫びだった。

 

 海で生きる彼女が、波に──である。

 

 確かにその日の海は穏やかと言える状況ではなかったかもしれないが、それでもあの程度の波高の日は幾らでもあるし、何より彼女達はあれ以上の時化(しけ)の中で数多の任務を遂行して来た筈なのだ。

 パニックに陥った時雨の混乱状態は、訓練を監督していた神通(じんつう)が駆け付けて時雨を落ち着かせるまで続いた。多分あの時神通は、抱き締めながら大丈夫と耳許で何度も言い聞かせていたに違いない。

 その後、休職中の時雨の経過観察を夕立に任せて、その結果を報告書として提出するように指示していたのだが──。

 

 その報告書が、今僕の手許にある「これ」だ。

 結論は(すで)に述べた通りである。

 

 艦娘とは言え心のあり様は人間と何も変わらない。なるべく避けたい手段ではあるが、軍医に診てもらうかどうかも含めて、この後は僕が判断するしかない。デリケートな問題であることは理解している。彼女の力になれることがあれば何でもするが、他人の介入が必ずしも良い方向に向かう問題でもないだろう。実際、僕は最近時雨に避けられているような気がしている。

 背(もた)れに身体を預けて息を吐いた。

「どうしてあげれば良かったんだろう。もっと早く休ませるべきだったのかな」

「──提督の判断が遅かったということはないと思いますよ。時雨も強情なところがありますし、それは仕方のないことだと思います」

 秘書艦の椅子に腰を落としながら五月雨は言った。

 時雨は休んだ方が良いという僕の提案を(かたく)なに拒み続けた。しかし、彼女の立場で考えてみればそれも当然のことではあるのだ。

 

 艦娘は艦の生まれ変わりである。

 彼女達にとって海に出なくても良いという言葉は、自らの存在意義を根底から否定されていることに等しい。こちらにそのような意図がなくても、慎重に発言すべき(たぐ)いの言葉であることは確かだった。

「難しい問題だよねえ。こういうことに積極的に関わることも時には必要かもしれないけど、そっとしておいた方が良いってこともあるじゃない。それにしても──艦娘が海に出られないってのはどういうことなんだろうなあ。五月雨は──どう思う?」

「わ、私ですか? そうですね、当たり前のこと過ぎて考えたこともなかったですけど──」

 五月雨は顎に人差し指を置いて天井を見つめる。

「あっ、でも、蜈蚣(むかで)さんの話があるじゃないですか」

「蜈蚣の話?」

「はい。それまでは何の問題もなく歩けていたのに、そんなに足があって一体どうして歩いているの? って聞かれた途端に歩けなくなっちゃうっていうお話です」

 その話は聞いたことがある。

「普段何も考えなくても出来ていたのに、突然出来なくなっちゃうっていうことはあると思います。私も程度は違いますけど、砲撃訓練で調子が悪い時なんかは、今までどうやって当てていたのかなあって判らなくなる時はありますよ」

「その感覚は僕も解るなあ」

 

 それまで自然と出来ていたことが急に出来なくなることはままある。僕も学生の頃に、何故学校に行かなければならないのだろうとふと疑問を抱いたのを契機(きっかけ)に、一週間授業を休んでしまったことがある。

 何となく休んで、罪悪感に(さいな)まれて、そのうち──学校が怖くなってしまった。

 その後どうやって復帰したのかは憶えていないが、程度の差こそあれ、それと似たようなものなのかもしれない。

「五月雨はさ、海が怖い──って思うことはある?」

「海がですか?」

 五月雨は一度僕から視線を外して、再びこちらを見た。

「ありますよ。それは、何度も」

 彼女は何故か照れ臭そうに言う。

「海は確かに私達の生きる場所ですけど、戦場でもありますから。また沈んでしまったら皆や提督に会えなくなってしまうとか、また一人になってしまうとか、そう考えてしまうことはやっぱりあります。二度とあんな思いはしたくないですし、二度と──別れたくないですから」

「そっか。そう、だよね」

 彼女達はいつも明るくて元気で優しいから、ついそのことを忘れがちになってしまうのだけど、今は戦時なのだ。そして彼女達は(まご)(かた)なき最前線にその身を置いている。

 怖くて、当たり前だ。

「──でも、時雨は提督を待っていると思いますよ」

「僕を?」

 五月雨はこくりと首肯(うなず)く。

「どうして」

「どうしてかは説明が難しいですけど、そんな気がします。私だって姉妹ですから」

 僕は腕を組んで眉間に皺を寄せた。

 考えていても仕方がないのかもしれない。

 静観しても──良くはならなかったのだ。

 

 やはり、本人と話すべきだろう。

 

 僕はよしと声に出して、報告書のコピーを丸めて立ち上がった。

「五月雨、時雨は何処かな。今だったら食堂?」

 時間的に食堂か、時雨が自主的に手伝いをしている明石の工廠かどちらかだろう。

「はい、あ、えっと、時雨は最近晩御飯の時間が遅いので、まだ工廠に居ると思います──っていうか私も行きますっ」

 五月雨は椅子を鳴らして立ち上がり、小走りで僕の後ろを付いて来る。執務室を空けるのは余り良いことではないが、勤務時間外ではあるし少しの間なら大丈夫だろう。

 階段を下りて庁舎の外に出る。

 夏の終わりも見え始めた夕刻とは言え、空気は依然として生温い。湿り気の多い風が僕を舐めるように過ぎて行った。これでも今日は涼しい方だ。西日に目を細める。

「時雨も何か気分転換出来れば良いんですけど」

 歩きながら五月雨が言った。

「ねえ。本当に真面目だよね、時雨は。少し息の抜き方を覚えた方が良いかもねえ」

「提督みたいに抜いてばかりでも困りますけど、ね」

「──五月雨も言うようになっちゃったな」

 

 苦笑して頬を掻いていると、前方から龍驤(りゅうじょう)が歩いて来るのが見えた。龍驤はその小さい身体に目一杯の荷物を抱えている。

「あっ、おったおった。司令官に五月雨、ポストに新聞やら郵便やらごっそり入ったままやったで。新聞に至っては朝刊もそのままやないか。読まんのやったらとるんやない。予算の無駄やッ」

「わっ、ぷっ」

 龍驤は僕を見つけるなり機関銃のように言葉を浴びせて、新聞と郵便の束を僕に押し付けた。

「あっ、提督すみません忘れてました! 私が持ちます!」

「いや、いいよ。結構これ(かさ)()るから」

「何や五月雨、秘書艦初日からドジっ子属性を存分に発揮かいな。このボンクラ司令官も自分に負けず劣らずドジっ子やからな。五月雨がしっかりせなあかんで」

 結構な言われようである。五月雨の元気な「はい!」という返答に複雑な感情を抱いてしまう。

「ほな、ウチは食堂行くけど、キミらは──」

「ちょっと用事あるんだ」

「そか。んじゃ、余り遅くならんようにな。間宮さんも大変なんやからぁ」

 そう言って龍驤は庁舎の方へと歩いて行く。有難うと背中に声を掛けると、彼女は振り向かずに手をひらひらとさせてそれに応えた。

 

 龍驤の後姿を眺めている僕の隣で、五月雨はおろおろとしている。

「あの、提督すみません。やっぱり──ちょっとだけでも持たせてください」

「そ、そう? それじゃ郵便だけでも──」

 両手が塞がったまま五月雨に束を渡そうとすると、案の定その一部が地面に落下した。

「あ、ごめん!」

「私が拾いますっ」

 五月雨は(かが)んで郵便を回収していたが、そのうちの一通を手に取った瞬間その動きを止めた。

「さ、五月雨? どしたの」

 彼女は(おもむろ)に立ち上がって、拾った葉書の裏面を僕に見せた。

 それは地域の花火大会の広告葉書だった。

「──これが、どうしたの?」

「忘れてました。提督の、休暇のこと──」

「あっ」

 僕等は互いに顔を見合わせる。

 

 今週末、僕は一泊二日の温泉旅行を予定していた。

 

 時雨のこともあるし取り止めにしようと思っていたのだが、このような機会も今後あるか判らないので行って来てください、と大淀に言われていたのである。僕が泊まる予定のその日は花火大会も開催されるらしく、日程を決めた私を褒めて、と言わんばかりに得意げな表情をしていた大淀を今でも憶えている。

 五月雨には数日前に、花火なんて何処でも見れるじゃんと愚痴を零していたので、それで休暇のことを思い出したのだろう。

 

 まあ、そういった気遣いは素直に嬉しいし、それだったらお言葉に甘えて有難く行って来ようかと思わないでもないのだが、そこで問題となるのが「護衛艦」という彼女達の新しい任務である。端的に言うと、僕に二十四時間三百六十五日の護衛が付くことになったのだ。

 護衛と言えば聞こえは良いかもしれないが、要は僕の監視であり事実上の拘束に(ほか)ならない。当然それは勤務時間外も例外ではないから、言うまでもなく温泉旅行もその例外ではない。

 更に護衛任務は僕の入浴中や就寝中もこれまた当然のように継続されるから、性別で分けられてしまう公衆浴場などは自動的に却下である。

 

 ──(とど)()まり。

 

 僕は温泉旅行に行ったとしても旅館の大浴場には入れないのである。

 大淀はその辺も考えて風呂が付いている部屋を取ったと言っていたが、蕎麦(そば)屋で天ぷらだけを食べるような、饂飩(うどん)屋でコロッケだけを食べるような──そんな精神的消化不良に見舞われる未来が容易に想像出来る。

 何はともあれ、温泉に行くのであれば帯同する護衛艦の選定を急がなければならない。

 正直に言って、気が重い。

 

「──提督、どうします?」

 拾った郵便を揃えながら五月雨は言った。

「別にねえ。誰でもいいんだけどさ──五月雨、行くかい?」

「わ、私ですかっ」

 彼女は判り易く慌てた。

「そ、それは勿論(もちろん)行きたいですけど──私、任務が──」

「任務──ああ、近海警備か」

 わざわざ編成を入れ替える程のことでもない。

 どうしようかと夕暮れの空を眺めていると、不意にあることを思い出した。

 ──報告書。

 尻のポケットから丸めたコピーを取り出す。

 ──真ん中の、少し下の辺り。

 そこには。

 

 ──(おか)での日常生活、作業等に支障は見られないっぽい。

 

 そう、書かれていた。

 僕は多分、悪戯(いたずら)を思い付いた子供のように微笑んで五月雨を見た。やがて彼女も僕の考えていることに気が付いたようで、その表情をぱあっと明るくさせる。

「良いかもしれませんね。ちょっと、嫉妬しちゃいますけど」

「ねえ、気分転換には持って来いじゃない」

 僕等は新聞と郵便を抱えたまま早足で歩き出す。(かす)かに背中を押した風が、その思い付きを肯定してくれているような気がした。

 数分も掛からずに工廠に辿り着いた。

 開いたままの扉から覗くと、五月雨の予想通りそこには時雨が居た。椅子に腰掛けて主砲を磨いている。

「時雨」

 僕が大きめの声で呼び掛けると、時雨は驚いたようにこちらを振り返った。

「て、提督──。な、何だい急に──」

「突然で悪いんだけど、時雨さ──」

 

 温泉行こうか。

 

 

 そう言うと、時雨はその大きな瞳を一段と大きくさせて。

 きょとん──とした。

 

 

           ※

 

 

 年季の入った古い駅舎を抜けると、上空にはどんよりとした雲が立ち込めていて、駅舎同様に年月を重ねた街並みが小雨に濡れていた。

 僕と時雨は(ひさし)の下で立ち止まり目を合わせる。平素の時雨なら「いい雨だね」と徐に呟きそうな場面ではあるが、彼女は眉尻を少し下げて困ったように笑っていた。

 

「何だか、今の僕の心みたいな天気」

「雨は好きなんじゃなかったの?」

「好きだけど──今日は花火を見に来たんでしょ。これじゃ中止じゃないか」

「これくらいの雨でも中止なのかな。車、乗る?」

「いいよ。歩こうよ」

 宿泊予定の旅館までは徒歩で二十分くらいだった筈だ。歩けない距離ではない。

「そっか。まっ、どちらにせよ花火には余り期待してなかったしさ、今日は仕事を忘れて、この寂れた温泉街を堪能しようか」

 僕はそう言いながら、トランクケースから取り出した折り畳み傘を開く。一応僕も国防軍に籍を置いている身なので勤務中に傘を差すことはないが、今日は休暇で来ているのだから多分問題はない。

「──入りなよ」

 そう言うと時雨はこくりと(うなず)いて僕に寄り添った。

 時雨の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。

 駅前のロータリーの歩道が少し狭くなっている場所で、老夫婦と擦れ違った。互いにすみませんと言いながら傘を上げて避ける。時雨はその老夫婦を振り返り、(しばら)く目で追っていた。

 

「ねえ提督。僕達って──周りからどう見えてるんだろう?」

「どう、って?」

「──解ってるくせに」

 時雨の責めるような視線に思わず目を逸らす。

「まあ、その、あれじゃない? そういう風に──見えてるんじゃないの?」

「そういう風って?」

「そういう風はそういう風さ。男女で歩いてるんだから。時雨こそ解ってるでしょ」

「ふうん」

 時雨は視軸を僕から外した。

「提督は僕とそういう風な関係に見られたくないんだね」

「な、何を怒ってるのさ」

「別に怒ってなんかないよっ」

 そう言いつつも時雨の機嫌が悪化しているのは明らかだった。旅の(しょ)(ぱな)から失敗(しくじ)る自分を殴ってやりたかったが、傘とトランクケースで塞がっている両手ではどうすることも出来ない。

 この旅の主目的は時雨の気分転換である。彼女がこの休暇を満喫出来なければ、ここに来た意味はなくなってしまう。

 

 照れている場合ではない。

 

「あのさ──僕に時雨みたいな可愛い彼女が居たらどんなに嬉しいだろうって心から思うよ。それは、本当に」

 時雨は一瞬驚いたように目を丸くした。

「でも、だからこそこんな素敵な時間を邪魔されたくないじゃない。最近は色々煩瑣(うるさ)かったりするからさ、僕みたいな男と時雨みたいな可愛い女の子が一緒に歩いてたら、有らぬ疑いを掛けられることもないとは言い切れない訳だ。時雨だって、そんな面倒ごとは嫌でしょ?」

「それは、そうだけど」

「だから今だけは僕達、兄妹──って設定にしておこうか」

「兄妹──」

「うん、僕がお兄ちゃんで時雨が妹。時雨と恋人同士に見られるのが嫌とかそんなんじゃなくて、一応僕は提督だからさ。そういうことも考えなきゃいけないの」

 

 駆逐艦の外見の年齢を一概に言うことは出来ないが、大体平均して中学生くらいだと思う。時雨はその中でも大人びている方だと思うし、僕も童顔な方だから間を取って大学生のカップルと言い張れないこともないだろう。

 しかしそれは所詮(しょせん)「言い張れないこともない」という程度のもので、僕と時雨が寄り添って歩く()に違和感を抱く人が居ないとは限らないのである。

 まあ、二人の関係にそこまで踏み込む人は()う居ないと思うし、万が一条例違反だとかで善意の市民が通報したとしても、最悪の事態を心配する必要はない。国防省に身許の照会をした時点で、この件は国家機密の闇の中に葬り去られることになる。

 兄妹──と時雨は再び呟いた。

 

「何か、恋人って言うよりもいやらしくないかな」

「何で」

 本当に何で。

「だ、だって兄と妹って結局いやらしい関係になるじゃないか。少なくとも僕の観たフィクションでは大体そうだった!」

「偏ってるなあ」

「それとも何だい。それはその──提督の変態的な欲求を満たす(ため)の遊びか何かなのかい?」

「ちょ、ちょっと落ち着いてって」

 僕は傘を傾けて周囲を見回す。寂れた温泉街の雨模様の中とは言え、駅前だし人通りがない訳ではない。警戒態勢に突入している市民が居ないか確認してから傘の角度を戻す。

「時雨が嫌なら別に良いんだよ。そもそも背徳(うしろめた)いことなんて──な、何もないんだから」

 

 心の中で嘘発見器のブザーが鳴った。

 

「僕じゃ何の頼り甲斐もないってことは重々承知してるけどさ、そうすれば時雨も多少は甘え易くなるかなってそう思ったんだよ。上官と部下って関係よりは全然楽でしょ?」

「そもそも提督を上官だと思ったことないよ」

「うっ」

 鋭利な言葉の刃物が腹に突き刺さる。

「そ、そうなんだ。いや、そうなんだじゃなくていいんだよそんなことは。僕が言いたいのは弱音吐いたって何だっていいし、()(まま)だって気兼ねなく言ってくれってことでね。断じて兄妹プレイがしたい訳じゃなくて、それが性癖でもないってことッ」

 気が付くと僕は早口で(まく)し立てていた。言い訳とか弁明という単語が頭を(よぎ)って消えて行く。時雨は顔を赤くして訝しげにこちらを見つめているが、多分僕の顔も同じくらいに赤くなっているのだろう。

 想定外の罪悪感が僕を襲い始めた。

 関係性を疑われた場合の対応策として用意していたこの案に、立案当初から(よこしま)な思いが混入していたのではないかという疑惑を、今の僕は正面から否定することが出来ない。

 

 穏やかな、静かな旅行にしたいと。

 ただそれだけを望んでいた筈なのだけれど──。

 

「──やっぱ、やめとこうか」

 情けない顔で僕がそう言うと、

「や、やるよ折角(せっかく)だし。やればいいんでしょ!」

 と時雨は傘を持っている僕の右腕に強く抱き付いた。

 上目遣いで僕を見て、徐に呟く。

「──兄さん」

 僕は時雨を直視出来ず、余所(よそ)に視線を飛ばしてから目を瞑った。

 込み上げる感情の正体を知ってはいけない。

 僕の脳髄はその感情に、背徳(うしろめた)さという偽のレッテルを貼り付けて記憶の倉庫に格納し始める。

 これは──。

 通報されても仕方がないと、本気でそう思った。

 

 

 何とも形容し難い()わりの悪い空気に包まれながらも十数分で旅館に到着した。落ち着いた雰囲気のその宿は華美に過ぎず小聡明(あざと)く質素を装うこともなく、自然体でそこに建っているような気がした。軽率に偽りの兄妹を演じている僕等には──少なくとも僕には、その佇まいが酷く羨ましいものに思えた。まあ、建造物を妬ましく思うというのも怪訝(おか)しな話ではあるのだが。

 宿帳に住所氏名等を記入すると予約していた部屋に案内された。その部屋も良い塩梅で質素だった。とは言っても、多分今まで宿泊したことのある部屋の中では一番広い。二間の和室に窓の向こうの和風庭園。仕切りの陰で見えないが、縁側の左手にあるのが部屋付きの露天風呂なのだろう。

 

 僕と時雨は思わず目を合わせた。

 お互い驚いたという表情をしている。

 

 案内をしてくれた仲居さんは旅館の施設と備品の説明を終えた後、僕等に夕食の時間を聞いた。僕も時雨も特に希望する時間はなく、花火を見に行く予定ですと伝えると、では六時半頃が良いでしょうという返答だったのでその通りにお願いした。布団は外出している間に敷いてくれるらしい。

 仲居さんは深々と頭を下げ襖を閉めて退室した。

 時雨はその様子をじっと見つめた後、やや時間を置いてから口を開いた。

「僕達、どう見えてるんだろう」

 先程と同じ問いである。

「どうだろうね。そう言えばお二人はどのようなご関係で? とか聞かれなかったな。そういうのは聞かないようにしてるんだろうか」

 僕が知る訳ないじゃないかと時雨はぶっきらぼうに言う。彼女は座椅子に腰を下ろし、机に突っ伏すような体勢で僕を見ている。僕も荷物を置いて対面に座った。

「もし聞かれても、提督は兄妹ですって答えるつもりだったの?」

「うん、一応」

「何かそっちの方が不自然のような気がするけど──。もうそういう関係ですってことにしちゃえば良いじゃないか」

 

 そういう関係とは恋人ということだろう。

 確かに兄妹よりも恋人と言った方が自然なのは間違いない。風呂付きの部屋に泊まる年齢の離れた兄と妹は明らかに不自然だ。仲居さんとの間に仮にそのような遣り取りがあったとして「仲が良過ぎませんか、というか似てないですね」などと突っ込まれたら、僕は動揺して黙ってしまっていたと思う(そんな積極的(アグレッシヴ)な仲居さんが居るとは思えないが)。

 そもそも兄妹という設定は、女子中学生と冴えない成人男性のカップルという余りにも危険な誤解への防衛策だった筈なのだが、今となっては兄妹と主張することの方がより不道徳(インモラル)な印象を増幅させてしまう気がする。

 時雨の指摘通り、特殊な性癖を満たす為にこの機会を利用していると捉えられても仕方ない状況であるのは確かだろう。実際僕は、胸を張ってそれに反論することは出来ない。

 

 僕が言葉に詰まっていると、時雨は諦めたように言う。

 

「──はいはい、もういいよ。提督は僕の兄さんだもんね」

「また()ねないでって。折角来たんだから楽しもうよ」

 時雨は溜息を吐いて外の庭を眺めている。方角は違うのかもしれないが、彼女の意識は鎮守府の方に向いているような気がした。

 時雨──と声を掛ける。

「やっぱり、来たくなかった?」

 時雨は机に伏せた体勢のまま首を振った。

「そんなんじゃないよ。ただ、皆に悪いなと思って」

「どうして」

「だって、訓練も任務も休んで──提督と旅行に来てさ。皆だって来たかった筈なのに、行って来なよって笑顔で送り出してくれた」

 罪悪感だらけだよ──と時雨は言う。

「──そっか。でもさ、時雨は工廠の仕事手伝ってくれてるじゃん。それで十分だよ。そりゃ時雨にしてみたら色々思うところもあるだろうけど、僕は時雨が一緒に来てくれて凄く嬉しいし助かってるよ。こんな中途半端な温泉旅行、誰も来たくないって。だから、せめてさ──」

 今はそんなこと忘れて楽しもうよ、と僕は言った。

 時雨は僕の方に顔を向けて微笑んだ。

「提督は本当に解ってないんだね。いや、今は兄さんか──」

 

 兄さんのバカ、と彼女は悪戯(いたずら)っぽく言う。

 

 急激に照れ臭くなった僕は、それを誤魔化(ごまか)すようにその場から立ち上がった。

「あぁ、ええと──お風呂、入っちゃおうかな。時雨はどうする?」

「どうするってどういうこと?」

「いや別に変な意味じゃなくて──時雨も入りたいんだったら、先入っていいよってこと」

「僕はまだいいかな。兄さんがお先にどうぞ」

「うん、じゃあ、そうさせてもらいます。ありがと。すぐ上がるから」

 鞄から着替えを取り出し脱衣所に向かう。衝立(ついたて)があるから視界は(さえぎ)られているが、この板のすぐ向こうに時雨が居ることを考えるとかなり無防備な気がした。だからと言ってここで躊躇(ためら)い続ける訳にもいかないので、意を決して雑に服を脱ぎ捨てる。

 戸を開けると生温い外気が身体を包み込んだ。気持ちの問題かもしれないが、都会の空気とは違って不快ではない。浴槽の檜や温泉の匂いも影響しているのだろう。洗髪剤(シャンプー)や石鹸などは置いていなかったから、シャワーで全身を軽く流して湯に()かる。

 大きく息を吐いた。

 

 ──静かだ。

 

 湯口から流れ出る湯の音をメインに、そのバックを近くの川のせせらぎと鳥や虫の鳴き声が薄く支えている。

 本当に落ち着く。

 自然というものを余り意識したことはなかったが、こうしていると都会で生きるということは人間にとって少なからず無理をしている状態なのではないかと、そんなことを考えてしまう。

 まあ都会や田舎に関わらず生きるということそれ自体が、多少の無理を()いられている状態であることは間違いないのだろうけど。

 問題はその「無理」が許容出来る範囲内かそうでないかだ。そしてその「無理」は人によって解釈も許容量も違うし、同じ個人でもその時々で違う。

 普段の生活だって、億劫(おっくう)に思えてしまうことはままあるだろう。

 

 ならば艦娘も──海に出るというただそれだけのことが、己の許容範囲を超えてしまう場合があったとして、何も不思議なことなどないのではないか。

 

「生きる場所でもあるけど、戦う場所でもある──か」

 五月雨の言葉を(ひと)り反復した。

 時雨が元の状態に戻れるかどうかは判らないが、どちらにせよ今すぐの話ではない。僕からその話を切り出したところで追い詰めるだけだ。温泉に入ったからと言って良くなる訳ではないが契機(きっかけ)にはなるかもしれないし、少なくとも思い出にはなるだろう。そう思いたい。

 浴槽に頭を預けて、だらしなく空を見上げた。

 落ち着く──本当に。

 時雨が先に入れば良かったのに、とそんなことを考えていた矢先に──。

 からからと、戸の開く音がした。

 そこには。

 

 

 ──バスタオルで前面を隠しただけの時雨が立っていた。

 

 

 頭が(にわか)に混乱を始める。

「ちょ、ちょっと何してんのッ」

「──僕も入ることにした」

「え、いや──それは(まず)いよ。ちょ、ちょっと本当に見えちゃうって!」

 茫然と動転を器用に両立している僕に対して、時雨は不自然な程に淡々としていた。

「僕は妹でしょ。兄妹でお風呂に入ることくらい、何の問題もないじゃないか」

「色んな問題があるよッ。駄目だって僕はほら──タオルっていうか手拭いすら持って来てないんだから」

 正真正銘の素っ裸である。

 取り乱している僕を怪訝な目で見ながら、時雨はこちらに近寄って来て僕に迫る。前屈みになった彼女のタオルは胸の辺りで支えられて、そこから垂直に垂れていた。つまり。

 

 ──少しでも角度を変えれば見えてしまう。

 

「兄さんは僕とお風呂に入るのが嫌だって言うの?」

「い、嫌じゃない。(むし)ろその逆っていうか何ていうか──本当に何て言ったら良いのか判らないんだけど、た、大変なことになっちゃうからとにかく駄目なんだよッ」

「何を訳の解らないこと言ってるのさ!」

 時雨が不意に視線を落とした。

 温泉には多少色が付いているとは言え透明度は高い。

 時雨の顔が見る見る赤くなって、僕は咄嗟(とっさ)に前を隠した。

「ごめんッ」

 反射的に謝ってしまったが多分僕は悪くない。

 時雨は屈んで僕と目線を合わせ、責めるような目で見つめている。

 何故か彼女の鼻息が荒い。

「だ、だって提督──に、兄さんは長波とも一緒に入ったんでしょ? その前は(そう)(りゅう)も一緒に入ったって聞いたよ。それなのに僕とは入れないなんて怪訝(おか)しいじゃないか!」

「それは違うんだよ──あ、いや違わないかもしれないんだけど、長波の時は気付いたら勝手に入ってたの。それにお互いタオル巻いてたしさ。今はこれ丸腰どころの話じゃないしここ狭いから。一緒に入ったら──」

 密着どころの騒ぎではない。

「いいよ僕は気にしないから」

「こっちが気にするのッ」

 

 僕等が視線を合わせたまま沈黙すると、その間の静寂を翡翠(かわせみ)の鳴き声が埋めた。

 数秒か数十秒後、鳴き声が止むと同時に時雨は首を傾げる。

 

「──本当に入っちゃ駄目なの?」

「ごめん時雨。ただ、嫌だって訳じゃないのは信じて欲しい。その、逆に嬉し過ぎるっていうか抑えられないっていうか──いや、違う違う。今のは忘れて」

 そんなことは言わなくて良い。

「あの、ぼ、僕と時雨はどんな関係であっても男と女であってね、守らなきゃいけない一線ってのはあると思うんだよ。特に時雨みたいな魅力的な女の子は気を付けた方がいいと思うし、僕みたいな意志の弱い男は──その、大変なことになっちゃうから──」

「さっきから大変大変って何が大変なことになるの?」

 それを説明する訳にはいかない。

 時雨の表情が徐々に曇って行く。

「──入りたかったら、僕が上がるからさ」

 

 そう言うと、時雨は唇を噛み締めて何かを(こら)えるように(うつむ)いた。ぼそりと聴き取れない程の小さな声で何か呟いたかと思うと、

 

「一緒じゃなきゃ意味がないじゃないか!」

 と彼女は唐突に叫んだ。

「一緒じゃなきゃ意味がないよ。甘えて良いって()(まま)言って良いって──そう言ってくれたのは全部嘘だったの?」

「──時雨、それは違うよ。嘘じゃない」

「じゃあどうして。嘘じゃないならどうして一緒に入ってくれないの? どうして僕を受け入れてくれないの? こんなに──こんなに真剣に、お願いしてるのに」

 時雨は瞳を潤ませて、(すが)るように僕を見つめている。

 僕は目を伏せて、ただ一言──、

「──ごめん」

 と言った。

 

 

 嘘吐き、嘘つき、ウソつき──。

「──兄さんの嘘吐きッ」

 

 

 平素の時雨からは想像も付かない程に臓躁的(ヒステリック)な叫びだった。

 時雨は勢い良く立ち上がり、(きびす)を返して戸の方に歩き出す。

 柔肌の露になった彼女の後姿は、芸術品のように綺麗であると同時に壊れてしまいそうな程細く、不安定で儚い美を纏いながら弱々しく揺れていた。

「時雨違うんだって話を聞いて──」

「もういいよ兄さんの──提督のバカっ」

 時雨の感情を表すように大きな音を立てて戸が閉まる。

 それを見送る僕の心には、羞恥心だとか必死に抑え込んでいた情欲だとか──そんな類いのものは既に残っていなかった。

 罪悪感に苛まれながらも放心する。

 力が抜けて浴槽に(もた)れ掛かると、体勢が崩れて鼻の下まで湯に浸かった。

 

 どうすれば良かったのか、何が正解だったのか──。

 僕には何も解らない。

 解るのは、僕が救いようのないバカだということだけだ。

 ああ、いや──。

 もう一つだけ、解ることがある。

 

 兄さんなんて(がら)じゃない。

 それも、確かだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。