Perspective   作:広田シヘイ

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第六話『白露型駆逐艦二番艦のすべて・後編』

 

 

 

 

 

 

 緩く弧を描いている温泉街の道を、街灯が淡く照らしていた。

 濡れた舗装路は光を滲ませて、地面にもう一つの光源を作り出している。水溜りは残っているが、一部は(すで)に乾いていた。雨は上がっている。

 商店や飲食店も大半は暖簾(のれん)を下ろしていて、辺りはしんと静まり返っていた。先程通り掛かった土産屋はまだ開いていたが、ちらと覗いた限りでは店内に客の姿は見当たらなかった。

 背後から撫でるように風が吹く。その風に促されたような気がして、ふと空を見上げた。

 上空では星が瞬いているのが見えるから、多分花火大会も予定通り行われるのだろう。

 ──雨はいつか止むさ。

 そんな声が聴こえたような気がした。

 いつの記憶か定かではないが、誰の言葉なのかは明瞭(はっきり)憶えている。

 僕の隣を無言で歩く彼女──白露型駆逐艦二番艦時雨の言葉だ。

 

 

 数時間前──。

 一緒に風呂に入りたいという彼女の提案を却下して以来、僕と時雨は口を()いていない。夕食の間も無言だったし、花火を見に行こうと誘った時も時雨は弱々しく(うなず)いただけだった。

 しかし、僕はこれでも良いと思っている。

 勿論、時雨がこの時間を存分に楽しんでくれるのが一番なのだが、彼女が声を張り上げて風呂場を去った時はもうこの関係が終わってしまうのではないかと思った程だったから、今こうして付いて来てくれるだけで僕は十分なのである。

 時雨も何らかの形で関係を保つことを選択してくれたということではあるだろう。何の味もしなかった夕食の時間に比べれば、並んで歩くことが出来ている今は天と地の差だ。

 理想的ではないが、絶望的でもない。

 それで十分である。

 

 暫く歩くと、道の湾曲が鋭くなって下り坂になった。

 その先は丁字路になっていて突き当たりには川が流れている。花火大会が開催されるのはこの川の河川敷だ。それなりに大きい川のようだが、鎮守府にこの川の名前が付いた軽巡は居ない。いや、そもそも帝国海軍にも居なかったか。

「時雨、ほら」

 そう言って、(なか)ば強引に時雨の手を握った。

 あっ、という声が漏れる。彼女の手は冷たい。

 一応夜中の信号機のない交差点である。道幅も大きい訳ではないし車の気配もないのだが、気を付けるに越したことはない。僕は提督として時雨の保護者的な側面も持ち合わせている訳だから、これくらいの行動は許容範囲内だろう。

 小走りで道を渡り、近くにあった河川敷の階段を下りる。

 花火がよく見えますよと旅館の仲居さんが教えてくれた場所はもう少し上流なのだが、花火の迫力と混雑の具合は多分トレードオフの関係にあって、この場合どちらを選ぶかは考えるまでもない。

 

「この辺でいいか」

 

 そう呟いて僕は立ち止まった。

 疎らに家族連れや恋人達の姿が見える。

 しかし──。

 辺りを見回しても腰を落ち着かせる場所が見当たらない。河川敷にはサイクリングロードが走っているだけでベンチなどないし、芝生は先程まで降っていた雨で濡れている。

 花火が終わるまで立ったままというのも、何となく居心地が悪い。何かないかと夜闇に目を凝らしていると、背後で何やらがさがさという音がした。

 僕は(おもむろ)に振り返る。

 そこには土手の斜面に小振りなレジャーシートを広げて座っている時雨が居た。控え目に手招きしている。

「あっ、流石(さすが)時雨。用意いいね」

「──提督はこういうことに気が回らなさそうだからね」

 咳払いをして時雨はそう応えた。

 久し振りの会話だった。

 僕は斜面を上って彼女の隣に座る。

 

「何だか座り辛くない?」

「そこは角度があるから、こっち来なよ。ここ、ちょうど土が(えぐ)れて平らになってるんだ」

 時雨はぽんと地面を叩いた。その場所に僕が座ると時雨とくっ付いてしまう形になるのだが、僕は彼女に許してもらった高揚感もあって(会話をしたというだけなのだが)、思い切って身体を寄せた。

 身体の左側が時雨と密着する。

 僕等は、また(しばら)く無言になった。

 

 時刻は二○二○(フタマルフタマル)

 花火の打ち上げ開始予定時刻まで、あと十分。

 

 雨上がりの風は川辺の匂いと舗装の匂い、そして上流を目指す(まば)らな人々の微かな気配を僕等に伝えていた。

 先程までとは違って、嫌な静寂ではない。

 やがて前触れもなく、

「ごめんね」

 と時雨が呟いた。

「──全然。時雨が謝ることなんて何もないよ。僕の方こそ、ごめん」

「どうして提督が謝るの?」

「何か、少しでも時雨の気晴らしになれば良いと思ってやったこととは言えさ、全部裏目に出ちゃってるような気がしてね。無理に連れて来ちゃったし、自分はお兄ちゃんなんて柄じゃないのに兄妹だなんて()頓狂(とんきょう)なこと言って──。僕はいつもこうだよな。空回りしてるんだ」

「──そういうところだよ」

 時雨は声を押し殺すように言って、僕の肩を叩き始めた。

「そういうところだよ提督。僕が皆に迷惑掛けたり、僕が間違ってたりしたんだから素直に謝らせてよ。提督は僕のこと考えてここに連れて来てくれたんでしょ? 僕のことを考えて妹だって言ってくれたんでしょ? 嬉しいよ──実際、凄く嬉しかったよ。だから提督が謝ることなんて何もないんだよっ」

「いたっ、痛いって時雨。ご、ごめん悪かったから──」

「また謝った!」

 至近距離で時雨と目が合う。僕を責めるような眼差しだったが、()()りの滑稽さにお互いほぼ同時に気が付いたのだろう。僕等はすぐに、どちらからともなく笑い始めた。

「バカみたいだね」

 と言って、時雨は僕に身体を預ける。

 

 その身体は、僕が少しでも力を入れて押せば何処かに飛んで行ってしまうのではないかと思う程に軽くて、儚い。

 

「──もう一回言うよ。ごめんね。ちゃんと受け取って。言うのが遅れた」

「うん、解った。でも、本当に大して謝られることでもないと思うんだよ。時雨が気にしちゃうのは理解出来るんだけど」

「謝られることでもないって──だって、迷惑掛けたでしょ? 任務も穴開けちゃったし、現に今こうして提督に気を遣わせちゃってるじゃないか」

「あのね、皆時雨の(ため)に何かすることを負担になんか思ってないよ。そこはお互い様でさ、時雨だって他の人に何かあったら進んで助けようとするでしょ。その時、面倒臭いなぁとか嫌だなぁって思う?」

 時雨は首を横に振った。

「ね、そうでしょ。今回で言うと白露とか村雨とか夕立とか──白露型だけじゃないけど他の皆が埋めてくれたしさ、調整も別に大変じゃなかったよ。まあそれは僕がやったっていうか、(ほとん)ど大淀がやってくれたんだけど」

 僕は口許をへの字に曲げて(おど)けてみせる。

「僕が時雨のことを考えるのは当たり前の仕事だから。ああいや、仕事って言い方嫌だな。何だろ──生活の一部みたいな、そんな感じ。だから、そんなに気にすることないんだって。時雨の気持ちは十分受け取ったからさ」

「うん」

 時雨はこくりと頷いた後、僕の肩に頭を乗せたまま目を瞑った。

 

 目の前を流れる川のような──そんな、静かな時間が流れていた。

 都会には存在しない速度の時間だ。

 

 これが本来の時の在るべき姿なのではないかと、僕はそんな愚にも付かないことを考えてしまう。小難しい形而上学的なあれこれは解らないのだが、少なくとも時間はここやそこに在るものではないし、僕の主観でしかない妄言や戯言(ざれごと)に「本来」だとか「在るべき姿」だとか、そういった押し付けがましい言葉を使用するのは適切ではない。

 

 そうではなく。

 ただ素直に。

 好きな時間だと、言えば良いのか。

 ずっとこうしていたいと──それだけを思えば良いのか。

 いずれにせよ、僕の劣った思考力でこの時間を言語化することは不可能だ。

 それだけは解る。

 

 川面は微かな明かりを反射して不規則に揺れている。

 ぼんやりその様子を眺めていると、そのうち提督と僕を呼ぶ時雨の声がして、僕はいとも簡単に現実へと引き戻された。

「──ねえ提督、花火って何時から?」

「えっと、二○三○(フタマルサンマル)から。もうすぐ」

 彼女はそう、と応える。

「時雨は、花火って初めて?」

「うん。この姿になって、初めてかな」

「そっか。綺麗なもんだよ」

「楽しみにしておくよ。でも、何か不思議だな。僕達が使う砲弾も花火と同じ原理の(はず)でしょ? なのに、僕達の戦いは家族や恋人達が寄り添って観るものじゃないよね。真逆のことしてる」

「僕達の仕事は見世物じゃないからねぇ。言われてみると確かにって思うかも」

 時雨は、そうだよねと力なく言った。

 ──本当に、折れてしまいそうだと思った。潰れてしまいそうだと思った。

 艦娘は華奢で小柄な少女が多く、特に駆逐艦などはその傾向が強いのだが、僕は彼女達のことを「か弱い」と思ったことは一度もない。その小さな立ち姿にも数々の修羅場を潜り抜けて来た芯の強さが見て取れるし、ふと垣間見せる鋭い眼差しには、こちらが畏怖の念を覚える程の並々ならぬ覚悟が滲んでいる。

 

 ──しかし。

 

 僕は今、初めて時雨のことを「か弱い」と思ってしまった。

 僕が支えなければいけないと、思ってしまった。

 思わず──触れるつもりのなかった話題が口を()く。

「時雨──海に出たくないなら、無理に出なくて良いんだよ」

 彼女は上目遣いで僕を見た。

「──そんな、そんな訳にはいかないよ。僕は艦娘なんだから、海に出れなくちゃ何の意味もないし何の役にも立たない」

 

 もう、後戻りは出来ないか。

 

「ううん、何かの役に立とうって心意気は素晴らしいものだと思うけど、役に立つ立たないが人のすべてじゃないでしょ。艦娘だって同じに決まってるよ。ほら、今僕等の周りに居る家族や恋人達は皆役に立つと思ってるから一緒に居るのかな。僕は違うと思うよ。僕も鎮守府の皆もただ時雨と一緒に居たいって思ってる。時雨は、一人になりたい?」

「そんなことはないよ。でも、だからこそ──こんな自分が情けなくて歯痒くて、背徳(うしろめた)い」

 時雨は感情を抑え込みながらそう言った。

「──確かに、艦の生まれ変わりの艦娘である自分が海に出られない苦しさってのは、正直人間の僕には理解出来ないかもしれないんだけどね。でもさ、一方で時雨は今年頃の女の子でもある訳だから──というか、周りからはそうとしか見えない訳でね、艦娘としての生き方以外のことだって、探してみても良いんだよ」

「それは──僕に鎮守府を出ろって言ってるのかい」

「違う違う。鎮守府はずっと変わらず時雨の帰る場所だし、勿論(もちろん)当然、鎮守府に居続けて欲しいよ。でも、そういう選択だってない訳じゃないんだよってことを言いたかっただけ。もし時雨が鎮守府を出て行くなんて言ったら、僕は多分号泣して止めるんじゃないかな」

 

 言ってることが滅茶苦茶だねと続けると、時雨は僕の腕を強く抱き締めた。

 

「絶対出ない。出て行く訳がない」

 巻き付いた彼女の手が、僕の手首をそっと握る。

「──提督、僕が海に出れなくなった理由って何だと思う? 知りたい?」

「も、勿論。是非知りたい」

 

「──提督の所為(せい)だよ」

 

 時雨は(ささや)くようにそう言った。

 生温い風が、シートの端を小刻みに揺らす。

「僕の、所為──?」

「そう。提督は僕が初めて訓練に参加した時のこと、憶えてるかな?」

「え、は、初めての訓練──ええと、ちょっと待ってよ」

 予想外の展開に慌てる僕を、時雨はふふっと静かに笑った。

「水上航行の訓練だよ。あの時、僕は二位だった不知火(しらぬい)に三秒以上も差を付けられて三位だったんだ。初めてだったけど、周りは全力を出してないってことだけは解ってた。僕は全力で走ったのに、こんなに差があるのかって凄く落ち込んでたんだよ。でも提督は、初めてなのに主機の出力でも負けてるのに凄いって褒めてくれたんだ。頭を優しく撫でてくれて、大丈夫だって慰めてくれた」

「──ああ、何となく。そんなこともあったような気がする」

 

 断片的ではあるが、僕の脳味噌はその時の記憶であると思われる映像をサルベージすることに成功した。夕方、照れ臭そうに(うつむ)く時雨の表情が脳内で繰り返し再生される。

「でもまあ、褒めると思うよ。実際大したもんでしょ、初めてだったんだから。別に怪訝(おか)しなことはないと思うけど──」

 

 水上航行訓練は浮標で作ったコースを出来るだけ早い時計(タイム)で走る訓練だ。モータースポーツ等のタイムアタックと似ている部分もあるが、そういった競技と違って時計は余り重要ではない。軍事作戦に(おい)てコンマ一秒を削ることは最重要課題ではないし、(むし)ろどちらかと言えば周囲と時計を合わせることの方が肝要だからである。

 要は主機の出力を最大にした時でも、自分の挙動を制御出来るようになるのが目的の訓練なのだ。左に比べて右旋回が苦手な艦娘も居るし、旋回立ち上がりの加速で姿勢を崩し易い艦娘も居る。大事なのは全力を出した時に判明する自らの苦手な部分や癖を把握することであって、決してコースのラップタイムを競う訓練ではない。

 しかし、訓練に参加している艦娘はそう考えていないらしい。

 確かに人情として、時計で負けたくないという気持ちは解らなくもない。

 

「勿論怪訝(おか)しくはないよ。ただね、僕嬉しかったんだ。僕の武器はこれだって思った。だから、水上航行訓練は人一倍頑張るようになったし、いつか絶対に鎮守府で一番になってやるって心に決めてた。知らなかったでしょ?」

「知らなかった。そこまで思ってたとはね──ってことは何、島風にも勝つつもりでいたの?」

「当然。明石さんに主機の出力上げられないか相談もしてたからね」

「それも知らなかったなあ」

 尤も、島風に勝つならばまずそこを改良しなければならない。

「でも、三月の終わり頃──だったかな。ある時ね、僕が訓練中に転倒しちゃって、それからリズムを崩しちゃって、どうしようもない周回を重ねてた時も提督は褒めてくれた。あの時も頭を撫でてくれた。前までだったら転倒するまで攻められてないよって。確実に進歩してるって」

 時雨は泣き笑いのような表情になる。

「僕はその時思ったんだ。結果が良くても悪くても提督は褒めてくれるんだって。僕のことをちゃんと見て、認めてくれるんだって。だったらもう──訓練の成績なんてどうでもいいやって。自分でも気付かないうちに──」

 時雨が顔を上げて、僕をじっと見つめて言う。

 

 

 ──提督のこと、好きになっちゃってた。

 

 

 どれくらいの時間か判らないが、僕等はそのまま静止した。

 やがて時雨の顔が明かりに照らされて──。

 遅れて、乾いて──火薬の弾ける音がした。

 花火が、上がり始めた。

 

「訓練を頑張ってたら提督と会えないし、任務でもし沈んじゃったら一生提督と会えない。そんなの絶対嫌だって思った。でも僕は艦娘で、深海棲艦を倒すのが役目なんだよ」

 ──僕、全然解らなくなっちゃった。

「海に出ないといけないのに、皆を裏切ってるって思うのに、やらないといけないことを他の子に押し付けて自分だけ楽してるなんて──こんな子提督は絶対嫌いだって思うのに、それでも提督と一緒に居たいって感情が勝っちゃうんだよ。何でなのか、僕も解らないんだよッ」

 縋るように僕のシャツを掴む時雨の目から、涙が零れ落ちた。

 

 僕は何も言えなくて。

 言葉が見つからなくて。

 ただただ──荒波のように打ち付ける時雨の感情を受け止めることしか出来なかった。

 

「でも、提督ならそれでいいよって許してくれるような気がしてた。僕が(そば)に居たいって言ったら受け入れてくれるような気がしてた。そうやって提督の優しさに付け込むような最低の艦娘なんだよ、僕は。実際、提督は許してくれたよね」

 時雨はそう言って、本当に泣きながら笑った。

「訓練だって任務だって全部──僕はずっと提督の傍に居たいだけなのに、何でそんな危険な思いをしなきゃいけないんだろうって、本気でそう思うようになってた。気が付いたら──」

 

 海に──出れなくなってた。

 

「怖くて怖くて仕方ないんだよ。深海棲艦の砲撃だって当たり所が悪ければ一撃で轟沈だよ。何より、こんな最低なことを考えてる僕は、海に拒絶されてるような気がしてた」

 提督、僕はどうしたらいいんだろう──。

 時雨は僕の胸に顔を(うず)め、声を上げて泣いた。

 僕は彼女を抱き留めて、子供をあやすように背中を静かに叩く。

 取り敢えず、落ち着くまではこうする他にない。そもそも時雨がどうしたら良いかなんて、僕に何か言う権利があるのだろうか。あるとするなら──。

 

 時雨は、鎮守府に欠かせない戦力だ。

 でも。

 それだけか。

 いや、それは──。

 考えるまでもない。

 

 花火の明かりと同期して伸びる影を見つめながら、そんなことを思う。

 時雨の状態が落ち着くのを見計らって、僕は言った。

「──じゃあ時雨さ、僕の傍に居るかい?」

 彼女は僅かに、身体を震わせた。

「僕だって時雨が傍に居てくれたら嬉しいし──それに多分ね、そのうち海にも出れるようになるから。あんまり思い詰めない方が良いよ。時雨はね、鎮守府の皆が困ってるのに見捨てられるような、そんなことが出来る艦娘じゃないって──僕は知ってるからさ」

 時雨は胸に顔を押し付けたまま、何かを要求するように僕の(もも)を叩いた。

「ん、どしたの?」

「ティッシュ」

「ああ、ちょっと待って」

 ポケットを探る。

「ごめん、ハンカチしかない。これで我慢して」

「汚れるよ」

「別にいいから」

 

 幾分逡巡した後に「ありがと」と言って時雨は(はな)()む。僕は何だか笑ってしまって、時雨も照れ臭そうに笑った。

 

「というかさ、そんな言い方は(ずる)いよ。裏切れないじゃないか」

「僕は狡い人間だからね」

 そう言うと、時雨は突然飛び付くように僕を抱き締めた。

 頭を擦り付けながら、耳許で彼女は言う。

「提督は──提督だけは、僕を拒絶しないでね。提督にそんなことされたら、僕、死んじゃうから」

「しないよ。するもんか」

 じゃあ──。

 

「──キスして」

 

 時雨は、僕の腿の上を(また)ぐようにして座った。

 重くはないが、不安になる程の軽さは感じない。

「僕がもういいって唇を離すまで──ずっとキスして」

 花火の明滅に照らされた時雨の顔が迫る。

 やがて唇が触れたその時。

 花火の音は、何処か現実感を失っていた。

 

 少しだけ──(しょ)っぱい味がした。

 

 

            ※

 

 

「ちょ、ちょっと、秘書艦がもう一人増えるかもしれないってどういうことよッ」

「だから、その言葉通りのこと。あんまり大きな声出さないでって」

 僕は朝方の岸壁を秘書艦兼護衛艦の瑞鶴と一緒に歩いていた。明石の工廠で今後の艤装改装計画についての打ち合わせをした後で「ちょっと海でも見て行かない?」と瑞鶴を誘ったのである。まだそうなると決まった訳ではないが、この件に関しては秘書艦組にそれとなく伝えておいた方が良いと思ったのだ。

 

 まず、大淀以外の誰かに。

 

 ランニング中の長良(ながら)名取(なとり)が、擦れ違い様にお早う御座いますと元気良く挨拶をして通り過ぎて行った。僕は平素の通りお早うと応えて、二人に気付くのが遅れた瑞鶴は慌てて「あっ、お早う!」と二人の背中に声を掛けていた。

 こちらを向き直した途端、瑞鶴の顔は不機嫌に戻る。

「言葉通りって──だって五月雨がこの前新しく秘書艦になったばかりでしょ? 何でこれ以上増やさないといけないのよ。何なの、私達に不満でもある訳?」

「ないない。そういうことじゃないの。説明は多少難しいんだけど、まあ色々あるんだよ」

「──誰よ」

「時雨」

「温泉で何かあったわね。言いなさいよ」

 僕は別にと言いながら目を逸らした。

「提督さん、嘘吐くのやめな? こっちが悲しくなるくらいバレバレだよ?」

「う、嘘なんか吐いてないよっ。瑞鶴だって知ってるでしょ時雨を連れて行った経緯とかさ。あの、何て言えば良いのかな──やっぱり時雨も海に出れないのを気にしてる部分はあるんだよ。だったら、陸での仕事もちゃんと与えてあげた方が良いかなってさ。それだけだよ」

「工廠でやってるじゃない」

「あれは自主的に手伝ってるだけだもの」

 瑞鶴と目を合わせる。

 

 誠心誠意、心を込めて、真摯に気高く、誇りを持って。

 決して嘘は吐いてませんと。

 まあ、ホントは吐いていますけど──と。

 

 沈黙を破って瑞鶴が僕に掴み掛かった。

 ああ、やっぱり駄目かぁ。

「いや絶対何かあったって顔してるッ。言いなさいって言わないと海に落とすからッ」

「な、何でだよ本当だって信じてくれよッ。や、やめろ押すなッ」

 その時、提督──と声がした。

 揉み合っている僕と瑞鶴が手を止めそちらを向く。

 

 そこに立っていたのは、艤装を装備した時雨だった。

 

「──し、時雨」

「あんた──何してるの、大丈夫なの?」

 時雨は照れ臭そうに笑って、

「判らない」

 と言った。

「でも、もう一度頑張ってみようと思って。瑞鶴もごめんね。今まで凄く迷惑掛けた」

「全然、そんなこと気にしないで──って。あれ、でも今提督さんは時雨を秘書艦にするって言ってたわよ?」

「秘書艦? それは嬉しいけど、流石に甘え過ぎだと思うから遠慮するよ。でも、僕のことを考えてくれて嬉しいよ。有難う、兄さん」

「にい、さん?」

 

 ──(まず)い。

 

「そ、そうか。で、でも、帰って来て昨日の今日なんだから余り無理しちゃ駄目だぞ。もっとゆっくりで良いんだから」

「今までがゆっくりし過ぎてたからね。ま、提督が言うなら一応気を付けるけど」

 じゃあ行くねと言って歩き出したかと思うと、時雨はすぐに立ち止まってこちらを振り返った。

「ねえ提督。絶対、僕を見ててね。そのうち、妹なんて存在を超えてみせるから」

 隣の瑞鶴の視線を痛い程感じる。

「それとも、提督は妹のままが良い? 妹とそういう関係になるのが良いのかい?」

「な、なぁにを言ってるのかなあ」

 

「──兄さんの意気地なし」

 

 悪戯っぽく笑って、時雨は去って行った。

 その笑顔は元気だった頃の時雨が戻って来たような、まるで憑き物が落ちたかのような晴々とした表情だった。

 ああ時雨はもう大丈夫かもなと、遠ざかる後姿を眺めつつそんなことを思っていると、背後から両肩を強力な力で掴まれる。

「今の話詳しく聞きたいかなあ。ねえ──お兄ちゃん?」

 顔を寄せた瑞鶴の笑顔は引き攣っていた。

 僕も微笑んでみせるが、顳顬(こめかみ)の辺りを冷や汗が伝っているのが判る。

 期せずして──。

 

 花火大会は、今日も開催予定らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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