Perspective   作:広田シヘイ

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第七話『ゆらゆら包囲網』

 

 

 

 

 

 

 街灯も(まば)らな坂道を、自転車を押して歩いている。

 それなりの勾配なので、漕いで上るのは肉体的な負担が大きい。僕は中学高校の運動部の生徒ではないし、この草臥(くたび)れた自転車に電動アシストなどという結構なものはない。

 ハンドルの左側に吊り下げているビニール袋が揺れる度に僕の胸を打つ。それが絶妙に鬱陶(うっとう)しい。中に入っているのは先程コンビニで購入したお茶や下着類だ。一・五リットルの振り子は中々に強力である。

 坂の頂上はすぐそこだ。

 立ち止まって休憩を挟みたい気持ちもやまやまではあるが、休憩後再び歩き出す(ため)の気力はバカにならないことを僕は知っている。であれば、一思いに上りきってしまう方が良い。

 

 大きく息を吐くのと同時に、ひいという甲高い声が漏れた。

 

 情けない僕のその声は夜の(とばり)と虫の鳴き声に溶けて、余韻を残すこともなくすぐに消えた。街中の喧騒からは遠く離れているが、その分自然が元気である。ここは住宅街ですらない。道の脇の更地は数年前まで畑だった(はず)だ。何を栽培していたのだろうと当時の記憶を辿ってみても、詳細な映像は思い出せなかった。

 ついこの間までは毎日通っていた道だ。自分がどれだけ何も見ていなかったか、いや、何も見ようとしていなかったかを痛感する。

 今だって、そうなのかもしれないけれど。

 

 軽い自己嫌悪を振り切る「うぉい」という掛け声と共に僕は坂の頂上に到達した。

 この先も上りではあるが傾斜は大分緩いし距離も短い。僕は緩慢な動作で自転車を(また)ぎ、ペダルに体重を掛けて走り出した。

 左手数十メートル先の建物に淡く光が灯っている。

 そこが目的地だ。

 築五十年は過ぎているであろう木造のアパート。四つある部屋のうち明かりが点いているのは一階右側の一室だけだ。二階へと上る階段は鎖で封鎖されている。

 一応周囲に民家もない訳ではないのだが、そのアパートだけ存在に不思議と違和感がある。段々と狭まっていく道路がアパートの手前でほぼ直角に曲がっているから、行き止まりに建っているように見えることもあるだろうし、周りを木々に囲まれている所為(せい)で、建物が林から押し出されているように見えることもあるとは思う。

 しかし、その違和感が何に起因しているのか瞭然(はっきり)とした答えは判らない。

 とにかく唐突なのだ、存在が。

 

 僕はアパートの前で自転車を停めスタンドを立てる。

 鍵は掛けない。それでも、盗まれたことなどない。

 ハンドルからビニール袋を取り、ドアを数回ノックした。

 

 そう、ここは僕の家。

 鎮守府に着任するまで、僕と退屈な日々を共にした(ささ)やかな空間。

 はあい、と少女の声がして、やがてドアが開かれた。

「ただいま」

 と僕が言うと、

「お帰りなさい、提督さん」

 とエプロン姿の由良(ゆら)が恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 

 アパートの大家さんから立ち退きの相談の連絡が来たのは先月のことである。

 建物の老朽化が進んでいるから、取り壊して土地ごと売却してしまいたいという話だった。大家さんとはそれ程面識があった訳ではないが、僕が大学に進学して引っ越して来た時には(すで)に立派なお爺さんだったから、自らの年齢のことも考えたのかもしれない。

 

 いや、そう言えば今回の話は「知らない誰か」から勧められた話なのだと、大家さんがそんなことを言っていたような記憶がある。今になって思えばそれは詐欺の(たぐ)いではないかと不安になってしまう部分もあるのだけれど、その時に話した相手が度肝を抜かれるくらいの別嬪だったとか何とかで、大家さんも幸せそうに回想していたから別に心配することではないのかもしれない。

 その他に転居の期限や立ち退き料などの話も出たのだが、僕は既に住んでいない状態だったから(アパートを借りていたことすら(ほとん)ど忘れていた程だったから)、お金は要りませんすぐに出ますお世話になりました、と答えて電話を切ったのである。

 

 最後に帰ったのは半年くらい前──春先のことだったと思う。部屋に置いていた本を取りに来たついでに軽く掃除をして、滞在したのは二時間くらいだったろうか。鎮守府に着任してから帰ったのはその一回だけだ。鎮守府からは車で一時間と少しの距離だから、そう気軽に来れる場所でもない。

 

 玄関は何だか懐かしい匂いがした。この家とも今日でお別れである。

 靴を脱いで部屋に上がった。

「エプロンなんかしちゃってどうしたの。ご飯はもう食べたじゃない」

「提督さん、ご飯にする? それともお風呂?」

「だからご飯はもう食べたでしょ。お風呂だよお風呂。その為に替えの下着買って来たんだから」

「もう。提督さん全然解ってくれないんですね」

 そう言って由良は頬を膨らませた。

 その様子を見て僕は(ようや)く彼女のやりたかったことに気が付いたのだが、事前の通告なしに新婚ロールプレイが出来る程僕はアドリブが得意ではない。

 

「解ってくれないって言われてもさ。梱包やら掃除やらで僕も疲れたし、さっさとお風呂入って寝たい気分なんだよ」

「それは由良も同じなのに──」

 由良は僕の前を動こうとしなかった。

 右側に足を踏み出して避けようとしたが、彼女はぴたりと付いて来る。

「ちょっと退()いてって」

「やり直してくれるまで退きません」

「えぇ──」

 僕は肩を落として面倒です、という意思を全力で表現したのだが、由良の態度は軟化する気配を見せなかった。どうやら大人しく付き合う他に選択肢はないようだ。

「──何処からやり直せば良いの」

「外から」

「嘘だあ」

「それじゃ玄関からで良いです。提督さん、ほら戻って。ね?」

 何が彼女をそこまで突き動かすのか理由は定かでないが、僕は諦めて玄関へと戻り靴を履き直した。ここまでするのであれば外へ出るのも同じようなものではある。

 由良は咳払いをして表情を明るくさせた。

 始まったらしい。

 

「お帰りなさい提督さん。ご飯にする? それともお風呂? それとも──私?」

 僕は少し(うつむ)いて眉間を押さえた。バカバカしい割にその破壊力は凄まじいものがある。

「──ええと、お風呂にしようかな。今すぐ入れる?」

「ええ、勿論(もちろん)

 お湯を張ったのは僕だからそんなことは尋かなくても解っていたのだが、お芝居としては知らない(てい)でいることの方が正しいのだろう。由良も満足げだし。ちなみに由良は僕が出掛けている間に入浴済みだと思う。

 靴を脱いで部屋に上がると、由良はすっと横に移動してスペースを空けてくれた。

 入室の許可が下りたようだ。

 

「あ、そうだ。一応飲み物は買って来たけど、本当に歯ブラシとか買って来なくて良かったの?」

「大丈夫です。由良は持って来てますから」

「そう。全く、最初から泊まる気だったんだもんなあ」

 上着を脱ごうとすると由良が手伝ってくれて、自然な動作でそれをハンガーに掛けた。赤面する僕に対して彼女は渾身のドヤ顔である。

「提督さんは読みが甘過ぎです。お引っ越しなんてそう簡単に終わらないですよ。深夜まであたふたして急いで鎮守府に帰るくらいなら、泊まった方が効率的でしょう?」

「──僕一人ならそれでいいんだけどさ」

 

 先日から始まった護衛任務のおかげで、鎮守府の内外を問わず僕は一人になることが出来ない。先程も僕がコンビニに行くと言っただけで由良は相当に反発したのだ。夜中とは言え遠出する訳ではないし、通り慣れた道だからとそれについては何とか説得したのだが、驚くべきことに由良は入浴も一緒にする腹積りでいたらしい。

 あんな小さなユニットバスに──増築丸出しのあんな狭い浴室で年頃の男女が混浴してしまったら一体どうなることか。

 最高──なことなのかもしれないが、ある意味最高に怖しいことでもある。

 まあ、そんなくだらないことは置いておくとして、護衛艦という任務を帯びて由良が随伴する以上は宿泊するにしても一緒になってしまう訳で、提督である僕としてはそれを前提に予定を組む訳にはいかないのである。

 

「そんなこと言っても、もうこんな時間ですよ。諦めて早くお風呂に入っちゃってください」

「そう、ね。そうする」

 僕はビニール袋から替えの下着を取り出して浴室に入った。

 スペースの限られたユニットバスで着替えをするのは窮屈なものだと今更ながらに気が付く。一人暮らしの時は素っ裸になってから浴室に入っていたが、由良が居る手前そんなことは出来る筈もない。

 便座に触れないよう慎重に脱衣していると、半透明の折戸の向こうから由良の声がした。

「提督さん、脱いだ服──下着も外に置いといてくださいね。由良が畳んで仕舞(しま)っておきますから」

「ああいや、いいよ。そこまで気を遣わなくても。洗濯物は自分で(まと)めておくからさ」

「そんな気にしないでください、ね? それに提督さん、そういうの面倒だって雑に丸めてしまうでしょう?」

「ううん、まあそうだけどさ。何か悪いよ、女の子に下着まで任せちゃうのは」

 僕にも一応デリカシーという概念はある。

「うふふ。提督さんって思った以上に照れ屋さんなんですね。でも提督さんと私は命を懸けて一緒に戦う仲間じゃないですか。今更そんなこと気にしませんから──」

 ね? と由良特有の終助詞が僕の倫理観に亀裂を入れた。

 

 由良のような美少女に身の周りの世話をしてもらうことは(まった)(もっ)て悪い気はしないし、そこまで言ってくれるのならそれに甘えることもまた礼儀なのではないかと、そんな都合の良い解釈が僕の頭の中で台頭する。

 考えが変わるのに数秒と掛からなかった。

 僕は(あま)りにも流されやすい。

「うん、それじゃお願いしようかな。ごめんね、有難う」

「はい、お預かりしますっ」

 

 少し戸を開けて脱いだ服を部屋の床に置いた。

 半透明のアクリル板の向こうに服を回収する由良の姿が滲んで見える。自分が全裸でいることが(たちま)ち恥ずかしくなって、僕は小さな湯船に飛び込んだ。

 お風呂は思ったよりも(ぬる)くなかった。由良がお湯を足してくれていたのかもしれない。全身の筋肉を弛緩させて、何の気なしに天井を見上げる。

 この光景が何処となく新鮮に映るのは、長年住んでいながら湯に()かるのは今日が初めてだからだ。特に思い入れがある訳ではないが、これで最後だと思うと幾分感傷的になる。

 

 そう遠くない未来に僕等はハワイに行くことになるだろう。

 観光ではない。

 その島々は今世界で最も観光とは縁遠い。

 帰って来られる保証など勿論ない。

 だから、この部屋を引き払うには良いタイミングではあったのだ。

 僕の家は、もうここではない。

 蛇口を捻って頭上からシャワーを浴びる。

 陸への未練を振り払うように、僕は頭を()(むし)った。

 

 

 ──数分後。

 入浴を早々に済ませて、コンビニで購入した肌着を着ている。多少急いだのは、何故だか由良の顔を早く見たくなったからだ。思春期の初心(うぶ)な少年のようで我ながら恥ずかしい。下着の慣れない肌触りに違和感を覚えながら、僕は浴室の戸を開けた。

「ああ、さっぱりした。由良、ありが──えっ」

 視線の先には、思わず絶句してしまう光景が広がっていた。

 

 由良が──。

 僕の下着に顔を押し付けていた。

 

 正座しているその周囲に、段ボール箱と収納中と思われる衣類を散乱させて身を(かが)めている。その手に握られているのは間違いなく僕が先程まで身に付けていた下着だった。

 由良の身体は、呼吸で僅かに上下していた。

「由良──」

 声を掛けても、こちらに気付く気配はない。僕が屈んで床をノックするように強く叩くと、由良は驚いて振り向き短い悲鳴を上げた。

 時間が止まったようだった。

 徐々に潤んでいく彼女の瞳が、(かろ)うじて時の流れを教えてくれる。

 

「由良、何してるの」

「ちっ、違うの──」

「何が違うの?」

 由良は涙を(たた)えながらゆっくりと首を振っている。僕が追い討ちを掛けるように首を(かし)げてみせると、彼女は床を蹴り凄まじい速度で僕の胸に飛び込んで来た。その身の(こな)しは深海棲艦の懐に潜り込む時のそれに酷似していた。

 片手には──下着を保持したままだ。

 

「ち、近いって」

「違うの提督さん由良はちゃんと片付けてたんですよ? でも途中で箱に入りきらないかもって思って全部畳み直してたの。そしたら提督さんがさっきまで履いてたパンツってどういう匂いがするんだろうって急に気になっちゃって──」

「気に、なっちゃった」

「そ、そうなのちょっと気になっちゃっただけなの。実際嗅いでみたら結構癖になるかもっていうか──いや、あの、それは違うんだけどそういう意味じゃなくて人の温かみってあるでしょう? だ、だから別におかしいことじゃないよね。提督さんだったら解ってくれるでしょ? ね、ね? ねっ?」

「あ、圧が凄いよ落ち着いてよッ」

 

 わなわなと震える由良の瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。

 

「提督さん、由良は──変態さんじゃないよね、ね?」

「それは──判らないけど」

 取り敢えず下着は離すといい。

「ねえ言って? 由良は変態さんじゃないって言って?」

「由良は変態さんじゃない」

「心が込もってないです! ただの復唱じゃないッ」

「こんな科白(セリフ)に心は込もらないッ」

 どんな名優だって無理だと思う。

 

 由良は僕の胸から手を離して後退(あとじさ)り、やがて床に膝を()き顔を覆って喚いた。

「もうやだ提督さんに嫌われたッ。折角(せっかく)護衛艦の当番回って来たのに、折角提督さんのお部屋で二人きりになれたのに、提督さんに嫌われちゃったッ」

 へたり込む由良から嗚咽のような声が漏れ出して来る。何だか僕が悪者のようで納得がいかないのだが、もやもやとした罪悪感に苛まれているのは事実だ。

 このような事態の対処方法は僕の引き出しにない。

 動揺を隠しつつ屈んで目線を合わせ、震える肩に手を置いた。

「お、落ち着きなって。こんなことくらいで嫌いになる訳ないでしょ。()()えずパンツは離そうか」

「嘘ッ。こんな女の子居ないもん。男の人のパンツの匂い嗅いで時間を忘れちゃうのはまだしも、ばっちり見つかっちゃう女の子なんて居ないもん!」

 

 まだしも、とは何だ。

 

「いや、あの、それは確かに余り居ないかもしれないんだけど、何て言うのかな──ちょっと嬉しかった部分もあるよ?」

「そんな慰めなんて要らないです」

「本当だって。自分の匂いを良い匂いだって思ってもらえたってことでしょ。それはある意味嬉しいことではあるじゃない。ほら、僕も同じ状況だったら、由良の下着の匂いとか嗅いでたかもしれないし──」

 それは混じりっ気なしの犯罪である。

 自分でも大分おかしなことを言っている自覚はあったのだが、その言葉を聞いた由良の反応は意外なものだった。

「──本当?」

「えっ」

 すっと顔を上げた彼女は、泣いていなかった。

「今言ったことって、本当?」

「な、何が?」

「由良の下着の匂い、嗅いじゃうかもって」

「ああいや、まあ、ううん──まあ、そ、そうね。そりゃ実際はそんなことしないけど、可能性の話だからさ。勿論その、僕だって由良の匂いが嫌いな訳じゃないというか、落ち着くというか──言い方は難しいんだけど、嫌な気は全然しない訳でさ」

「じゃあ提督さんも嗅いで?」

「へっ」

 

 由良の目は真剣そのものだった。

 風呂上りの背中を冷や汗が伝う。

 

「由良のパンツの匂い──提督さんも嗅いで?」

「ちょ、ちょっと待って。そうなると話はおかしくなると思うんだけど」

「全然おかしくない。提督さんも嗅いで一緒になろう?」

「一緒って何」

 由良が迫って来て互いの距離が縮まった。

「一緒に変態さんになろうって言ってるんです。提督さんが由良のこと嫌いになってないなら、由良のパンツの匂い嗅いで私と同じ変態さんになって? このままだと今までみたいに提督さんとお話し出来ない。提督さんの隣を歩けない。でも、もし提督さんが由良と同じ変態さんになってくれるなら、また立ち直れるかもしれないから──お願いッ」

 

 どういう理屈なんだ、それは。

 

「い、いやあ、幾ら由良のお願いとは言えそれは(まず)いんじゃない? 女の子の下着でしょ。ちょっと気が引けるなあ」

 あはは、と僕は多分顔を引き()らせながら笑っている。

 大体それは僕が変態になることによって彼女が相対的に変態ではなくなるというだけで、この家を出て世間とご対面をした途端に二人共々「変態」の烙印を押されてしまうことに変わりはないのである。

 更に言うなら、彼女は自らの行為を改めず共犯を増やそうとしているとも言える訳で──。

 思ったより悪質かもしれない。

「提督さん、嗅いでくれないの?」

「うん、それはちょっとね──」

 由良はふうと息を吐く。

 

 先程よりも落ち着いたその態度に納得してくれたのかと安堵しかけたのだが、次に彼女の口から放たれた言葉は、僕の予想の遥か上空を颯爽(さっそう)と駆け抜けて行った。

「じゃあ由良沈みます」

「えっ」

「色々言って結局私の匂いを嗅ぐのは嫌だってことですよね。由良のこと、嫌いってことですよね。提督さんに嫌われちゃったら──生きてる意味がないもの」

「ちょっと待って」

「お世話になりました」

「ちょ、ちょっと待ってって解った嗅ぐからッ」

 膝立ちの姿勢で止まった由良はゆっくりと振り返った。

「──本当に?」

「うん、本当に。でも、出来たら下着はちょっと──」

 由良は僕に責めるような視線を送りつつ、

「じゃあカーディガンでいいです」

 と言って立ち上がり、バッグを開いてベージュのカーディガンを取り出した。

 こちらに戻って来るなり、僕を見下ろして言い放つ。

 

「はい提督さん。由良の匂い、嗅いで?」

「え、えぇ──」

「艦娘に二言はありません。嗅いでくれないなら私──」

「わ、解ったって!」

 僕は大きく溜息を吐いてカーディガンを手に取った。

 これじゃいつもと変わらない。提督だ司令官だと持ち上げられながらも、最終的には彼女達の言いなりである。僕はもっとしっかりしなければいけないのだろうが、しっかりしたところでこの関係性が変化することはあるのだろうか。

 そんなことを考えながらカーディガンに顔を近付けると、次第に由良の匂いが身体の内側に侵入して来る。この異様な状況と彼女の匂いが混ざり合って僕の頭はくらくらと揺らいだ。

 

「提督さん、もっと顔を押し付けてッ」

「あぁもう煩瑣(うるさ)いなッ」

 僕は自棄(やけ)(くそ)になって由良のカーディガンに思いきり顔を(うず)めた。

 彼女の香りが全身に染み渡っていくような気がして、最早(もはや)軽い酩酊状態である。

 ああ──確かにこれは癖になるかもしれない。

 そんな、バカなことを思ったその時だった。

 

 

 カシャリ──と。

 そう、何かが鳴った。

 

 

 恐る恐る顔を上げる。

 そこには、スマホのカメラをこちらに向けている由良の姿があった。

「──ゆ、由良。今、何をした?」

 彼女は答えない。

「何をしたと聞いてるんだッ。答えろッ」

「──記念です」

「駄目だ。それはすぐに消すんだ」

 そう言って立ち上がろうとすると、由良は一歩退いて僕を目で牽制した。

「提督さん、それ以上は近付かないで。言うこと聞いてくれないとこの写真──」

 

 軽巡のグループチャットに流します──。

 

 その目に並々ならぬ決意を(たぎ)らせて、無駄に凛々(りり)しく彼女はそう宣言した。

「じ、自分が何を言ってるのか解ってるんだろうな」

「解ってます」

「そんな写真ばら撒いて軽巡内で収まると思うか? すぐに鎮守府全体に広まるぞ」

 そうなったら僕はどうなる?

「由良だってそんなことしたくない。だから提督さんお願い。由良の言うことを聞いて、ね?」

「──き、聞ける訳がないよなッ」

 僕は彼女から悪魔のデバイスを奪い取る為に襲い掛かった。

「きゃっ。提督さん、や、やめてよッ」

 

 取っ組み合う僕等は(さなが)ら刃物を奪い合う暴漢と警察官のようだったが、僕もここで手を緩める訳にはいかない。正直生命に関わる問題だし、仮に一命を取り留めたとしても、いつ果てるともしれない地獄の査問委員会が僕を待っている。

 

「あ、諦めろって」

「提督さんこそ諦めてくださいッ。提督さんはもう──由良の言いなりなんだからッ」

 スマホを取り合うことに夢中になっていると、二人の身体が危険な域を超えて密着していることに、多分お互い同時に気が付いた。

 至近距離で視線が重なる。

 緊張の糸が緩み一瞬弛緩した彼女の手から、スマホが零れ落ちた。

 僕と由良は反応速度の限界を絞り出してスマホに飛び込んだ。

 手にしたのは──ほぼ同時だった。

 ここからまた戦いが始まると思いきや、

 

「あっ!」

 

 と由良が声を上げて手の力を抜いた。

 彼女の急な戦意喪失に肩透かしを喰らった気分になって、やがて不安になる。

「な、何。どうしたのさ」

「──送信、されちゃってる」

「へっ」

「押しちゃったみたい──」

 スマホの画面に視線を移すと、正座してカーディガンに顔を埋める僕の犯行写真が、チャットのタイムラインに流れているのが見えた。

 程なくして。

 

 

 ──は?

   何これ。

   ねえちょっとこれどういうこと?

   由良いま何処にいるの?

   スキャンダルには関わりたくなーい。

   主砲とってくる。

   これも提督日誌に書かなきゃダメなのかなぁ。

   いいねぇ、しびれるねぇ。

 

 

 等々の書き込みが表示されて、僕の画像は画面の上方へ押し上げられていった。

 やがて僕のスマホが通知音と共に震えだす。

 恐る恐る画面を見ると、新しいメッセージのお知らせが次々と絶え間なく押し寄せていた。

 僕にはその光景が何処か現実感を失っているように思えて、鳴り止まない通知音と止まらない振動を他人事のように感じていた。

「ねえ由良。バズった時って──こんな感じなのかな」

 由良はううんと(しばら)く考え込んでから、

「というか、炎上かな?」

 と言って、困ったように笑った。

 

 

            ※

 

 

 布団の中で僕はただ暗闇を見つめている。

 テレビやオーディオ等の電子機器は全て片付けてしまったから、待機状態を示す(ほの)かな明かりすらない。ここまで瞭然(はっきり)とした暗闇は新鮮だ。

 それでも、目は瞑らない。

 眠れないことが判りきっているからだ。

 僕の背後では由良が寝ている。

 同じ布団だ。

 

 ぎりぎりまで端に寄り彼女に背を向けたところで、近いものは近いし気になるものは気になる。

 正直、何となく予想は出来ていた。

 布団は由良に譲って僕はタオルに(くる)まって寝るからと言っても、あれこれ理由を付けられて引き摺り込まれるのだろうなと思ってはいたのだ。

 見事にそうなった。

 明日の朝──というか日付は変わって今日の朝なのだけれど、龍驤が軽トラをレンタルして迎えに来てくれる予定だから、その車中で短時間でも睡眠をとることが出来れば良いだろう。

 

 だから眠れないことは大した問題ではない。

 どちらかと言うと、体勢を入れ替えられないことの方が辛い。

 

 もう何十分になるか判らないが背後からは静かな寝息しか聴こえて来ない。この状態で僕が動くと、由良を起こしてしまう可能性が高いだろう。

 体重を支える右腕が少し痛い。痺れているような気がする。

 彼女を起こさないよう動くにはどうしたら良いだろうか。

 そんなことを考えていた、その時──。

「提督さん、ごめんね」

 と由良の声がした。

「ん──起きてたんだ。ごめんねって、何が?」

「変な画像、皆に送っちゃったこと」

「ああ、そのことはもういいよ。全然気にしてないから」

「でも提督さん、明日艦隊の皆に怒られちゃうかも──」

 

 由良が誤って画像を送信したあの後、僕はその対応に約四時間半を費やした。果てのない通知と着信を繰り返し、テキストと通話で釈明に釈明を重ねた挙句(あげく)、僕の容疑は晴れないままにバッテリーが根を上げて事態は強制的に沈静化した。

 由良が充電器を持っていたから充電しようと思えば出来たのだけれど、そんなことをする程僕は愚かではない。普段使用するスマホとは別に緊急連絡用の端末も持っているから、そちらが生きていれば何も問題はない。

 

「それは──慣れたから大丈夫だって」

「慣れた?」

「うん。多分、由良の言う通り僕は明日大淀や五航戦の二人にこっ酷く叱られるんだろうさ。でもね、それも別に嫌なことじゃないって気付いちゃったの。勿論、気が重いことは重いんだけどさ、何ていうか──妙な安心感があるっていうか、帰って来たなあっていうか、そんな感じ。解り辛いだろうけど」

「ううんと──それは提督さんの性癖の話?」

「性癖の話ではないね」

 そう信じたい。

 背後で由良がもそもそと動く気配がした。

 多分、彼女はこちらを向いた。

「──提督さん、こっち向いて」

「背中向けててもはらはらしてるんだよ。そんなことしちゃったら──」

「いいから、ね?」

 

 僕は右腕が限界に近付いていたこともあって、素直に従って由良の方を向いた。

 由良の表情は見えない。しかし、すぐそこに彼女が居るということを僕は(あら)ゆる感覚器官を通じて認識していた。

 彼女の手が、すう、と僕の頬を撫でた。

 

「提督さん、淋しい?」

「──いや、そんなことはないよ。だって由良がこんな近くに居るんだから」

 由良はふふっと笑って、枕の上で首を振る。

「ううん、違うの。ここは提督さんが何年も住んだお家でしょ? なくなっちゃうのは、やっぱり淋しいことなのかなって」

「まあ──確かに思い入れがない訳じゃないけど最近はずっと鎮守府に(こも)りきりだったしさ、この家での思い出なんて吹っ飛んじゃうくらい濃密な日々だったから」

 鎮守府での生活は強烈だよと、僕は諦めるように呟いた。

「本当に淋しくないの?」

「それ程、かな。そんなに気になる?」

「由良ね──嬉しいの」

 

 嬉しい。

 

 そう言って彼女は、僕の胸に額を預けた。

「提督さんと(おか)の繋がりが薄れていくのが(たま)らなく嬉しいの。このお家がなくなるってことは、提督さんの居場所が一つなくなるってことでしょう? そしたら、提督さんは益々(ますます)由良達から離れられなくなる。由良達が提督さんを独占出来る。でもそれは──」

 提督さんにとっては淋しいことなのかなって。

「──変、だよね。ちょっと驚いちゃったかな?」

「多少ね。でも、皆が病的で少し歪んでるのは今に始まったことじゃないからさ。仕方ないかなあって感じ」

「ふうん。提督さん、成長したね」

「駄目になったって言うんだよ。それは」

 胸に伝わる(かす)かな振動で由良が笑ったのが判った。そんな彼女が愛おしくなって頭を撫でると、由良は吐息を漏らしながら猫のように頬を擦り付ける。

「提督さん、私達って──どんな関係なのかな?」

「どんな関係って、そりゃあ上官と部下──だよ」

「全然上官って感じしない」

「それは言わない約束なの」

 威厳という言葉とは無縁の人生である。

「ううん違う。由良が言いたいのはそういうことじゃなくて、提督さんと由良は友達? それとも──」

 

 ──恋人?

 

 僕はその問いに酷く動揺した。

 何故なら、同じ布団で横になり抱き合うこの様は恋人以外の何物でもないからだ。

「ど、どどどうなんだろうねえ。それだったら恋人っていうか、どちらかと言うと友達じゃない?」

「友達ってこんなことする?」

「す、するんじゃない? 今時の若人達は──って痛てて」

 雑な返答は許さないとでも言うように、由良は僕の皮膚を(つね)った。

 暗闇で見えないが、彼女は多分僕を見上げている。

 

「──悪かったよ。でもさ、僕等は恋人っていうより家族って感じがしない? 恋人よりも落ち着いた雰囲気というか」

「それじゃ由良と提督さんは夫婦っていうこと?」

「僕ちょっと眠くなって来たかも」

「逃げないで」

 

 胸を軽く叩かれる。

 事実婚だとか内縁の妻だとか、そういった類いの言葉が脳裏を(よぎ)って眩暈(めまい)がした。

「何か言葉にするのは無理があるような気がするよ。そういう面もあるかもしれないけどさ、時には友達だったり、兄妹だったり、その──恋人だったりする訳でしょ。言葉にするってことは対外的に説明しないといけないからであってね、その意味ではやっぱり上官と部下でいいんだよ」

 僕等の接する社会は国防省くらいだ。

「私達だって言葉で確認したい時はあるんですけど。でも提督さん、すぐにはぐらかすんだもの」

「べ、別にはぐらかしてる訳じゃないけどさ。何でもいいじゃない、そんなの」

「何でもいいんだったら──夫婦がいいです」

 

 そう言って由良は僕の寝巻きをくっと掴んだ。

 その感触は僕に「逃げないで」と改めて訴えかけている。

 大きく、息を吐いた。

「──その、言い辛いんだけど、結婚は出来ないと思う」

「どうして?」

「国防省が認めてくれないよ。皆の身分証は国防省が偽造したものだってことは知ってるだろ? そんなのが公になったら大臣の首が飛ぶどころの騒ぎじゃないからさ。襤褸(ぼろ)が出るような軽挙妄動は慎めって怒られるに決まってるし、今より監視だってキツくなると思う。そんな事態になって今の僕等に良いことなんて一つもないだろ。それに──」

 

 誰か一人なんて選べないよ──と、僕は弱々しい声で言った。

 

 国防省云々(うんぬん)など全て建前である。

 これが──この情けない理由こそが、僕の偽らざる本音だった。

 それを聞いた由良は笑う。

「ちょっと、笑わないでよ。情けないのは自分が一番解ってるんだからさ」

「違う違う。別に私達は国やお役所に認められたいって思ってる訳じゃない。提督さんが認めてくれればそれでいいの」

「僕が? な、何を?」

「私達が──」

 

 

 ──提督さんのお嫁さんだってこと。

 

 

「よ、嫁──」

「お返事は今じゃなくて結構です。提督さん、こういうことになると途端に駄目になるって、由良達ちゃんと知ってるから」

「そ、そう」

 完全に制御(コントロール)されている。

 尻に敷かれるとはこのような状態のことを言うに違いない。

 ──結婚も何もそれ以前に。

 何とも面映(おもはゆ)いような、名状し難い感情に苛まれる。

 彼女達との関係を明瞭(はっきり)させることなんて考えたこともなかった。今のままで十分だと思っていたし、これからもそれで良いと思っていた。

 

 でもそれは、僕の()(まま)なのかもしれない。

 僕は彼女達と、どういう関係でいたいのだろう。

 考えなくちゃいけないなと、今更そんな結論に至っている。

「でもさ、僕が認めるだけって。それは結婚って言うんだろうか」

「ううん──そうだなぁ。言うなればそう──」

 

 ケッコンカッコカリ──みたいな。

 

「あはは、何それ」

 僕は笑った。

 そして、由良も笑った。

 由良は笑いながら僕の首筋に軽くキスをする。

 ──何だっていいから。

「責任とってね」

 そう言って、彼女は僕に抱き付いた。

 

 

            ※

 

 

 朝。

 歯を磨き終えて口を(ゆす)いでいるところに、インターフォンが鳴った。

 タオルで口許を拭いて玄関へと向かう。

 結局昨夜は殆ど眠ることが出来なかったのだが、余り眠気は感じない。カーテンを取り外した室内は()(たら)清々(すがすが)しくて、朝の陽射しに照らされるその様はまるで新居のようだった。

 ドアを開けると、そこには龍驤が立っていた。

 龍驤はサンバイザーの(つば)をくいと持ち上げて胸を張る。

 

「お早うさん。何やキミ、その顔は」

「お早う。何、そんなに酷い顔してる? あんまり眠れてないからかな」

「全く。睡眠はしっかりとらなあかんで。健康管理も仕事のうちなんやから」

「解ってるよ。んじゃ、早速荷物を積んでいこうかね」

「あ、司令官はやらんでええよ」

「──何で」

 そう問うと龍驤は指で左側を差した。開いたドアでそちら側は死角になっていたから、僕は靴を履いて外に出る。

 龍驤の指の先──彼女が乗って来たであろう軽トラの後方に停まっていたのは、一台のワーゲンだった。

 

 ──それは大淀の車だ。

 

 僕は何故か「早っ」と口走る。

 帰ったら怒られるのだろうという予測も情けないのだが、その予測を上回るタイミングの早さでこれから実際に怒られる、という事実が何より情けない。

 お説教は鎮守府に着いてからという考えは甘かったようだ。

 龍驤は口許を手で隠して小声で言う。

「大淀、めっちゃ怒っとるで」

「嘘でしょ」

「ほんまほんま。ここに来る途中ずっと煽られてたんやから」

「嘘でしょ?」

「ほんまやって。信号待ちでずっと吹かしてたし──」

「──本当に?」

「嘘や。そんなんただのチンピラやないか」

 そう言って龍驤はにひひと笑った。

 

「しっかしキミはほんまに学習せぇへんな。あんなことしてタダで済む訳ないやん」

「あれは由良にハメられたの。何か僕が率先してやったみたいになってるんだけどさ──」

「弁解は向こうでしぃな。んじゃ、荷物はウチらでやっとくからぁ」

 僕の背中をポンと叩いて、龍驤は室内に上がって行った。

 

 麗かな陽光に照らされて、僕は一人どんよりと立ち尽くす。

 ワーゲンのフロントガラスは光を絶妙に反射して、ドライバーの表情を巧みに隠している。顔から下の姿で「彼女」であることは明白なのだけれど、そんな恐怖を煽る演出と微動だにしない彼女の様子も相まって、僕の両足は鉄球の(かせ)を装着されたかのように重くその場を動こうとはしなかった。

 それでも、立ち尽くしているこの時間が長くなれば長くなる程「彼女」の怒りは増大するような気がしたので、何とか気力を振り絞り、僕はとぼとぼと歩き出した。

 助手席のドアに手を掛けて静かに開ける。

 運転席に座っていたのは案の定大淀だった。普段と何ら変わりないその可憐(かれん)な雰囲気がより恐怖感を増幅させる。

 出来るだけ自然体を装ってワーゲンに乗り込もうとしたが、フレームに頭をぶつけてその作戦は()えなく幕を閉じた。この状況でも、何かありました? と言えるような図太さが欲しい。

 

「お早うございます。頭、大丈夫ですか?」

「それはどっちの意味だろう。取り敢えずお早う」

 むふぅと息を吐いて前方を見つめる。

 軽トラの後姿など見つめても仕方がない。しかし他に良い視点が見つからない。視線は合わせてもいけないし逸らしてもいけない。

 沈黙が続いた。

 横目でちらちらと大淀の様子を窺う。先に静寂に耐えられなくなったのは僕だった。

 

「いい天気、だよね」

「そうですね」

「気温もちょうど良い感じ、でさ」

「そうですね」

「ち、鎮守府の様子はどう? 何か変わったことあった?」

 聞くまでもない。

「んー、あ、そう言えば、名取さんの艤装の改修無事に終わりましたよ。早速昨日の夕方から公試も始まりまして、今のところ順調みたいです」

「そ、そうなんだ。それは何より」

 本当に何より。

 

 会話が途切れて再び車内に沈黙が訪れる。

 白目を()きたくなるくらいの重圧(プレッシャー)が僕を襲った。

 生殺し、という単語が脳内を反響している。

 もう無理だ。

 

「お、大淀?」

「はい?」

「ごめんなさいッ」

 空間の広さに見合わない声量と共に僕は頭を下げた。

 精神の限界である。

「──何のことです?」

「昨日のことですッ」

「昨日──」

「はい! 由良の服の匂いを嗅ぐという変態的な行為に及んでしまい、その上その場面を写真に撮られて鎮守府中にばら撒かれてしまいました。(すべ)て私の不徳の致すところです。申し訳ございません!」

「──ああ、ありましたね、そんなことも。別に怒ってないですけど」

「怒ってくださいッ」

「何ですかそれ。性癖ですか?」

「性癖ではないと思いますッ」

 

 下げたままの後頭部をいつ衝撃が襲っても良いように力み続けていたのだが、遂にそんな体罰の瞬間が訪れることはなかった。代わりに大淀の溜息が聴こえた。

 

「全くもう。私そんなに怖いですか? (むし)ろそう思われていたことに怒りたいくらいですし、大体提督ともあろう御方がそんな簡単に頭を下げるべきではないですよ」

「許して──頂けるんですか」

「敬語もやめてください。そろそろ本気で怒ります」

「うん、やめる。ごめん」

 別に巫山戯(ふざけ)ていた訳ではないが、大淀の目が一瞬鋭くなったのを僕は見逃さなかった。

「私だってもう長いんですから、どういう経緯でそうなったのか大体解りますよ」

 由良でしょう? と首を傾げて大淀は言った。

「あの子もああ見えて大胆なところありますから、由良に押し切られて提督も流されてしまったとか、そんなところではないですか?」

「う、うん。そんなところ──。えっ、ほ、本当に怒ってないの?」

「本当ですよ。確かに私も今まで怒り過ぎていた部分もあるかもしれないですけど、提督はもう私達から離れられませんもの。そうでしょう?」

 そう言って大淀は得意げに微笑む。

 

「今までとは余裕が違うんです。さっ、提督、出発しますよ」

「え、もう出るの。荷物の積み込み──というか私物も部屋に置いたままなんだけど」

 靴下も履いていないのだけれど。

「昨日お休みを取ったおかげで提督の仕事は山積みです。後のことは由良と龍驤さんに任せて、さっさと鎮守府に帰りますよ」

「えっ、あっ、本当に?」

 僕は慌ててシートベルトを締める。

 大淀はエンジンを掛けた後、アパートを一瞥(いちべつ)して言った。

 

「これで──提督のお家は鎮守府だけになってしまいましたね」

 

 何故だか機嫌の良さそうな大淀に違和感を覚える。

 そのうち、ある仮説が僕の頭に浮かび上がった。

「あのさ、大家さんに土地の売却を勧めたのって──大淀じゃないよね」

 彼女は答えずに、意味深な微笑を浮かべて僕をちらと見た。

 

 車がゆっくりと動き出す。

 僕は嘘でしょと呟きながらも笑ってしまう。

 軽トラの脇では、由良と龍驤が手を振っていた。

 

 木造アパートは周囲の景色と共に──急速に後退していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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