Perspective   作:広田シヘイ

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第八話『天才少女は風に乗る』

 

 

 

 

 

 夕暮れの岸壁を、少し秋めいた風が吹き抜けていった。

 身体を震わせる程冷たくはないが、色付いた樹々や澄んだ青空を予感させるような──そんな風だった。

 風下に目を移すと艤装工事がほぼ完了した艦娘母艦『あきつしま』の姿が見える。夕陽を鈍く反射するその巨大な船体は、勇壮でありながらも何処となく寂しげである。僕がそういう心境だから、そう見えてしまうのだろうけど。

 

 時の流れは早い。竣工間近だ。

 

 海上公試の期間を大幅に短縮して、すぐに実戦配備される予定である。僕等が(おか)にいる時間もそれ程長くはないということだ。

 しかし。

 正直に言って、実感が湧かない。

 現在執務の大半をハワイ攻略作戦の策定とあきつしま艦内での人員配置や警備体制の検討に費やしているにも(かかわ)らず、海で生きるということが──感覚として解らない。解った振りをするよりもマシだと自らに言い聞かせながらも、指揮官として最低限理解していなければならないことがあるのは確かだろう。

 

 ──指揮官失格だ。

 

 何度目か判らない自己嫌悪を引き摺りながら時計に目を落とす。かれこれ二十分以上は待たされている気分だったが、時計の針は十分も進んでいなかった。時の流れは早いのか遅いのか判らない。

 僕は今、ある艦娘の帰りを待っている。

 あまり遅くなると秘書艦の鉄拳制裁が僕を襲うことになるからそれ程時間的な余裕はないのだが、どれくらい遠くに行くのか確認を取らなかったのは僕の落ち度だ。殴られても、もしくは爆撃されても文句は言えない。いや──言えるのかもしれない。言えるのかもしれないが、鎮守府の生活に染まりきってしまった僕には正直判断不能である。

 もし数分経っても帰らなかったら一度執務室に戻ろうと、そう決めた矢先だった。

 彼方から(かす)かにエンジンの音が聴こえてくる。

 やっとか、と呟いて音のする方向を見た。

 

 一台のバイクが鎮守府の敷地内から現れて、スロープを下りてこちらに向かって来る。単気筒(シングル)特有のドコドコという音を鳴り響かせながら、そのバイクは僕の目の前で止まった。バイクに(またが)っている少女は二回シフトダウンをしてからエンジンを切った。

「新車の感触はどう?」

 と僕が聞くと、

「良いねえ、痺れるねえ!」

 と、重雷装巡洋艦北上(きたかみ)が──弾けるような笑顔でそう答えた。

 

 

 僕が北上のバイクを廃車にしたのは──いや、こう言うと語弊がある。廃車にしたのは翔鶴の航空隊であって僕ではない。その時偶々(たまたま)僕が乗っていたというだけだ。提督拘束委員会の魔の手から愚かにも逃げ出そうとしていた時のことである。

 まあ、だからと言って僕が廃車の責任を免れるとも思っていないし、そのことについては納得しているから別に良いのだけれど。

 弁償──ということになるのだろう。

 このバイクを購入したのは僕だ。つい先程納車されたばかりである。

 バイクを壊してしまったことについて、北上は気にしなくて良いと言っていたのだが、それでは僕の気持ちが収まらなかった。罪悪感は(つの)るばかりだし、彼女がそう言ったのは自分達が陸に居る時間も少ないと解っていたからに違いない。

 

 ──バイクがあっても乗る時間がないから。

 

 そんな理由で諦めてしまうのは、幾ら何でも寂し過ぎるだろう。であるなら尚更、陸に居る時間を満喫すべきではないのかと──そう思った。

 どうやらこんな押し付けがましいお節介な僕の行動を、北上は喜んでくれているようだ。それが何より嬉しい。新しいバイクは廃車になった前の物よりも少し排気量が大きいのだが、特段深い意味はない。原付とは違って車に付いて行くのも楽だろうと思っただけだ。値段もそれ程変わらなかったし。

 

 

 北上はサイドスタンドを慎重に立てて、よっ、と言いながらバイクを降りた。

「いやあ前の子よりもパワフルで楽しいねー。高かったでしょ?」

「まあね。貯金は全部なくなっちゃったけど、そんなことは北上が気にしなくてもいいの。一応弁償なんだからさ」

「ううん。提督ってそういうとこあるよねえ」

 北上はバイクのシートを撫でつつそう言った。確かに思い付きで極端な行動を()ってしまうことがままある。そういった自覚があるだけに、僕は僅かに苦笑してしまう。

「ねえ提督。この子、持ってっていい?」

「持ってくって何処に──えっ、まさかハワイに?」

 北上は首肯(うなず)いた。

 

 通常、軍の艦艇に余分なスペースなどないのだが『あきつしま』は元々輸送艦として建造されていた経緯もあって、人員や物資の搭載能力は他の艦の比ではない。原付二種のバイク一台が増えたところで何の問題もないことは確かだった。

「ううん、北上にお願いされちゃったらなあ。ま、()()えず前向きに検討してみるよ。問題があるとすれば大淀をどう説得するかってことだけだしね」

「あはは。それは提督に頑張ってもらわないとね。でも、ありがとねっ」

 無垢な笑顔で北上は言う。

 そんな笑顔を見ていると、困難を極めるであろう秘書艦の説得も瑣末(さまつ)なことに思えてくるし(北上さんを贔屓(ひいき)するんですねと迫る彼女達が容易に想像出来る)、陸を離れることに対して幾分感傷的になり過ぎている僕にとって、それはある意味で斬新な解決方法だった。

 

 持って行ってしまえば良いのだ。

 バイクも、思い出も、すべて。

 何も置いてくる必要はない。

 

 やがて北上はバイクを撫でていた手を止めて、車体をセンタースタンドで立て直す。自身はリアキャリアの上にちょこんと座って、前のシートをぽんぽんと叩いた。

「提督、座ってよ」

「いいの?」

勿論(もちろん)。座って、ちょっとお話しよ?」

 僕は(おもむろ)にシートに腰掛けた。僕が前で北上が後ろだ。お互いバイクに対して横向きに座っているから、ちょうど二人で海を見ている格好になった。それ程大きなバイクではないから、北上との距離が近い。

 彼女は半帽のヘルメットを脱いで、お腹で抱えるように持っている。

「何かさー、こんなにいいバイク買ってもらっちゃって悪い気がするんだよー。提督、何かお返しさせて? あ、エッチなのはダメだよ?」

「そんなお願いはしないよッ」

「あはは、本当かねえ。ま、それは冗談として──本当に何かない?」

「別に何も要らないって」

「私だってそういうことは気になるんですよー」

 そう言って北上は肩を寄せた。

 

 上目遣いでこちらを見る北上の視線に照れてしまって、僕は頰を掻きながら顔を背ける。確かに北上の言うことも解らないでもない。バイクを廃車にしたことについて僕が罪悪感を抱いていたのと同じように、北上も何処か背徳(うしろめた)い気持ちを抱えてしまっているのかもしれない。気にするなと言われても、気になるものはなるだろう。

 

 遠慮は──するべきではないか。

 

「まあそう言ってくれるならねえ。何が良いかなあ」

 凪いでいる海を見つめて思案していると、ふと、ある艦娘の顔が頭に浮かんだ。

「あ、木曾(きそ)──」

「木曾?」

「うん。木曾のこと──頼みたいかも」

 

 木曾は球磨(くま)型軽巡洋艦の五番艦で、同じく球磨型三番艦の北上の妹に当たる。先立って重雷装巡洋艦──通称雷巡に改装された北上、大井(おおい)に続いて、木曾もこの間雷巡への改装を完了した。

 しかし。

 先に改装した二人に比べて、木曾は新しい艤装に戸惑っているように思えた。水上航行、砲撃、雷撃、対潜対空など、各訓練の得点(スコア)は改装前と比較して軒並み低下している。僕の前では「心配要らねえよ」と気丈に振る舞ってはいるが、時折ふとした瞬間に──彼女らしくない陰鬱な影がその目に宿ることを僕は見逃してはいなかった。

 

「何か良い助言(アドバイス)でも出来ればいいんだけどさ、僕は艦娘じゃないし、(まし)てや艤装を装備して海を走ったことすらないからね。まあ慣れの問題なんだろうけど、それ程時間もある訳じゃないしさ」

 最悪の場合、木曾は軽巡に改装し直して任務に()いてもらうかもしれない。

 実戦はすぐ目の前に迫っている。

「ううん。私も見てたけどさー」

「何が問題なの?」

 何て言えば良いかねえ、と言って北上は空を見上げた。

「提督ってさ、学生の時スポーツとかやってた?」

「いや別に──。ああ、小学生の時だったら野球チームに入ってたけど」

 六年生が九人しか居なかったから自動的にスタメンではあったが、実力的には補欠だったと思う。

「その時さ、監督やコーチにこうして打てって言われてその通りやってみて──実際にヒット打てた?」

「そんな上手くはいかないよね」

「でしょ? 木曾もそれと同じだよ」

「──同じ、なのかな」

「同じだって」

 微妙に得心が行かない僕の表情を一瞥(いちべつ)して、北上は微笑んだ。

 

「──自分で掴まないといけないことって多分あるんだよ。木曾のことは勿論私も気にしてるよ。妹だからね。でも、私がとやかく言ったところで木曾の為にはならないし、苦労する時間って絶対必要だからさ。確かに見てて可哀想に思ったり、手助けしてあげたくなる気持ちも解るんだけど」

「で、でも個人の感覚までは教えられないとしても、最低限のことっていうか──何かしら伝えられることってあると思うんだけど」

「あの子がその段階で悩んでる訳じゃないからねえ。海の走り方とか、主砲や魚雷の撃ち方が解らないって訳じゃないでしょ。その先のこと──例えば、私が雷巡の艤装で掴んだコツとか艦隊の中での動き方、振る舞い方って言うのかな──まあ、そういうものは言葉にして伝えられることじゃないんだよね。こう言って良ければ、それは全く関係のない話だよ」

「──そ、そうかもしれないけど」

「提督は心配性だねえ」

 大丈夫だって、と彼女は言った。

 

 北上の言うことは解る。僕も鎮守府に着任してからというもの、言葉は如何(いか)に伝わらないかという事実を痛感する毎日だ。軍の無線通信では何故あれ程形式張った喋り方をするのか、何故難解な専門用語を多用するのか──その意味が、今なら少し理解出来る。

 それは、解釈に幅があったらいけないからだ。

 ちょっと待ってと言っても、その「ちょっと」が具体的に何秒もしくは何分なのかが重要なのである。話し手の主観的言語運用と聞き手の恣意的言語解釈が生む擦れ違いは僕等が日々経験していることだけれど、日常生活の一場面ならまだしも、こと軍事作戦に(おい)てその手の齟齬(そご)は決定的な破滅に通じる。

 

 ──意思疎通(コミュニケーション)は成立しない。

 

 僕等は常にそのことを大前提とするべきだし、何ごともそこから出発しなければならない。その意味で、北上と僕はほぼ一致した見解を持っていると言って良い。

 それでも──。

 言いようのないもどかしさが、僕の胸の内で(うごめ)いていた。

 でも。

 それは。

 

「そう思うのは──北上が天才だからじゃない?」

 

 常人とは住む世界が違うから伝わらないのではないか。

 世界を認識する言語が違うから、伝わらないのではないか。

 そんな悪足掻きにも似た感情が心の片隅に残っている。

 北上は「違う違う」と笑いながら手を振った。

 

 北上が幾ら否定したところで彼女が世間一般で言うところの「天才」であることは紛れもない事実である。天才と呼ばれる艦娘は他にも居るが、その中でも北上は別格の存在だ。彼女が居るか居ないかで、その艦隊の打撃力は大きく変わる。

 指揮をする訳ではないし、艦隊の先頭に立って皆を牽引する訳でもない。

 チームプレイが物を言う艦隊行動の中にありながら、スタンドプレイが目立つ異色の存在だが、それでも艦隊の士気や攻撃力に多大な影響を及ぼす不思議な艦娘である。

 長距離雷撃で戦艦を沈め、単装砲で敵艦の急所を正確に狙撃する。巡洋艦としては飛び抜けた水上打撃能力に加えて対潜能力にも秀でている。敵からするとこんな厄介な存在はないと思うが、(ひるがえ)って味方である僕等にしてみればこんなに頼もしい存在はない。

 

 二つ結びの髪の毛が風を受けて揺れている。

 平素の通り──彼女は飄々(ひょうひょう)としていた。

 

「北上も、悩んじゃうことってあるの?」

「勿論あるよ。あるけど、悩んだって仕方ないからねえ。一晩寝たら忘れちゃうかな」

「如何にも天才って感じ。あ、もしかして天才って言われるの嫌だったりする?」

「んー別に。褒められてるんだから素直に嬉しいよ。まあ、ちょっと背中がむず痒い感じもしたりするけど。っていうか、大井っちも私とあまり変わらなくない? 私だけそう言われたりするのは何でなの?」

「大井──ねえ」

 大井も北上に続いて雷巡に改装された艦娘で、彼女の能力も北上と同様にずば抜けている。同じ艦隊に北上と大井が居れば、それは強力などという言葉では済まない。鬼に金棒どころか鬼に機関銃(マシンガン)状態である。全海域の深海棲艦を二人で一掃出来るのではないかと錯覚してしまう程だ。

 確かに、そういう意味では北上と大井に戦力としての明確な差はない。

 

 ただ──。

 

「大井はまた違う種類のような気がするけど」

「どしてさ」

「だって努力の天才っていうか、根性で突き抜けちゃった感じあるでしょ。改装してすぐの頃なんか早朝に訓練始めて、帰って来るの日が沈んでからだったじゃん」

 毎日である。

「上達に大切なのは反復だなんて言うけどさ、あれはちょっと常軌を逸してたよ。声掛けるのも躊躇(ためら)うくらい鬼気迫る感じだったもの」

 世界で一流と呼ばれるアスリートやアーティストも、その身体(フィジカル)技術(テクニック)を支えているのは才能ではなく日々の反復の積み重ねだろう。その意味では大井も同じだ。しかし彼女の場合、その過酷な反復を可能にする「動機」の種類が違う。金や名誉ではないし、世界平和の実現とか深海棲艦への復讐とか、そういった(たぐ)いのものとも少し異なる。

 

 ──北上の隣に居たい。

 

 多分、ただそれだけだ。

 それだけの理由で大井は血の(にじ)むような鍛錬に耐え、実際に北上と比肩するまでになった。確かに動機など何でも良いのかもしれないが、それにしても労苦との釣り合いが取れているとは到底思えない。カレーを食べたいが為に近所のカレー屋を素通りして、インドに直接出向くようなものである。

 ちなみにこの(たと)えが適切かどうかは判らない。多分適切ではない。

 

「大井っちは頑張ってたねえ」

 遠くを見つめて北上は言った。

「あれ、北上にしてみたらどうだったの。自分と対等でありたいが為にあそこまで努力されるって」

「まあ、大井っち頑張ってるなーと思ってたよ。元々無茶するタイプだから怪我とか事故とかは心配だったけど。それに私と対等になるとか、そんなのもあったかもしれないけど──それだけじゃなかったし」

「──他にどういう理由があって?」

 北上は横目で僕をちらと見た。

「鈍感だねえ。大井っちに刺されても知らないよ」

「僕が? 何でさ」

「私も大変だわあ」

「だから。何で」

「まあまあ仕方ないかねえ。今更だしねえ」

 僕の背中を北上がぽんぽんと叩いた。

 何だかよく判らないが、諦められていることだけは解った。

 僕が怪訝(けげん)な顔をしていると、そのうち北上は笑って再び僕の背中を叩く。

「ごめんごめん、提督には難しかったよねえ。いいのいいの。まあ、だからさ、雷巡って難しいんだよ、色々とね」

「だからの意味が解らないけど──まあ、解ったよ」

 

 ──一体何を解ったと言うのだろう。

 

 自らの無責任な言葉が契機(きっかけ)となって僕は緩慢に混乱を始める。そんな僕の変化に気が付いたのか、背中に触れる彼女の手は(なだ)めるような仕草に変わった。

「魚雷ってね、凄い威力だけど誘爆することを考えたら諸刃の剣なんだよ。改装前より被弾に対してより敏感にならないといけないし、そうなると航行の仕方っていうか、段取りも変わってきちゃうんだよね。特に木曾は旋回性能の良くなった足回りにもナーバスになっちゃってるから余計だと思うよ。あの子、ああ見えてピーキーな足回り好きじゃないからさ」

「旋回時の反応が良いってことは安定性に欠けるってことでもある、か。トレードオフなんだよな。何処の世界でもそんなに旨い話はないね」

「そうそう。普段からは想像出来ないけど、実は繊細な女の子の一面も持ってたりするからさ。木曾が苦しんでるのその辺が大きいかなって気がするなー。何から何まで特殊なんだもん、仕方ないよ」

 

 北上の言う通り、特殊な改装であることは間違いない。

 雷巡は六十一センチ四連装魚雷発射管を十基四十門装備し、片舷二十射線の魚雷を斉射可能だ。そんな艦は世界中を見渡しても北上と大井だけだし、その二人は天才的な才能と精神の持ち主である。

 更に木曾にとって不幸なことに、北上大井と木曾は同じ雷巡でも同じ規格の艤装ではない。先の二人を参考に再設計されたその艤装は、やや過剰であった雷装を犠牲にして基本性能や対空性能の向上が図られている。北上の言う「ピーキーな足回り」とは正にこのことを指している。

 そう考えてみれば、確かに参考になる訳がないのだ。

 時間さえあれば──と今更無意味な仮定が頭を巡る。実際に時間は少ないのだから、時間はない、という事実を前提に考えは始まらなければならない。

 はあ、という僕の溜息を微風(そよかぜ)(すく)っていった。

 

「──風に乗るんだよね」

 

 北上が徐に呟いた。

「風?」

「うん。波にどう対応するかってことばかりに目が行きがちなんだけど、実は風の方が影響は大きいと思うんだよね。勿論波に乗るってことも大切なんだけどさー」

 提督に解るかなと続けた後で、まあ解らないかと彼女は笑った。

「弾道の計算ってこともあるけど、天候とか匂いとか──気配とかね。風は色んなこと教えてくれるから。感覚の話でしかないから解り難いだろうけど」

「想像は出来ても、結局想像だもんね。実際にやったことないから、何だか凄くもどかしいよ」

「まあ妹だし、この北上様がちゃんと見てますから。提督は安心しててくださいな」

「──お願いしていいかい?」

「任されましたよーっと。その代わり提督は──私のこと見ておくんだよ」

「北上のこと?」

 そう言って北上の方を向いた僕と彼女の視軸が交わることはなかった。視線を逸らしている北上の頬や首筋が、心なしか赤くなっているような気がする。

 

 場の空気が変化して、僕の心は(ざわ)つき始めた。

 着任以来何度も経験して来たこの雰囲気にも、最後まで慣れることはなかった。

 愚鈍で(のろ)()だから。

 対応策も何も持ち合わせてはいない。

 ただ、おろおろとするだけだ。

 

 軽く挙動不審に(おちい)った僕を気遣ったのか、単に沈黙に耐えられなくなったのかそれは判らないが、北上は横を向いていた身体を正面に向けて、リアキャリアの上を跨ぐように座り直した。

「──もう、いいのいいの。ほら提督、エンジン掛けて」

「ど、どしたの急に」

「ツーリング行こうよ」

「えっ。いやいや、そんな時間ある訳ないじゃない」

「この辺走るだけでいいからさ。ほら早く。提督が運転してよ」

「──ヘルメットは?」

「岸壁だから別にいいんだって。私の小さくて多分入らないでしょ。ささ、提督。前向いてキーを回してみよー」

 北上はぺちぺちと僕の太腿を叩きながらそう言った。

 訳も判らないままに北上の言う通り前を向いて、キーに手を掛けたその時だった。

 

「ちょ、ちょっとあなた何してんのよッ」

 

 聴き覚えのある声だ。

 その声がした方向を振り向くと、そこには艤装を装備した大井と木曾が居た。大井は大股でこちらに歩み寄って来たと思うと、僕の胸倉を掴んでぐらぐらと揺する。

 

「何をしてるのよこの色欲魔ッ。北上さんから離れなさいな」

「と、突然何だよ落ち着けって。ちょっと危ないから揺らさないでよッ」

「この状況を見て落ち着いていられると思うの? あなた──もしかして北上さんを誘拐するつもりじゃないでしょうね。連れ去った先の廃倉庫で一体何をするつもりなのよ!」

「酷い妄想だなッ。こんな濡れ衣着せられたのは初めてだよ!」

 匿う場所まで指定されている。

「つべこべ言わずにいいから早く降りなさい。北上さんが怖がってるじゃない」

「大井っち、私全然怖がってないよ」

「──脅されているのね」

「何でそうなるんだッ。その誘拐って前提から早く離れてくれないか。どんな色眼鏡で世界を見てたらこの状況が誘拐の現場に見えるんだよ!」

 

 大井は眼鏡なんてしてないわよと的外れな言葉を返して、再び僕を揺すり始めた。そうして僕等が無意味で生産性皆無の不毛な争いを続けていると、大井の背後から木曾の呆れたような声が聴こえた。

 

「──何をやってるんだ全く。大井姉、そろそろやめてやれよ。提督の首が折れるぞ」

 折れないよ、多分。

「木曾、あなたまでそんなことを言うの。北上さんがこのまま連れ去られたらどうするのよ」

「落ち着いて考えてみるんだ。こんな小さいバイクで誘拐は無理だろう」

 大きいバイクでも無理だと思う。

「それもそうね」

 納得が早い。

「あ、あのさ、解ってくれた? ちなみに言うと、これは北上の新しいバイクなんだ。納車してすぐだったから試運転をしてたの。だから僕は色欲魔でも誘拐魔でもないし、どっちかと言えば引っ付いてるの北上の方だからね」

「──北上さんが淫乱とでも言いたいの?」

「大井っち淫乱の判定厳しくて笑うわあ」

「い、いやいやそういう訳じゃなくて、僕が性欲魔人扱いされてるのがちょっと不本意だったものだから──」

「本当のことじゃない。じゃあ北上さんと提督。性欲が強いのはどっちよ」

「えっ、何それどういうこと」

「どっちよ」

 大井は頑として視線を僕から逸らさない。ここで観念して認めなければ、このやり取りは一生続くのだろう。

「──僕です」

「ちゃんと言いなさい」

「はあ」

 

 ちゃんとの意味が解らず黙っていると、妙な沈黙が辺りを包む。無言で大井にお伺いを立ててもただ(うなず)くだけだし、背後の木曾を見ても諦めろという顔をしているだけだ。

 ええと、と言いながら間を埋めつつ、自分なりの「ちゃんと」を適当に言ってみる。

「──性欲が強いのは、僕です」

「良いでしょう」

 良いんだ。

 多分一生で二度と使わない日本語だなと思っていると、大井が(ようや)く胸許から手を離してくれた。バイクの後ろでは、北上がけたけたと笑い続けている。

「ってかさ、良いんだよそんなことは。大井と木曾こそ艤装なんか付けちゃって何してるの。演習なんて入ってなかったよね?」

「んあ、ま、まあな」

 珍しく木曾の歯切れが悪い。

「特訓よ、特訓」

「ちょっと大井姉!」

 大井は良いのよ、と木曾を制して再びこちらに向き直った。

「特訓?」

「そうよ。木曾が新しい艤装に()()()ってるみたいで、私のところに相談に来たのよ。うだうだ言ってても仕方ないから、こうして引っ張り出して来たの。そうそう、そういう意味ではちょうど良いところで会ったわね。報告する手間が省けたわ。木曾を借りて行きますから」

 

 僕と北上は顔を見合わせた。

 北上はその表情で「ほらね」と言っているようだった。

 

「まあ、いいけど。何時くらいに戻る予定?」

「そんなこと判る訳ないじゃない。木曾が艤装をモノにするまでよ」

「──モノにしなかったら?」

「帰って来ないわ。ただそれだけよ」

 大井は当然とばかりに言った。

「ちょっとそれは──。せめて日が暮れる頃までには帰って来て欲しいな」

「あなたね、そんな甘いこと言って海で戦っていけると思ってるの? それに大丈夫よ。日付が変わるくらいまで掛かってしまうかもしれないけど、必ず立派に仕上げてみせるわ。私と北上さんの妹ですもの。出来ない訳がないでしょう?」

「──そっか」

 大井と北上の妹だものな。

 僕はそんな短絡的な理由で納得してしまう。それでも、その大井の言葉には妙な説得力と安心感があった。

 大井の背後では、木曾が照れ臭そうに顔を背けている。

 

「木曾は──大丈夫? 無理してない?」

「──お前は、俺のことが不安なのか?」

「不安というより、心配はしてる」

「そうか。俺は情けない艦娘だな」

 木曾はこちらに近付いて、僕の肩に手を置いた。

「散々心配をさせておいて言うのもなんだが、頼む──俺を信じてくれ。この艤装を早いとこモノにして──お前に最高の勝利を与えてやる」

 そう宣言する木曾の目には、以前のような影は見られなかった。そこに浮かんでいたのは、並々ならぬ決意と闘志だけだった。

「うん、解った。有難う」

 僕は素直に、素朴なお礼を言う。

「この鎮守府で北上さんの次に優秀な巡洋艦にしてみせるわ。提督は大人しく執務室で待ってなさいな」

「よし。じゃあ、俺達は行くよ」

「ああ、気をつけて」

 二人が桟橋の方に去って行ったかと思うと、大井が途中で足を止め、駆け足でこちらに戻って来た。

「ちなみにあなた、そんなに欲情してるなら北上さんではなく私に言いなさい。解ったわね」

「わ、解ったって」

「大井っちストレート過ぎるよぅ」

 ふん、という態度で大井は再び木曾の許へと駆けて行った。

 

 嵐のような時間だった。

 僕と北上は顔を見合わせて笑う。

「ね? 心配ないって言ったでしょ?」

「本当、大丈夫そうだね」

「ああいう部分見ちゃうと、大井っちって素敵だなって改めて思っちゃうなー。さあさあ、ではでは私達も行きますか。ほら、エンジン掛けてよ」

「了解っと」

 

 僕はキーを回してエンジンを掛ける。

 車体を前に出してセンタースタンドを上げた。

 二人分の重量とバイクの自重でサスペンションが沈み込む。

 おっ、という声を上げて北上は僕の肩に掴まった。

 

「そういえば提督、免許持ってんの?」

「持ってるよ一応。大体ヘルメットないのに今更そんなこと気にするかね」

「いやあ、何だか急に怖くなっちゃって」

「精々しがみ付いてたら良いよ」

 

 爪先を踏み込んでギアを一速に入れる。

 スロットルを開くと、バイクはゆっくり前進を始めた。

 二速に入れようとしてスロットルを戻すと、想像以上に強力なエンジンブレーキが掛かって、その反動で北上が密着した。

 

「わぷっ。ちょっと提督のすけべー。狙ったでしょー」

「狙ってないって」

 

 しっかり掴まってよ、と言って速度を上げて行く。

 次第に風が強くなる。

 海の方に目を遣ると、海上を走り出した大井と木曾が見えた。大井は何やら喚いている様子だったが、何を言っているのかは聴こえなかった。

 エンジンの音が高くなって、風の音も強くなって──。

 その分だけ、北上の体温が僕の背中に伝わって来た。

 このまま何処か遠くに行きたいと、漠然とそんなことを思う。ツーリングに行くことが出来ていたら、(さぞ)かし良い思い出になっただろう。

 僕等には、そんな時間も残っていないのだけれど。

 

「北上、海を走るってこんな感じなのかな?」

 僕がそう問うと、

「全然ちがーう」

 と間の抜けた答えが返って来る。こんなに明瞭(はっきり)と否定されるとは思っていなかったから、不意を突かれた僕は笑ってしまう。

 

 ふと──風向きが変わって追い風になった。

 すべての抵抗がなくなったみたいに、バイクは滑らかに加速して行く。

 

 僕等の背中を押すその風は、何処か切なくて。

 懐かしくて、淋しくて──。

 でも、何故だか解らないけれど。

 

 少しだけ──温かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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