完全に事故だった。
珍しく、ふざけてなどはいなかった。
その日、フロイドはきちんと魔法薬学の授業に出席して、言われた通りの配合で魔法薬を作った。不幸だったのは背後でドジな雑魚が薬を爆発させて、フロイドが持っていた魔法薬が換気のために開けていた窓から遊びに行ってしまったことだった。たまたま窓の下を女の子が通りかかっていたのが、また最悪だった。
女性の悲鳴には人を落ち着かなくさせるなにかがある。
フロイドは慌てて窓から身を乗り出して、監督生が目を抑えてうずくまっているのを見るとぎょっとした。白衣を脱いで身一つで飛び降り、監督生を抱えて保健室まで全力疾走。
走りながらフロイドはどうしてこんなに慌てているのか不思議に思った。人を殴って心が傷んだことなどないし、人が殴られて呻いているのは愉快な出来事だった。なのに腕の中にいる小さな体が不安そうに両目を抑えているのを見ると、加害者のくせにたまらない気持ちになるのだった。
「ごめん。もうちょい待ってて!」
安心させるように声をかけると、監督生は戸惑ったように口を小さく開いたあと「はい」と頷く。彼女が体の力を抜いたのが信頼の証だった。
フロイドは速度を上げた。
この女の子になにかあればと思うと全身の血が凍るようだった。
保険医は監督生の涙袋を指で下げ、充血や目の濁りを確認すると点眼薬をさして包帯を巻いた。フロイドは少し離れたところに立って、心配そうに監督生の背中を見ていたが、やがてクロウリーやクルーウェルが来て廊下に追いやられてしまった。
中の様子が気になって仕方がない。
保健室の扉に耳を当てると「この子は魔力がないから」とか「それでは視力は?」など、不安しか無い会話が漏れ聞こえてくる。しばらくすると上質な革靴の音が近付いてきて扉が開き、クルーウェルが部屋に入るよう促した。
審判の時がやってきたような気がする。
監督生の目が心配だった。
「視力を失っている」
クルーウェルから端的に伝えられ、フロイドは息を忘れた。考えうる限りの最悪のひとつだった。
「しかし永遠にではない。24時間安静にすれば光を取り戻すだろう」
「よかったァ……」
フロイドは心の底から安堵した。彼の声を聞き、監督生がわずかにほほ笑んだ。
フロイドがホッとしているのがクロウリーとクルーウェルには意外なようだった。特にクロウリーはその傾向が強く、仮面の奥の黄色い光が愉快そうにきらめいた。ろくでもないことを思いついたときのクロウリーはいつもこうなる。
フロイドはお優しいクロウリーによって罰を与えられた。
監督生の目の包帯が取れるまで彼女の看病を行う、それが罪に対する償いだった。彼女の視力を奪ったのはフロイドの魔法薬が原因だが、わざとそうしたわけではないのは明らかだったのでこの程度で済んだのである。
ただし、監督生は美少女でフロイドは健全な男子であったので、間違いが起こらないように首輪を付ける必要があった。フロイドはクルーウェルによって赤い首輪をつけられた。監督生が嫌がることをすれば、首輪が締まるというわけである。
赤い革に銀の鋲が打たれた首輪は、苦しいのが大嫌いなフロイドにとっては苦痛そのものだった。爪でガリガリとひっかくが継ぎ目がなくて外せそうもない。
こうしてフロイドと監督生の奇妙な24時間が始まったのであった。
フロイドに監督生を押し付けると、クロウリーとクルーウェルはさっさと保健室を出ていってしまった。ガラガラピシャンと背後でスライド式のドアが閉まる音がすると、監督生が音に怯えてビクッと背をそらす。その様子を見て、フロイドは監督生を小エビちゃんと呼ぶことに決めた。
監督生はどうすればいいのか困ったようにしている。フロイドは彼女に近づき、威圧感を与えないようにしゃがんで声をかけた。
「あー、その。オレ、フロイド。目、ごめんね」
一応謝ったが、フロイドは自分が悪いとは思っていなかった。罪を償う必要があるのは薬品を爆発させた生徒じゃね?と憤る気持ちがあったし、先程の先生方の態度にはだいぶムカつくところが――。
「仕方がないですよ。不幸な事故だったんでしょう?」
ムカつくところが……あったはずなのだが、あっさりと許されてしまい、戸惑った。
「怒ってねーんだ」
おずおず尋ねるが監督生の態度はさっぱりしたものだった。
「まあ、明日には治るそうですし。そうなんですよね?」
「うん、まあ、そうらしーけど」
監督生の失明は彼女に魔力がないのが原因だった。魔力の無い人間はとても弱いものらしい。陸に上がって2年目のフロイドは人間の実態をよく知らなかったが、目の前にいる包帯を巻いた少女がいつ捕食されてもおかしくないのは流石にわかった。
監督生と自分のカバンを教室に取りに行きながら、フロイドは監督生がずいぶん落ち着いていることが気になった。自分が失明したらあんな風ではいられないと思う。深海には目が退化した生物もたくさんいたが、そのかわり彼らは鼻が利いたし、海は広く、自由に泳いでなにかにぶつかって怪我をするような心配はあまりなかった。
本当は目が見えているんじゃないか。
一度気になると試したくなる。子供っぽい人特有のいたずら心が頭をもたげた。
「小エビちゃん。おまたせ、帰ろ」
「はい」
フロイドはカバン二つを肩に引っ掛けて、監督生が鼻先をぶつけないように扉を開けてやる。監督生は保健室で借りた白杖で床を叩きながら、危なげなくドアの外に出た。少し杖をドア周辺にぶつけたけれど、それだけである。
フロイドが「止まって」と言えば素直に止まり、「右に曲がって20歩くらい進んで」と言えばそうした。進行方向に下り階段があり、それは転んだらただでは済まなそうな感じだった。
もし、落ちたらどうなるんだろう。
本当に目が見えないのか試すには絶好の機会だったし、理不尽なことが続いていたので、だれかに八つ当たりしたい気持ちがあった。
「小エビちゃん。真っすぐ進んで。オレが止めるまで」
「はい」
監督生はフロイドの言葉を疑わなかった。
白杖をリズムよく叩いて前に進んでいく。
フロイドは段差が近づくに連れ、落ち着かなくなっていた。彼女があまりにも自分を信頼するので、例え杖を使っていたとしても段差があるなど考えもせず落ちていくようにしか思えなかった。
「そろそろ、階段ありませんでしたっけ」
「ん。まだ先」
「わかりました」
あと10歩も歩けば、彼女は落ちる。確実に。なのに――。
「ふふ。先輩が案内してくれると安心しますね」
と、微笑まれるともうダメだった。「そこでストップ」と言わずにはいられなかった。呼び止めたとき、彼女の爪先は5センチほど宙に浮いていた。
白杖がカツンと階段の下を打って、彼女は「ああ。ここから階段だったんですね」と穏やかに微笑む。意地悪をされかけていたなど微塵も考えていなかった。
目が見えない人は、導き手を信じるしか無いのだ。
フロイドは彼女に負けた。
彼女を試すつもりだったのに、試されていたのは自分のように思えた。
「食べるもん、冷蔵庫にある?」
悔しさと恥ずかしさがごちゃまぜになる。心を落ち着けるために問いかけると、監督生が「ナポリタンの材料があります。多めに買ってありますよ」と答えてくれた。
「じゃ、今夜はそれにしよっか。オレ作れるよ」
「わあ。人に作ってもらえるなんて、嬉しいなあ!」
監督生が無邪気に喜ぶのでフロイドは少し照れた。
監督生に好かれていると思った。
これから先、もう意地悪をしたり、試そうなどという気持ちは起きなかった。フロイドは傍らを歩く、自分よりふた回りも小さな生き物を気に入ってしまったのである。怯えないのがとても良かった。
フロイドは監督生をオンボロ寮に連れていき、彼女が脱いだ靴を揃えて端に置き、ブレザーをハンガーにかけてやった。彼女が部屋着に着替えている間にナポリタンを作ってやり、テーブルのセッティングが終わると迎えに行った。オンボロ寮の階段は手すりはあったが急だったので、彼女が転ばないように一歩ずつ降りているのを見ると、自分が抱えてやったほうが早いのではとも思った。
気分にムラがあり何事も出来不出来が激しいフロイドだが、この日のナポリタンは会心の出来であった。フロイドは彼女が美味しいと喜びながら食べるのを見て「でしょー?」とギザ歯を見せて微笑む。
「あ、そういや洗濯もやっとくね」
「いえ、それはいいです。下着とかもあるし、流石に」
「下着があるとなんかダメなの? すげーダセえとか?」
「いや、そういうことじゃないです。男の人にパンツ洗ってもらうのとか恥ずかしいでしょ!」
「へー。そうなんだ、ウケる」
「普通の意見だと思いますけど」
「わかんね。オレの地元みんなノーパンだもん」
フロイドは事実を言ったのだが、監督生は爆笑した。完全にギャグだと思っていた。フロイドはなぜ彼女がそこまで笑うのか分からなかったが、馬鹿にした雰囲気はなかったし、彼女が笑ってくれたのはとても嬉しかった。
「あー、笑った……。パスタも美味しかったです、ごちそうさまでした」
監督生は両手を合わせたが、彼女の皿にはたくさんのウィンナーやピーマンが残っていた。それを見てフロイドは、あっ本当に目が見えないんだと実感した。
「小エビちゃん。ウィンナー残ってる」
「えっ。本当ですか。じゃあ食べたいです。肉残すのはもったいない」
監督生の皿の上をフォークが走るが、なかなかウィンナーには当たらない。それどころか弾き飛ばしそうな危うさがある。フロイドは「ちょっといい?」と言って、監督生の利き手に自分の手を被せた。監督生がビクッとして、フロイドは首が締まるかもしれないと今更のように震え上がった。首輪の存在をすっかり忘れていたのだ。
でも、締まりはしなかった。
「あ、ごめ。手伝おうと思っただけで」
「え、えっと。そうですよね。びっくりしちゃって」
ふたりは無言になった。フロイドが監督生の手を持ち上げておろす。それを何度か繰り返す。食べやすい大きさに切られたウィンナーが監督生のフォークに串刺しにされていった。
「できた。どーぞ、召し上がれ」
フロイドの手が監督生から離れる。小さくて指が細くてやわらかい手だった。そんな手は今まで知らなかった。力を込めすぎると壊してしまいそうで怖いのに、ずっと触っていたいような魅力もあった。
手を洗ってしまうのがもったいなく感じた。
目が見えない状態で風呂に入るのは危なそうだったので、フロイドが髪を洗って乾かすまでをやって、体を拭けるようにしぼったタオルも渡してやった。
「今日はずーっと楽しいです。寝るのがもったいないなぁ」
監督生は感じが良くて友好的だ。フロイドがなにかしてやると穏やかに感謝を伝えてくれるので、フロイドは彼女の世話を焼くのが楽しくなっていた。
「オレ、下のソファで寝てるから、なんかあったら呼んでね」
「はい」
彼女がおやすみなさいと言いながら明後日の方向に手を振るのを見ると、フロイドは彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。首輪の存在はずっと邪魔だと思っていたが、この衝動を覚えた瞬間「なるほど、これは必要だ」と納得できたのが良かった。
万が一、妙な気を起こしても首輪があれば安心だ。
もうフロイドは首輪を邪魔とは思えなかった。彼女はとても美味しそうだし、いつでも食べることができるので、エサと間違えないように気をつけなければいけなかった。昼には思いつきもしないことが、夜では次々に思いついてしまう。他人の力が自分を押さえつけてくれることに感謝をしたのは初めてだった。
日が昇ったころ、フロイドは物が割れる音で目を覚ました。
寝覚めはいい方で長い足をソファーから振りおろすようにして立ち上がる。反射的に監督生の部屋を見て、彼女の部屋に急ぎながら「だいじょーぶ、小エビちゃん!?」と声をかけた。
部屋のドアを開くと手鏡が割れていて、監督生が途方に暮れたように立ち尽くしている。
「ごめんなさい。起こしちゃいましたよね?」
「へーき。起きる時間だったし」
フロイドはひょいと監督生を抱き上げてベッドに座らせた。彼女は素足だったので、割れた鏡を踏んでは危ないと思ったのだ。
「すぐ片付けるから待ってて……冷蔵庫の卵、朝使っていい? 何食べたいか言って。オレ、なんでも作るから」
フロイドは掃除をしながら明るい声で話しかけた。監督生が落ち込んでいたので見ていられなかったのだ。元気づけるなら言葉をかけたほうがいい。しーんとしているのが、一番良くない。
「えーと。じゃあ、目玉焼きを両面焼きで」
「オッケー。オレもそうしよ」
「あの、フロイド先輩。手鏡、やっぱり壊れちゃいましたよね」
フロイドは「うん」と言った後、慌てて「でも、フレームは無事だから直せるよ」と言い添えた。監督生の包帯の下にある瞳が喜びに輝くのが分かった。
「よかった! あれ、結構気に入ってたんです。前にクロウリー先生に貰ったんですよ〜」
監督生は明るい調子で言ったが、フロイドは不満げにくちびるを尖らせた。フローリングモップの柄に両手を乗っけて、その上に顎を乗っけてジト目をしている。なんだかとっても、面白くない。
「オレも小エビちゃんになんかあげたい。そんで、大事にして欲しい」
「はは。なんですかそれ!」
監督生は面白い冗談だと思ったようだが、フロイドは本気だった。手鏡のフレームを捨ててしまいたいと思ったが、それをやってしまうと監督生が悲しむのがものすごーく癪だった。せめてものやつあたりに、人差し指の爪でびしびしとフレームをつついた。
目の見えない状態ではあるが、監督生は授業に出るのを望んだ。
教科書を見ることは出来ずとも出席率を下げたくはなかったからである。
フロイドはてっきり今日は休むと思っていたので、監督生の希望を聞いて慌てて時計を見た。幸いなことに朝早くに起きていたので時間には余裕があった。フロイドは監督生の髪を可愛く結ってやり、彼女の手を引いて教室まで連れて行ってやった。
目に包帯を巻いて白杖をついた監督生が赤い首輪をつけたフロイドを連れていて、周囲がぎょっとした。しかもこの首輪の狂犬が監督生を大事にしているらしいのが余計怖かった。
フロイドは今日授業をサボる気満々だったが、いつもどおりに学校に来てしまったので仕方無しに授業に出た。でも全然集中できなかった。いつも集中していないが、いつも以上に集中できなかった。
監督生が気になって仕方がないのだ。
消しゴムを落としても拾うことができないし、移動教室があるかもしれなかった。フロイドが授業終了の鐘と共に監督生に会いに行くと、嫌がる監督生をどこかに連れて行こうとする最悪の馬鹿がいたのでぶん殴って階段の下に蹴落とした。この子は自分が守らねばならぬと、強く思った。
「フロイド・リーチ、なぜお前が1年の必修科目に出ているんだ?」
「小エビちゃんの番犬だからです。わん」
クルーウェルの端正な顔が一瞬だけ優しげになったが、フロイドには後日大量の課題が出されるとなった。それでもよかった。フロイドは午前中、彼女が不自由しないようにずっと側にいた。彼女がきまずい思いをしないように、先回りして彼女が困りそうな問題ごとを片付けてやった。
監督生にとってフロイドは優しい盲導犬だった。
噛まれるなど考えもしなかった。
実際は監督生が見ていないのをいいことに、わりと周囲をボコボコにしていたのだが、まあそれも監督生の周囲を平和に保つためだ。仕方のない犠牲だった。
4時間目が終わった。
監督生の目が見えるまであと1時間くらいだった。
フロイドはスマホでジェイドに中庭まで食事を持ってきてもらうように頼んでいた。食堂や購買に監督生を連れて行くのは、人が多くて危ないと思ったのだ。ジェイドはフロイドたちから5分ほど遅れて到着し、包帯を巻いている監督生を珍しそうに眺めたあと、彼女の目があるギリギリの位置まで音もなく爪をのばして――。
「ダメ」
フロイドに止められた。
ジェイドはフロイドの様子を「ふーん」という目で眺めて、にっこりと笑って去っていった。
監督生の目が見えるまであと30分くらいだった。
監督生はフロイドが与えたものはなんでも食べた。これはなんだろうとにおいをかぐことはあったが、それくらいだった。
危ないかもしれないとは、考えないのだろうか。
これは、昨日の夜からずっと考えていたことだった。監督生は不良に連れて行かれるのに抵抗していたし、誰のことも信じるほど愚かではないと思う。
「小エビちゃんは、オレがヤバいって思わねーの?」
尋ねると、監督生は「いやー。特には」とざっくばらんな回答をした。
「先輩は私が薬を被ったとき、必死になってくれたじゃないですか」
「それはそうだけど」
「早くあなたの顔が見たいな」
フロイドは監督生の言葉にぎょっとして慌てて鏡を探した。電源をオフしたスマホの黒い画面に自分を映して寝癖がないことを確認する。素敵な人だと思われたかった。
「包帯、外していいですか?」
「うん。大丈夫」
監督生は手を後ろに回して包帯の結び目を頭の上に持ち上げた。
絹糸のような彼女の髪が風にそよいで、閉じられたまぶたがゆっくりと持ちあげられる。陽の光に怯んだように目を閉じかけたが、フロイドの姿を見つけると花がほころぶようにほほ笑んだ。
彼女の澄んだ瞳に見つめられ、フロイドは石のように固まってしまう。彼女の周囲に川の浅瀬に浮かぶキラキラとした光のようなものが見えた。
お互いに見つめ合って、パッと目をそらす。
ときめくとは、こういうことなのだなと思った。
おしまい