日々という男は、ひたすらに夢を諦めなかった。
日々という男は、作業的にも夢を諦めなかった。
何よりも、それが原因である。
夢を追いかけて追いかけ続けて常識を疑って僅かな違和感も逃さず全てを伏線だと思い込んで、線が繋がってしまった。なぜ繋がった?
追った先にいた初めて見てしまった化け物に会い発狂したのは、会ってしまったから、なぜ会った?
化け物に心を削られ、性癖とも呼べる欲に狂ってしまった、なぜ狂った?
根本は全て夢を諦めなかったところに至る。
しかし、狂ってしまったのは夢のせいであるが、そうまでして夢を追いかけ続けるのも狂気に取り憑かれていたのではないだろうか。
まぁ、そんなことはどうでもいいのだ。
この丹羽日々という人物は、ひたすら俺の耳元で全てを語っていた。
◆
塵の海にモゾモゾと動く影がある。
大柄な男だ。
若々しく活気に溢れているであろう年頃の少年だ。
しかし、男……
脇には時間が早送りになるように朽ちていくメモ用紙のようなものが落ちていた。
異様な光景。
前後左右上下を囲まれたその部屋は地下にあり、入口など一つしか存在しない。
区切られた空間であり、この世のものとは思えない空気に佳織の怒号が溶けた。
「は、ははは……何やってんだオレは」
クァチル=ウタウスと推測される神格に触れる寸前、懐に忍ばせていた《クァチル=ウタウス》に関するメモを使い接触を避け、メモ用紙を犠牲に助かったのだ。
「守りたかったもんに守られてどうする?」
丹羽日々と名乗る少女は
しかしその場所をひたすらに睨んでいても何かある訳ではないのだ。
「そうったってどうすりゃぁいいんだろうな。何をすりゃいいのかな、愛ちゃん。どうしたら助けられるの?」
独り言を呟いてふらりと立ち上がった佳織は部屋を出た。
「あれで愛ちゃんったら
地下と地上を繋ぐ梯子を登って、山羊の会の建物そのものの玄関へ辿り着く。
「神様に聞きゃ愛ちゃんの居場所とかどうにかなるかな、頼みひとつ聞いたんだ報酬が欲しいよなぁ」
そう呟いて敷地の境を跨いだ。
すると、いつの間にか暗い境内に立っていた。
「……あの時みたいなテレポート? 神社? あの神様!?」
あまりに都合が良すぎるタイミング。
まるで図ったような事態に佳織は狼狽した。
無理もない、情報が押し寄せ思考が活発化して思考が困惑しているのだ。
例えば、なぜここに来たのが境をまたいだ瞬間なのかとか、なぜ愛ちゃんも転移させて救わなかったのかとか、そもそも神様はどこにいるのかとか。
もはや周りの雰囲気を気にするのすら忘れるような情報の荒波にただ困惑していた。
もはや何一つ考えられないようで漠然とあたりを見渡すと動く影が彼の視界に映った。
ああ、神様かな……そこにいたのか。
そう漠然と考えたその思考は、しかし影が二つあることに気付いた。
どちらも見覚えがある。
なに、神様が二人に分裂したから見覚えがあるとかそういうものではない。
神様の他、もう片方の影も佳織は面識のある人物だったというだけだ。
「なんなら、親と愛ちゃんの次くらいに見覚えのある顔なんだけど……」
「あら、かーくん夜遅くにこんな場所来ちゃダメじゃない? もう夜遅いのよ、おうちに帰りなさい?」
「のぉ……主、白々しいにも程というものがあるのじゃがの……」
「ふふふ、何を言っているの? これは本心よ、確かにあの子達が巻き込まれているのはわかっていたのを成長の手段と私は放置したけど、貴方は大した情報も与えず本拠地に突っ込ませるなんて一体何を考えているのかしら」
ニコニコと、愛ちゃんにによく似た可愛らしい顔をした女性が微笑んでいた。
しかし、とても平静を保っている様子はなく「ねぇ、私たちが現役の頃もゆっくり情報収集してからというのを忘れてない?」と蛇の少女へ詰め寄った。
「……あー……うー、あっあーあ、そこの、ほれお主をここに呼んだのは勿論わしじゃよ。ほれちこう寄れ、お主の友を助けたいのじゃろう?」
「えっああ、そう……ですけど」
「ねぇ言ったじゃない、ろくな情報渡さずにひとの息子とそのお相手を危険な場所へ連れていきやがってって。もう一度、同じことをするの? イグ、答えなさい」
「ひっ」
イグと呼ばれた神様を脅すその女性こそが愛玉の母、真っ先にTSした愛玉が会いに行き、なんの疑いもなく愛玉であるのだと気付いた正真正銘の狂人である。
「……あの、愛ちゃんのお母さん……?」
「んー、かーくんちょっとまっててね、このイグを問い詰めてあの子を助ける為に直接動いて貰うまで追い詰めるから。ああ! あとそうね、愛を連れて無事帰ってきたら深追いしすぎんなって言ったろって説教ね」
目が笑っていない。
佳織は神様……イグと愛玉の母が知り合いであるということまでは察したがそれ以上……というかそれ以前がわからない。
具体的には二人の上下関係とか、どうしてここにいるのとか。
そういえば、朝ごはんの時に見透かすようにシリアスモードに入って忠告してたな、なんて思い出してきた佳織は、もうこの関係について考えるのは無駄だと今できることを考えることにする。
そうだ、愛玉は攫われたのだ悠長に問い詰める時間などないはずだ。
「愛ちゃんのお母さん! 神様を説得するのにどれほどかかりますか? そんなに時間がかかるようじゃ愛ちゃんに何されるかわからないんです!」
「大丈夫よ、私の息子よ? 攫ったのは人間なのだし、即興口先八丁で五時間はもたせられるわよ」
「うむ、わしの読心の中に大量の情報をつぎ込んでくる癖はこやつそっくりじゃぞ、わしの説得でお主を行かせるまで間に合うじゃろう待っておれ」
「違うんです! 愛ちゃんを攫ったのは口先でどうにかなるような人物じゃないんです! 触れたものを塵にする神格を侍らせていました、自分の仲間を躊躇いなく塵にするようなやつでした、自力でかテレポートもしていました! そんなもの相手に愛ちゃんの安全がっ」
佳織の叫びは、突如眼前に迫ったイグに驚き途絶えた。
「主、お主! 今なんと言うた。触れたものを塵に……それはまことか!?」
「……塵に変える……塵を踏むものクァチル=ウタウス!? イグ、妙な意地はらずに手伝いなさい!」
「ダメじゃよ、いや、無理じゃ! 分体のわしにあんなのに勝つ力など残されとらん……いや、あやつを攫ったの者は聞く限り魔術に慣れておる、わしが行けば警戒されて終わりじゃ! 最悪、ほかの神も招来されるのじゃぞ!」
「じゃぁ、私が……っ!」
「それこそ最もダメじゃ! 却下じゃ! お主が、主らが
「あれもこれもダメって反抗期か! じゃあどうしろというの!?」
「だから先程から言うておるじゃろう!」
「かーくんを行かせる気? こんな事態になっているというのに!?」
「主らも幾度もなったじゃろう、過保護がすぎる、過保護が!!
ほれ、来い、
あまりの急展開に、もはやついていけていない佳織は突如投げられた質問は佳織にとって願ったり叶ったりのものであった。
聞く限りからして、イグが佳織にさずけようとしているのは力だ。彼の愛する者を救うための力だ、そのためなら人の一面を捨てるのなど何を躊躇う必要があろうか。
ここで躊躇うのは、躊躇いなく己を犠牲に攫われてまで佳織へ被害が及ばぬようにした聡明な親友への不敬に当たるのだろうと。
「ある! 人間であることがどうとか、なんでもいい、愛ちゃんを助けるための力が欲しいです!」
「ほれ、契約の同意は得られたぞ! もう口を出すことは出来んな!」
「……ちっ……かーくん、多分こいつはあなたとの契約を結んだらあの子の居場所を知らせてこの空間の外へ放つ気よ! だから年寄りの、硬い年寄りのお節介だと思ってこれだけ持っていきなさい!」
そういって、愛玉の母は試験管のようなものを投げ寄こした。
佳織は掴むと、中に入った粉末を眺める。
「……これは?」
「ヘルメス・トリスメギストスの毒塵……そうね、地球外生命体にかけるとそれだけでその生物が溶ける粉薬よ」
ふと、彼は少し前にあの不可視の生物をイグが
「ありがとうございます!」
「ふむ……良いかの? ……汝、鈴梅佳織、わしの配下となることを誓え」
「誓う、誓います」
◆
「やっとだよ、私がずーっと追いかけてきた夢が叶ったんだ 。これほどに嬉しいことはない」
「……クァチル・ウタウスとやらを呼ぶことが夢だったのかよ。なんだ? それとも自分がTSすることが夢だったのか?」
気づけば、どこか研究所の一室のような場所に俺はいた。
手足は拘束され、首輪をつけられ壁とを紐で結ばれている窓の外は暗く、大して長い時間気絶していなかったのか、それとも丸一日以上寝てしまったのか。
……もし丸一日以上寝てたのなら、学校、どうしよう。
日々を、神格まで召喚して見せた誘拐犯を下手に刺激すれば何をされるかわかったものではない。
首を絞めるなり、心臓を突き刺すなり、もう一度アレを呼び出して塵にするなり自由である。
だから日々が勝手に話してきたものに乗ってやることにした。
受け答えが出来れば少しは気分を良くして、無事に助かる可能性もあるだろう。……希望的観測? いやいや、夢は持っていこうぜ。
もしかしたら、佳織が助けに来てくれるかも……いや、俺は気絶前にあの神格が親友に触れようとしているところを見た。
無事ではあると思いたいが、それだけに逃げていて欲しいものである。
山羊の会は塵となった。
もう危険な化け物はいないはずだ。
「どれも過程だよ。……私の夢、聞きたい? そうか、聞きたいか、ならば聞かせてあげる」
「俺をここに攫った理由に繋がるようなら聞かせろ、もし俺を遊び半分で攫ったのなら解放しろ」
「んーもちろん、攫ったことに理由があるよ。いや、さらったことこそが目的のための最後の準備段階だな……といっても、実感は湧かないか。殺したり、生贄にしたりはしない、そう考えてくれたらいいよ」
そうして狂人、丹羽日々は語りづらそうに口を開いた。
「どこから話したものか……そうだな、まずはわた……小生の性癖から」
訂正、攫った理由に性癖を含めてきた異常者はなんの躊躇いもなく話し始めた。
というかなぜ一人称戻したのか。
「小生、女の子同士のイチャラブが好きなんでふよ……デュフフ……ガールズラブ、レズ、百合……まぁ、どれも個人個人の解釈がある言葉でふからねそこは君のために固定しないでおくよ……デゥフフフ」
ロールプレイスイッチをオフにしたおそらく素と思われる変質者の性癖大暴露など誰得だというのだろう。
そんなことより、その笑いをどう身につけたのかを問いただしたくウズウズしてくるも、好奇心は猫を殺すのである。我慢我慢と自分に言い聞かせた。
「……ガールズラブ、少女が愛し合う尊み溢るる言葉でふが、その中でも『永遠の愛』というものがすきなのでふ」
「あ、あの……」
「永遠、いいことばでふよね。デゥフフ……永劫に寿命があれば、ずっと愛し合うことが出来る。長命美少女二人が昼夜ところ構わず愛し合う、それが小生がもっとも好きなシチュでふ!」
「あの!」
「……? どうしたんでふか、小生の理想の美少女たん」
「ひぃっ!? …………ああ、あの、いやー口調戻して……じゃなくてロールプレイしたまま話してくれるととても助かる……助かります」
「それは無理なのでふ、あのTS少女日々たんはこんなことを話さないのでふ」
もうヤダこの狂人。
俺は既に内心涙目である。
佳織のがましな人間なぞ初めて見た。
そう思って親友の顔を思い出してみると『それはねぇな、だってそれなら愛ちゃんが意識を取り戻した頃には既に愛ちゃんは純潔失ってるもん』だの『産婦人科?』だの昨日か今日かさらに前の日か現在の日付がわからんから確定はできんが朝に人のトイレまで着いてきてずっと手を繋ぎ続ける奇行だのと、数多の言動を瞬時に思い出した俺は丹羽日々も親友もどっこいどっこいであったかと嘆いた。
まともな人間がいねぇ。
「話を続けるでふよ。小生、どうしても、どうしても性癖を、夢をミラクルなドリームを諦められなかったのでふ」
挙句の果てに性癖をまるで輝かしい夢を追う青春のようなことを言い出した。
「で、その夢とやらの詳細はなんだ」
「さっきも言ったのでふ、美少女になって美少女と永劫をベットのイチャラブで過ごしたいのでふ」
さっきまでのより悪化していると思うのは俺だけなのだろうか。
嫌な予感がしてきた俺は、自分の顔がどん引きといった表情をしているのを感じる。
「追い求めた結果がこの体でふよ。本当は
「ひぇ」
「TS薬、開発した甲斐があったのでふ。小生も美少女になれて、理想を超えたお相手を作ることができて一石二鳥なのデゥフフ……『君がもし私を愛してくれなかったとしてもどこまでやったら堕ちるのかな』とTS少女日々たんが言ってまふ」
こっちからしても想像以上に業が深かった狂人と現在この空間に二人きりという状況に恐怖を覚えている。
いきなりTSさせられたと思ったら多分現在この国でもっとも人間の煩悩と欲望が渦巻く現場にポイである。
星の精なんかとは別種の狂気、恐怖を感じる。
幽霊や怪物なんかよりよっぽど人間のが怖いと言う人がいるが、違うと思った。
同じ恐怖でも違うのだ。化け物へと人間への恐怖は違う。根本から違うのだ。
人への恐怖は……そう、ある宗教の人間がそうじゃない人間が行う
思想の違い、そのズレを正しく認識した時に感じる途方もない違和感。
真の意味で他者と自己は違う、全く同じ人間などいやしないのだと。
普通と異端すら、『あの人は周囲とすごくズレている』という言葉の『すごく』が己の尺度であり他人の主観では自分と同じ大きさでは受け止められていないと。
言葉で真の意味で伝えることが出来るのは0か100で0が自分その他全てが100であると気付かされた時のような。
真の正気など自分しか存在しないと叫ぶ結論のような。
そんな普段は気にならない漠然とした恐怖が表層に出てきて心を蝕む。
ああ、嫌だ。
化け物の存在に怯えたと思ったら、今度は人にも怯えなければいけないのか。
眼前の狂人を視界に収めつつ、そう思った。
なんだあの狂人、瞳孔開き切ってんぞ……交感神経イキイキしてますねぇ……。
いや、ああ、いや待て、永劫?
「永劫が、永遠が好きっていってたよな」
「そうでふよ? デゥフフ……」
「俺もお前も、定命の身だろ」
「ん、ああ、そうでふね……TS美少女たんには今から色々説明してあげるのでふ……先に言うとそれがあるからこそ、まだ君に手をだしていないのでふ」
そう言って、どこからともなく丹羽日々は小瓶に入った白濁液を取りだした。白いシールがはられていて、そこに試作品TS薬五号と書かれている。
「この薬はでふね、イブン=グハジの粉っていう見えないものを見えるようにする粉薬の幽霊を一時的に物質化させたという記録を元に作った薬なんでふ……。
物質非物質の可視可能にする変質が効果でふ、この変質を元に作っているのでふから、イブン=グハジの粉の性質を少し残しているのでふよ、デゥフフ……」
「例えば、イブン=グハジは時間経過で解けるからもとより解毒剤なんて存在しないとかでふね、薬を作った側も使った側も効果切れて欲しくないし」、そんな致命的な一言は脳内で検閲処理して忘れ去った。希望はまだあるのだ。
「TS薬の効果は『十歳の少女に体を変質させる』ことでふ……効果時間はずーっと。ただ、試作品達は容姿がただ『十歳の少女』になる合法ロリ生成薬だったのでふ……デゥフフ。
でも、十歳の少女のように見えるだけじゃ本当の年齢まで若返った訳ではないのでふ、だから容姿が変わらなくても歳をとるのでふ……いつか寿命がやってくるのデゥフ」
しかし、しかし!
そう、声を大にして丹羽日々は続けた。
「今ここにはない、小生が摂取した完成品TS薬は『完全な十歳の少女』に変える薬、精神以外全て十歳の少女に変えるこの薬は『完全な十歳の少女』に変質させたことで、イブン=グハジのかかったらしばらく可視可能なままという性質を受け継いで摂取したら永劫に『完全な十歳の少女』のままなのでふ!!」
いまいち理解しきれていない俺を前に丹羽日々は熱く燃え上がっていた。
いや、どちらかというと美少女に萌えていた。
「『完全な十歳の少女』のまま、つまりはそこで老化成長は停止、死ぬまで死なない、寿命で亡くなることはない、寿命が訪れないのだから! そうなるのでふ!
デゥフフフフ!!」
……言葉が、出なかった。
言っている意味はわかるのだ、しかし古来より人間の求めていたものがこうもあっさりと新しく作られてしまうとは、そう驚いている自分がいた。
そんなもの、もはや本作用の『十歳の少女に変えること』などおまけみたいなものだ。あまりにあっさりと新開発された不死の妙薬である。
「だがしかーし、君の飲んだ試作品はまだ試作品! だから次の夜、新しく完成品を作って飲ませてあげるのデュフフ……え? 新しくTS薬を飲んで理想の容姿から変わらないのかって? この薬は『十歳の少女にする』効果を持っているから元から十歳の少女の見た目を持つ君はあとは結果的に老化の停止がつくだけでふ!」
傍から見れば美少女が語尾に「デゥフフ」だの「でふ」だのと笑っているのかなんなのか珍妙な単語を付与するおかげか怯えればいいのかわからなくなってきた俺はとりあえず怯えてみることにした。
そもそもわざわざ説明してくれているがだんだん言ってる意味がわからなくなってきたから致し方ないのだ。
わたしようじょだからむずかしいことばわからない!
人間の欲って恐ろしいな……。
「でも」
そう発した日々のテンションは軽かった。
先程までの口調がうそだったように雰囲気が変わる。
「わたしね、完成品を作る前でも味見くらいならいいかなーって思ったんだ!」
「……は?」
「んふふ、痛くないからね?」
「いや、あの、完成品ができて俺が飲むまでがタイムリミットとかそういう流れだと思ってたんだけど、というかしっかりそう言ってたじゃん! だから手を出してないって明言してたじゃん前言撤回するなよアホ!」
「ウェアーイズ助けが来るルートって? イットイズノー、あるわけないでしょ、ね? だってそんな時間作る必要ないでしょう!」
にっこりと、とても
「ひっ」
足を動かして下がろうとするも、結ばれた手足では逃げることは能わず、辛うじて起き上がっていた姿勢も寝転ぶこととなった。
「首輪がさ、君の首にはつけれらているんだよん? 例え歩けても首が絞まるだけだけど?」
倒れ込んだ体で床を這って逃げることも出来なかった。
首輪と壁を繋げる紐がピンッと張る。
首が少し絞まった。
あの笑顔はなんだ?
近寄ってくる少女の笑みを見て自分に問う。
己を犯そうとする悪魔の貌だ。
あの手はなんだ?
服を脱がそうと触れてきた手を感じて自分に問う。
己を穢す狂人の手だ。
待て、考えろ。
相手は美少女だ。
お望みの美少女であるぞ。
何を嫌がる理由がある?
わからない、なにもわからない。
だが嫌だ。
笑って人の服を脱がそうと、いや俺の服を破いたこの手の好くままにするのは絶対に嫌だ。
ビリビリッと布の破ける音が聞こえて上半身が少し肌寒くなった。
「やめて……」
「んー?」
「やめて、助けてっ!」
「安いなぁ……そんなベタなセリフをして助けられたヒロインは山ほどいる。けどそれは所詮『感動のお話』、一部だけさ。そう小説より奇なりなど起こってたまるか」
「いやだ、やだ……佳織、助けてっ」
ひたすらに叫んだ救済を求める言葉は部屋に木霊した。
さっきは無事に逃げていて欲しいなどと願った存在に助けなど求める自分はなんて浅ましいのか。
しかし自己嫌悪より、眼前の存在の食い物となることへの嫌悪が大きく優って視界が滲む。
そうか、そうだよな。
助けなんて来るはずないよな……。
攫われた本人がここがどこかわかりゃしないのだ。
向こうが追えるわけがない。
そう諦めた時。
助けて、なんて言葉に返答が来る。
「はいよー」
涙で滲んだ視界には見えないがきっと、その声の持ち主は酷く聞きなれたものだった。
「……あー救済フラグ立てたわたしが悪いね。思い返しゃなんて露骨な……」
日々の声が聞こえる。
そして確信を覚えた。
これは佳織だ。
聞くだけで安らぐ親友の声だ!
人間など単純なものだ。
助けが来たことが嬉しくて仕方がない。
「佳織!」
思わずそう叫んだ俺へ言葉が返ってくる。
「愛ちゃぁん助けに来たよぉ……」
……………………とびっきり卑下た声色の言葉だった。
さっきまで感じなかったねっとりした視線を感じる。
とても助けとは思えないヒロインを囲って襲おうとしているモブテンションだ。
知ってた。
知ってはいた。
だけど! けれどもさ!!
「愛ちゃん無事に帰ったら愛を育もうぜ」
「一瞬感動した俺の気持ちを返せ!!」
俺の周りにろくな奴一人たりともいねぇ!
とりあえず俺は救いの手がさらなる地獄への誘い手だったことを悟った。
自力でこの場から逃げないとバッドエンド待ったナシじゃねえか!
ただ、その手で拾われるならいいかなと一瞬考えてしまう。
けど即否定して今すぐ舌を噛みちぎった方が俺は幸せなのではなかろうか。
クソ! 思考が混濁して世迷いごとを考えるようになってきた。
日々は俺から手を放して佳織と戦おうとしているのかブツブツと悠長に何かを唱え始める。
「シィッ」
そんな隙を見逃すはずもなく。
佳織の拳が日々の腹を捉える……が、硬い音とともに佳織の拳が日々の直前で止まった。
「……!」
驚いた顔をした佳織が警戒するように一歩身を引くと、日々がニッと笑った。
「……いあ、くとぅぐあ」
そう日々の口から漏れると同時にごうっと近くの照明の一つが爆発的に燃え上がり、彼女を守るように佳織の前に立ちはだかった。
化け物だ。
また化け物だ。
この化け物をまたこいつは喚び出したのだ。
炎の塊に物理的な判定はあるのか、そう考える。
既知の法則のままに存在しているはずがない。
運動神経がいくら良いとはいえただの一般人である佳織ではとても相手にならない。
相手になろうはずがない。
ヤメテ~ワタシヲトリアワナイデ~。
シリアスシーンではあるが、言っておくべきセリフにだと思って言った。
悔いはない。
「せっかく、この子を頂いたら見逃してあげるっていったのに来ちゃうなんてねー。
これからはもう少し考えて行動することをおすすめするよ。ああ、これからは来世の事ね。君はもうさようならだよ」
「君を目の前で殺した方が、この子の反応が可愛いかもー」なんてありえないほどあっさりとした言葉が聞こえた気がした。
炎の塊が生き物のように佳織へ襲いかかる。
嫌でも
あの灰のような塵を、今まさに目の前で行われているのは逆のこと、このままでは炎がもやし尽くし塵のような灰を作り出してしまう。
「佳織っ!」
「うっわーどうしようか……ここに来る前にヘルメスなんちゃらの毒塵使っちゃったんだけど……」
たまらず俺は叫ぶも、コトダマなんてものはそう便利なものでもなく、フラグは回収させる癖に助けの声には応えない。
炎熱の具現、ただ熱いというよりはひたすらに『火』の印象を周囲に与える化け物は無い足を使って飛びかかり、無い腕で抱擁するように面積を広げた。
たまらず瞳を瞑ってしまった俺には嫌に敏感になった聴覚の情報がなだれ込んだ。
聞こえたものは、燃え盛る炎の音と日々の驚愕の叫び、そして佳織の苦悶の声だった。
「つぁ……熱っちぃ!!」
あまりに命の危機にしては情けない声をあげたその声に、薄目を開けると佳織はほぼ無傷であった。
いかなるカラクリを使ったというのか、まさか親友の服は防火仕様だったりとか……はないか。
どこからか取り出した水筒の水を炎の生き物にぶっかける親友は、「ハハッ半信半疑だったけど神様、ちゃんと愛ちゃんを守る力くれたんだ」なんてこちらが不安になるようなことを喚いていた。
ちなみに炎は水で簡単に消えていた。
弱点は水だったのか……。
「ヘビ人間? ……しかし、彼らはこんな装甲していないような……しかし服から見えた鱗はなんなのかな? ……特徴はあそこにいたイグに似通ったようにも感じなくはないかな…………いやいやいやいやっ、まさかっ……待てっ……ぐはっ」
「長考しているようで悪いが、寝てもらうよ」
そういった佳織は何やら考え始めた日々を殴り飛ばした。
しかし、日々は依然として無傷だ。きっと先程もあった膜のようなもので防がれていたのだろう。
「その防御だって、無限に尽きない訳じゃないんだろ? ひたすら殴って装甲貫通してやるよ!」
「クソッ脳筋が!」
頭脳もいいはずの佳織が脳筋を極め始めた瞬間を目撃してしまった俺は親友をどうすればもとの文武両道に方向修正できるだろうかと考えてしまった。
それはさておき、とにかく野性味溢れ始めた
絵面が酷いとか言ってはいけない。
おおっと、ここで佳織選手が遊びに出たぁ!
ジャブだ、「明日のために」と呟きながらジャブを放ったぞ!!
これにはたまらず日々選手よろけてしまう……が日々選手の代名詞、絶対の盾たる防御の膜は壊れていない!
「……ふんぐるい、むぐぅ……っ!!」
反則技の呪文を使いまたなにか摩訶不思議な現象を起こそうとした日々選手!
だがここで佳織選手の正拳突きだー!!
早くも防護が壊れてしまう!
殴られ弾き飛ばされた日々選手が宙を舞う、素晴らしい、なんと強力なパンチなのか!
「世界を狙えるパンチだな……」
そう呟いた俺は一撃ヒットしただけでピクリとも動かなくなった少女を見て親友の筋力に怯えていた。
今この瞬間あの細腕にはどれほどの筋力が詰まっているというのか。
気になることは山ほどあるがこういう時に初めに言うべきはやっぱりあれだろう。
「なぁお前……」
「んー? ……遅れて駆けつけてきたヒーロー佳織くんにきゃーすてきーありがとーだいてーの感謝の言葉?」
「いや……
目元を引き攣らせてすっと日々を指さした。
「Oh……炎に包まれた親友より自分を襲おうとした人間を心配する愛ちゃんにショックで襲っちゃいそう」
「ハッハハハ……ジョーダンジョーダンアメリカンジョークヨ!」
そう目を逸らして言った俺はため息をついた。
「……また、お前に借りができっちまったなぁ」
「そうだねぇ、今回はなんと愛ちゃんの操まで守ってあげたんだから高くつくよん」
これだからコイツには借りを作りたくないのだと睨むように佳織見ると「いいねぇその目、唆るね」なんて親友は呟いた。
呟きながらもこれ以上の展開に発展しないよう、紐で日々の手足を結んでいる所を見ると物語のセオリーにガンメタ張ってんなぁとありがたいながら呆れ気味に思う。
ただこの感謝の気持ちばかりは表に出すのはなんか嫌である。
というか感謝なんて感情を表に出すのは癪というか……なんというか……。
両手両足を結ばれ首輪で壁と繋がっている俺はイイ笑みを浮かべてこちらを見下ろしてくる親友を俺は視界にとらえた。
「あの……助けてくれませんでしょうか」
「助ける……? えー感謝の言葉の一つもない人を助けるのかーヤダなー!」
ニヤニヤとした佳織は今にも拘束状態のまま俺を持ち帰りそうだ。
それだけはダメだ、最も危惧すべき事柄である。
ちっ、と俺は一つ舌打ちしたあと結ばれた手足をどうにかうにょうにょ芋虫のように動いて土下座の姿勢を作った。
「鈴梅佳織様、先程は誠に申し訳ございませんでした。そしてお救い頂きありがとうございました。
よろしければお手数でございますが貴方様の慈悲深い心で私の両手を繋ぐ拘束具と私の両足を繋ぐ拘束具と首と壁を繋ぐ首輪を外していただけると嬉しいです。
というか外してくださいお願いします何でもしますからその妙な手をやめてっ!」
「ん? 今なんでもって」
「なんでもするとは言ってない」
「FF外から失礼してもそればかりは誤魔化し切れないよ愛ちゃん。フラフラと躱すのはそろそろ限界だと思うのだけど……そろそーろ腹括って」
「縄で首括ってしまった方が楽な気もしてくるのだが」
「え、首絞めプレ……」
「おい未成年! お前の年齢を思い出せ!」
「本当によくブーメランが飛び交うよね最近」
「ブツブツいいながらも枷を取り外してくれるその態度はツンデレかなにかか? 男のツンデレなんか需要ねえんだよォ!」
「少女漫画と乙女ゲーに謝れ! ツンデレキャラもいるんだぞ!!」
「知るかぁ! 俺が需要ないっていったら需要はねぇんだよ!」
「傲慢か!? その中途半端に破かれた服完全に破いてわからせてやろうか?」
「なっ……え、あっ……」
忘れていた。
佳織との会話が楽しすぎて服を破かれていたのをすっかり忘れてしまっていた。
ちょうど拘束具が外れると共に少し佳織から距離をとって残った服の部分で胸を隠した。
「愛ちゃん愛ちゃん」
「…………なんだよ」
先程までの佳織の視線の先がどこに行っていたかを知った俺はキッと睨みつけた。
「まだ女の子になって二日目だよね……? それなのになんで胸を隠すって動作が板についてるの……!? 恐るべしTS娘……っ。イイネ唆るね睨む時の涙目!」
「うっせぇ!」
睨んだ先の佳織は戦慄した面持ちでこちらをじっと見ていた。
興味を持つのはそこなのかよとツッコミを思わず入れる。
「……どこを気にして欲しいのさ……ああ! 愛ちゃんのお胸はちびっこいから隠さなくとも需要はそこまでないと思うよ?」
「ばーか! お前に需要があることくらい理解してんだよロリコンめ!!」
「自分をロリであると認めたね!」
「お前こそロリコンであるって認めたな!」
「ああ、認めるとも! むしろ生涯ロリコンではないと否定したことなぞ一度もない潔白なオレであるぞ!」
「潔白の二文字を一度辞書で調べてみろよ如何にお前に似合わない言葉かってわかるからよぉ!! お前は白は白でも潔白の白じゃなくて白濁の白だよ脳汁白濁液くんがよぉ! いつまでピンク妄想して過ごしてるつもりだ??」
「愛ちゃんまずいよ幼女が言っていいワードの限界突破しちゃってるよ君もう男の子じゃないんだよ慎む心を持っ」
「青少年保護育成条例違反の具現化がなに常識人ぶった発言してんだおらっ! つーか胸とかその先っぽのはR18指定されずセーフらしいから上半身の服が破けても別に俺はR指定くらいませーん、その点お前はどうだ! 危ない発言ばっかしやがってこの」
「うるせぇ!!」
突如第三者の声が響いた。
佳織と少し沈黙が流れ、すっと声の先に視線を向けるとそういえばこいついたなぁと存在を忘れられつつあった日々が喚いていた。
哀れ、俺を辱めようとしたヤツは佳織の手によって既に縄で結ばれてしばらく動けなくされているのである。
「延々と痴話喧嘩だか夫婦喧嘩だか聞かせるんじゃねぇ!」
と、ロールプレイ美少女ver日々ちゃんは怒鳴り散らすので、もはや佳織との口喧嘩などどうでも良くなってきてしまった。
「……帰るか」
「うん、帰ろうな」
「え、いやちょっと待とうか君たち帰ってしまうの? なら縄を解いて欲しいなーって」
先程のカリスマの見る影もない日々はギャンギャンと吠える。
「ああ負け犬の遠吠えが聞こえるわー」
「だなー……ハッハッハ」
◇
妙に長く感じられた夜も明けてきた。
そうとはいってもまだ暗い住宅街だ。
少し肌寒い。
「愛ちゃん、明日から学校だよ? どうする?」
「まず俺は病院に行って俺の状態伝えた方がいいと思うんだけど」
「そうだねー……あ、達成感で忘れてたけど山羊の会とか今の日々の居場所とか通報しないと」
「事情聴取のときどうすりゃいいんだよこれ」
正直警察にオカルト話しても精神科に投げられるか薬を疑われるだけだろう。
「そんときゃどうにかなるべ……それより愛ちゃんや」
「なんだね爺さん」
「ふぉっふぉっふぉ…………それは仲睦まじく爺さんばぁさんになるまで夫婦として過ごす未来の暗示っていうことでおーけー?」
「あ、いや……俺寿命で死にはするけど外見変わらんらしいぞ」
「なん……だと!? オレは……オレはいつの間にか合法TSロリを何時でも抱ける立場にいたというのか!?」
「いや何時でもは抱けねえよ? 確実に努力次第だし妙な幻想を抱くのはオススメしないぞ」
「…………努力、次第?」
「うん? ……あーいや、その。あのな?」
「うん」
「俺は可愛いと思うんだ」
「……まぁ、そうだね」
「絶対寄ってくるやつがいると思うんだよ」
「なんなら男だった時も可愛かったしいつかオカルト的な事件でTSするのを期待して狙ってたヤツらいたもんね。なんならTS展開すら狙わず男の娘を狙ってたヤツもいた」
異世界転移とか不思議なお薬とか魔法の力で女の子に! を期待してたやついっぱいいたぞ。とのことである。
人間はやはり愚か……滅ぼさなきゃ……そんな使命感に燃えそうである。
「それは初耳だけど!? ……まあ、だからさ、その狙いも誰かとくっ付いちまえばきっとなくなるだろうよ、ね?
まぁ、本当に寄ってくる奴がいた時の最終手段だけど……どう?」
「どう? って、それはつまりつまるところラノベのような偽装でお付き合いしてるフリしてたけどそうしているうちに互いに意識しあって、以下省略?」
「お付き合いしてるフリまでしか当たってないぞ」
「ドキッ、いつもはイヤな奴だけどいいとこあんじゃん! そんな時に二人でロッカーに隠れて急接近!?」
「漫画アプリの広告で流れてきそうなノリにはならん」
「愛ちゃんったら……い・け・ず」
「ひっ……やはり先程のお話はなかったということで……」
「ダメだよ愛ちゃんいうこと聞いてもらう権限発動!」
「あっずる!!」
「ずるくありませーん。拒否権はないし、悔しかったら過去の自分を恨んでくださーい!」
「やっぱお前キライだよクソ野郎! ふぁっきんハゲ!」
「あっ! ……昨日までだったら『ふぁっきん人生のくそぬーぶ! 後でFPSでタイマンしろ! 逃げるなよ死体撃ちしててめぇの死期まで罵ってやるよ!!』くらい言ってたのに言動柔らかくなってるね」
「なんで言おうとしたこと言い当ててるの……? こわ……読心能力者かよ……気持ち悪っ」
「言おうとしたのになんであそこで抑えたのかな愛ちゃん? ねぇ、ねぇ……なんでもいうこと聞いてもらう権限発動! 理由を話せ!」
「卑怯すぎる! 乱用! 権限の乱用だぁ!!」
「で、理由は?」
助けてくれた恩人の親友に対してたまにはトゲを減らしてやろうかななんて思ったっていったら三年は煽られるよな……。
いかに嘘つかずに俺への被害少なく理由を語るか、なんてかぐや姫の難題より難しいことを考え始めた俺はひとつため息をついた。
◆
「イグ、かーくんになんて呪いをかけたの?」
まだ暗く不気味な神社で影が二つ。
「むぅ……呪いとは失礼じゃの。簡単じゃよ……あれはの──」
「あれはね、あなたも知ってるでしょう? 『名状し難い契約』ってやつを」
「割り込んでくるでないわ黒山羊!」
いや、三つ。
「待ちなさいイグ! 名状し難い契約? あんなおぞましいものをかーくんにかけたというの!?」
「いや、落ち着くのじゃあれはの……」
「あれに似通った契約というだけよー? といってもそう副作用は作らないだろうし……力を授ける代わりに少し鱗が生える、その程度じゃないかしら、正解よね、イグ?」
「ぴったんこじゃの……相も変わらず人の考えを読んできおるのぉ……」
「だって幾度か夜を過ごした中ですもの!」
ルンルンといった様子で妖艶な女性が蛇の神格イグの分け身……愛や佳織が神様と呼称した少女に寄りかかった。妖艶な女性の招待は千匹の子を孕みし森の黒山羊こと豊穣の母神シュブ=ニグラス。
黒山羊賞賛の儀式を山羊の会が積み重ねるように幾年に渡って繰り返したおかげで中途半端に招来された彼女は、実は人の姿になってイグの祀られる神社で惰性を貪り、まれに色欲を暴走させていたりするのほほんとした生活をしていた。主な色欲の被害者はイグであるのだがそれはまた別の話だ。
「……かーくんにこれ以上、異常が起きたらしっかりケジメつけて貰うわよ。指詰めなさいね?」
「おぅ……じゃぱにーずやくざ」
神を涙目に変えた愛の母親は、とても笑っているようには見えないのに笑顔であった。とても愛のこもった笑顔である。
神は恐れた。
神である我が身が眼前の人間はとーっても恐ろしいものだと訴えてきたのだ。
横で見てくる情欲女神は助けるつもりもないらしくイグの涙目を手元に持った長方形の薄型物質でカシャリと撮っていた。「いや待てお主は神じゃろいつの間にスマホなど!」と叫びたかったがひとまずは話を逸らすことに全集中することにした。そのスマホのために使った費用の出処、後で問い詰めるからなとギャグキャラに貶められた蛇神は心に誓う。
「のぉ……お主いつまでここにいるつもりじゃ?」
この人間が最も興味を持ちそうな話題は……と神の人理を超越した思考でたたき出した演算結果を口から出力した。
「……それはもちろん、かーくんがここに愛と帰ってくるまでよ……きっと吊り橋効果で凄いことなってるわよー?」
「その時は私がお祝いしてあげるわね! 孕みやすくなる祝福よ!!」
姦しくガールズトークを始めた二人をよそに呆れたような顔でイグは黙った。少し余計な情報だが、シュブ=ニグラスは人間の女性になれるがその代わり人並みの脳になってキャッキャとガールズトークを楽しめる喜びに包まれていたりする。
「あの黒山羊がこうなるとは……世も末じゃの。さて、主、あの佳織と愛じゃったか? 彼奴ら既に帰っておるぞ」
「えっどこ!? もうこの神社に辿り着いたの?」
「いや、主の家じゃの……今ちょうど玄関開けて『ただいま母さん……どこー留守?』『電話かければいいんじゃないの愛ちゃん』『あの人電話持ってないから……』『出会って十数年目にして衝撃の真実!』とか話しておる……お、おおおお主!? なに突然走って帰ろうとしておるのじゃ!」
「……早くあの子たちに会いたいのね? 子に対する親の気持ちってそんなもんよー」
「お主は子が多すぎじゃよ! もう少し節操を……」
「イグ、イグ!!」
「どうしたお主! 走って帰ったのではなかったのじゃ!?」
「転送しなさい! 私を家まで送ってちょうだい!」
イグから、確かにプチッと何かが切れる音がした。
「……ギャーギャーやかましいのじゃ! 主ら一旦そこに直れい!」
人も神も騒がしいのは変わらなく、またどちらもため息をつくらしい。
ふと、そう思ったイグは眼前の莫迦どもを見て一言、莫迦は神でも人でも通じ合えるのじゃな、と。
自分も通じあっていたことには気付いていないイグであった。
どっとはらい。