『今なんかヘンな声しなかった〜?』
『ええ〜? 気のせいっしょ〜』
タイル張りのトイレの中に、女性の声が木霊する。
どうやら、鏡を見ながらメイクを直しているようだ。
ドアの隙間から彼女たちの様子を覗いた俺は、とりあえずホッと息を吐く。
(なんとか隠れられたみたいだな……)
あの瞬間、俺は間一髪、彼女たちに見つからないタイミングで身を隠すことができた。
……刺身の手を引いて個室に入るという、さらに見られたらまずい状況に陥ることになってしまったが。
「んー! んん――!」
刺身は、突然のことに驚いてジタバタと暴れ、声を出そうともがいている。
しかし、彼女の身体は再び俺の腕の中。
さらに、彼女の口は俺のてのひらによってきっちりとガードされている。
だから、今のところ刺身が騒いで見つかるという不安はないだろう。
……ふ、ふふふ……ふはははは!
勝った、勝ったぞ! 人類の勝利だ!
このまま上手く息を潜めていれば、いずれ女性たちもメイクをし終わって出ていくだろう!
そうすれば、そのタイミングでこっそりとトイレをあとにし、見つからずに済む!
そのためには、とりあえずこのまま物音を立てずに隠れていることが大切だ!
息をする音も聞こえないくらいに、ピタリと動きを止める。
未だ女性たちは鏡の前でなにやらカチャカチャと道具を漁っている。
このまま何事もなく終わってくれ……!
俺が、そんな切実な思いを心の中で叫んだ時だった。
「んんんー! んん――! んっ、んん――!」
「ぐは……っ……!」
刺身が、俺の股間に膝蹴りを喰らわせたのは。
男にしか分からない、この世の終わりのような激痛が股間を襲う。
全身が冷たくなって、血液が股間に集中する。
(ああああああああああああああ! 刺身のあほおおおおおおおお!)
内心大声で叫びながら、俺はその場で股間を押さえてうずくまった。
痛い、痛い、痛い!
現実でも大声で叫び出したいが、そんなことをすれば女性たちに見つかってしまう!
そんなことになれば、地球が滅亡する前に俺の人生が終わっちまう!
汗がだらだらと身体の表面を伝い、ぽたぽたと滴り落ちていく。
(おい、刺身……なんでこんなことしたんだ……)
痛みが限界になった俺は、小声で刺身に問う。
すると、彼女は別段悪びれもしない様子であっけらかんとこう言った。
(そこに股間があったからです!)
「チクショウめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
思わず、大きな声を出してしまう俺。
あ、マズい! と思った時にはすでに遅かった。
『え……男の声……っ?』
『キモっ……多分あそこの個室からだよね……?』
誰もいないことを装うため、鍵をかけていなかった自分を恨む。
女子トイレにいてはならない男の存在に気づいた女性たちは、何を思ったのか俺たちが隠れている個室へと近づいてきたのだ。
『やっぱり誰か入ってるよ……』
『これ、マジでやばいんじゃない……? よかった、スタンガン持ってて……』
話しながら、どんどんと距離を詰めてくる。
っていうか、なんでそんな物騒なものを持ち歩いてるんだよ。
普段よく襲われるのかなあの子。ストーカー被害にでも遭ってるのかな。
窮地に陥ったことで、要らないことばかりが頭に浮かんでくる。
そんなことがわかったところで、なにもこの状況は解決しないのにさ。
……ああ、もうダメだ……。
今度こそ、俺の人生は終わりだ……。
絶望に打ちひしがれながら、ふと隣にいる刺身を見る。
すると、彼女は何故か決意に満ちた瞳をしているではないか。
(どうしたんだ、刺身……?)
不思議に思って、小声で刺身に声をかけてみる。
すると、彼女は真っ直ぐな瞳でこう言った。
(お兄様……わたしを、狂わせてみてはいただけないでしょうか?)