我が愛しのルーク・ハントへ   作:相馬アルパカ

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ヴィル・シェーンハイトの肖像画

 床を這うような深い音が2回響き、白い鳩が顔を出す。

 オンボロ寮・談話室の柱時計が14時を伝えた瞬間、監督生はアトリエに使っている一室でカンバスに向かい合っていた。アトリエは多くの画家がそうしているように北向きにある。監督生は右手に絵筆、左手に木製のパレットを持っていた。

 いや、パレットとは言っても本当はそんな上等なものではなく、ただの板切れである。寮内は強い衝撃を受けて破損している箇所が多く、撤去され忘れた板切れがそこかしこに転がっている。監督生はそのうちの中でもマシなものを拾って、自身の趣味のために活用させてもらっていた。見てくれは良くないが、元々がゴミなので使い捨てられるのがいいところだった。

 

 今が何時かわかった瞬間に集中力が切れてしまい、空腹が存在を訴え始める。なにか食べるものはないかと考えて首を振った。絵を描いていないときは5分おきに考えている内容である。答えは毎回変わらない。キッチンにはもらいもののパンの耳とキャベツの芯があるだけだ。それも計画的に食べなければ1度の食事でなくなってしまう。財布はやせ細り吐き出すものがなにもなかった。

 

「ボン・ジュール! 失礼するよ。監督生とはキミのことかな?」

 

 監督生の背後から歌うような声がした。振り向くとアトリエと廊下の境界線に羽根帽子を被った金髪のやたらキラキラしい男が立っている。均整の取れた体をしており、目つきはいいとは言えないが人懐っこい雰囲気があった。商人のような馴れ馴れしさはない。道端で猫を見つけた際、人にするように挨拶をしそうな雰囲気の男である。

 男はポムフィオーレの寮服を着ている。口に出すのは控えたが、今日は学校は休みのため、監督生はなぜそんな格好をしているのだろうかと不思議に思った。

 ポムフィオーレ寮の事情はよくわからない。

 とはいえ、自分も制服を着て過ごしているのでおかしいのはおあいこだった。まあ、監督生の場合は制服以外に服を持っていないからなのだけれど。

 

「はい。ボクが監督生です」

 監督生はぐらつく木製の椅子から立ち上がり軽く頭を下げた。

「すみません、また呼び鈴が壊れてしまったんでしょうか。最近調子が悪いんです」

「いいや。呼び鈴は鳴っていたようだよ。聞こえなかったのだとすれば、キミが絵と対話をしていたのが原因だろうね。素晴らしい集中力だ!」

 

 羽根帽子の男は機嫌良さそうに目を細めると、無遠慮な足取りで監督生の前まで足を進めて少し強引に握手をした。両手でギュッと掴まれると、この男が細い見た目に反して存外力が強いことが分かる。

「お会いするのは初めてだね。私はルーク・ハントで、キミはトリックスター。私はキミに注目していてね。この1週間ほどはキミのことを知りたくて、ずいぶんと見つめさせてもらったものさ。トリックスターはヒト属で右利き、パンをよく食べ身長は――」

「ちょ、ちかっ。近くないですか!? あと把握されすぎていて気持ちが悪い!!」

 男の鼻先が自分に当たりそうなくらいに近付いたので、監督生は反射的に男を押しのけようとした。が、彼の身体は大木のように安定していてびくともしない。靴底で蹴飛ばそうとすると、片腕を持ち上げられてするりと避けられる。監督生はルークに手首を高く上げられ、ワルツのように1回転をして、よろめきながら椅子に座った。先程まで座っていたぐらつく椅子にである。

「おっと。話が脱線しやすいのが、私の悪い癖だね」

 多分、悪い癖はそこではない。そこも悪いかもしれないが、そこではない。

 監督生は目を回しながら、ルークが早く帰ってくれるようにと祈った。しかし、監督生の無言の抗議はルークの心には届かなかったらしい。彼は流れるような動作で寮服の胸ポケットから封筒を取り出した。封筒にはポムフィオーレ寮の封蝋が押されている。女王の冠に短剣、そして毒林檎のアレである。

「私は美しいものを愛しつつ、副寮長としてポムフィオーレを支えている。今日は画家としてのキミにお願いがあってここに来たんだ。見ての通り、寮を代表するものとしてね」

 そう言って、監督生に封筒を渡す。触っただけで質の良さがわかる滑らかな封筒だった。爪で封蝋を弾くようにして中身を取り出すと、流麗な筆記体が目に入る。異世界からやってきた身だが、幸いにして文字は読めた。

 

『ヴィル・シェーンハイトの肖像画を依頼する』

 

 美辞麗句が連なっていたにもかかわらず、真っ先に飛び込んできたのは結論の一文のみであった。心に北風が吹き、手足が凍りつく心地がした。

 監督生の顔が青く染まったのを見てルークが相好を崩す。

「引き受けてくれるかい?」

「えっ。嫌です」

 心のままに答えてしまい、監督生はやっちまったと口元を引きつらせた。空を横切るカラスの鳴き声がやけに際立って聞こえた。

 監督生の即答にルークは目を見開いて大きくまばたきをする。パチパチと2回。それが演出でそうしているのか、監督生には判別がつかなかった。

「理由を尋ねてもいいかい? 肖像画を描くのは大変に名誉なことだし、やってみたら楽しいと思うのだけれど」

 ルークは柔和な笑みを浮かべた。監督生の返答に気分を害しているようではなく、本当にただ疑問で尋ねているようだった。彼の口調が柔らかく穏やかだったため、監督生はいくらか落ち着きを取り戻す。取り乱したことを恥ずかしく思いながらも深く息を吸うと、混沌とした頭の中がある程度は秩序を取り戻した。

「ボクはたしかに絵を描きますが、趣味の領域を出ないものです。お金をもらった経験はありません。

 ご依頼の肖像画は、歴代の寮長のものと共に廊下に並べると手紙に描いてありました。つまりボク達が卒業した後も長く人の目に晒される、そういう類(たぐい)のものなのでしょう?」

「優れた想像力だね、トリックスター!

 ご指摘の通りさ。キミが描いた絵は我が校の歴史を示すものとして、寮生から畏敬の念を浴び続ける。さあ続けて。それでキミが不安に思っていることは、どんなことだい」

「今、割と伝えたつもりだったんですが」

 はあ、と監督生は息を吐いた。

「言い直します。ボクよりもふさわしい人が他にいると、そう言いたかったんです」

 至極、一般的な意見だと思う。

 監督生は口に出したことで気持ちが固まった気がして、このさき何を言われても引き受けまいと心に誓った。しかし――。

 

「私はキミの絵が見たいんだ。キミの絵が、とても好きだからね」

 

 ルークの言葉の矢が監督生の心を射抜いてしまい、決意が揺らいだ。

 自分が良いと思って仕上げたものを、好きだと言われたのは初めてである。自己評価が低い監督生は自身を褒められても世辞としか受け取れない。しかし、仕事ぶりを褒められるのは気分が良かった。責任や誇りをもって取り組んだことを認めてもらうのは、誰だって嬉しいものである。

 

「いや、でも、見ての通り粗末な道具しかありません」

「いいものを用意させるよ。その中から好きなものを選んで使えばいい」

 

「働きに出ないといけないから、あまり時間を使えません」

「引き受けてくれれば、その時点ですべての謝礼を渡すと約束しよう。現金と小切手、どちらがお好みだい」

 

「ボクのような無名な者を使っては、寮のみなさんが気分を悪くするでしょう」

「そうかもしれないね。でもその中に私より偉い立場はいるのかな」

 

 金銭・時間・周囲からの庇護、歴史的な観点・外聞・前例!

 すべてにおいて、ああ言えばこう言う! なんなんだ、この人は!

 

 ルークは監督生の逃げ道を鮮やかに潰して回った。逃げ回るネズミと、追いかける猫の鬼ごっこだ。痩せたネズミは逃げながら、自分には食べるほどの価値はないと思っている。しかし毛並のいい猫に口説かれる内、段々と自分には価値があるような気になってきた。少なくともこの猫は、信じられないことだが、本当に監督生に価値を感じているようだから。

 

「はは。ははは!」

 監督生は笑った。涙が出てきた。

 様々な感情がたくさん沸いてきたが、その中でも一等に強いものがあった。名前をつけるならば「嬉しい」である。長く遭難していた人が自分を見つけてもらったら、こんな気持ちになるのではないだろうか。

 

 監督生が絵を描いていたのは、絵が好きだからではない。

 ほかにやることがなかったからである。

 

 監督生は諸事情で親元から離れていた。帰れる保証はない。

 現状に対し、待つことしかできない人間が正気を保つにはなにかに没頭する時間が必要だった。1日に1時間、もしくはそれ以上が必要である。監督生はたまたま絵が描けて、技術の向上というのは終わりがないものであったから、暇をつぶすにはちょうどよかった。

 

 気が抜けると再び空腹が頭をもたげ、のんきな腹の音が聞こえた。

「食事にしよう。私がお土産に持ってきたスモークベーコン半分と、キミのパンを交換しないかい」

「なんて素敵な提案なんだろう」

 監督生は腹をさすりながらキッチンに向かった。パンと言っても耳しか無いが、そんなことルークは承知の上だろう。なにしろずっと観察されていたようだから。

「あなたのことは、なんとお呼びすればいいでしょうか」

「ぜひ、愛の狩人と呼んで欲しいね」

「あー。じゃあ、ムシュー・狩人とお呼びします。もしくはルーク先輩と」

 監督生はパン耳を欠けた大きな椀にすべて盛り付け、キッチンのカウンターにドンと置いた。座って食べるような上品な食事でもない。フォークすら用意しなかった。

 ルークはそれを見て「ふむ」と思案すると、魔法でフライパンやナイフを取り出す。ほかにもたくさん出てきたが詳細は割愛する。ベーコンをナイフで少し厚めにスライスして、焼き目がつくまでフライパンの上で踊らせた。

「こちらのパン耳、お借りしても?」

「はい。お好きにどうぞ」

 焼けた油の匂いが閑散としたキッチンに漂うのは初めてのことだった。ルークは絵付けの見事な磁気の皿と、銀のカトラリーを2人分出す。透かし模様が美しいランチョンマットの上にそれらを並べると、粗末なパン耳がずいぶんと上等な食事になってしまった。

「とても美味しそうですね、ルーク先輩」

「そうだね、トリックスター。今日はキミと私が出会った記念すべき日でもある。ミネラルウォーターにこだわりはあるかい? なければ私のお気に入りにしよう」

「水にこだわりはありません。食事の前にひとついいでしょうか」

 監督生は湯気の立つ食事から顔を上げた。食事をするとあって、ルークは彼のアイコンである羽根帽子を傍らの椅子に乗せている。陽の光に似た薄い金髪が、よりはっきりと見えた。

 

「肖像画のお話をお受けします。ボクはあなたのことが、すっかり好きになってしまいましたから」

 監督生は言いながら、自分がこんなに明るい声を出せることに驚いていた。新しい発見だった。

 

「メルシー。私の魂もキミに夢中だよ!」

 まったく大げさな男だった。

 

 しかし、監督生は彼のそういうところが好きだった。

 いつでも楽しそうで心が明るくなるし、少し風変わりだがしっかりとした物差しを持っている。並んで走ることは出来ないだろうが、呼べば来てくれるような親しみがあった。

 

 この人のために絵を描くなんて……。

 想像しただけで確かに楽しそうである。

 

 

 ポムフィオーレ寮の印象は一言で言えば「城」だ。

 どう見ても寮ではない。校舎よりも大きいのではと疑ってしまうくらいの規模だった。ヴィル・シェーンハイトは談話室にいるらしい。監督生はルークに導かれるようにして寮内を歩いた。上を向けばクリスタルガラスのシャンデリア、横を見れば花瓶に大輪の花。どこを見ても手を抜いたところが無く、生地が薄くなった制服を無理矢理着ている身には威圧感すら感じられた。

「ご覧、トリックスター。キミの作品が並ぶ場所はあちらだよ」

 ルークが細い指先を向けた先には、歴代の寮長の肖像画が連なっていた。任期と名前が記されたプレートの上にはA4サイズを一回り大きくしたくらいの肖像画が飾られている。

「思ったよりも大きくないサイズで安心しました」

「ふふ。寮長の任期は通常1年だからね。入学式までに現寮長の肖像画を飾れるように、この大きさにしているそうだよ」

「……入学式から結構経ってますよね?」

「今までに17人の画家が勇敢に挑み、そして散っていった」

 ルークは左右の手のひらを天井に向け、悲しそうに頭を振った。聞かなければよかったと監督生は後悔した。

 

 談話室に入った瞬間、談笑をしていた寮生たちの視線がいっきに監督生に向けられた。ひやりとした空気があたりに漂う。副寮長が連れてきた手前声に出すものはいないが、無知を咎めるような嘲笑がそこかしこに溢れていた。

 率直に言って空気が悪い。

 監督生はうつむきそうになるのを意思の力で抑え、顎を引いてルークに続いた。この先どうなるかはわからないが、今この瞬間に怯むことはしない。そんなことをしたら、自分を見つけてくれた先輩の顔に泥を塗ることになる。

 

 悪意で逃げ出すようなら引受けない。

 こうと決心したら最後までやりぬくつもりだった。

 

 ヴィル・シェーンハイトの座る椅子は雄の孔雀を模した豪華なものだった。椅子を守るように天井から赤いビロードが吊るされており、赤・青・黄のコントラストが美しい。非常に座る人間を選ぶ椅子だった。この椅子に座っても見劣りしないものこそが、寮長にふさわしいと分かる椅子だった。

 そして、ヴィル・シェーンハイト以上にこの椅子が似合う人間なんておそらくこの世にはいないと思われた。感覚的にそう思わせるなにかがあるのだ。

 絵を描くものに限った話ではないのだが、監督生は美しい顔を見るとまじまじと観察してしまう癖があった。どこを美しいと感じるのか、自分なりに考えをまとめたくなってしまうゆえの行動だった。試しに野性的な美貌のレオナ・スカラー、洗練されたデイヴィス・クルーウェルなどを空想の中で雄孔雀の椅子に座らせてみたが、しっくりこない。

 寮服でないからかとルークも座らせてみようとしたが、上手く想像ができなかった。想像上であってもルークが椅子に座るのを拒否したためである。

 

 監督生の姿を認めると、ヴィルは美しく整えられた眉をわずかに歪めた。

「なにかしら。この泥まみれの小ジャガは」

 ヴィルに開口一番にそう言われ、監督生は思わず「小ジャガて」と呟きそうになる。なんで野菜やねん。

 狩人は恭しく羽根帽子を外し心臓を隠すようにして頭を下げる。監督生も慌てて頭を下げた。

「麗しのヴィル。この子が私が選んだ子だよ。18人目の勇気ある画家だ」

 ルークが頭を下げたまま視線を監督生に流す。光の加減か、彼の瞳がペリドットのような明るい緑色に輝いた。

「さあ、挨拶を。トリックスター」

「はい……偉大なる、ヴィル・シェーンハイト寮長。お目通りがかなったこと、恐悦至極にございます」

 監督生はルークにひとつ頷き、事前に教えてもらった口上を丁寧に述べた。

「堅苦しい挨拶はいらないわ。用件を言いなさい」

「あなたの肖像画を描いていいですか」

「ダメよ」

「なんでやねん!!!」

 監督生は抗議した。ヴィルはさして、今の不敬な抗議を咎めなかった。文化の違いから意味が伝わらなかったのかもしれない。

「だってアタシ、その話を聞いたの今なんだもの」

「は?」

 ヴィルは意外にもきちんと理由を教えてくれた。そしてそれは納得に足る回答だった。事前に聞いてないのなら、それじゃあ、まあ、断るわな。

 って。おいおいおいおい。そうじゃないだろう!!

 監督生がこれ以上無い速さで首を動かすと、ルーク・ハントが「びっくりさせようと思ってね!」と朗らかに笑いかけてくる。一切の悪気が感じられないことに絶望した。

 監督生は自分がとんでもない思い違いをしていたのではないかと不安になった。なのにルークの瞳は穏やかなままで、それが一層不安を煽る。

 羽根帽子の奇人は静かに口を開いた。

「この寮では、寮長の肖像画を描く画家を誰でも1度は推薦できる。そういう権利をみんなが持っているんだ。寮長に顔を覚えてもらうための、とても大切な権利なんだよ」

 そうだね? とルークが同意を求めるようにあたりを見回すと、彼と目が合った寮生が一様に首を縦に振った。

「私がこれまで権利を行使せずにいたのは、優れた審美眼を持つものが活躍する機会を奪わないためだった。しかしね、トリックスター。キミの作品を見た瞬間、私は紹介せずにはいられなくなってしまったんだよ!」

「……っ」

 血潮が逆流し、監督生は思わず息を止めた。

 彼が粗末なオンボロ寮でも豪奢なポムフィオーレ寮でも主張を変えなかったことが、監督生の心に再び彼への信頼を蘇らせていた。

 

 人生では、時々、絶対に自分を曲げてはいけない瞬間がある。

 監督生にとって、それは今だ。

 

「どうすれば、あなたの肖像画を描かせていただけますか」

 監督生はもう1度ヴィルに質問した。その声は静かだが強い決意に満ちており、澄んだ瞳には、この訴えを軽いものとして切り捨てたら、残る生涯の最後の日までこの顔つきが頭から離れないだろうなという凄みがあった。

 ヴィルの形のいいくちびるが無意識に弓なりにしなる。

 この画家がどういった絵を描くのかは知らないが、そうとうに本気であることは伝わってきた。

「ルーク、今何時かしら」

「15時48分だよ、ヴィル」

「そう。で、この小ジャガは絵を1枚描くのにどれほどの時間が必要なの」

「ふむ。縦22.7cm×横15.8cmのカンバスであれば、平均で3時間22分と言ったところかな」

「あいかわらず、数字が具体的すぎて気持ち悪いわね……。

 まあいいわ。なら、そのサイズで20時までに1枚仕上げなさい。夕食が終わって一息ついた頃に出来を確認してあげる。できるわね」

「やります」

 監督生の声には迷いがなかった。ヴィルは「いい返事だわ」と微笑み、「下がりなさい」と付け加えた。そしてもう監督生に用はないとばかりに膝においていた本の続きを読み始めた。

 監督生は丁寧に頭を下げ、ヴィルの読書の邪魔にならないようにそっと離れた。

 

 ……とても緊張した。心臓がドキドキして、体中に嫌な汗をかいている。

 しかし、監督生の本番はここからだった。

 

「ルーク先輩。道具を準備するのにどれくらいかかりますか」

「すぐにでも。場所はどこがいいかい?」

「許可をいただけるならここで。一刻でも早く取り掛かりたいんです」

「ウィ。仰せのままに。キミが絵を描く過程が見れるなんて、素敵な予感に心臓が踊るようだよ」

 ルークがペンを指揮棒のように振るう。イーゼル、カンバス、その他絵を描くのに必要な道具が次々と現れた。イーゼルの高さがオンボロ寮とまったく同じだったり、いつも使っているメーカーを把握されてることについてはこの際何も言うまい。

 監督生は「ありがとうございます」と言って椅子に腰掛けた。

 小皿にペインティングオイルを入れようとして、オイルのふたが固いことに気が付く。

「これ、新品だ」

 見れば分かることなのに言葉が喉から滑り落ちてしまった。

 食べるもの以外で人が手を付けていないものを使うのは、いつぶりのことだろうか。

「キミのファンからの贈り物さ。存分に使っておくれ」

「はい!」

 絶対にいい絵を描こう。しばらくはそれだけ考えてればいい。

 

 

 

 そのあとの監督生の集中ぶりと来たら、鬼気迫るものがあった。

 じーっとなにもないところを見ては、ひらめいたり眉をひそめたりした。監督生にしか見えない生き物が室内を飛んでいて、それを目で追いかけているみたいだった。美意識の塊みたいなポムフィオーレの寮生たちにとって薄汚い監督生は忌むべき存在だったが、傍らに控えた副寮長が飽きもせずニコニコとカンバスを見つめているので、監督生にわざとぶつかることもできなかった。

 

 17時を過ぎた頃、監督生の身体を案じたエペル・フェルミエが水と軽食を運んでやった。監督生は水にだけ手を付けた。なんだか見てもいいらしいので、エペルもカンバスを覗き込んだ。そして、あっと驚いて天使のような笑顔を見せた。エペルがそのような表情を浮かべるのは珍しい。好奇心が抑えられなくなった寮生がひとり、またひとりと偶然通りかかったふりをしてカンバスを眺めて、あるものは納得したように、あるものは数秒見入っていた。

 ヴィルは仕事をこなすために夕食前にいったん自室に引き上げた。

 談話室を出るために扉を開けた瞬間、そういえば今日はやけに談話室が静かだったと気が付く。監督生の存在がそうしていた。邪魔をしづらくする熱意が監督生の周りから空気のように発散されていた。ヴィルは仕事柄、優れた集中力を持つ芸術家をこれまで何人も近くで見てきたが、監督生の集中力はそれに勝るとも劣らなかった。

 

 最終的にはカンバスを見ていないのはヴィル・シェーンハイトのみになり、ヴィル以外のみんなはそわそわとしていて、例外なく絵の完成を待っている風情になった。

 

 

 

 その日の夕食は談話室で行われた。

 寮生のひとりが誕生日であったため立食形式のパーティーが行われていた。ヴィルは流石にそんな中で絵を描かせるのは気の毒だと思ったが、当の監督生が気にしていなかったし制限時間を設けたのは自分である。パーティーの主役である寮生は気にしていないどころか、時々カンバスの具合を見に行っている感じがあった。

 パーティーには肉汁が滴るローストビーフや、監督生が生涯食べることもなさそうなご馳走が並んでいたが、監督生は目もくれず水しか飲まなかった。ヴィルは寮生以外が食べてはいけないなど一言も言わなかったし、周りもそれを理解していたが、本人がそれどころじゃないと言うのでは仕方がなかった。

 誰かから指示があったわけでもないのに、人気のあるご馳走が偶然少しずつ残されていて、監督生が食べたいというのであれば食べられるようにしてあった。

 

 みんなが20時を待っていた。

 

 監督生が「できた」と呟いたのはヴィルが定めた時刻の7分手前のタイミングだった。談話室にはすべての寮生が「たまたま来ました」という澄まし顔で集まっていたにも関わらず、監督生の完成を告げる声はよく響いた。

 監督生は「できました!」と談話室の奥にいるヴィルに呼びかけ、立ち上がろうとしてよろめく。ずっと同じ姿勢でいたせいか、立ち上がった瞬間に身体が前のめりになってしまったのだ。

「マーベラス! 実に素晴らしい。よく頑張ったね、トリックスター」

 そう言って、ルークが監督生を支える。

「へへ。ルーク先輩、ありがとうございます。

 あっそうだ。この絵はどうやって運べばいいだろう。何も考えていませんでした。あと数分しか無いのに」

「いいわよ。特別にアタシのほうから出向くから」

 ひときわ目を引く美貌の持ち主がこちらにやってきたので、監督生はそちらにイーゼルを向けた。金色の毛並に紫の瞳をした綺麗な猫が描かれていた。首にはポムフィオーレカラーのリボンが巻かれており、猫の口元は少し意地悪そうに弓なりにしなっている。なんだか鏡で見たことのあるような猫だった。

 ヴィルは少しカンバスから離れてみたり、逆に近付いたりしている。

「あなたの肖像画を描かせていただけますか」

 監督生が尋ねると、ヴィルは「そうねえ」となんだかよくわからない返事をして「ひとまず、この絵は悪くないからアタシが引き取るわ」と告げた。

 

 監督生は知ることがないが、ヴィルはそれなりにこの絵を気に入っていたらしい。マジカメに写真をアップして、短い間ではあるがアイコンに設定していたくらいには、気に入っていたらしかった。

 

 

 監督生がヴィルの肖像画を依頼されてから、しばらくが経った。

 依頼人の期待を裏切らぬよう、監督生は授業が終わると真っ直ぐに寮に戻り、アトリエにしている一室にこもった。監督生は自分でも少し物事を思いつめているように感じていたが、没頭するとそればかりする性質のためどうにもならなかったのだ。

 朝は日が昇るタイミングで起きて絵を描き、絵の具が乾くまでの間学校に行っているような生活だった。

 

 

 

 疲れが取れず少し憂鬱な朝だった。それでもいつもよりは眠れた気がする。

 机に突っ伏すように眠っていたのに背中のあたりが暖かかった。右手を左肩に当てると上等な布の塊が乗っかっており、同じ服を持っているはずなのに、どうしてこうも違うのだろうなとぼんやり考えた。

「ルーク先輩。チャイム、壊れていました?」

 眠いので目を閉じたままムニャムニャ尋ねると、羽根帽子の先輩はあの素敵な声で「いいや。起こすと悪いから勝手にお邪魔したんだ」と仰った。監督生が「それは犯罪なんですよ」と返すが、言葉に効果がないことは監督生が一番知っていた。

 

「先輩。どうです、その絵。だいぶ出来てきたでしょう」

「とても素敵な絵だね。品よく、知的で、優雅。それでいて媚びたところがない」

 監督生はルークの称賛を聞くと幸せそうな顔をして再び眠りについた。緊張の糸が切れてしまったようだった。ルークがここまで褒めてくれるのなら、ヴィルもこの絵を気に入ってくれるに違いない。

 あなたに褒めてもらいたくて、ボクは頑張ったんですよ。

 そう、心の中で呟いた。

 

「我がポムフィオーレ寮は、美しき女王の奮励の精神に基づいている。美に対する努力を行う者や、新しい美を作り出す者に対して、惜しみない拍手を贈らせてもらうよ」

 

 ルークはペンを振るった。春の陽光に似た穏やかな光が監督生に集まる。

 ルークが監督生を訪問したのはヴィルからの贈り物を届けるためであった。ヴィルはポムフィオーレ寮の肖像画を手掛けた人間がサイズも合わない服を着るなど許されないと主張して、自身のポケットマネーで監督生が四季を過ごすのに必要な制服をあつらえてやった。シャツもベルトも靴も監督生のために仕立てたものである。ブレザーには孔雀の羽根を模したピンブローチが飾られており、これはポムフィオーレ寮が監督生の存在を認めたことを示すものであった。

 それだけでなく運動着も式典服も用意してやった。

 もう服に関して言えば、監督生はみじめな思いをしながら廊下を歩かなくていい。ポムフィオーレの寮長にしてファッションリーダーのヴィルが揃えたものなのだ。馬鹿にしようものなら、報復が恐ろしかった。

 

 監督生の努力をルークは知っている。

 この子が喜ぶ顔を想像すると幸せな気持ちになった。

 

「でも、今はよくお眠り。トリックスター」

 

 ルークは労るように声をかけると再びカンバスに目を向ける。理由はわからないが、惹きつけられるような強い魅力がこの絵からは感じられるのだった。

 

 

【とある美術雑誌の1ページ】

 

 ナイトレイブンカレッジ出身の画家・故■■の初期の代表作である『ヴィル・シェーンハイトの肖像画』で新たな発見があったと発表された。修繕作業を行っていたところ、下書きの段階では下記の記載があったことが明らかになった。油彩の下に木炭で記されたものである。

 

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 我が愛しのムシュー・狩人へ

 

 見つけてくれてありがとう。

 あなたへの感謝を込めたこの絵が長く飾られることを嬉しく思います。

 ポムフィオーレ寮の未来に変わらぬ美しさがありますように。

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 

 ムシュー・狩人なる人物は当時副寮長を務めたルーク・ハント氏である可能性が高いが、画家■■との関係性を示すものは残っておらず、卒業後のルーク氏がどのような生涯を送ったかも一切の記録が見当たらない。

 唯一言えることとしては、ムシュー・狩人なる人物が世界中の注目を集める画家■■に大きな影響を与え、美術界の発展に少なからず貢献したということだ。

 

 また、現在もポムフィオーレ寮の卒業生の多くが素晴らしい活躍を見せていることも書き添えておく。

 故■■の願いは最も美しい形で叶えられたと言えるであろう。

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