私がシャーレに来てから、二ヶ月が経ちました。
シャーレ前に広がる庭草は私のくるぶしに届いていませんでしたが、いつの間にか私のそれに届くくらいまで背を伸ばしていました。光があれば成長するというのは良いものですね。私の曲がった背筋は、太陽にあたっても直立しません。
風になびいて、さよさよと草がなびきます。耳がくすぐったくなるような優しい音でした。発砲音が聞こえないのは心臓に優しいですが、それもつかの間の平和でしょう。平和とは、戦争と戦争の休止期間に過ぎないのです。
連邦生徒会本部に書類の束を届けた私は自動ドアをくぐり、まっすぐ執務室に向かいました。
朝から深夜まで机に向かってやっと終わる仕事量なのですが、いかんせん外回りのような仕事も存在するため、書類は溜まっていく一方でした。高速道路でピタリと付いてくる車みたいに、仕事は私を威圧してきます。
そんなことをしても書類を処理するスピードは変わらないのですが、どうやら仕事は分かっていないようですね。心がありませんから、当然と言えば当然です。
私はキャスター付きの椅子にどっかりと座り込み、鬱憤を吐き出すように大きく息を吐きました。
そして手近な場所にあった缶ビールのプルトップに手をかけました。カシュ、という小気味よい音とともに苦味が口いっぱいに広がります。
最近気づいたのですが、昼間から飲むお酒は、夜に飲むお酒よりもおいしいのです。
向こうにいたころはできなかったことをしているという開放感と言いますか、向こうのサラリーマンとは違うという悦に浸れる優越感と言いますか、とにかく心地よいのです。
ふとガラス越しに外を見ると、日は西に傾いていました。おかしいですね。机の上には空になった缶ビールが三つ置かれていました。私は今、四つ目の缶ビールを握っています。ぼーっとしていたのでしょうか。
酒が目に入るといけませんね。つい仕事を投げてしまいます。私は空になった缶も含めて四つを、自身の後ろにある机へと移しました。それから伸びをして、ペンを手にとりました。
○
「先生、いらっしゃいますかー?」
太陽はすでに沈み、雲が茜色に染まる時間の訪問者でした。私は食べかけのコッペパンを袋にしまい、後ろに置いていたビールで口の中を整えます。
三回のノックの直後にかけられた声には聞き覚えがありました。おそらく早瀬ユウカでしょう。シャーレ奪還作戦のときにお世話になった女子であり、それ以降も、たびたび出撃してもらっている生徒です。
入っていいことを伝えると、ユウカは律儀にお辞儀をして入ってきました。そして入った瞬間に、顔をしかめました。彼女はしかめっ面のまま私に近寄ってきます。
青紫のツインテールが妖精みたいにふわふわと揺れていました。シャンプーのCMを見ているようにさらさらの髪です。
膝上何十センチと聞きたくなるくらいのミニスカから健康的な素足が見えています。私はひとまず立ち上がり、ユウカと目線を合わせることにしました。
さて、身長の都合で私がユウカを見下ろす形になってしまいますが、青紫の凛とした瞳はそれを気にしていないようでした。むしろどこか、怒りをにじませているような気さえします。
「先生! この部屋、すごくお酒のにおいがします! 缶も瓶も、開けっ放しじゃないですか! 何してるんですか!?」
「晩ごはんを食べていました」
「晩ごはん? いえ、私はお酒の話をしたかったのですが……うん? ちょっと待って下さい? その……晩ごはんって、机に置いてあるパン一つだけでしょうか?」
「はい、そうですが」
お互いに無言の空間です。私はユウカの目をじっと見続けました。
私は長身ですから、相手の目を無言で見下ろし続けると威圧感があるのだと思います。私がしばらく目を見つめると、相手はバツが悪そうに退散していくのを、会社の同僚やクラスメートで何度も経験しました。
しかしユウカは、私とコッペパンとあちこちに転がるお酒の類を順番に見ています。怯える素振りは見せません。
ユウカが視線を落としました。顎に手を当て、いかにも理系チックに何事かをつぶやいています。
ユウカと目が合いました。
「先生。少し、整理させてもらってもよろしいでしょうか?」
「整理、というのは」
「この惨状についてです」
なるほど。ユウカはこの状況を惨状と表現するのですね。私にとっては日常です。
「構いませんが、私は何をすればよいのでしょうか」
「私の質問に答えていただくだけで大丈夫です。晩ごはんのことは追々考えていきますね。まず一つ目、先生が最後に、この執務室に人を入れたのはいつですか?」
「……一か月前でしょうか。ユウカに、書類の整理を手伝ってもらったのが最後です。それ以外はこの部屋には人を入れていません。シャーレに併設されているカフェや自習室、体育館などは開放していますが」
「私が初めてこれを見たんですか?」
「そうなりますね」
分かりましたと短く答え、ユウカは再び考え込みます。飲みかけの缶に手を伸ばしたところで声をかけられました。
「二つ目です。先生がこのように、お酒を飲みだしたのはいつ頃からですか? 私の記憶が正しければ、一か月前の執務室には、お酒の類が一つもなかったと思うのですが」
「おっしゃる通りですね。私が酒を飲み始めたのは、三週間前からですから」
「三週間で、こんなに部屋が散らかるものですか……?」
「分かりません。気づいたときにはこうなっていました。不思議なものですね」
「先生が散らかしたんですよね?」
大きなため息をついたユウカは部屋から出ていき、ゴミ袋やダンボールを持ってきました。信じられない、悪霊が取りついたのかも――などとぼやきながら、ユウカは缶や瓶を片付けていきます。
私も手伝おうとしたのですが、コップに缶を傾けてから片付けるのをしていたため、ユウカから邪魔者扱いされてしまいました。
私はおとなしく書類仕事をすることにしました。
コッペパンの袋が茜色を反射しています。暖かな色ですが、今の私にはそれが恐ろしく冷たいものであるように感じました。窓を割ってしまった子どもが事実を隠すような心理が渦巻いておりました。
部屋がスッキリするころには、時計の短針が八の数字を指していました。
私は人がいる場所ではうんと集中する性格のため、今日の分の書類はすべて片付き、溜まっていた書類のほとんどを終わらせることができました。
せっかくですから負債をすべて返したいところです。だらしないとは、思われたくないのです。”惨状”を見られておきながら何をと思うかもしれませんが、私の病的なまでに失望を恐れる感情がそうさせるのです。
ゴミ袋やらダンボールやらを外に出すために行き来していたユウカが、私の側に来ました。もう外に出すものはないようです。
彼女のために用意していたマグカップを近くに置きます。椅子も用意しておきました。
「コーヒーですか。ありがとうございます」
「いいえ、それほどのことではありません。ブラックでよろしかったですか?」
「はい。ブラックが一番好きです」
……私も一度、休憩を取りましょう。残りの仕事はそれからです。伸びをすると、腰が疲れの音を上げました。
後ろにずっと置きっぱなしだった缶に手を伸ばすと、なぜかユウカから腕を掴まれてしまいました。私よりも細い腕ですが、どこに怪力が秘められているのでしょう。私の腕が動きません。
いいえしかし、女子に押さえ込まれるようでは男の名前に傷が付きます。
「先生もコーヒー、いかがですか? 私が淹れますよ」
「……そう、ですね……私は、痛い! ギブ、ギブです!」
握力も強いのですか。これは逆らってはいけませんね。ユウカの手をペチペチと叩いたところでやっと開放されました。
しょせん私など、五寸釘が刺さりまくった藁人形に過ぎないのです。持ち主に振り回された結果、このようなでくのぼうが完成しました。
……さて。
「ブラックが好きです」
「好みが合いますね」
黙って座っていましょう。今のユウカの笑顔には私を殺せるだけの力がありました。可愛さなのか怖さなのか、私には判断できかねます。
目の前に置かれたコーヒーがツンと鼻を刺激します。口に含むと、懐かしい酸味を感じました。そういえば最近はお酒ばかり飲んでいましたね。
右手に座るユウカはマグカップを両手で包み、コーヒーをじっと見つめています。電気に照らされる横顔は浮かない顔でした。美人はどんな表情をしても様になります。
自意識過剰かもしれませんが、私について考えているのだと思います。
任務や書類仕事では優秀な人の裏を見ると、どちらが本当なのか分からなくなります。
天然に見える女性が不倫するのを目撃するような、平行線が交わるような不信感とでも言えばいいのでしょうか。自分の目を疑いたくなる感じです。それがユウカを襲っているのでしょう。
「考え事ですか」
「……はい。考え事です」
「私で良ければ相談に乗りますが」
「先生のことなんですけど」
ああやっぱり。
ユウカは眉を寄せています。口をきゅっと結び、言葉を選んでいるような印象を受けました。
「先生は、その。酒癖が悪いのですか?」
その問いには聞き覚えがありました。会社の先輩か、同僚か、後輩かは覚えていませんが、そのどれかから問われました。私の人間関係などその程度でしたから、間違いありません。
私は黙り込みました。警察に現場は押さえられています。しかし、捕まった犯人は拒否権を行使します。
十秒。一分。十分。
果てしなく長い沈黙でした。私がそう感じているだけだと思いますが。
私の経験談ですが、こうして黙っていると、皆気まずそうに去っていくのです。罪悪感は、人間に平等に押し寄せるらしいのです。
「先生は、酒癖が悪いんですね」
しかしユウカは沈黙を肯定と受け取ったようでした。そうですかとこぼれたのが聞こえました。
……こんなときに、銃の音が響いてくれれば。出撃という理由で合法的にこの場から逃げ出せます。今の私には、沈黙より銃声のほうが遥かに優しいものに思えました。
「ストレスから、でしょうか」
「……酒を飲む理由ですか」
「はい」
「昔からこうでした」
「では、昔からストレスがあったんですね」
会社で私の痴態を見た人は、私との関係を絶ちました。ですから私は、寄り添おうとしてくれるユウカになんと返事をすればよいのか分かりません。
伸ばされた手を掴むための言葉は、やはり、私の辞書をどれだけ探しても見つかりませんでした。野良猫だって、最初のうちは餌すら警戒します。
人工的な光に包まれるキヴォトスは明るく、夜を昼に思わせる魔力があります。
私も似たようなもので、皆といるときの常識人っぷりが私の本性を善人に思わせるのです。
「ストレスが何なのか私には分かりませんが、手伝えることがあったら何でも言ってくださいね。あと、お酒は飲んでも飲まれるな、ですよ。容量、用法はきちんと守ったほうがいいと思います」
「以後気をつけます」
ユウカは腰を曲げて膝に手を付き、私の顔を覗き込みます。子供をあやす保育士のような眼差しでした。
「困っていたらおっしゃってくださいね?」
「……善処します」
「あ、あと。晩ごはんとも密接に関わっているんですが、お酒をもう少し控えたほうがいいと思いますよ? お酒の飲み過ぎでご飯もまともに食べれていないじゃないですか」
「ああ。晩ごはんのことですか。これは単に――いえ、何でもありません。飲み過ぎには本当に気を付けます」
「うん?」
口をそっと手で押さえたのですが、これでは自白しているも同然です。
ユウカは笑みを浮かべたまま、私の顔をじっと見つめました。
声色も、表情も。ころころ変わる、不思議な少女です。
「先生。何を言いかけたんですか?」
「こちらの話ですから、お気になさらず」
「……まさか、お酒の買い過ぎでお金が無いだなんて言いませんよね? だから晩ごはんがパン一つなんですか!?」
私はユウカに、にっこりと笑顔を向けました。
本性を見られたのです。安らぎと不安が同時に押し寄せ、どこか自暴自棄になっている部分もありました。
威圧的な笑顔は、やがて大きなため息へと変わったのでした。