ビクッと、肩が震えました。私はそうして、現実に引き戻されました。机に突っ伏していました。……そう言えば私は、昼食後に睡魔に襲われ、ほんの十分だけと目を閉じたのでした。
寝ぼけまなこをこすってから時計を確認すると、四時でした。太陽に寒気を覚えたのは初めてのことでした。
鼻に違和感があったのですすると、ズビズビと音がしました。風邪の予感です。
クーラーの温度を確認すると二六度でした。今は寒いというわけではありませんが、この温度の中で寝たら風邪もひくでしょう。ひき始めが肝心ですから、今日は早めに寝ると決めました。ユウカに余計な心労をかけたくありません。
今日のうちに見なければならない書類を片付けてすぐ、私は任務の存在を思い出しました。放課後すぐに現地集合の手筈ですから、今から歩いて向かえば遅刻してしまいます。上着を手に駆け出しました。途中で居住区に寄り、マスクをしてから外に出ました。
○
任務が予想以上に長引いてしまいました。奥へ奥へとヘルメット団が逃げていくせいで、追うのにも、シャーレに戻るのにも時間がかかってしまいました。エレベーターの中で腕時計を見ると、十時を回っています。
走ってかいた汗が冷えてしまい、私の体温を奪いました。それを放置して長時間ですから、熱っぽくなっています。悪化してしまいました。
「はあ……」
ため息が漏れました。手を額に当てます。熱いのか分かりませんでした。
突然の寒気に体を震わせること何度か、やっとの思いで執務室に着きました。今日のうちに見たほうが良い書類に目を通していません。私は、締切日の三日前にはすべて終わらせておくタイプなのでした。
寒気を訴える体に水を流し込み、私は机へと向かいました。
○
目を覚ますと、私は自室のベッドで寝ていました。昨日のことはよく覚えていませんが、どうやら自室までは辿り着いたようです。
体を起こそうとしました。途端に強烈なだるさとズキズキという頭の痛みが私を襲いました。何度か深呼吸をしてから体を起こしました。十時を回っていました。私がどんな状態であれ、書類に休日はありません。ゆっくりとベッドから出ます。目に入った机にはマスクと紙が置かれていました。
……まさか。
『寝ててください』
見覚えのある楷書でした。どうやら私の予感は当たったようです。自分の不甲斐なさに大きなため息がこぼれました。
ユウカの言葉通り休むことも考えましたが、今日やらなければならないことはあります。今日明日のうちに風邪薬を飲んで適当に休めば、いつかは治るでしょう。ボールペンを手に取り、『執務室にいます』と書き込みました。
私は着替えてから――そう言えば寝間着になっていました。ユウカには悪いことをしたのでしょうか。それとも私は風呂に入ったのでしょうか。とにかく、ワイシャツとスラックスになってから執務室に向かいました。
「――ちょっと先生! なんで寝てないんですか!」
私が執務室に入ってほんの数分後のことです。ドアが蹴破られんばかりの勢いで開きました。ユウカでした。まっ白な顔を薄紅色に染め、少し荒い息を整えながら、ドスドスと足音がしそうな感じでゆっくりと私のもとに来ます。休日というのに律儀に制服姿です。ユウカのマスク姿を見て、私は急いでマスクをしました。
「書きましたよね!? 寝ててくださいって!」
「今日やらなければならない仕事がありますから」
「……っはあぁ~先生って人は!」
私の前まで歩いてきて上を向いたユウカ。拳を握り込み、怒りを堪えようとしている彼女を見て、私は自分の不徳を悟りました。大丈夫だと思ったのですが、風邪の人がどこかに行くのはそんなに不安なことなのでしょうか。
大きく息を吐きだしたユウカは眉をハの字にします。先生、いいですかと、子どもをあやすような声色でした。マウスを握っていた手にそっと、ユウカの手が重ねられました。
「仕事が大事なのは分かりますけどね? 体調を崩したときくらいは、ちゃんと休みましょう?」
これは、冷房が効いている中寝てしまった、自分の責任です。私は自己責任という言葉が好きな人間でした。自分で選んだことだからと、理由もなしに自分が肯定されている気分になるからです。感情のある操り人形はみな、自分の意志で動くことを求めてしまうと思います。それは今でも変わりません。
「薬を飲んで適当に休もうとは考えていました」
「それなら、すぐに休めるように自分の部屋で仕事をしませんか? 途中で苦しくなっても横になれますし……」
顔を伏せ、時おり私を上目遣いに見る彼女の言葉を否定できませんでした。分かりましたと頷き、パソコンの画面を閉じます。
自室に持っていくものは、ノートパソコンとマウスと書類――酒は、どうしましょうか。病人という立場ですが、少しくらいなら許されるのでしょうか。最近では一日置きに酒を飲むようにしており、今日は飲んでも良い日です。……きっと許されるでしょう。
私はおもむろに部屋の隅へと歩きだし、ユウカに先回りされました。
「病人ですよね? 今日と明日は、ダメですよ?」
私の正気を疑う目でした。疑問の純度が一〇〇パーセントの、澄んだ青紫の目でした。
右に左にと動いてみますが、彼女もそれに合わせてディフェンスします。私がよろけたのが試合終了のホイッスルでした。私を抱きとめてくれたユウカに、そんな体なんですからと宥められると、反論できませんでした。代わりに、明後日は二倍の酒を煽っても良いという形でまとまりました。三倍以上にならないように注意したいと思います。
さて、私たちは机の前に戻りました。
「パソコンは私が持ちますからね? マウスも。落とすと危ないですから」
「道中で書類をばらまいても問題ないでしょうか?」
「そんな状態でここまで来ないでくださいよ……もういいですから、先生は何も持たずに自室に戻ってください。私が二回に分けて運びますから」
私はひ弱と自覚しておりますが、けれども、女子に荷物を持たせるのことには心苦しいものがありました。世間体からでした。一緒に食材を買いに行くときでさえ、半々にしてほしいと頼んでいるのです。
私が紙束を持とうと、それの下に手を入れると、ユウカから声がかかります。先生。甘い声と顔でした。私は迫力に負けて、ついに手ぶらで自室へ向かうのでした。道中で何度か、ユウカからフォローと苦言をもらうことになりました。
自室の机には土鍋がありました。蓋が閉まっていますがお粥でしょう。食べろということでしょうが、しかしユウカのご飯が見当たりません。
と、ユウカがちょうどよく紙束を持ってきました。パソコン近くの床に置くことをお願いしたのち問いました。
「ユウカは朝食を済ませたのですか?」
「はい。済ませてから家を出ましたよ」
「……そう言えばもう十時過ぎでしたね」
「ええ。先生にしては珍しく寝坊でしたから、ここまで来てみたんです。そしたら苦しそうにしてる先生がいたので」
「なぜ風邪だと?」
「鼻がグズグズいってましたし、何よりおでこを触ってすぐに気づきましたよ」
「おでこを触ったんですか?」
「……そ、それはあれですよ、あれ。ええっと、心配だったんです!」
問い詰めることはしないでおきましょう。目をそらすユウカに、私は「そうですか」とだけ返しました。ユウカもまた、嘘をつくときは、人と目が合わせられないようです。
あまりお腹は空いていませんでしたが、薬を飲む必要があるとユウカに諭されたため、おとなしく食べることにしました。しかし、食べようと床に座ってからが問題でした。
私のすぐ隣に横座りしたユウカが、レンゲを持ったのです。私は彼女の顔をまじまじと見つめてしまいました。それに気づいたユウカは微笑みました。
「なんですか、先生?」
「食べるのは、私一人でできることなのですが。そこまで心配ですか? まさかお粥を落として火傷するなんてことはしませんよ」
「……え? 風邪をひいたときって、無性に誰かに甘えたくなりませんか?」
「ならないですね」
「ネガティブな気分になったりとかは?」
「しません」
「あれ……? 私は、そうなんですけど……」
私は嘘をついていません。けれどユウカは、首を捻っています。私は次の言葉を待ちました。レンゲを無理やり取り上げるまねはしませんでした。ちらりと、ユウカがこちらを見ました。
「一回だけ、してみませんか?」
「何をですか?」
「……あーん、です」
私は神妙そうな顔をしたと思います。プシューとでも効果音をたてそうな勢いでユウカは縮こまりました。
……しかし、理由もなしに彼女がこんな提案をするのでしょうか。偏見ですが、理系の人は打算的に動くと思うのです。それならば、ユウカにも何か、考えがあったのでしょう。
「それでは、食べさせてください。冷めてしまいますから」
私は今、穏やかに笑えたでしょうか。ユウカが元気に返事をしてくれたので、それは気にしないこととしました。
正座になったユウカが私にさらに近づきます。肩と肩が触れ合うくらいまでなりました。風邪を移してしまうことを危惧しましたが、彼女は気にしていないようでした。
「マスクをしていたら食べられませんよ」
彼女の言葉に従います。
ユウカが土鍋の蓋を取った瞬間、湯気があふれてきます。卵のお粥でした。雑炊と言ったほうが正しいかもしれません。ともあれ、適当にそれをかき混ぜたユウカはマスクを口より下げてから、ひとすくいし、ふぅ、ふぅと息をかけます。少しだけ口を尖らせる姿に、私は慎ましいキスをするような印象を受けました。サクランボのように赤くてみずみずしい唇でした。
「はい、あーん」
ユウカの言葉に合わせて口を開きました。彼女の腕が私の胸板に押し付けられます。口に含んだのを確認してから、ユウカはレンゲをそっと抜き取ります。
「おいしいですか?」
「……はい、とても」
正直なところ、よく分かりませんでした。というのも、彼女のたおやかな動作と肌の弾力にばかり気がいってしまったからです。ユウカは知ってか知らずか、もう一度、あーんに合わせて腕を押し付けて来るのでした。腕が当たってしまうのほうが適切な気がしましたが、どちらにせよ柔らかかったです。
それから何度も、むず痒くなるような接触を行ったのでした。
熱っぽいとき、私はどうやら敏感になってしまうようでした。風邪をひくこと自体が稀なため知りませんでした。
お粥を食べきって、薬を流し込みます。コトンとコップの置かれる音。ふうと一息。やっと平穏が訪れたのでした。
洗い物をして戻ってきたユウカに、私は聞きたいことがあったのでした。キーボードに打ち込みながら言葉を投げます。
「どうしてあーんをしたのですか? あれはカップルがやるものだと思っていたのですが」
私はそれ以上言いませんでした。それは、とユウカが言葉に詰まってから十数秒経ったころでしょうか。
「先生は、甘えないのがデフォルトになっているので、甘える経験をさせてみたかったというか……」
段々と尻すぼみになってゆきました。甘えさせてみたいという、初めて聞くタイプの言葉でした。嬉しい言葉でした。
私は初めての言葉に、ありふれたお礼の言葉しか返せませんでした。けれどもユウカは、それを聞いて顔を綻ばせてくれたのです。温かい笑顔でした。太陽のほうを向くひまわりも、きっとこんな表情ではないかと思いました。
○
私は昼食を取らずに、昼寝をしておりました。目が覚めたのは夕方六時です。夕ご飯にするにもお風呂にするにも気が早い、そんな時間です。帰宅が嫌いな高校生にとっては、図書室という特別な魔法がとける、一時間前でした。
水を飲みに休憩室を訪れました。ユウカが机で書き物をしていました。集中しているようです。近づくとプリントに何かを書き込んでいます。計算式ではありません。……テストが近いと、ハレやマキが言っていましたっけ。
驚かすことを考えましたが、やめました。ジト目を向けられるか、安静にしてくださいと心配されるか、パンチが飛んでくるか。何をされるか分かりません。勉強中ですかと静かに声を掛けました。
ユウカが顔を上げます。
「先生! 具合はどうですか?」
「おかげさまで、かなり良くなりました」
「それなら晩ごはんはいつも通り食べられますか?」
「はい。作ってもらえますか?」
「もちろんです! あ、今から作ったほうがいいですか?」
「いえ、いつも通りで大丈夫ですよ。水を飲みに来ただけですから」
立ち上がったユウカを手で静止します。水を飲んだのち、私はなんとなくユウカの正面に腰を下ろしました。世界史の勉強をしていました。
と、ユウカが顔を上げて首を傾げたので、何か話をしなければならない気がしました。
「歴史の勉強ですか」
「ええ、まあ」
ユウカがプリントに目を落とします。
「あまり得意じゃないんですよねー。数学や物理、化学はできるんですが、文系科目がちょっと苦手で。特に暗記となると、やる気もあんまり起きなくて」
「そうですか? 私はむしろ、暗記のほうが好きですが」
「なんでですか?」
「暗記は単に、覚えればいいだけの話ですから。数学でも公式の暗記が求められますが、それに従って計算する必要があります。公式が使えない場合だってあります。はっきり言うと面倒です。それに比べれば、歴史の暗記はかんたんです。覚えれば一瞬で答えが分かります」
ユウカは納得の色を見せません。
「登場人物の心情や状況を考えたほうが、歴史は覚えやすい側面もあります。例えばこの戦争を例に挙げると――」
気づけば私は、ユウカのプリントを指でさしながら、かれこれ二時間ほど話していたのでした。ユウカが真面目に聞いて、適度に質問をしたり自分の分かっていることを話してくれたので、熱が入ってしまいました。
いい生徒がいい人だとは限りませんが、いい人はいい生徒だと思います。例えば私は前者で、ユウカは後者です。
夕ごはんに、ユウカはハンバーグを作ってくれました。噛んだ瞬間に肉汁があふれ出す一品でした。店が開けるとつい言ってしまいましたが、ユウカは嬉しそうに、笑ってくれました。それを見た私もまた、にっこりと口が動いてしまうのでした。
その日の夜は、早かったです。十二時に寝るつもりでしたが、十時にはベッドに入らされました。
ユウカがベッドに腰掛けて、部屋の電気を落とします。次いで私の手を握りました。互いに無言でした。これも、甘えさせてみたいの一環なのでしょうか。
ゆっくりと、いい子いい子するみたいに撫でられる手。
暗闇を照らす蝋燭の火のように、ほんのり温かい手。
ほんのちょっとの触れ合いが、尊いもののように感じられます。安らぎを得ることなど、向こうではありませんでした。常に負の感情に付きまとわれていた私は、けれど、誰かにそれを吐き出そうとしなかった。
思い返せば、私はよくもまあ、ユウカにちゃんと吐き出せたものです。二四年の積み重ねが負けたのではなく、二四年で積もったものがあまりにも薄すぎたから、一か月ほどの分厚い積量に越されたのだろうと思います。
まどろんでゆく意識の中でも、ゆっくり撫でてくれる手だけは、私を肯定してくれるものに思えました。