マキの誘いであるBOOMをして、バイオハザード7のハードモードをクリアした後のことです。ミレニアムの校門に続く一本道を、私、ハレ、ユウカの三人で歩いていました。マキはホラーがダメとのことで、ゲームを切り替えてすぐ、逃げるように帰宅しました。
十時を回る時刻ですが、等間隔に街灯が並んでいて、七月の下旬だったこともあり、真っ暗闇ではありませんでした。私の故郷ではカエルやフクロウの声、虫の演奏会などが聞こえたものですが、ここは恐ろしく静かでした。強いて言えば都会らしい無音の音――ごーという何かが入り混じった音が聞こえます。右や左の草むらには虫がいないのでしょうか。
「ユウカ、こんな夜遅くまでゲームしてて、大丈夫なの?」
ハレは言外に、病人は早く寝てほしいと言っているのでした。今日のユウカはマスク姿で喉が痛いと言っており、私がうつしたことは自明でした。
カラカラの声で答えたユウカ。叫びすぎたようです。
「だって、私一人ではホラーゲームができないんだもの。だから見たかったのよ。気になるところで話も途切れてたし。それにこれしき、家に帰ってすぐに休めば問題ないわ」
「ふーん。でもねえ」
「もともと先生が風邪をひいてたのよ? テスト前に」
「……うつされたって言ってるの? それだとずいぶんな潜伏期間だったねー。一週間くらい前ってことでしょ? うつされてないこともあり得るじゃん」
でも、とわざとらしい間をつくるハレ。両隣の花にトゲの気配を感じ取って、私は一歩分ペースを遅らせます。
「ふーん、先生が風邪をひいてたこと、知ってたんだ? ユウカだけじゃない? それでうつされただなんてさ、かなり近くにいたってことじゃん。看病してあげたの?」
「ええ。だってこの先生、頭が痛くてふらふらなのに執務室にこもろうとしていたもの。止めないほうがおかしいわ」
「また甲斐甲斐しく世話をしてあげたってことね」
「看病してあげただけよ。またでも、甲斐甲斐しくでもないわ」
「じゃあ先生が目をそらしてるのはなんでなの。やましいことがあったって、自白してるようなものだと思うけど」
時おり振り返って話を進める二人。飛び火もいいところです。仲裁に入るのが私の役目でしたが、それは向こうでの話なので、ここではスルーすることにしました。私にはやましいことがありませんよ、と。
「否定しないってことは、ユウカにはあったってことじゃん」
「ちょっと先生! 私を売ったんですか!?」
「事実を申し上げただけですから、売ったわけではありません」
「せーんーせ――ッ!」
憎らし気な大声を上げていたユウカが急に胸を叩き、咳き込みました。枯れ気味のコンコンという咳と、たんが絡んだようなゲホゲホという咳が混ざっていました。ハレが駆け寄って背中をさすっています。大丈夫かと声掛けもしてあげています。どうやら私たちの予想以上に酷い状態のようでした。
しかし、この場にハレがいるなら大丈夫でしょう。私は一足先に校門に向けて一本道を進みました。タクシーを拾って引き返しました。
○
次の日の朝四時すぎでした。かなり早い朝食や身支度を済ませ、タクシーを拾った私は、ユウカの家の住所を入力しました。オート運転のため話す相手がいないのが、私にとっては幸運でした。無理に気を使っている余裕がなかったためです。
昨日、ユウカの家に着いてからのことです。タクシーを降りた私とハレは肩を貸して、ユウカを部屋まで運びました。
彼女は相当の無理をしていたようですが、聞いてみれば、ここまで酷くなるとは思っていなかったの一点張りでした。無理に楽しんでいたのではなく、楽しくって熱が上がったような感じだそうです。
「先生、買い物行ってきて。タクシー止めてあるから、それ乗って。住所も書いたから打ち込めば着くはず」
ハレからメモを受け取った私はすぐに部屋を出て、タクシーに乗り込みました。
読めば、風邪薬やゼリー、飲み物、惣菜パンをいくつか買ってきてほしいとのことでした。店がまだ営業中なのは大変嬉しいことでしたが、私には町、店のきらめきが、無理にポジティブな言葉を使おうとする輩と重なってしまうのでした。
……私が落ち込んではいけません。主な原因は私なのですから、これは私がしっかりすべきことです。
一時間にも満たなかったと思います。私が戻ったときには、すでにユウカは寝ていました。彼女の額にはタオルが置かれていました。おそらく濡れタオルでしょう。彼女の近くで女の子座りしていたハレが振り返って私を見上げます。
「ユウカは寝たよ。熱も結構ある。明日明後日は安静にしてたほうがいいかもね」
優しい声色でした。
「風呂に入るのもつらそうだったから、とりあえず体拭いてもらって着替えさせた。汗もけっこうかいてたみたいだし。タオルは乗せたばっかりだから交換する必要はないかな。食欲はあまりないって」
畳み掛けるようにして言いました。とりあえずここから出よっかと、彼女は重苦しく締めます。責任を感じているのは明らかでした。
私はユウカが目を覚めしたときのことを考えて、袋から飲み物、ゼリーとパン、薬を出して勉強机に置きました。
場所を移してダイニングですが、空気感は変わっていませんでした。
ここに来てから何度目かのため息を、ハレがつきます。私はこのようなとき、どのように声を掛ければ良いのか分かりません。ユウカのように励ますことも考えましたが、私の経験上、無理に励まされると逆に申し訳なさが募り、より落ち込んでしまうため、うまく声を掛けられずにいました。
対角線上に座るハレが、また――。
「お茶でも飲んで、気を紛らわせてみてはいかがでしょう」
「えっああ、ありがとう。悪いね。なんか気を使わちゃって。私が冗談でも言えればいいんだけど、そうもいかなくて」
「人に休息は必要ですよ。それに、ハレ一人が背負い込むことでもないでしょう。むしろ、原因は私によるところが大きいです」
「そんなことないって。確かにうつしちゃった可能性はあるけどさ、それでもユウカをいじり倒したのは私だし……」
「この話は、やめにしましょうか」
だねとハレは頷きますが、それでもため息が止まりません。
無理に励まされることは身に応えますが、だからといって、励まされないことも応えます。経験談です。あのときに励ましてくれなかったのはなぜなのだろうと、疑問がいつまでも付きまとうことになるのでした。赤の他人が敵に見えることさえ、あるのでした。私は面倒くさい人間です。
それではハレには、どうすればよいのでしょう。
ましてや私たちのせいで体調が悪化したユウカが目を覚ましたとき、私はどのように言葉を掛ければよいでしょう。
逃げてはいけないと、私は分かっています。ここでビビるなんて、恩知らずです。梅雨の時期に二人に、心身ともに救われたのですから、こういった場面で助けないでどうするのですか。
落ち込んでいる相手には、どう接すれば良いのでしょうか。記憶を探ります。ユウカは優しく声を掛けてくれて、話を聞いてくれたはずです。
「風邪ですから、ユウカのことについては、そこまで悲観する必要はないと思います」
自分の態度に嫌気が差しました。人に意見を述べるときのマニュアルみたいな、曖昧な言葉のオンパレードでした。社会や学校という場所で培った、人生に必須の、だけれど人に響かない、薄い言葉です。私はこんな言葉を使いたいのではありません。
「しかし私は、ハレが何について落ち込んでいるのか、はっきりとは分かりません。話してくれませんか」
「……先生、向いてないよ、そういうキャラ」
ここに来てから初めて、ハレが笑った気がしました。疲れたような笑みですが、確かに笑っています。彼女はテーブルの隅に置いていたボトルを取ってキャップを開け、中のお茶を一口、二口と飲みました。大きく息を吐いて(ため息とは違うような息でした)キャップを締めて、元の位置にボトルを置きます。よし、と立ち上がりました。
「ちょっとユウカに悪いことしたなって思っただけ。いつまでも落ち込んでるのは、良くないね。動こうか」
「洗濯などですか」
「そ。でも、先生はしちゃダメだからね? さすがに」
私も立ち上がったのですが、ハレの言葉を聞いて、私は自分にできることがないことを悟りました。視線を床に落として、何ができるのかを諦めずに考えます。容態観察くらいしか、浮かびませんでした。
「今はもう十二時前だしさ、先生は一回シャーレに戻ったら? それで明日様子を見に来てよ。それまでは私が見とくから」
「……そうしましょう。明日は、ええと、平日ですか。ハレには学校がありますよね?」
「うん。欠席の連絡は私が入れとくからいいよ?」
「いえ、欠席の話でなく。いつごろここに来ればいいか考えていまして。朝の五時にここに来れば、ハレは自分の家で準備する時間が取れますか?」
「取れると言えば取れるけど……」
ハレはそこで言葉を切りました。目を閉じて、顎に手を当てています。悩んでいる印象でした。
「そんなに早く来る必要、ある? ユウカだったらさ、たとえ体調を崩していても、そんなに心配いらないんじゃない? どの口が言うのかって思うかもしれないけど」
「看病してもらった恩義がありますから」
「……ふーん」
特別な事情とかじゃなくて? と彼女は問います。ハレは手を軽く振って理由を説明しました。
「なんか、二人だけの秘密ばっかりでさ、疑問に思ったんだ」
「特別な事情……感情ですか。そういったものではありません。ただ、ユウカの場合、自分が体調を崩したときはネガティブになったりすると言っていたので、心配なのもあります。たとえ私でも、いないよりはいたほうが良いと考えました。それに、ここでも書類仕事程度ならできますから」
「居つくんかい」
「一日だけです」
否定はしませんでした。その後、朝の五時に交代する約束をして、私とハレは別れました。
さて、ユウカの家のドアの前まで来ました。スマホで時計を確認すると、四時半。早いにこしたことはないでしょう。
ノブに手をかけて回します。鍵は掛かっていません。静かに開けて体を半身にして入り、ハレの靴から少し離れたところに、自身の靴を揃えて脱ぎます。ダイニングにハレの姿はありませんでした。昨日のうちに買っておいたペットボトルを机に置いて、私はパソコンを開きました。
「――あれ、先生?」
四時五〇分ちょうどでした。後ろからの声に振り向きます。目をこすったハレがゆっくりと歩いてきました。ポニーテールがほどかれていました。少し話したかったのですが、顔洗ってくると言ってハレが部屋から出ていきます。声も動作も眠そうでした。
戻ってきてから聞くと、ハレは仮眠を取ったようでした。少しだけの睡眠ですが、それでも安心しました。
心なしか目をパチッとさせて、ハレが私の対角線の椅子に腰を下ろします。
「ユウカはまだぐっすりだから、とりあえず書き置きだけして降りてきた。あとは何か……伝えたほうがいいことってあったかな……先生は聞きたいことってある?」
「書き置きの内容でしょうか」
「先生か私がいるかもって。あとは、欠席の連絡はしたよってだけ」
「分かりました」
「じゃあ私は家戻るね」
立ち上がったハレ。私は財布を取り出して、ある程度の現金を出しました。昨日のうちに崩しておいたものでした。それを前に出されたハレは受け取らず、怪訝そうな顔で私を見ます。
「何、これ? 受け取って欲しいってこと?」
「はい。タクシーが家の前にあると思います。それで帰ってください」
渋るハレに押し付ける形で現金を渡して、彼女を家に返しました。それきり静かな空間が訪れたのでした。