六時間後。座りっぱなしで疲れたので、立ち上がって伸びをします。疲れの音が静かな部屋に響きました。あたりを見回してシャーレと内装が違うことに違和感を覚えます。思えばここは、人の家だったのですね。小学生のとき以来誰かの家に遊びに行くことはありませんでしたが、記憶にある限りの私は、人の家でくつろげない人間だったはずです。
私が変わったのか、それとも、ユウカが特別なのか。
圧倒的に後者でしょう。言い表すのは難しいのですが、ユウカは私にとって、いて当然のような存在になっています。相談に乗ってくれるのが、私としては非常にありがたい。ですから、こんなときくらいは力になりたいという思いが湧き水のようにどこからともなく湧いてくるのでした。
テレビの横に大きさ様々なトロフィーが置いてあるのに気づきました。どれも金色でした。ソファの後ろを通ってそこまで歩きます。算盤大会で優勝したもののようで、ユウカの名前がどれにも刻まれています。
と、ドアの開く音がしました。ドアを開けたのはおそらくユウカでしょうが、彼女は声を発しません。声を発したくないほど具合が悪いのかもしれませんし、あるいはぼーっとしているだけかもしれません。とにかく私はスラックスからマスクを取り出し身につけました。ユウカは緩慢な歩みでリビングのソファに座ります。私はダイニングの椅子に座りました。
「具合はいかがですか?」
「……まだ、少し熱がありました。頭も痛いです」
「ご飯は食べましたか?」
「はい。買ってきてくれたみたいで、ありがとうございます。薬も飲みました」
食欲があるのなら治りも早いでしょう。あとは寝れば完璧なのですが、彼女は眠くないのでしょうか。……そもそも、彼女はなぜここに来たのでしょう。部屋で休んでいれば良いところを、わざわざここへ来た理由。
一つ、思い当たることがありました。それを裏付けるように――私がそう感じただけかもれしれませんが――ユウカはこちらへ視線を寄こします。私は開いたばかりのパソコンを閉じて立ち上がり、お茶のペットボトルを取って歩き、拳一つ分の間をあけてユウカの隣に座りました。
ぐいっと、ユウカが、ソファの上を滑るようにして近づきます。私の右腕、胸、左腕とユウカの腕が伸びてきて、ぎゅうっと横から抱きつかれました。無言でした。そのまま私の右側の首に頭を押し付けて、グリグリと動かします。柔軟剤と汗のにおいが混ざっていました。けれどやはり、無言でした。
喋れないほど体調が悪いわけではないでしょう。先ほど会話したわけですし。となるとやはり、数日前の、風邪をひいたときはネガティブになったりするという発言でしょう。
グリグリ攻撃を続けていたユウカは気が済んだのか、腕を離して、ころんと私の膝の上に頭を移動させました。枕のほうがいいかもというつぶやきが聞こえました。声はまだガラガラです。
「それなら自室で寝てはいかがでしょう」
「安心するのでここがいいです」
はっきり言われては返す言葉がありませんでした。せんせい、と呼ばれました。普段のユウカの発言でなく、猫が体を押し付けてくるときのような、甘えてくる感じの「せんせい」でした。
「頭、撫でてください。……撫でてほしいです」
会社に一人はいる、酔ったときに上気分になる人のような甘い声です。
耳に当たらないよう、私は側頭部とつむじの間くらいを軽く触ります。ユウカは髪を結んでいませんでした。時々
「算盤の大会で、優勝したときのものです」
「? トロフィーですか?」
「熱心に眺めていたと思って、言っただけです」
なんの脈絡もなく、けれどゆっくりと、
「褒めてください」
「ユウカはすごいですよ」
「……心がこもってません」
褒めることは、私がもっとも苦手とする行為でした。私が難しい問題を正解するたびに掛けられた言葉が、将来の夢を考えるときに掛けられた言葉が、私の心を
以来、安易には『すごい』などと口にすることはしないと決めています。言う際は機械的に、相手の負担にならぬように言うと決めていました。
もっとちゃんと褒めてもらいたいと言うユウカへの言葉を、私は考えます。
私はユウカの気持ちが分かりません。いつも、自分というものをちゃんと持っているユウカを元気づけるための言葉を、人の言う通りにしか生きてこなかった私が分かるはずもありませんでした。
何に苦しみ、何を嬉しく思い、何を欲するのか。対照的な人間だからといって、感性が対照なはずがありません。
「それなら、私の好きなところって、どこですか?」
無言に痺れを切らしたのか、それとも助け舟を出してくれたのか。ユウカの甘い口調からは分かりませんでした。
私は目を閉じて、今までの、特にユウカと本当の意味で出会ってからの二ヶ月を思い起こします。
精神的に、肉体的に強いところ。確たる自分を持っているところ。
世話好きの度を越して、人の世話を焼くところ。必要とあらば無理やり救ってくれるところ。
優しいところ。
人を頼れるところ。
言いたいことは言うところ。
明るいところ。
髪がサラサラなところ。
シャンプーや柔軟剤の香りがするところ。
途中から気持ちの悪いストーカーのような内容でしたけれども、言えることは全て言ったと思います。
ユウカは何も言いません。引いたのかもしれません。
すぅ、すぅ、と心地よさそうな声が聞こえてきました。どうやら彼女は寝てしまったようでした。
私は撫でるのをやめ、彼女を起こさないように体を移動させます。持ち上げようとして彼女の太ももとソファー、脇とソファーの間に手を滑り込ませます。力を入れます。
「――ッ! ……」
持ち上げられませんでした。ユウカが重いということではありません。むしろユウカは華奢なほうでしょう。問題は、私の腕力のほうです。
早々に諦めて腕を抜き取った私は、ユウカの部屋から掛け布団を取ってくることで寒さ対策をするのでした。
○
買ってきておいたおにぎりでお腹を満たし数時間後。今日は例外として一時間に一回モモトークを確認しているのですが、ハレはちょうど今、学校を出たところのようでした。
もうすぐ自分のやることが終わります。七月の下旬、日はまだ長く、ガラス窓から差し込む光に橙は混じっていません。少しだけ、太陽を羨ましく思います。仕事が終わるまで余裕があるのですから。
ユウカの容態を確認しようと振り返ると、彼女はソファに座ってテーブルの一点を見つめていました。私に気づいている感じはしません。私も彼女が起きていることに気づいていませんでした。私は彼女にゆっくりと近づいて膝を折ります。覗き込んだ青紫の瞳は、どこか虚ろでした。
「ユウカ?」
「……っああ、先生。いたんですねっていうか、近いですよ」
浮ついたガラガラ声です。抑揚が変でした。一言断ってユウカのおでこを触りますが、熱はないように思います。具合が悪いか聞くと、
「部屋のベッドで横になりましょう。休むならばソファよりもベッドのほうがきっと良いですから」
ユウカの手を引いて立ち上がらせ、背中に手を回してゆっくりと歩きます。嫌がる素振りは見せませんでした。私は極力、ブラジャーのホックやほのかに沈む肌の弾力に気が行かないように前方に意識を集中させました。
フローリングの床に白い壁。絵画や壺は飾られておらず、無機質な廊下です。廊下の途中にユウカの自室はあります。ノブを回して、床に物が落ちていないかを確認しつつベッドへ案内します。一言伝えて掛け布団を取ってきてもなお、ユウカの目には生気がありません。
私は掛け布団をベッドに戻して、ユウカの隣に――身じろぎ一つで肩と肩が触れ合うほど近くに腰掛けました。
「元気がありませんが、私で良ければ話を聞きます」
無言でした。
私は待ちました。ユウカの私物をじろじろ見るのは気が引けたため、テーブルを見つめるようにしていました。
ユウカがもぞもぞと動き出して、私の隣からいなくなりました。ベッドの沈み方から、私の後ろに回ったことが分かりました。
首の両側から腕が伸びてきて、それが私の胸の前で結ばれます。肩甲骨のあたりに一段と柔らかい、胸の感触があって、ユウカは左側から顔を前に倒してきました。どんな表情かは確認できませんでした。
この時間は、ユウカにとってどのような時間なのでしょうか。もしも人肌が恋しいだけというのであれば、私でなく、例えばハレでも良いのでしょうか。ちくりと胸が痛みました。高望みであることは、理解しています。しかし、どうしても、考えてしまうのです。人に好かれることも人を好くこともなかった人間の、ほんの少しの成長と思っていただきたいのです。人を好くことに資格など必要ないなどと言いますが、そんなものは迷信で、正当化で、現実的でないことは承知しています。相応不相応――人としてのレベルのようなものでしょうか、それは、なんとなく分かってしまうのです。
しかし、私は。浅ましいことに、自分自身をさらけ出してくれたユウカに好感を覚えているのでした。弱みに付け込む外道と私は何が違うのか、説明できません。
けれど。
きっと私は、ユウカと一緒にいたいと思っているのでしょう。久しぶりの自己嫌悪でした。
「先生って、何をしても許してくれそうな優しさがありますよね」
「……? 言葉の意味を捉えかねますが、優しいわけではないと思いますよ」
精一杯の明るさで答えます。
私からしてみれば、ユウカのほうがずっと優しいです。けれどユウカは納得がいかないのか、胸の前で結ばれた手を固く結びました。ぐず、と一度鼻がすすられます。はぁ、と吐息混じりの涙声が私の首筋で発せられます。
感情と理性の瀬戸際にいるのが容易に分かりました。分かったのはそこまでで、涙の理由は想像できませんでした。
「私は先生にとっての、なんなんでしょうね」
一緒にいることが多い存在。女友達とも、恋人とも違う関係。中途半端。
好く資格がないのならいっそのこと離れたままのほうが良かったと、思いました。そうすれば今このようにユウカが苦しむことは、なかったでしょうから。
となれば私は、すぐにでも退いたほうが良いでしょう。昔のように誰とも深く関わらなければ――きっと平和が訪れます。心の平和です。それはきっとダイヤモンドによく似たガラス細工です。
結局、私は答えませんでした。
ユウカの独白は続きました。
「家計簿をつけて、人付き合いの仕方にも干渉し始めて、ゲームをするようになって。先生が何も言わないのをいいことに、そうやって勝手に何もかもを始めて。先生が嫌なことを嫌と言わないのなんて考えれば分かることなのに目を背けて、自分のやりたいように先生の手を引っ張り続けて、本当、なんなのかなって思ったんです。先生に嫌かどうかちゃんと確認してから自分を責めようとしたんですけど、それでも、なんか、ダメなときってあるじゃないですか。……それだったんです」
言葉にするのが恥ずかしいからと甘えていた、私が招いたことでした。
ユウカは嗚咽を漏らしながら、けれど泣くまいと必死に肩を震わせていました。ぎゅううっと、私にきつくしがみついてくるようでした。ユウカにはそんなつもり微塵もないでしょうに、私の心は締め付けられました。
私はユウカの手の甲を撫でます。ひんやりしていて触り心地の良い、小さな手でした。
言葉で伝えずにすみませんでした――まずは、謝罪しました。
「私は、ユウカが色んなことをやってくれるのが、とても嬉しかったですし、ありがたかったです。それに甘えて何も言いませんでした。今度からは、きちんと感謝を、伝えるようにします。ですから、不安にならないでください。私のことを考えてユウカがしてくれたことは、本当に、嬉しいものでした」
最後にお礼の言葉を述べて、私の告解は終わりました。
良かったと、吐息混じりの声。
「私、迷惑だって言われたらどうしようかと思って、不安で不安で……私は、先生と、一緒にいたいから! だから、だから……!」
良かった、と。
その言葉を最後に、ユウカは大声で泣き始めました。
泣き止んでそのうち眠ったユウカを横にして、私は部屋をあとにしました。途中から、ユウカがまだ子どもだと分かって安心している自分に嫌気が差していました。自分のほうがずっとずっと稚拙だというのに。
ダイニングではハレが机に向かっていました。勉強しているようでした。彼女は首だけで振り返ります。
「もう大丈夫?」
「……おそらくですが」
「そう。ここに来たらすごい声が聞こえてさ、びっくりしちゃったよ。でも、良かった」
心からの安心の声だと思いました。やはりハレになら、ユウカを任せられます。
「明日から夏休みだと伺っていますが、ユウカの面倒を見てもらっていいですか?」
「ん? うん、いいけど……でも、先生が見たほうがいいんじゃない? そっちのほうがユウカも――」
「いえ、私はここまでにします。女性にしか分からないこともあるでしょうから」
怪訝そうな顔をするハレの横を通り、荷物を持って玄関へ向かいます。これ以上は何も問わず、何も言わずでした。
その日は久しぶりに、ユウカに無断で、いつもの三倍の酒を煽ったのでした。体調が良くなったユウカは、それを、しょうがないですねと笑って許してくれたのでした。
私は思いました。この関係は――中途半端を良しとするこの関係は、なんなのかと。