ユウカの風邪が治ってからしばらく経った日のことです。向こうではお盆の時期に当たる土曜日に、私はユウカとの約束通り、二人きりでの買い物に出かけました。仕事服と制服というのが、私たちらしいと思いました。
さて、ハレに教えてもらったらしい上物のノートパソコンを買い、シャーレとミレニアムで使う備品を買いました。私はシャーレへ、ユウカはミレニアムへ荷物を置くために一旦別れました。
悩むことなく買えたためか、まだ日は西の高い位置にあります。
私は午前中に訪れたショッピングモールに戻って、その建物の陰で休んでいました。今日は夏にしてはかなり涼しい日のようで、歩いても汗だくになることはありませんでした。けれどやはり、暑いよりも涼しいほうが良いのでした。
先生と呼ばれて、私は声がしたほうを見ます。ユウカも荷物を置いて戻ってきたみたいです。涼しげな顔と足取りで歩いてきました。さらさらのツインテールが歩くペースに合わせて揺れています。
用事は済んだのですが、ユウカがまた会いたいということでしたので、私たちはこうして集合したのでした。
目の前まで来たユウカは躊躇いなく私の手を取ります。さっと踵を返した彼女は振り返ってこう言いました。
「少し、散歩に行きませんか?」
十分ほど歩いて着いた場所は、左手に海、右手には等間隔に並ぶ木が見える散歩道です。
右腕に抱きつくようにくっついて歩くユウカは、鼻歌を歌いだしそうなほど元気に世間話をしてくれました。最近あった面白いこと、新作ゲームの話、テストの結果が上々だった話。どの話も、『くじらぐも』に出てくる子どもたちのように、明るい口調でした。
「――あっ!」
ユウカの歩みも話もピタリと止まりました。私はユウカが見ているほうに視線を向けます。
借り揃えられた背の低い草や木々を装飾する葉っぱがさよさよと風になびいています。広場のような場所には、休日を謳歌する女子高生の集団が何組か歩いており、出店が一つと、準備中の屋台がたくさんありました。奥には背の高い建物が、例えば午前中に足を運んだショッピングモールなどがありました。わざわざ足を止めて見たいものはないと思いました。最後に空を見上げましたが、虹が出ているというわけでもありませんでした。
「何かあったのですか?」
「クレープを食べましょう! 先生」
出店など珍しくないように思うのですが、キヴォトスでは珍しいのでしょうか。昼食は済ませたはずです。
甘いものは得意ではありませんが、一つくらいなら平気なため、分かりましたと答えます。
散歩道から広場に出た途端にユウカは、私の手を握るだけにとどめました。頬を赤にして、恥ずかしいのでと彼女は弁明します。
「ゲーム中はあんなにくっつくのにですか?」
「怖いから、ですよ。先生的にはくっつかないほうがいいですか? それとも、その。もっとくっついてもらいたいとか」
「どちらでも構いません」
「……意地悪です。女の子に全部言わせておいて」
ツンと唇を尖らせました。出店の前まで歩くと笑顔が戻っていて、愛想よく注文していました。私はフルーツの入ったクレープ、ユウカはチョコクレープです。
散歩道近くの木陰に座って、私たちはそれを食べることにしました。草の上は椅子とは全然違った座り心地で、地面の固さともまた違う感じでした。しっとりしていて柔らかかったです。
草の上に座ったのは、中学校の運動会以来でしょうか。今日と同じサイダーみたいな青空だったと思いますが、それはきっとユウカで言うところの、覚えていることなのでしょう。
「先生? 甘いもの、食べれませんか?」
隣に座るユウカが首を傾けて、私をじいっと見つめていました。ユウカのクレープは半分ほど食べ進められています。
「いえ、なんでも」
「……」
ユウカは首を傾けたままでした。言いたいことがあるのでしょう。
私はそれを待つついでに、手のつけられていないクレープを食べ始めます。生クリームはやはり得意ではありませんが、フルーツの、特にパイナップルの爽やかな酸味がおいしく感じられました。
「先生、私のこと、避けてませんか」
視線を海へとやったユウカは、元気なく言いました。三角座りで自分の膝を寂しそうに抱きしめていました。
「その、気のせいだったらいいんですけど、意図的に会話しないようにしているのかなって感じちゃって。ここ最近はずっと一緒にいるのに、なんだか、以前とは少し違うと思うんです。……私、何か先生の気に障ることをしてしまいましたか?」
「いえ、そうではないのですが」
今日のユウカが異様に元気だったのは、私を気遣ってのことだったのかもしれないなと、今思いました。元気に接すれば私も話に乗ってくれるかもしれないという算段があってのことでしょう。実際はそんなこと、なかったのですが。
空と海の、曖昧な境界を私は見つめました。サイダーみたいな爽やかな青と未練を拭おうとする見せかけの青は――よく似た色の二つは、どこまでも一緒になることがないけれど、寄り添い合っている感じがする、中途半端の象徴のようなものです。私とユウカでした。
私はユウカを横目で見ます。胸を膝に押し付けるように縮こまる彼女は、不安そうに私を見て、けれども何も言わずに私の言葉を待っていました。私はこの態度に、報いなければなりません。
サイダーの空は不思議と、梅雨の曇天と重なりました。そう言えば以前もユウカを困らせたのだなと、私は自分自身を不甲斐なく思いました。
息を一つ吐くと、次の言葉はかんたんに出てきました。
「ユウカは私の気に障ることを、何もしていません。けれど一つ、私の中で疑問に思うことがあって、私はユウカとの接し方が分からなくなりました」
――私とユウカの関係はなんでしょうか。
私はユウカの瞳を見つめました。青紫の宝石には、暗い雰囲気を纏う自信なげな冴えない男が映っていました。
「ずっと一緒にいるけれど、好きとは違う関係だと、私は思いました。恋人のように甘いわけでもなければ、かと言って夫婦のようにちゃんとした書類を通したわけでもない関係です。ユウカが風邪をひいたときに私に問いましたよね、ユウカは私にとってなんなのかと」
「……はい」
「私はそのとき、答えませんでした。答えられませんでした」
「私の質問のせいで――」
私は首を振ってユウカを制止しました。
「ユウカのしてきたことは嬉しかったと最終的に答えました。あれは紛れもない事実です。ユウカが、私と一緒にいたいと言ってくれたことも、私にとっては非常に嬉しいことでした」
私は、今度はちゃんと、ユウカが言ってくれたことは嬉しいことだったと伝えられました。関係を後退させるための、私の進歩でした。
「同時に気づいたことがありました。ユウカは私にとって、一緒にいたいと思える存在です」
ユウカは見るからに表情を和らげました。大きく息を吐いて彼女は肩を下ろします。「けれど」と私が続きを言うと、ユウカはビクリと肩を震わせ顔を引き締めました。
「私の中でこの感情は、好きとは違うものでした。そもそも私のような人間に人を好く資格などありません。ですからユウカは、私にとって、好きでもないのに一緒にいたいと思う人物、ということになります」
「……はあ。えっと」
いまいち要領を得ないといった顔でした。言葉を探している様子のユウカに私は畳み掛けます。
「中途半端な関係だと思いませんか。ユウカが私にとってのなんなのか、私がユウカにとってのなんなのか。悩んで苦しくなるくらいならば近づかないほうが良いと、私は思いました」
苦しむくらいならば離れる。これは私が人間関係で培ってきた常識でした。私はそのようにして親や周囲から離れました。
三角座りを解いたユウカが膝立ちになって、ゆっくりと私のほうに倒れてきます。ユウカはとても丈の短いスカートを履いているのですが、膝が汚れるのは気にしていないようでした。
私の、クレープを持っている手と胸の間に手を伸ばしたユウカは肌を寄せてきます。
またしても、私はユウカに抱きしめられました。ユウカ自身もクレープを持っているはずなのですが、おそらくそれを持っていないほうの手で、頭を撫でられました。こうして甘えさせてくれるから、安心させてくれるから、私はユウカから離れられないのでした。
「先生。人は変われますよ。悩んで苦しくなるなら近づかないなんて寂しいこと言わないでください。相談できるじゃないですか。一緒に苦しめるじゃないですか。先生が昔いた場所ではそうだったのかもしれませんけど、ここはキヴォトスです。私がいます。だから、私を頼ってください。それに、好きになったら好きで、いいじゃないですか」
耳元で囁かれたのは天使の言葉でした。
至近距離でユウカと目が合いました。勇気のある男ならば唇を奪う五センチメートルでした。
「私、先生に言いましたよね。先生が苦しそうなら無理矢理にでも助けるって。それなのに苦しくなる前に距離を置かれたらどうにもできません。お願いです。私を頼ってください」
私の肩にユウカが顔をうずめます。骨ばっていて痛いでしょうに、ぬくもりを手放さぬようにと必死に肌を触れ合わせてきました。
先ほどまではなかった雲がぷかぷかと陽気に浮かんでいました。くっついては離れ、離れてはくっつく雲。寄ってたかって雨雲を形成し、災害をもたらすこともある雲。時には一人だけでさすらうように流れてゆく雲。人間です。
けれどそれは、一部でしかないのでしょう。例えば私の両親のように、籍を入れた後も相思相愛のくっつきっぱなしの雲だってあるのですから。
ユウカから「私を頼って」と言われたのは何度目でしょうか。本当に私は臆病者で、伸ばされた手を払うのが得意なようでした。
中途半端な関係に終止符を打たなければ、私は、きっとまた離れようとするのだろうなと、二つに別れた雲を見て思うのでした。