早瀬ユウカに依存したい   作:ぞんぞりもす

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二話

「お酒だけで、こんなにいっぱい……」

「頭を抱えていますね」

「誰のせいですかっ!」

 

 

  私の金銭事情を知ったユウカは、家計簿をつけると言ってききませんでした。腕を人質に取られた私は彼女の言うことを聞くしかありませんでした。しかし当の彼女は今、たくさんのレシートを前にして虚ろな目をしています。投げ出しても構わないのですが、彼女の真面目さがそれをさせないらしいのです。

 家計簿をつける際にユウカは、「計画的な出費をするためです」と言いました。私にはどうにも無駄な努力に思えます。お酒と計画なんて、水と油です。決して口には出しません。私は自分の腕が惜しいです。

 

 

「七〇〇円で五日もやりくりなんて、不可能ですよ……」

「一日一食コッペパンなら――」

「先生は黙って仕事しててくださいっ!」

 

 

 ともすれば泣き出しそうな怒り顔でユウカは訴えます。目許が水っぽくなっていることには触れないでおきました。

 

 ミレニアムが誇る数学の鬼才は、火の車の前には無力なのでしょうか。いいえ違います。火の車がすでに灰になっているせいで、手の施しようがないのです。

 誰のせいか考えたところ胸が痛くなったため、私は無言でペンを握り直しました。

 

 

 

 

 書類が全て片付いたのは、零時を過ぎたくらいでした。酒を飲まずによくやり切ったと、私は自分を褒め称えます。自分を褒めてくれるのは自分しかいません。

 

 さて、近くでレシートや安売りのチラシとにらめっこをしていたユウカは今、何をしているのでしょう?

 見ると机に突っ伏したまま寝ていました。うなされるように苦しげな寝顔でした。握られていたペンをそっと抜き取り、近くのペン立てに移します。制服と手袋の間から覗く白くてもちもちした手が、普段の手入れの様子を物語っていました。

 

 

「おや」

 

 

 机の上に置かれている小さな箱は私のものではありません。頭痛薬の空箱でした。

 

 シャーレのオフィスから居住区へと移動し、私は自室からタオルケットを持ってきました。五月とは、春と言うには暖かく、夏と言うには涼しい季節。過ごしやすくとも夜は冷え込みますから、体調には気を付けなければなりません。

 

 タオルケットを掛けた際に見た家計簿には、お酒の名前ばかりがずらりと並んでおりました。下から上へ、直近の日からずっと前の日へ。煩雑な字はグラデーションのような変化を見せ、しまいには楷書の整った字に変わりました。

 

 

「これは……?」

 

 

 酒に手を出していなかったころに買った商品が目に入りました。私は肉をやたらと買っていました。

 

「そういえば、買いましたっけ」

 

 値引きシールが貼られた肉を買って冷凍しておくのは、一人暮らしで学んだ節約法です。もしかすると、隣の部屋で眠っているかもしれません。数年前のように記憶がぼやけていますが、私は一か月ほど前まで、ちゃんと料理をしていたのです。

 

 それからの行動は迅速でした。

 

 私のせいで苦しんでいる少女を開放してあげたい一心で、豚肉を冷凍庫から出しました。そこで、急に解凍は行えないことに気づきました。コンビニでささみ肉を買いましょう。女子はそれが好きなイメージがあります。

 コンビニまで行って、ついでに野菜も買ってきました。レジ袋の五円が痛いです。

 コンビニに置いてある食材は値が張りますが、明日からの私が我慢すればよいだけの話。耐えることは得意です。

 

 キャベツを一口大にちぎり、モヤシと一緒にします。キュウリはありませんがナムルなどいかがでしょう。幸いなことに必要な調味料は揃っていました。

 ささみ肉とナムル。夜食にはちょうどいい量とカロリーでしょう。

 

 でき上がったものを見て思い出したことがありました。もう一度コンビニまで行き、シャーレの先生という身分と土下座で頭痛薬を値引きしてもらいます。

 赤の他人であれば、私は何も感じずに頭を下げられます。

 

 ……関わりがあるからこそ、失望は生まれるのです。だから厄介なのです。

 

 人と関わりたい。失望されたくないから孤独になりたい。両者を天秤にかけ、私は孤独を選びました。その道を選ぶ際に家族などから失望されたわけですが、家族など私を苦しめた枷に過ぎませんから、思うことはありませんでした。

 私が恐れるのは、味方でも敵でもない知り合いに失望されること。自分の世界が敵だらけになる恐怖は、歌の歌詞に描かれるほど優しいものではありません。

 

 ユウカの近くに皿と箱を置き、私はその場を後にしました。ひとまず風呂に入りたかったのです。

 

 

 

 

 適当にドライヤーをかけてから執務室に戻ると、ユウカはすでにいなくなっていました。

 椅子にはタオルケットが畳まれて置かれており、四辺ぴったり積まれたレシートと、家計簿が、彼女の使っていた机の隅に置かれていました。机の真ん中には開いている箱と紙が置かれていました。楷書の字でした。

 

『お皿を洗うために隣の洗い場を使わせていただきました。

 そのときに見たのですが、お肉はあるんですね! 生姜焼きでも作ろうとしたんですか?

 少しだけ安心しました。

 

 食事とそれから、頭痛薬まで……。ありがとうございます。

 私は明日(というか今日?)も学校があるので、帰りますね。また夕方にうかがいます。』

 

 家計簿にはすべての支出が記載されていますから、ユウカの仕事は終わったはずです。夕方に彼女は何をしに来るのでしょう?

  嘘です。私は本当は期待しています。明日の晩ごはんだけでいいですから、おいしいものが私は食べたい。

 

 

「いけませんね、少しフラフラします」

 

 

 ユウカが本当にいなくなったことが分かって、どっと疲れが押し寄せてきました。こめかみを押さえて深呼吸します。

 

 他人が、私を知る存在――知り合いへと変わっていく不安感。

 私をだらしなさをしっかり見てくれたことや、家計簿をつけると言い出した強引でお節介な部分に感じる魅力。

 

 ぐちゃぐちゃでした。疲れました。自分を偽ることよりも自分を見つめてもらうことのほうがしんどいだなんて、知りませんでした。

 

 もう何度か深呼吸したときに、部屋の酒気が薄れていることに気づきました。甘い匂いが混ざっていますが、これはユウカのものでしょうか。いないのに感じる存在感は、しっかりと私の心を乱します。

 

 ……今はひとまず、明日に備えて寝るとしましょう。時計が三時を知らせました。睡眠の周期的に、明日は六時すぎに起きるのがいいでしょう。

 そんな事を考えながら、自分の机周りを整理します。私の机の端に置かれたコッペパンが、寂しそうに横たわっていました。袋にしっかりと封をしました。

 

 明日の朝は、ちゃんとした食べ物がありますね。

 

 

 

 

「せーんせーい~?」

 

 

 突然頭上から聞こえた声に、私は肩を震わせました。目線の高さに白い素肌が見えました。すべすべでさわり心地の良さそうな肌です。

 

 

「せ、先生っ! いいいきなりどっ、どこを見てるんですか!?」

 

 

 声の主はスカートの下のほうを押さえました。手袋をしていても分かるくらい小さな手でした。ユウカですか。

 ふむ、私は太ももをじっと見ていたようです。自己完結したのち顔を上げました。ショートケーキの上にあるイチゴのように、ユウカは頬を染めていました。差し込んだ夕日のせいではないでしょう。

 

 

「夕方ここに来ると、書いていましたね」

「そ、そうです。そうです!」

「……頭痛は治まりましたか?」

「ああ、はい、それは……おかげさまで」

「それは良かった」

 

 

 いいお天気ですねくらいの雑談のつもりが、思わぬ笑顔に出会えました。頬が未だに赤いからか、年に見合わぬエロスを備えています。

 

 おや、入口近くの机にビニール袋が置かれています。

 

 

「そちらの袋は」

「食材です。スーパーを回って、チラシに載っていたり、シールが貼られていたものを買ってきました。これだけあれば五日は持ちますね」

 

 

 ユウカはビニール袋をあさり、野菜やら魚やらを見せてくれます。ユウカ個人で食べる食材ならば、わざわざここに持ち込まないでしょう。作り置きでもしてくれるのでしょうか。

 

 期待されることが大嫌いな私は、ユウカに、あわよくばと期待していました。しかし五日分とは恩を返しすぎです。鶴の恩返しで、鶴がツチノコを見つけ出すような恩返しっぷりです。

 

 

「ポケットマネーで、五日分ですか」

 

 

 私のつぶやきです。私の財布はちょうど零度ですから、この食材はユウカの自腹でしょう。

 彼女は乾いた笑いをこぼして頷きました。

 

 

「シャーレの先生が借金をするのは評判に響きますし、何より私は、先生ほど文無しではありませんから。貯金を少し崩しただけです」

 

 

 土下座値引きの件は黙っていることにしましょう。

 さて、ユウカはオブラートに包んでくれましたが、これはヒモ男の行動に違いありません。私はこの厚意を受け取ってもよいのでしょうか。

 

 私の世渡りマニュアルには載っていないイベントです。どうしましょう。

 

 

「……本当に少し貯金を崩しただけですからね? それに食事も、私が勝手に作るものですから」

 

 

 何も語らなかった私を心配してか、ユウカはフォローをくれます。私がユウカの優しさに葛藤を覚えていることに気づいていないのでしょう。「肉は必要な分だけ使ってください」という厚かましい言葉にも、彼女は笑顔で返事をくれます。

 そうしてカシャカシャとプラスチック特有の音を立てながら隣の部屋へと行きました。

 

 ……酒が飲みたい。

 感情を抑えるときは酒に限ります。あの飲み物には不思議な力があって、感情を胃の中へと流し込んでくれるのです。酔ったあかつきには、何も考えなくて良くなります。

 

 本日は一本目の缶から口を離し、息を吐いたところで、眉尻の下がったユウカと目が合いました。食材を置いてこの部屋へ戻ってきたようです。

 

 

「あの、先生。お酒を飲むなとは言いませんけど、減らしてくださいね?」

「酒がなくなれば、私は自分の感情を抑えきれなくなってしまいます。私にとって酒は生活必需品です」

「自分の感情を抑えるために、先生はお酒を飲むんですか?」

 

 

 驚きました。

 お酒を飲むなと注意する人は私の話に一切耳を傾けませんでした。言いたいことだけをまくし立てて去っていくのが世の常でした。

 

 ユウカは違っていたのです。

 きっと今の私は、目の前に立っているユウカよりもキョトンとした顔をしていることでしょう。首を振って気を取り直します。

 

 

「それに私は酒に酔ったあの高揚感が好きです。何も考えずに済みますから。ユウカは、分かりませんか?」

 

 

 例えば年頃の女子が、かっこいい男性を見たときのような夢うつつの状態です。

 それを伝えるとユウカは微妙な顔をしました。ユウカも年頃の女子だと思っていましたが、共感しづらいのですか。それとも強引に話をそらされたことが気に食わないのですか。

 

 

「誰かから求められる感じと似ているのだと思います。私は心から求められたことがありませんから分かりませんが、小説を読んで学びました。心がふわふわする感じです」

「……ええっと」

 

 

 ユウカは、共感とも同情とも取れる曖昧な笑みを浮かべました。

 空になった缶を置いた音に、私は会話の終わりを感じました。いいえ、わざと音を立てて缶を置き、強引に話を終わらせたのです。

 

 ひとまず二人分の飲み物を用意しましょうか。

 昼に作ったコーヒーを二つのマグカップに注ぎました。

 

 

「飲み物はこちらに置いておきます。調理をするならば隣の部屋に持っていってください。私は書類仕事に戻ります」

「それでは私も、行きますね」

 

 

 気まずそうな顔です。あれは面倒くさい先生に捕まった高校生の反応です。と、ユウカが扉の前で立ち止まりました。

 

 

「時々様子を見に来ますから、ちゃんとやっててくださいねー?」

 

 

 そう言い残して、青紫の髪は廊下に吸い込まれました。さらさらの髪の残像が未だに見えている気がします。

 

 私はユウカに、なんと言葉をかければ良いのでしょう。

 

 私が黙れば、ユウカは献身的な言葉を掛けてくれます。

 私が話せば、彼女にとって共感しがたいネガティブな言葉が飛び出します。

 

 どうすることもできません。けれど、私はすでに、ユウカに引き込まれている部分がある。

 人との関わりを絶ってきたのはどこの誰ですか。孤独の二四年は、たった二日に負けるのですか。過去の私が苦しんだのはここで甘えるためではありません。一人で生きる強さを身につけるために、私は過去で苦しんだのです。

 ですが、少しくらいは……。

 

 よし。

 

 酒を飲みましょう。ビールでなく、もっと強いものがいい。棚の中にストックがありましたっけ。

 二本三本と焼酎の瓶が空になっていきました。私はいつからか、酒に酔えなくなっていました。しかしそれでも、若者が死んだ恋人を想い続けるように、私は酔いを求め続けます。手に握られている瓶は、私と酔いをつなぐ写真です。

 

 止められたのは七本目に入ったところでした。「大丈夫ですか!?」とただならぬ顔をしたユウカが私に駆け寄ってきます。

 彼女は、ところどころに花をあしらったエプロンを身に着けていました。髪ゴムも花でいいんじゃないかと思いましたが、あの三角形には意味はあるのでしょうか。

 

 

「先生!? 意識はありますか!?」

「はい。ちゃんと仕事をしていましたが」

 

 

 でも、と言いよどむユウカが私の手元を凝視します。ひんやりとした手が私から瓶をそっと奪い取りました。料理中は手袋を外すようです。

 裏面を確認したユウカが口をあんぐり開けました。

 

 

「先生これ、すごく強いお酒じゃないですか! それをこんなにたくさん……死にますよ!?」

「生きていますが」

「そういう問題じゃなくて! 死ななくても、肝臓にはものすごく負担がかかります! 急性のアルコール中毒になる可能性も……それに早死のリスクだって……」

「こうして書類にサインできているのです。問題ありません」

「で、ですけど」

 

 

 ユウカは目をぎゅっと瞑り、苦虫を噛み潰したような顔をしています。葛藤しているのが容易に想像できましたが、何と葛藤しているのかは分かりませんでした。ユウカの顔が上から下へ、徐々に傾いていきました。

 

 

「――ああもう! 先生、いいですか!?」

 

 

 ユウカは私の肩を掴みました。私を見下ろす大きな瞳が不安そうに揺れていました。

 

 

「お酒も、私がすべて管理します! 先生がお酒を買いに行くときは必ず私を連れて行ってください! あと、先生がお酒を飲むときは私もできるだけ一緒にいますからね!? いいですか!? 返事は!?」

「はい」

 

 

 感覚は麻痺していますが、大変なことになってからでは遅いことを私は理解しています。理解はしています。

 

 私から瓶のありかを聞き出し、すべて没収したユウカは、ひとまず調理へと戻りました。自暴自棄になっているようにも感じられましたから、手もとが狂って怪我などしないといいのですが。

 どの口が心配しているのでしょう。私は今は、紙と向き合いましょう。

 

 

 

 

 すべての調理が終わったらしいユウカに呼ばれ、私は隣の部屋を訪れました。

 この部屋にはアイエイチや流し台、冷蔵庫などが置いてあり食堂の調理場のようです。ムワッとした生暖かい空気と様々な食材のにおいが部屋に充満している感じが、まさにそれです。不快感はありません。

 部屋の中央の大きな四角テーブルには和風な食事が並んでおりました。それを眺めながらユウカは話します。

 

 

「今日から私は、ひとまず月がかわるまで、晩ごはんをご一緒します。異論は認めません」

「ユウカはよろしいのですか? 月末の会計というのは忙しいイメージがあるのですが」

「それは……まあ、忙しいですけど。それでもです。シャーレに書類を持ってきて私のやるべきことはやれますし、メールでミレニアムとはデータのやり取りができますから。今は先生が最重要事項です。銃撃戦の流れ弾よりもよっぽど困る死因ですからね?」

 

 

 彼女の手もとを確認すると、絆創膏などは貼られていませんでした。思わず吐息がこぼれました。

 

 ユウカは今日の晩ごはんらしい白米、きんぴらごぼう、切り干し大根の煮物、鮭の塩焼きをお皿に盛り付けていきます。汁物は豚汁のようです。小学校の給食みたいですね。小学校関連のことを思い出そうとしたのですが、担任の顔すら覚えていませんでした。

 

 

「先生は自分の立場を分かっていないような気がします」

 

 

 私はその言葉をあえて聞き流しました。

 向こうでの私はしがないサラリーマン。いくらでも替えのきく消耗品に過ぎませんでした。当時の感覚が抜けていないのです。

 

 今日からの食事は、私にとっては奇妙で、温かいものでした。小学校や中学校と同じようなメニューなのに、ユウカとの食事のほうが色づいていたと思います。

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