早瀬ユウカに依存したい   作:ぞんぞりもす

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三話

 定期報告会のために、私はミレニアムサイエンススクールを目指して歩いていました。

 建物が大きいせいで遠近感が狂っています。シャーレから歩いて十五分だろうと思っていたのですが、三十分経っても着きません。時間に余裕を持っておいて正解でした。

 

 正面に控える校門から出てくる生徒たちは、みな楽しげでした。それだけでこの高校がいいところなのが伝わってきます。

 私が通っていた高校は進学校で、多くの生徒が塾に入っておりました。親同士のマウント合戦や塾の派閥競争など、くだらないことで争っていたのを覚えています。そこの生徒は放課後になっても、死んだ顔のまま校舎を出ていくのでした。

 

 

「おや、あれは。カリンですね」

 

 

 メイド服に長い髪をたなびかせて歩くのはカリンです。物騒なスナイパーライフルを持ち歩いていますが、私がそれにおびえていたのは最初の一週間だけでした。彼女はミレニアムのシモ・ヘイヘです。

 こちらに気づいたカリンが駆け足で寄ってきます。軍人みたいな凛とした表情が崩れ、笑みが浮かべられています。

 

 

「先生、こんにちは。ミレニアムに用事?」

「こんにちは、カリン。ミレニアムには定期報告会ということで呼ばれまして。そちらは今から帰りですか?」

「うーん……帰りと言えば帰りだけど、これからバイトなんだ」

「バイトですか。C&Cと掛け持ちするのは大変だと思いますが、どのようなバイトをしてらっしゃるのですか?」

「えっと――」

 

 

 適当に雑談をしてから別れを告げました。その際に報告会の場所を聞いたのですが、敷地の奥でした。

 これではエンジニア部やヴェリタス、C&Cのカリン以外のメンバーに発見される危険性があります。できれば生徒とは、任務以外で関わりたくありません。

 

 本性とは本当の性です。しかし真実がいつも美しいとは限りません。

 

 ああもうほら。敷地の端を歩いていても、彼女らは的確に私を見つけてきます。レーダーか何かを使っているのではと思ったら、エンジニア部は本当に、銃に私専用のレーダーをつけていました。

 どういう改造ですか。原理を聞いても理解できませんでした。私は文系です。

 

 はあ、時間に余裕を持っていて正解でした。彼女たちと談笑していた結果、報告会の五分前に到着です。

 

 常識人を演じている私は、常識人ではありません。ピエロが常にピエロと思わないことです。休憩があるからこそピエロになれるのです。

 ……はあ。最近は少しばかり減っていた酒が増えますね。ストックは足りるでしょうか。数日我慢できていても、ふと飲みだすと止まらないから、私と酒は切り離せないのです。

 

 そんなことを思いながら、私は扉に手をかけました。

 

 

 

 

 開放された私は、校舎の廊下を、敷地の奥から校門側へ歩いておりました。右手には扉が規則的に並び、左手からは夕暮れ時のミレニアム自治区が一望できました。

 西に浮かんでいる雲が茜色に染まる時間でした。南にはすでに夜空が侵食しています。四階から見下ろしたミレニアム自治区は白い光に包まれていました。人が作った光からはどこか冷たい印象を受けます。

 

 部活のほとんどが活動を終えているのか、とても静かな空間でした。

 高校生活では経験しなかった無音です。図書室で勉強しているときでさえ、努力の雄叫びは私のもとに届き続けました。

 

 一番奥の部屋からユウカが出てきました。遠目でも分かるくらい大きな動作で息を吐いて、彼女はゆっくりとドアを閉めます。

 私は報告会が終わってすぐにセミナーの活動場所を聞き出しました。ユウカが今日は一人で活動していることも、把握済みです。

 

 彼女は大きなため息をもう一度ついて、こちらへ向かって歩き始めました。と、私を見つけてか目を丸くしました。笑みを浮かべて小走りでやってきます。長い髪が左右に揺れて、踊っているように見えました。

 

 ……なぜ嬉しそうに笑うのでしょう。出会ってから笑みを向けられたのは初めてのことでした。私は談笑の笑みを消すことに特化しています。

 

 

「先生! どうなさったんですかこんなところで!」

 

 

 凛とした声が、ひんやりした廊下の風にのって届きます。けっこうな距離を走ったと思うのですが、彼女は息一つ切れていません。

 

 ところで私は、この少女――早瀬ユウカに会いに来たのです。

 実のところ私のような人間が訳もなく廊下を歩くわけがございません。

 

 学校なんて期待の温床ですから、私としては早く立ち去りたいのです。

 ここで芽を出した期待という植物は、人に寄生し、体を乗っ取ります。乗っ取りに失敗した場合には、失望という名の散弾銃が周囲からぶっ放されます。学校とは、魔物の巣窟なのです。

 

 

「元気、ないんですか?」

「いいえ。私は元気です。少しばかり考えごとをしておりました」

「何を考えていたんですか?」

「……特に何も考えていません」

「はい?」

 

 

 普段の私ならば「仕事のことですよ」などと反射的に濁すのですが、口から出た言葉は全く違うものでした。受け入れる器の大きさは、かんたんに人を変えてしまうようです。

 しかし私にとっての大きな変化は、字面だけ見ればバカの所業です。光速の矛盾ですからね。

 

 矛盾にぽかんとしていたユウカはやがて、口元に手を当て、上品な笑い声を出しました。肩を上下させたせいで彼女の髪が乱れましたが、それを耳にかけなおす姿は淑女の動作でした。

 彼女は改めて首を傾けます。

 

 

「それで、今日はどうなさったんですか? 散歩していたんですか? それなら私がミレニアムの中を案内しますよ!」

「ユウカに用事があったのです。散歩は……またの機会にお願いします。今日はもう遅いですから」

 

 

 言い終わるなり私は、手にぶら下げていた鞄からクリアファイルを取り出しました。この中には茶色い封筒が入っています。

 ちゃらん。中の小銭が居心地悪そうな音を立てます。ユウカの目が、封筒に吸い込まれました。私はもったいぶらずにそれをユウカに向けました。

 

 

「これを。月末に五日分の食費を出させてしまったので、その代金です。私なりに計算したものですから、足りない場合は教えて下さい」

 

 

 ユウカがお金の管理にうるさいことは承知していました。本人は気にするなと言いましたが、私がいた場所では、『気にするな』と『気にして』はペアの言葉です。こういう気遣いが世渡りには必要だったのです。

 

 ユウカは封筒を受け取りません。どうすれば良いのか分からないといった風で、様子をうかがうように私を見上げます。

 ……なぜ受け取らないのでしょう。もうちょっと前に出してみましょう。

 

 

「受け取ってください」

「いえ、お金は受け取れません!」

「これはもともと私の金ではありません。ユウカからいただいたものを返しに来たのです」

「ですからお金は受け取れませんって! それに先月のあれは私が勝手にやったことですし、先生が気にすることじゃありませんっ」

「自分の心に正直になってください」

「正直ですよ!?」

 

 

 誰ですか。ユウカが金にうるさいと言ったのは。ユウカは今、私の手を握って、封筒をクリアファイルに押し込もうとしています。

 力で完敗の私ですから、なすすべなく押し込まれてしまいました。

 

 私は勘違いをしていました。ユウカはお節介ですが、金に執着している人間ではありません。

 噂で判断すること、されることは、私が嫌う言動です。私はそれをしました。しかし、ユウカが守銭奴でないと分かったのは怪我の功名です。

 

 私は封筒の入ったクリアファイルを鞄に戻しました。

 

 

「ではこれは、私が持っておきます」

 

 

 酒代にしましょう。酒を買いに行くときはユウカと一緒でなければなりませんが、予算が増えれば、ユウカは多めにそれを買わせてくれるでしょう。

 彼女は現在、下を向いて黙っていました。考え事でしょうか。私の要件は済んだためすぐにでも帰りたいのですが、ユウカから話があれば聞きましょう。

 

 ずっとユウカを見下ろしているのも気分が悪い。外でも見ましょうか。私は鞄を廊下に立てかけ、窓枠に両肘を乗せました。窓は私の顔とミレニアムの風景を半々くらいで私に見せました。

 なぜかユウカは隣に立って、窓の反射を使って私を見ました。

 

 

「お金の使い道は決まっていますか?」

「……少しでも、食費の足しになればなと」

「今目そらしましたよね?」

 

 

 酒代に消える。そんな確信を持った問いだったようです。

 私は人に嘘をつくとき、人と目を合わせることができません。浅瀬で底が見やすいように、嘘の魂胆までもが見透かされるような気がしてしまうのです。

 

 自分に嘘をつくことのほうが多い人生でしたから困りませんでしたが、今こうして困ることになるとは、思ってもみませんでした。

 

 ユウカは窓枠に頬杖をつき微笑んでいました。太陽はもう寝てしまったようで、悪魔の笑顔みたいな三日月だけが私たちを見守っています。

 

 

「そのお金、やっぱりいただきます。先生が浪費してしまったときのために取っておきますね」

「取っておかなくても大丈夫ですよ。二度目になりますが、あれはもともと、ユウカのものでしたから」

「そう言われても……もうお酒の衝動買いはしないんですか? 先月はあーんなに買っていたのに」

「言うほど買っていませんよ。二十日間ほど一日一食で過ごした経験もありますから」

「栄養大丈夫なんですか? それ」

 

 

 ユウカは膝を折りました。しゃがむときに下着を見せないよう気をつけているのか、膝をしっかりと床につけて、正座のようでした。膝上何十センチの生活経験は本物のようです。

 ビーッと、チャックを開ける音が聞こえました。鞄の中にはパソコンが入っていますが、おそらくユウカはそれに触らないでしょう。ハレやマキではありませんし。

 

 

「先生は、趣味ってありますか?」

「ないですね」

「即答ですか?」

「ありませんから」

 

 

 学生のころは、お金を貯め込む性分だったと思います。私は服やおやつに頓着しませんでしたし、消耗品の文房具も安物でした。大学二年生――二〇歳になってすぐに酒に溺れ始め、社会人になってからは浪費の日々でした。

 

 私の話を聞いたユウカは悩ましげな声を上げます。ユウカのつぶやきを聞く限りでは、彼女も趣味がないため、私にアドバイスができないようでした。計算は趣味に含まないこととしました。

 

 

「強いて言えば、口臭清涼剤や消臭剤を買うことは趣味の一つです」

「あ~、だから先生からはお酒のにおいがしないんですねー……それ、趣味ですか?」

「ウィンドウショッピングが趣味です」

「消臭剤の?」

「それと清涼剤のですね」

 

 

 隣に立ち直したユウカは、くすくすと優しい声で、笑いました。

 

 

「でも、それは趣味じゃないですよ」

 

 

 次に聞こえたのは否定の言葉でした。しかし私には、それが氷のナイフでなく、温かいシチューのように思えました。

 言葉の表面だけを捉えるのではなく、私を捉えた上での言葉だったからでしょうか。

 

 人工的な光に照らされる儚げな横顔は続けます。バルコニーに出たお姫様が星に本心を語るような、私などが穢してはならない、神秘的で、現実味のない空間でした。

 

 

「趣味って、好きなことなんですよ。先生のウィンドウショッピングってなんだか、義務感から趣味になったものな気がするんですよね。でなければ口臭清涼剤を探すのが好きなんて言わない気がしますから。たぶんですけどね?」

 

 

 取引先の相手が、酒気漂う男だったら嫌でしょう? 私はそう考えて、買い物をするようになりました。義務感ではありませんが、常識のせいで趣味になったことは事実です。

 私を見たユウカは、再び視線を外に向けました。

 

 

「好きだからって感じは、しません」

「それならユウカの計算も、れっきとした趣味なんですね」

「む……私は計算が好きって言ったじゃないですか! だからミレニアムの会計をしているんです」

 

 

 軽口で半目になったユウカは、やがて胸を張りました。心の中ではフフンと鼻を鳴らしていることでしょう。

 

 私にはそれが羨ましい。やりたいことができていると言えるその自信が。

 感受性が豊かになって、何かと落ち込みやすい時期にある高校生のほとんどは、ユウカのように胸を張れません。けれど三年という月日を経て、皆たくましくなるのです。誰に見せても恥ずかしくない屈強な胸板になるのです。

 

 私はどうでしょうか。

 親や周囲の期待に応え、失望されることがないように過ごしてきた私の胸板は、高校生活で、厚くなるどころかすり減りました。顕微鏡で使うカバーガラスみたいになって初めて、私は周囲に傷つけられていることを悟りました。

 親や周囲を捨ててからは、カバーガラスが折れないように、臆病に、酒に依存しながら生きてきました。

 

 ――やりたいことを探してみたい。

 ……今さら何を。やりたいこと探しと銘打って家を出て都会に行き、あげく酒に溺れた私のような人間が? また探したところで、私は何か別のものに依存するに決まっています。

 

 本心は、慣れで殺してきました。まるで一人の気弱な男子をいじめるように、寄ってたかって蹴りました。けれど今日の男子は、痛みに耐えてうずくまるのではなく、立ち上がろうとしていました。

 ああ、痛い。もう一発蹴りが飛んできました。

 

 隣に立つユウカが、心配そうに私を覗き込んでいます。十センチもない距離でした。背中がさすられているような気がしました。

 

 

「あっ……なんでもないですから」

 

 

 彼女は目が合うと恥ずかしそうに頬を染め、ぷいとそっぽを向きます。翻った青紫の髪に私は、甘い匂いと温かさを感じました。

 

 

「今日はありがとうございました。私はシャーレに戻ります」

「そうですか? 私はもうちょっと話をしていたいですけど……あーでも、私も片付けないといけないことがあったなー」

「それでは、さようなら」

 

 

 私はユウカに、優しくさよならを言えたと思います。ユウカの返事を聞く前に玄関へと足を進めました。

 これ以上感情を乱されたら、私はまた、酒を大量に飲んでしまう。私のような男子など、蹴られてぐったり横になっていればよいのです。ゾンビのように何度も何度も生き返る必要はないのです。ずっと倒れたままならば、蹴られる痛みは経験しません。

 

 

 

 

「――先生!」

 

 

 校門の前で私は呼び止められました。私は都会に出てからというもの、公共の場所で自分のことを呼ばれるのが嫌いになりました。愚か者がここにいると喧伝されている気がしてしまうからです。

 

 私はあたりを見回しました。なるほど、部活中の生徒がちらほらと。

 私は声がしたほうを向き、困ったような笑みを作りました。

 

 声の主――ユウカはこちらに走ってきていました。肩にはスクールバッグが掛けられており、彼女はそれが揺れないように押さえながら、迫ってきます。

 

「ユウカ。いきなり大声で呼ばれては驚いてしまいますよ」

「先生がすぐに行ってしまうからです! あと、歩くの早すぎます!」

 

 隣に並んだかと思えば、ユウカはすぐさま私の手を引いて走り出しました。歩くのが早いなどと言いながらあなたは走っていますよ。

 

 道中のことです。ここまでずっと手を引かれて走ってきた私ですが、足がもつれて転びそうになってしまいました。ひんやりした感触が離れていきます。

 私の異変に気づいたユウカが戻ってきました。暗かったため表情は分かりませんでした。

 

「せんせーい、運動してますか~? ……まったく、もう。深呼吸しましょうか」

 

 肩で息をする私の背中を擦り、本当にゆっくりとユウカは歩きます。

 彼女の指示に従って深呼吸しているうちに、だんだん呼吸が落ち着いてきました。もう手を離されても大丈夫そうです。

 

「運動のメニューも作りましょうか」

「それは勘弁してください。私はもともと運動が得意ではありません。だから走らないように時間に余裕を持つのです」

「ふふっ、そうですか。じゃあやめておきましょうかねー」

 

 この少女、私で遊んでいませんか?

 私の視線を受け取ったユウカは目を細めて口角を上げました。

 

 ミレニアム自治区にあるスーパーに立ち寄った際に、彼女は小声で、私が酒を飲むと思ったことを教えてくれました。

 晩ごはんは彼女が作ったオムライスと、たった五つだけの缶ビール。けれど私の背中には、葛藤と戦うための、小さくてひんやりとした手のぬくもりがいつまでも残っていました。

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