セミナーの扉を開けると、キャンバスを睨みつけるようにして見るユウカがいました。私の家計をやりくりしているときのような剣幕でした。
私を見たユウカは「先生」と表情を緩めます。次いで首を少し右に傾けました。
「早かったですね」
「放課後に来たまでですよ。それで、私に相談したいことというのは」
私はユウカから『先生にしか相談できないことがある、放課後に空いていたらミレニアムに来て欲しい』といった趣旨のメールを受け取ったためここを訪れたのです。わけもなく学校というジャンルの建物には来ません。
「実は、この絵なんですけど……」
ユウカはキャンバスを私のほうに向けてくれます。私は入口近くの机に鞄を置いてから、絵に近づきました。
白い紙が黒く塗りつぶされていました。上方に紫の線が一筋、右には黄色い太い線が垂れています。真ん中に黄色の丸が三つ縦に並んでおり、仕上げには青色のクレヨンで雷のような模様が描かれていました。
作品には作者が表現したいものが描かれると思っています。これからは、一切感じられませんでした。まるで、芸術はこういう意味不明なものでしょ? とでも言いたげな、芸術の皮をかぶった思考停止の常識に感じられました。
鳥肌が立ちました。期待の奴隷であることを求めた、親や教師の姿がキャンバスと重なりました。腹から何かが逆流してきそうな負の感情。これは嫌悪感です。
「先生から見て、この絵はなんだと思いますか?」
「……すみません。この絵はあまり見たくありません」
目をつむり、記憶を頼りにキャンバスの下のほうに手を触れます。支えとなっている木を掴みました。それをぐいと、力任せに回転させます。
大きなため息が私からこぼれました。
この絵の作者は、作品を、苦しみ、憎しみ、嬉しさ――感情の極地にあるものを、馬鹿にしているようにさえ感じられました。人の涙を笑いの種にする悪役のようです。
確かにピカソの絵は意味不明ですが、しかしあの、遠近法のなっていない絵にもちゃんとした芸術観があるのです。当時の画家の仕事はデッサンが主でした。そこにカメラが発明されました。カメラがあれば、デッサンをする必要はありません。画家はお役御免となったのです。ですからピカソは、遠近法のなっていない、カメラでは表現できないことを絵で表そうとしたのです。結果として、あのような絵の数々が後世に残りました。
異端な絵にはそれ相応の理由があるのです。
……それなのに。それなのに。
自分に正義があるかのごとく、常識は異端を馬鹿にするのです。
「一度、頭を冷やさせてください」
ユウカの返事も聞かずに私は踵を返しました。まっすぐに歩き、扉を開けて廊下に出ます。扉を閉めて、大きく深呼吸しました。心を支配していた負の感情が廊下の風にのって遠くへ行くようでした。
正面の窓まで歩みを進め、窓枠に両肘を乗せました。
西に傾いた太陽が放課後のミレニアム自治区を包んでいます。
芝生があって、楽しそうに話す生徒がいて、ミレニアムサイエンススクールを囲むように木があって、住宅街や商店街があって。最奥に広がる、空との境界まで続く砂漠。ミレニアム自治区よりも大きいであろう砂漠は、しかし孤独です。芸術家だ、と思いました。
誰よりも大きく美しい世界観を持つ芸術家は、きっと孤独なのです。
私はずっと自身を孤独と思っていましたが、人の波の中で生活しているのですから、孤独ではなく一人なだけだったのですね。借りようと思えば、誰かの手を借りれるのでしょう。例えば今日、私に連絡を寄こしたユウカのように。
勢いよく扉が開く音が後ろから聞こえました。
「あれ……? 先生、ここにいたんですね。てっきりシャーレに行くものだと思っていました」
「頭を冷やしに行くイコール酒を飲むと思わないでください」
「自分の感情を抑えるときにお酒を飲むって、先生、前に言ってたじゃないですか」
「……だからといって、いつもいつでも酒は飲みません」
取引先で嫌なことがあったからといって、相手の会社でカシュッとはやれないでしょう。
視界の端に青紫がひょこっと現れました。どうやらユウカは右隣に立ったようです。
「急ぎの仕事だけ終わらせて、あとはスクールバッグに全部詰めたんですけど、その必要はなかったみたいですね」
「ええ。私はここにいますからね」
ユウカは鍵に手をかけて下に動かし、窓を開けました。びゅうっと入ってきた風に髪がなびき、私のワイシャツに当たってカサカサと音が立ちました。艷やかで、くすぐったかったです。「わっ風強い」と、ユウカは風になびく髪を押さえました。
風が弱まり、隣でユウカが髪から手を離します。
「頭を冷やすって言っていましたけど、何に怒ってたんですか?」
「……改めて考えると、分かりません。怒っていたのではないと思います。おそらく許せなかったのです。あの絵には、押し付けがましい常識がありました」
「よく、分からないです。私は芸術に疎いので……」
ユウカは気まずそうに頬をかきました。
それから私が何も言わなかったからか、ユウカが無理に話をつなげてくれました。
「でも、あの絵は有名な画家が描いたらしくて、一億の価値があるらしいんですよ。……なっ、なんですかその目は!? 本当ですからね!? 書類だってちゃんとあります! 見てください!」
ありえませんね。
ですが確かに、有名な画家が描いたと記されていました。芸術学園の生徒ですか。書類なんていくらでも
「その生徒について調べてみましょう。パソコンはええと、中に置きましたっけ」
○
クリック音とキーボードを叩く音。
こっこっとタブレットに何かを書き込む音。時おりそろばんを弾く軽い音も聞こえてきました。
調べ物が終わりました。私は椅子の背もたれに寄りかかって、疲れのこもった吐息をします。電子黒板の上にある時計を見ると一時間が経っていました。
くっつけた四つの机の対角線上に座るユウカが私をちらっと見ました。
「ユウカ、少しお話が。マツモトという生徒はいませんでしたよ。担保の件は断ったほうがいいと思います」
「分かりました。ありがとうございます。今日ずっと悩んでいたことが解消してすごくスッキリしました」
ユウカは絵を教室の端に寄せました。処分するかは追々決めるそうです。
休憩にしようと誘われたので、私はブラックコーヒーをいただくことにしました。と、隣の部屋で準備をしていたユウカがコーヒーを持たずに戻ってきました。
「先生って甘いもの、好きですか? ずっと頭を使っていましたし、チョコやアメくらいならありますよ」
「私はあまり、甘いものは得意ではなくて。コーヒーだけで大丈夫です」
ユウカは返事をして隣の部屋に入りました。時間がかかるのなら私はもう少しパソコンと向かい合いましょう。
○
チョコを口に含んで「ん~、おいし~」と頬を緩めていたユウカが、ふと、真面目な顔つきで問いました。
「モモトークって、知ってますよね?」
「はい。連絡アプリですよね」
向こうで言うLINEですね。
「知ってはいたんですね」とユウカは胸をなでおろしました。最初に追加したのはユウカであったことまで覚えていますとも。
「使ってます?」
「使っていません。ああいったアプリは面倒ですからね」
「あ~、先生ならそう言うと思いましたけど……でも、使ったほうがいいですよ。何より連絡がかんたんですし」
「メールではいけないのですか?」
「変に形式を意識してしまって書くのが大変なんです。モモトークのほうがもっと気楽なので。業務とプライベートは分けたいじゃないですか」
私はむしろ、メールのほうが気楽です。モモトークでは距離感が分からないのです。向こうにいたときは、グイグイ来られるとなんと返信すればよいのか考えてしまい、一晩寝つけなかったこともあります。
しかし、私は自分自身が少数派であることを理解しています。
ユウカが壁と私とを交互に見て続けました。
「あと、未読無視って、けっこう心にくるんですよね……何回もなんかいも先生に連絡を入れてるんですけど、返信が来なくて、それで、今日のことを相談するメールを送っていいのかなって昼までずっと考えていたんですよね」
自分がプレゼンをしたときになんの反応も返ってこないのは、たしかに心にきます。せっかく訪れた飲食店が閉まっていたときのような絶望感です。次も閉まっているのではないかと余計に悩み、訪れたくなくなります。
ユウカの話を聞くに、彼女は何度も店を訪れたのでしょう。そして閉まっていることに肩を落として帰るのです。……肩を落とすまではいかないかもしれません。そのお店には人気がありませんから。
とにかく、ユウカがこうして赤裸々に本心を語ってくれたのです。私は彼女の要望に答えましょう。恩返しと罪滅ぼしがカフェラテのように混ざった心模様でした。
ユウカは両手でマグカップを包むように握っており、ちびちびとコーヒーを飲んでいます。私はユウカにできるだけ優しく声をかけました。
「シャーレに戻ってから、見てみます。あと、今後はなるべく、見るようにします」
「……ルールを決めませんか?」
「ルール、というのは」
「いきなりモモトークを見るようになるっていうのも大変ですし、例えば夜の九時にだけ見るようにするみたいな決まりごと? って言えばいいんですか。そうしたほうがお互いのためだと思って」
「ではユウカの言う通り、夜の九時にだけ見ることにしましょう」
ユウカは嬉しそうに笑いました。真っ白だった肌が薄桃に色づいています。
私はコーヒーを口に含みました。ユウカはこれ以上口を開きませんでした。
休憩が終わったあとももう少しここで仕事をしましょう。仕事を終わらせたいなどという思惑はなく、ただ居心地がいいからでした。
教室から見える東の空から、夜の証がゆっくりと昇ってきます。そのオフホワイトの光は教室を照らすには心もとないですが、しばらくの間、私たちは電気をつけませんでした。
○
校舎を出て、街頭に照らされる道を私とユウカは歩いていました。両側に広がる芝生が風になびきます。その僅かな風にも、深夜よりも少し明るい色のツインテールは優雅に後ろになびきました。
「先生は今日、お酒を飲みますか?」
「どうでしょう。仕事も大半は終わっていますし、シャーレに戻ったらすぐに終わらせて、久しぶりにゆっくりしたい気分ですが……飲むかどうかは分かりませんね」
「そのゆっくりの時間は何をするんですか?」
「ソファに座って天井や壁を見ていることが多いです。何をしても否定されないあの没入感が好きなのです。もちろんそれだけではなくて、小説を読むこともあれば、テレビを眺めることもありますが」
へえ、とユウカは興味深そうに何度も頷きました。宝箱を開けたときのようなニヤケ顔でした。
上目遣いのユウカが、ジャンパーの袖を私にくっつけてきます。
「先生ってあまり、自分の話をなさいませんから、知れて嬉しいです」
「そうですか」
ユウカに見上げられた空は、どこまでも高く、遠いです。彼女はそれに構わず右手をゆっくりと上げて、グーを作りました。ぷらんと、急に腕が落ちました。
「今日は、色んな先生が知れてよかったです。基本的に穏やかな人ですし、今日みたいに眉を思いっきり寄せているのは初めて見ました。こーんな風になってましたよ」
「……ユウカみたいですね」
「へ? それは私なんだから当然――私がいつも考えてるとか怒ってるって言ってますよね!? 失礼ですよ!?」
「そういえば昨日の任務で、ミレニアムの生徒がなぜ校則を守らないのかなんだかんだと言っていましたね。解決策は浮かびましたか?」
「それはっ! 確かに考えてましたけど! 今日の先生みたいな顔にはなっていません!」
「さて、どうでしょう」
「最近言うようになりましたよね!? 先生。なんで私にだけそんなに意地悪なんですか!?」
「お互い様でしょう」
ユウカだからこそ、です。
オフホワイトの光は雲に隠れることなく、シャーレまで私たちを見守ってくれました。
酒を飲む飲まないに関係なく、最近ではユウカと晩ごはんを共にすることが多くなっていました。