夕食の時間に訪れた商店街では、すでに美食研究会のメンバーが全員揃っていました。両側に店が立ち並び、人の行き来もそれなりにありますが、可愛らしい少女四人が楽しそうに談笑しているのです。見つからないはずがありませんでした。
遅いとジュンコから文句を言われましたが、私はモモトークで伝えられた時間の十五分前に来たのです。私たちが早すぎるのだとハルナがフォローを入れてくれました。
「それではみなさん、行きましょうか」
会長らしくハルナが音頭を取りました。項のあたりで髪をかき分ける彼女からは気品があふれており、舞踏会へ行くような雰囲気がありました。実際は食べ放題に行くのです。私は、商店街の一角にある寿司の店で、夕ご飯を食べるのに誘われたのでした。
アカリの無理強いでたくさんの寿司を食べさせられました。シャーレに戻る前に、私はコンビニで胃腸薬を買いました。
まだまだ私の夜は、長いのです。
○
次の日の放課後に私は、放課後スイーツ部の皆と待ち合わせをしていました。トリニティ自治区の中にある、今日オープンのクレープ専門店の前です。
そこまで行くとヨシミとアイリはすでに建物の前で待機していました。私は二十分前に来ました。ヨシミに文句を言われ、アイリが宥める。昨日も似たものを経験しました。
早速、中でたくさんのクレープを買い、店の外に設置された椅子に腰掛けます。白を貴重とした、軽い椅子でした。同じく白色のテーブルには所狭しとクレープが並べられています。
いちごクレープを頬張りながらアイリが楽しそうに話しました。
「先生、ここのクレープ屋さん、キヴォトスでも指折りの店の支店なんですよっ! とってもおいしいですよね!」
「……そう、ですね。生クリームがとても濃厚で、そこにさらに果物の瑞々しさが加わって、口いっぱいにおいしさが広がりますね」
私はあまり、甘いものが好きではありません。しかし、私に向けてにっこりと笑うアイリと、めったなことでは笑わないヨシミの笑顔のためです。
口の端に生クリームを付けたヨシミのために、私はナプキンを手に取りました。
全て食べきるころには夕日が沈んでいました。街灯がトリニティ自治区のそこかしこを照らし、満足気に、けれども疲れた顔をする女子高生などが行き交います。私たちもそのうちの一つでした。
二人を寮まで送った私は、道すがらシャーレを見上げます。真っ暗でした。胸焼けを通り越して気持ち悪さしか残っていない胸を押さえます。肺と皮膚の間におもりが挟まっている感じがしました。気を抜けば戻してしまいそうなほど甘く、量の多いクレープでした。
……確か、私の買った胃腸薬は胸焼けにも効くと書いていたはずです。歩くたびにずしりと来る腹を今度は押さえて、私は足を動かしました。
○
「先生だ~。ちゃんと待っててくれたんだね~」
ふわふわの猫なで声を上げてツバキはシャーレの居住区画を訪れました。時間通りにツバキは来たのですが、私は三十分も前から玄関にいました。全く噛み合いませんね。
自室の場所を尋ねられて答えたところ、ツバキは何を思ったのかそこへ一直線に歩いていきました。自室に人を入れたのは初めてでした。
モモトークで修行部の活動と書いていたことは、睡眠らしいのです。ベッドにダイブしてすぐに、ツバキは気持ちよさそうな吐息をたて始めました。時おりタヌキのような耳がピコピコと動きました。
彼女からガッチリと掴まれている自身の腕を見て、私は、パソコンを置いておけばよかったと天井を仰ぎます。最近は仕事が溜まっています。また、私は残念なことに、自室で一人のときにしか眠ることができない性分なのでした。
○
六月の第三土曜日がやってきました。今はちょうど、曇天が続き、むわっとする暑さに人類が嫌な顔をする梅雨です。
私はシャーレに続く一本道を歩いていました。日中降っていた雨は一時間前に止み、今ではまんまると大きな夕日が輝きを放っています。深まった緑が雨に濡れて、キラキラと光を反射する、夕方六時でした。そびえ立つ建物の影が、スポットライトみたいに私を照らしました。
モモトークのことでユウカと約束したのが、三週間前。ユウカとは週に一度顔を合わせるくらいまで会わなくなっていました。モモトークでのやり取りは毎日していますが、あの笑顔が見れないのは残念でなりません。
思えば長い三週間でした。過ごしてきた一日いちにちに誰かと出かけた記憶があります。
平日は放課後から夜、深夜まで。土日は一日中。任務があればそのあと数時間。長距離恋愛のカップルが一日でたくさんの思い出を作ろうとするみたいに、私はこの三週間、埋め合わせをし続けました。常識人の皮は日に日に薄くなってゆきました。能面のような顔が浮き上がってゆきます。
ピエロが、夕日が差し込む遊園地でぐったりしています。メリーゴーランド、ジェットコースター、観覧車。伸びた影法師がピエロに重なります。けれど彼の周りには、誰一人としていません。遊園地で働く、たった一人の従業員。彼の歪みきった、にへらっとした笑い顔は、きっと壊れた心を表しているのです。
休憩のないピエロは、酒を飲まない私です。
ところで私は、最近は酒を飲んでいません。一度飲むと、たとえユウカが近くにいても止められない気がしたからです。
コンビニの前を通りました。建物の影が重なって暗く見えるからでしょうか。魔女が手招きしているような怪しさと魅力がありました。
ガラス越しに雑誌やら本やらが並んでおり、建物の奥にはお茶のペットボトルや――。
「っ」
私は頭を振って思考に抗います。飲まないのです。耐えられるのなら耐えると、私はそう、決めたではありませんか。約束を破る不誠実が大嫌いな私が、どうして自分から約束を破るというのですか。
コンビニを視界の外に追い出して速歩きでシャーレに向かいました。
そうして私は、明かりのついていない真っ暗な建物へ吸い込まれました。
執務室で開いたパソコンには、仕事の催促メールがたくさん届いておりました。私は催促を、期待の延長線上、失望の一歩手前だと思っています。
○
――酒が飲みたい。
執務室でマーガリンを塗ったトーストを食べながら、私は何事かを言いました。ぽかんと開いた口から二の句は出てきません。自分で言っておきながら、あまりに自然に出たものですから、聞き逃してしまいました。登下校の道に知らぬ家が建っていたような、ただ漠然とした違和感が残っているだけでした。
催促メールが来ている仕事から片付けて、トリニティでの定期報告会に顔を出して、正義実行委員会の人たちと少しだけお茶をして。
いつもの帰り道、見慣れた一本道。
一週間ほど前から、私はコンビニを視界から外して歩く技術を身に着けました。コンビニは動きませんから、特定の場所で視線を動かすだけの作業です。魔女の手招きだろうが、見えなければ効果を発揮しません。
「やっぱこのやっちゃいけねえことをやってるのが快感なんだよなー」
「マジでワクワクするよなー。それに気持ちよくなれるしなー」
ピポピポーンという特徴的な機械音と同時にそれは聞こえてきました。気づけば私は、出てきた女子高生二人組を見ていました。なんの話をしているのか私には分かってしまったのです。飢えたライオンは、餌を目の前にしておすわりできません。
パンチパーマといかつい顔。セーラー服。高校生ですか。手に持っているのはビニール袋。中にはおそらく――。
「酒ですか」
私の歩みが完全に止まりました。私は今、自分がどんな顔をしているのか分かりません。けれど、ビニール袋を手にぶら下げた二人がこちらを見て、怖い鬼を見るかのように片方の口角を上げていました。彼女らは銃を肩に掛けているけれど、それを私に向けることすら恐ろしいようなのです。
私は無言で彼女らに近づきました。彼女らは後退します。コンビニの自動ドアが開いたところで、彼女らは互いに顔を見合わせました。相談して何になるのですか?
「……酒を。酒を置いていきなさい」
ずっとせき止めていて、そうしてあふれ出た涙が止まらないように、私の本心は止まりませんでした。それに、そちらから寄ってきたのです。
最初は反抗してきた少女たちでしたが、やがて私の語気に押され、袋を置いて走ってゆきました。
ひとまず自動ドアの前から離れ、建物の影に隠れ、それを漁ります。二本、さきいかなどのつまみ。
「これだけですか」
一人になって多少冷静になったのか、ここになって理性が私をひっぱたきます。悪に染まりきれないヒーローみたいに、未練がましく足を引っ張っています。
まだ戻れる?
ユウカに相談しろ?
して何になりますか。相談相手は困ったような笑い顔で流すか、偉そうに間違った意見を述べるだけです。経験談でした。
確かにユウカは、私が会った誰よりも優しい。私の酒癖を見て、面倒を見ると言ってくれるほどお節介な少女です。けれど。
万引は、たった一度でも万引です。
裏切りは、たった一度でも裏切りです。
それは信頼のドミノが一気に倒れていく行為です。倒れたドミノが一瞬で元通りに並べられることなどありません。
またもう一度並べれば良いなどと言う善人がいますが、その人は罪悪感を分かっていません。きっと善人の中では、信頼はまた同じようになるでしょう。……では、裏切った側は? 裏切ったという罪の意識を抱えながら足掻き続ける者から見て、ドミノは、どんなふうに見えるのでしょう? しょせんは善人もエゴに
同じ景色を見られないなら、相談してもしなくても一緒という結論に至りました。
……ああ、ぐちゃぐちゃの感情だ。
悪いことをするって分かっていて、止めようとするんだけれど自分を抑えきれなくて、疲れて、もういいやって空を見上げて、欲望に従いたくなる感じ。
私はこういうときに、大きな失敗をします。
大学受験の時期。私は親から勧められた家の近くの大学を受けるはずでした。けれど期待を押し付けてくる親や周囲から離れたくて、私は勝手に都会の大学を受けました。貯めたお小遣いを新幹線の運賃に当てるあのドキドキは、秘密基地を作る子どものそれでした。
そして受かって家を出て、ああなった。
快晴、夕暮れの空。朝から放課後までずうっと、本当に違うところを受験するかどうか考えたあげく、疲れ切った感情で見上げた空は灰色でした。あの感情に、今は、すごく近い。
……もう、いいや。私は今までよくやりました。
コンビニに入って、手当たりしだいにカゴに酒を突っ込みます。店員がおびえながら私を見ていました。どうでもいい。他人に向けるのは鉄仮面で十分です。笑顔は知人のために療養中です。
会計を済ませて、シャーレに戻る道すがらプルトップに手をかけました。ずいぶん久しぶりの苦味でした。しばらく禁酒していた今なら、私は再び酔えるのでしょうか。
仕事中の私は、後悔に苛まれながらも、必死に自分を正当化していました。それはまるで不倫の言い逃れをしようとする男のように、醜く見えたことでしょう。
○
私は――早瀬ユウカは夜道を走っていた。時間は九時を周り、場所は人っ子一人いない一本道。悪夢の出口を探すみたいに、私は青い顔をしていると思う。いや、走っているから赤いかもしれない。どうでもいいか。
足に溜まった乳酸のせいで、時々足がもつれそうになる。マラソンではペース配分を考えるけれど、九時に送ったモモトークが未読無視されたことを思うと、いてもたってもいられなくて、とにかく全力で走った。先生は九時ぴったりにいつも返信をくれたから、それがないってだけで背中に悪寒が走った。
汗で張り付いた髪が、嫌な予感を増大させるみたいで気持ち悪い。汗びっしょりで走るなんてこと、今までほとんどなかったのに。
先生にはどこか、ほっとけない部分がある。
「……はぁ、はぁ」
街灯の下で膝に手をついて、垂れてきた汗を拭って、画面にヒビが入ってカバーが傷だらけのスマホを見る。
九時十五分。モモトークからの通知は、ない。
ヒビの目立つ真っ白なロック画面に水滴がいくつか落ちてきた。それを拭うことなく私はスマホを握り直した。汗で滑って何度か落としてしまったけれど、それに構うよりも先に確認したいことがあった。だから私は、がむしゃらに走っている。
見上げるのは、高くそびえ立つ建物群の一つ、シャーレ。
一箇所だけ電気がついている部屋に、私は先生を重ねてしまった。周りが真っ暗なら、執務室だって真っ暗でもいいと思う。私も適度に手を抜くから。でもあの人は、あの不器用な人は、なぜだかそれをしない。十割真面目にやろうとするから、酒を飲むんだと思う。
「あと、五分くらい!」
私は自分を鼓舞するようにわざと大声を出した。あわよくば先生に届いて欲しい。よし、と再び足に力を入れる。明日、私の足はパンパンに張っているだろう。あーあ、手入れだって楽じゃないのに。
――それでも。私は走らないといけない。
先生はきっと今、死んだ顔でお酒を飲んでいるに違いない。
あの酒癖を知った日のこと。私と目が合った先生は落ち込むでも、怒るでもなく、無表情だった。
悪さがばれた子どもは、みんなバツが悪そうな、あるいは悲しい顔をする。
でも、悪さがばれた大人は、観念するだけみたい。
私にはそれが、悲しい顔よりももっと悲しいものに思えた。どうすればいいのか分からなくって問い詰めてしまったけれど、今になって、私はあのとき優しく手を握ってあげるだけで良かったんだと分かった。
私たちと話すとき、任務に出撃するとき、任務から帰ってくるとき。穏やかに笑って、声をかけてくれた先生は、たくさんのアルコールの上に成り立っているらしかった。
不謹慎だけれど、親近感がわいた。完璧じゃないって知れてほっとしている私がいた。それからはできるだけ、先生の近くにいるようにした。
先生は不思議な人だ。浅瀬とか沖とか関係なく、いつも水面に、直立でぷかぷか浮かんでいるような人。みんな泳ぎ方を知っている、もしくは誰かから教えてもらっている海なのに、あの人は浮かんでいるだけ。
先生はきっと見えない浮き輪に捕まっていたんだ。お酒があの人の浮き輪なんだ。なんて不器用な人なんだ。最近の私はそう思うようになっていた。
これは後付だけれど、先生には、あんな苦しい生き方じゃなくて、もっと気楽に生きてもらいたい。
足がつったら肩を借りる。あの人はきっとそれすらも知らない。私はそんな先生の手を取って、泳ぎ方を教えてあげたい。
……今はまず、先生と会わないと。