ガチャンと執務室のドアが開く音がして、それと同時に、ユウカが部屋に入ってきました。汗のせいで髪が肌にピッタリとくっついて、ずっと大人びて見えました。
私は大罪人の首を切りに来たのだと悟りました。机には罪の証拠があちこちに転がっています。言い逃れはできません。
しかし、知ってもらいたいのです。
ごめんなさいと、私は酒を飲みながら、何度もなんども口にしました。罪悪感からでした。優しくしてくれたのに、世話を焼いてくれたのに。私はそれを仇で返しました。そう考えるたびに私は、罪への意識を濁すために、さらに酒に溺れるのでした。
切れた息を整えるでもなく、一つ大きな息を吐き出したユウカは私に近寄ってきます。
ユウカが目の前に立ちました。私は罪悪感で押し潰されそうでした。大の大人が俯いて縮こまって、情けなく見えたでしょう。私は彼女の顔が見れません。しかしながら、怒っていることと思います。
ぎゅうっと、心臓が潰れそうなほど胸が苦しかったです。いっそのこと潰れてしまえばよかった。そうすれば、ユウカの手が汚れることはないのですから。
「……先生」
おびただしい酒気が漂っているであろう執務室に不相応な、透き通る声でした。まだ声を荒らげられるほうがずっと安心できました。優しい声だと、いつ手のひらが返されるのか分かりません。不意打ちほど痛いものはないのです。
「大丈夫ですか?」
ユウカは私の手首を掴みました。真綿で握るような優しい手付きでした。普段ひんやりとしている手は汗のせいでぐしょぐしょになっていて、彼女の腕から私へ汗が伝ってきます。汗のことに関してでしょうか、ユウカは謝罪の言葉を口にしました。
……謝らなければならないのは、私のほうなのに。不安、嬉しさ、苦しみ、罪悪感――色々な感情が喉に詰まってしまって、私は言葉を発することができませんでした。ただ俯いて、謝らない子どもみたいに、時間が過ぎるのを待っています。
こうしていれば、ユウカは私を嫌ってくれるでしょうか。不誠実が大嫌いなくせに約束を破った愚か者を。知人に失望されたくないと思っていながら、自ら失望されに行くこの愚か者を。
彼女はもう一度、大丈夫ですかと問いました。語気が強くなることはありませんでした。手首を強く握られたり、返答を迫られることもありませんでした。
ひたすらに、優しかった。
今度私は、怒られないことに申し訳なさを覚えてきました。終わりだ、無理だ、そう言って崖から突き落としてもらったほうが、私は縋らなくて済みます。
喉に詰まった感情が血の巡りを邪魔して、頭がじんじんと熱を持ち始めました。水と油がぐちゃぐちゃに混ざった感情でした。気持ち悪くておどろおどろしくて、私の何もかもがおかしくなりそうでした。
……考えることも、話すことも、関わることも、私はすべてを放棄したくなりました。
もういいんですよ、ユウカ。
私はユウカの手を力任せに振りほどきました。彼女は予想していなかったのでしょう。力で大きく劣る私でもかんたんでした。
ユウカは慌てた声を上げました。
私はその間にも彼女の横を通り抜け、部屋の扉を開けて、エレベーターへと駆け出しました。下ボタンを三回、存外それはすぐにやって来ました。箱に乗り込んで、一階を押して、閉めるためにボタンを押します。
「先生ッ!」
扉が閉まる前に、ユウカは執務室から出てきました。目が合いました。悲しそうな顔でした。私に別れを惜しむ資格などありません。
あなたは、私のことなど早く忘れて、あるいは仕事を前にして逃げ出した愚か者として語り継ぐかしてください。どうか嫌ってください。
走ってきた彼女が伸ばした手は、エレベーターに挟まりませんでした。扉を叩く音と、私のことを叫ぶ声が聞こえてきました。涙声になった彼女の声は、それでも綺麗でした。
やがて浮遊感が私を襲いました。下り始めた密室の中に、絶対に見つけますからねという、強い意志のこもった声が聞こえたのでした。
私は、シャーレの自動ドアをくぐりました。振り返ることはしませんでした。未練がましいと分かっていたからです。
けれど、おそらくシャーレは、今日の曇天の夜空みたいに、真っ黒に沈んでいると思います。
○
電車に乗ろうとして、私は駅を訪れました。けれど、改札を通ろうとするたびに未練に胸が締め付けられて、何度も駅から離れました。消えなければユウカに申し訳が立たなくて、そうしてまた、駅へやってくるのです。
一度電車に乗ればそれで終わるはずなのに、私にはその一度ができません。受験のときに都会へ行くために電車に乗ったときはワクワクしたのに、躊躇なんてなかったのに、今の私には、電車がひどく恐ろしいものに思えてしまう。片道切符しかない、現実発、地獄行き列車。大きな汽笛を鳴らしながら、それは遠くとおくへと私を連れ去ってくれるでしょう。
私はそれを、望んだはずです。望みました。望んだのです。
改札前で、後ろポケットの財布に手をかけます。手が震えていました。引っ張り出した財布を持って改札へと向かいます。ロボットよりも鈍くて硬い動きです。改札に近づくにつれて、もともと遅かった歩みがさらに遅くなり、頭痛もひどくなりました。
また私は、逃げた。逃げることからも、逃げた。すべてから逃避したくなっていました。
大学生になってから親と一度も顔を合わせないのと同じで、私はまた、自分が楽なほうに行こうとするのです。手を差し伸べられることを待っているくせに、差し伸べられた手を取るのが嫌になってしまう。手を掴まれたら、振りほどきたくなってしまう。
ここに出入りするのは、何度目でしょう。
途中からは改札前にC&Cが現れたため、そこを訪れることもできませんでした。後悔と嬉しさがあって、嬉しさを感じたことに私は嫌気が差して、走りました。
郊外へ行こうと砂漠まで行くと、そこに人影がありました。服装から判断するにゲヘナの風紀委員です。移動先に的確に人員を配置する指揮は、おそらくユウカが取っているのだろうなと、ぼんやり思いました。
途中からキヴォトス全域に雨が振り始めました。私はその中を動く、亡霊になっていました。
汗や雨に濡れたワイシャツが肌にまとわりついて、私が動くたびに、悪口を言うみたいに汚い音を立てます。
心も体も頭すらも疲れてどうしようもないのに、私は歩き続けました。何度か酒を戻し、空になった胃から胃液も吐き出しました。ヒリヒリと喉まで痛みを訴えます。
やがてどこだか分からない茂みの中でぱったりと倒れて、そのまま夜空を見上げる存在に成り果てました。ぼたぼたと大粒の雨が私に降り注いで、それが、罰せられているみたいで、私には気持ちよかったです。
このまま寝れば、私は死ねるのでしょうか。最低で愚かな先生として一生を終えることができるのでしょうか。そんなことを考え始めた私はふわふわとした幸福感に包まれ始めて、そうしてそこで、意識を手放しました。
○
先生が乗ったエレベーターが閉まったとき、私は先生との繋がりがぷっつりと切られてしまったように感じられた。壁一枚、声を出せば届くのに。きっとつらいであろう無表情な先生は、それでも助けてって言わなかった。
シャーレの生徒から囲まれる先生は、誰よりも孤独だ。生まれ持った呪いみたいに、先生と孤独は結びついている。解呪って言葉があるくらいなのに、もう長いこと一緒だから、できないと思っているみたい。
エレベーターが動き出した。今の思いを叫んだけれど、これから私は、何をすればいいだろう。
私は、先生を止めたい。
階段まで走った。駆け下りて一階に着くころには、先生はどこかへ行っていた。自動ドアをくぐった先には、街灯やビルの光に照らされるキヴォトス。ずっと暮らしてきたこの広い都市が、今は恨めしく思えた。
……どんなに広くても、探そう。
迷惑がられたとしても、私は先生を助けたい。
先生はどこかに行ってしまったけれど、顔を見て無事を確認できたおかげか、私はいくらか冷静さを取り戻していた。
執務室に置きっぱなしのスマホを取るために、エレベーターに乗り込んだ。思わず顔をしかめてしまうくらいお酒のにおいがした。私は先生のにおいが分からない。清涼剤や柔軟剤の香りもするし、お酒のにおいもする。
でも、きっと本当の先生からは、九月の木漏れ日みたいに眠気を誘う、温かい香りがすると思う。
執務室に戻って、私はすぐにハレに連絡した。彼女とはヴェリタスの予算関係のことで議論を戦わせたのが最初だったけれど、今では、数学の問題やゲームのことで話す仲になっていた。
モモトークですぐに返信が来た。
『急ぎの用事って何?』
『会って説明したほうが早いと思う。とにかくシャーレに来て』
『ハッキング用のパソコンを持ってきて』
『急いでほしい』
『緊急事態?』
『分かった。できる限り急ぐね』
『でも、デスクトップじゃないから難しいハッキングとかはできないよ?』
『それでもいいから。走って!』
ハレの嫌そうな顔が目に浮かぶ。あの子は運動が嫌いだ。それを気にしている余裕はなかった。彼女は頭がいいから、私がこれだけ急かした時点で何かを察してくれていると思うし、許してくれるだろう。
エレベーターでもう一度一階まで降りて、自動ドア近くの外で待機。ソワソワしてしまって、私は何度も出たり入ったりを繰り返していた。時々ジャンプもした。
そうしているうちにふと、これが時間の無駄であることに気がついて、私は執務室に戻った。
執務室には、任務の場所を間違えないようにとキヴォトス全域の地図がある。それを見て、運動があまり得意でない先生が走っていけそうな、建物が少なくて暗い場所に目星をつけた。
それから、
「移動手段の確認。おそらく電車。向こうに行くためには一つの駅しかないから、そこに誰かいたほうがいいかも。徒歩だと砂漠を抜けることになるけど……ありえそう。連邦生徒会の建物は全部キヴォトスの中心にあるけど、シャーレは端にあるから……この建物。ゲヘナの近くだ。それならゲヘナから外に向かう可能性が高い」
先生の性格上、騒ぎを大きくされるのは嫌だろう。できる限り少数精鋭の組織の力を借りよう。出入り口を塞いだら、先生がキヴォトスから出ることはない。
私はC&Cの常識人であるカリンと、ゲヘナの風紀委員長ヒナに連絡を入れた。モモトークで友だち追加していないから、メールを送った。
「正義実行委員会は……危ないかな。便利屋もパス。美食研究会、論外。放課後スイーツ部はありだけど……この時間にあの二人を歩かせるのは危険かも。明日の昼に捜索を手伝ってもらうことにしよう。他の生徒も、声をかけるのは明日のお昼からかな」
先生が何者かにさらわれたということにして協力を仰いだら、こんな時間なのに、二人とも快く了承してくれた。個人としても組織としても協力してくれると言うから、私は組織として協力することをお願いした。そうして、駅と砂漠を見張ってもらった。C&Cには勝手に動かないよう念を押して。
これも先生の人徳がなせるわざなのに、どうしてあの人は……。いや、文句は後。
できる限りのことを済ませた私はもう一度外に出た。自動ドアを何度もくぐるほどではないけれど、足踏みしたくなる。
近くのコンビニに行ったらお酒がごっそりなくなっていた。災害の傷跡を見たときみたいに、私の胸はズキリと痛んだ。できるだけ早くここを離れよう。ハレのためにエナジードリンクを五本、自分のためにスポーツドリンクを三本買った。おにぎりとパンも二つずつ買った。塩飴も必要だ。
シャーレの前。私はスポドリを一気に飲み干した。乾ききった喉にはそれがおいしく感じられたし、何より不安の火が消されるみたいだった。
塩飴を何個か食べたところでハレが、やっと来た。二五分もかかっていた。
ハレは息を切らしながら、後方支援を走らせるのは重罪だとか私に文句を言う。エナドリを渡して文句を聞き流して、私は彼女を、執務室に案内した。迷ったけれど、頭のいい彼女に隠し事をするほうが愚策だと思った。
執務室の扉に手をかけて深呼吸。人の秘密を暴くのは、好きじゃない。ましてやそれが悪徳企業じゃなくて、先生だから。
エレベーターに乗ったときから険しい表情だったけれど、部屋を見たとき、ハレのそれは一層険しいものに変わった。私に目配せをするハレ。
「これ……先生が?」
「そう。ずっと黙っていたんだけど、先生、酒癖が悪いの」
「へー、あの先生がねー」
私はいつも使っている椅子に座って、隣に座るようハレに言った。
私の机にだけ、缶などがなかった。寂しい綺麗さだった。あなたは部外者だと言われている気分だった。私はそこにレジ袋を置いて、ハレを見る。
暗い黄緑の瞳からは、不思議と優しさが感じ取れた。受容って言葉がぴったりだ。私と同じくらい、彼女もお節介なのかもしれない。
「それで、急ぎの用事なんだけど」
「先生がいないの?」
「そう。だから探すのを手伝ってもらいたくて」
「何をハッキングすればいいのかな。監視カメラとか?」
「キヴォトス全域の、監視カメラかな」
ハレは「ん?」って顔で私を見た。二秒、顔が引きつる。また二秒、口が大きく開いた。
「え、本気? 厳しいよ? 映像のチェックもあるし」
「それは分かってる。だけど、先生がどこにいったのか分からないから、やるしかないの。駅とゲヘナ近くの砂漠は封鎖してるから、時間があれば絶対に見つけられる」
「ケータイはどこにあるの」
「あそこに置いてあるのよ。だからGPSとかも無駄。地図で大体の目星をつけて、そこをハッキングして欲しい。してもらえる?」
ハレは肩を竦めた。どうやらやってくれるみたい。ノートパソコンを取り出して、早速手を動かし始める。
私は……何をすればいいだろう。先生が行きそうな場所を考え直すか、走って探すかかな。
「ユウカは先にシャワーを浴びたほうがいいよ。もう汗冷えてるだろうけど、入らないよりはマシ。風邪ひくしね」
「でも」
「臭いもね? この部屋のにおいはね、七割がお酒、三割がユウカの汗。あと、一人で集中させて欲しいかな」
「う……着替えは?」
「トレーニングルームに何着かあるんじゃないかな。替えの下着……まあスポーツブラとか? もあると思うよ。あそこ色々揃ってるし」
「……分かった」
ハレは話しながらも、地図に印を書き込むことと、パソコンをいじることを続けていた。
彼女は無闇に走ったところで意味がないということを伝えてくれているのだろう。逸る気持ちを抑えることも大事なのは、分かってる。
私が立ち上がったところで、ハレはわざとらしく声を上げた。
「あとは、あれだね。先生を探すならエンジニア部がいいものを持ってるよ」
「何?」
「先生の場所を感知する銃。レーダーで分かるとかなんとかって聞いたよ」
「……何それ?」
「今は役に立つんじゃない?」
「……まあ、今は目をつむりますけど。本当にあの人たちは余計なものばっかり」
「――それじゃあシャワーに行こっかー。カリカリは良くないよー。梅のお菓子になっちゃう」
「なりません!」
「シャワーに行っトイレー」
「それはもうダジャレじゃないわよ……」
ツッコミを入れたところで、私はハレの配慮に気がついた。そんなに私は深刻な顔をしているのだろうか。
大きく息を吸って、吐く。心の淀みが少しはなくなった気がした。よし、大丈夫。きっと見つかる。見つける。焦らないで。
スポドリを二口飲んで、ウタハにモモトークを送って、私は部屋を出ていった。
どうやらシャワーを浴びながら、私は気を失っていたらしい。ハッとしてシャワー室から出たら一時間が経っていた。急いで着替えてから執務室に向かった。
そこにはハレだけがいて、彼女は地図に何かを書き込んでいる。私は近づいて地図を覗き込む。先生が確認された場所と、予測される移動ルートが書かれていた。顎に手を当てながら地図を見続けるハレが口を開く。
「先生の歩くスピードが一定じゃないんだよね。時速六キロメートルだったり、二キロメートルだったり。だから次にどこに動くのか予想できない。ドローンを飛ばそうにも、この天気じゃ無理」
大粒の雨が降っていた。どうして部屋に入ってすぐに気づかなかったんだろう、こんなに大きな音なのに。
ふと、先生が今まで堪えてきた涙だと思った。私は、こうして誰かに言われないと、泣いていることにすら気づけないみたい。とたんに胸がギュッと締め付けられて、私はそれを鎮めるために胸をさする。
「……先生がふらふら歩き回ってる可能性は? 最短ルートじゃなくて、逆走していたりとか」
「そんなこと普通ある? 考えないようにしてたんだけど」
「ありえると思う」
あの人は今、きっと考えるのに疲れているから、何も考えずにふらふらしている可能性は高い。これは、計算の天敵だ。
お互いに黙って地図を見ていた。
予測が役に立たないなら、私はどうすればいい? 結局探しに行くときは脚を使うのだから、無闇に探してもいいかもしれない。
「私は外に行って探すわ。先生の場所が映ったら電話で教えてくれない?」
「……正気? この雨だよ?」
「正気も正気。この雨だからよ。明後日も出撃があるのに、こんな雨の中でほっといたら、先生が風邪をひいてしまうわ」
ハレは観念したように頷いて、部屋の入口まで歩いていった。扉近くの机に置かれているサブマシンガンを手にとって、私の近くまで寄ってきて、大きなため息とともに私に手渡した。
スコープみたいにレーダーが付いている。私のより、少し重いくらい。これなら走れる。
「先生が半径一〇〇メートル以内にいれば赤色の光で教えてくれるって。あと、あんまり濡らさないほうがいいって」
「分かった。……それで、その、ウタハはここに」
「いーや、入れてないよ。玄関でやり取りした。先生の姿がちょっと見えないから借りたいって言ったら、すぐに貸してくれたよ。探そうともしてくれたけど、大事にしたくないからって言って遠慮しといた。明日の朝までに見つからなければ連絡を入れるっても言ったかな」
ハレは本当に……。感謝してもしたりないけど、それを伝えるのは見つけた後。全部終わったら先生と一緒に頭を下げよう。
……それじゃあ、探しに行こう。
算盤の大会に昔、出たことがある。あのときはすごく緊張していたけれど、不思議と負ける気はしなかった。今の私も、そんな気持ちだ。
先生が最後にカメラに映った場所を目指して、私は執務室を出た。