章Yが万引きしたのは14歳のときだった。
もっとも、初めての行為は失敗した。腕を掴んだのは、同じ年頃の女であった。彼女は章Yと面識がなくとも果敢に声を出した。
「君、それ盗んでるよね」
彼女はそういうと、降りほどこうとする章Yの腕を、必死に抑え付けた。その意味ありげな抵抗に気づかない店員はいない。店員はすぐさま彼女のもとへ駆け付けた。店員は眉をへの字に曲げながら、男の腕力で章Yを店の裏手へ連行した。むろん、店長にバトンを預けると、すぐに尋問まがいの会話が発生した。
「なぜ盗んだ?」などの尋問を、章Yは繰り返し聴いた。ただ実際のところ、章Y自身もその詰問に応じられなかった。生憎にも、本人すら理由が分からないからだった。盗んだのは小さな数十円の消しゴムで、章Yもすぐには必要性を感じなかった。章Yの寡黙に、静寂を破る術がないと悟った店長は警察を呼んだ。110のダイヤルを押したのは店長も初めてで、3桁で受話器を出ることに戸惑いが伝わった。警察は優秀で、ワンギリで受け取った。店長は事情を話し終えると、今度は章Yを憐れむように声をかけた。
「君の気持ちもわかるよ。若気の至りというやつだろう?」
店長はその後、武勇伝を語った。過去に自分も自転車を借りパク(盗難)し、親に迷惑かけたこと、ヤンキー時代にブンブン言わせた(内容は濁したため、章Yは何の問題か分からなかった)など、警察が駆け付ける直前まで続いた。警察はお勤めご苦労様、と店長に声をかけた。丁寧は照れながら頭を軽く下げた。章Yは警察の誘導に一言も話さず、自らパトカーに乗った。パトカーの中では2人の警官が間に入っていた。
警官はその間で、章Yの親の連絡先などを尋ねた(メモを取る気がないため、ただの会話らしかった)章Yは名前と電話番号と学校名まで、滔々といった。ところが、警官は章Yの名字を訊いたとき、2人はふと、顔を合わせた。
「それは君の本名かい?親の名前は?」
章Yは両親の本名を答えた。答えると、なぜかパトカーを停めた。そして、自宅はどこか、何丁目の何番地か尋ねた。それを答えると、なぜか交番と真逆方向へ引き返した。警官はまるで作業的な素振りでパトカーを走らせた。その間は警官も無言であった。無言でありながら、威厳はあるため、何1つの問い掛けも出来なかった。着いたのは章Yも自宅だった。警官は無言のまま章Yを降ろした。警官と共にパトカーはその後すぐに消えた。すると、自宅前には章Yの両親が立っていた。父母共に、章Yを眺めた。両親は怒る気配もなく、むしろ軽く笑みすら浮かべていた。父はいった。
「章Yもついにやったか」
母もまた、父と同意見で、やるとわかっていたような顔をした。
「盗んだものは警察が返しているから心配しなくていい。ただ、次回からは自分で返すことだ」
それよりも、と父はいった。
「盗んだときどうだった?」
章Yはよく分からない顔つきをした。
「章Yは今後も同じことをやる。いや、そうせざるを得なくなるだろう」
父はまるで想定しているように、忠告をした。
「なぜなら、章Yの遺伝子には俺と同じ悪事をするように出来ている。逃れられないのは当然だ。まだそれを上手くコントロール出来ていないから、自分でも何したか分かってないだろう?」
父は章Yを自宅内へ促し、残りは部屋で訊くようにさせた。後に父は以下の五ヶ条を忠告した。
・1つ、今後は悪事は積極的にやること。
・2つ、悪事は必ず人のいるところでやること。
・3つ、それ以外では紳士であれ。
・4つ、必ず正論は言わないこと。
・5つ、社会を揺るがす悪事はしないこと。
父はまるで当然のようにいっていた。父の忠告はある種の筋が通っていた。理屈では疑問はあっても、同じことをしない、なんて保障はできない。万引きは理性的な行動ではなかった。それを引き起こす動機もはっきりしない。
「これは仕事なんだ。警察とも暗部の関係者から連携している」
父の仕事はまだ知らない。しかしながら、以前の発言からその類いの職種だと章Yは思った。同時に、一体何のため?と章Yは疑問にも思った。そう思ったのは、万引きの翌日に封筒が届いたからだった。封筒にはその日にやったことを書いた文章と、警察側の実印、さらに、樋口一葉も一枚同封されていた。すなわち、ビジネスになっていた。しかし、章Yにとっては金銭報酬よりも、自身に内発する新たな生き方に刺激を感じた。これは父の言う細胞からの意思だと思った。
章Yは再び万引きをした。しかし、今度は見つからなかったので、再度店へ入り、品物を戻した。この行為に勤しむのもまた、父の言葉からだった。ただ仮にその言葉がなくても、章Yには窃盗そのものに罪悪感があった。何よりも、見られていなければ意味がない。また、警察の面識を持つには、少々面倒だと章Yは気づいた。
悪事には効率性がある。警察が動く活動はコスパが悪い。章Yは、万引き以外の、社会的に他者からズルいと思わせることが、都合が良いと思った。
章Yは、駅先に訪れた。駅前には、広告付きのティッシュペーパーを配る青年がいつもいることを知っていた。章Yはティッシュペーパーを貰うことを繰り返した。ここで重要なのは、卑怯かつ、姑息さを感じさせないことだった。それは繰り返すことで、面識を持つことを避けるためでもある。あくまで、迅速に、そしてさりげなさが肝だった。章Yが指摘されたときには、すでに掛け鞄には、20枚ほど内包されていた。青年は、一向に気づかないでいたのは、掲げられたノルマを終わらせるためだったかもしれない。指摘したのは、やや高齢の紳士であった。紳士は、優しく章Yの肩を叩き、「なぜ繰り返しそれを貰うんだい?」とあくまで中立性ある立場で尋ねた。この類いの人物を、章Yは嫌な人だと思った。紳士は、微笑みながら青年の所へティッシュペーパーを返すように促した。
章Yは紳士の言葉を無視することにした。それは、紳士があまりに達観しているためだった。かの紳士は、物事の普遍的な立場で見る類いの、極めて相性が悪い人物であった。そのとき、紳士のすぐ横にいた大柄な中高年の女性が、章Yに目をやった。
「この人、何度もティッシュペーパー貰っているわ」
大柄な女性は、章Yの掛け鞄から積まれたティッシュペーパーを取り出した。
「あら、やだ。出てくるわ。出てくるわ。すぐに返しなさいよ」
大柄な女性の高い声は、大きく響いた。その声は、駅前にいた複数の人物からの眩しい注目を集めた。すると、複数の人物から「なにやってる」
「すぐ戻せ」「おい、ルールを守れ」と怒号が章Yの元に注がれた。章Yは、複数の人物らの声に、平然とは出来なかった。反射的に、慌てる術を強いられた章Yは、ティッシュペーパー配りの青年の元へ、掛け鞄ごと手渡した。青年は、無表情でそのティッシュペーパーを取り出さず、章Yの鞄を返すことなく、視線で退けさせた。章Yは手ぶらのまま集団から離れると、大柄な女性の周囲に、拍手の喝采が起きた。そのとき、章Yには、充実感を得ていることに気づいた。後に、自宅へ封筒が届くと、いつもより分厚い報酬が届いていた。報酬は人数に比例すると章Yは気づいた。
章Yは数年ぶりに、レンタルビデオから複数のDVD映画を借りた。流行りのものと、ランダムに選んだ作品は、どれも観たことある展開ばかりだった。
誰だって悪人にはなりたくない。人には人生があり、経験がある。だから、脈略もない純粋な悪は、正義を反証するためにいる。反証のための悪人には、味方する人物も見当たらない。悪人の過程が欠如した英雄物語には裏がある。章Yは観たアニメの悪人とヒーロー、ドラマに沸いてくるサイコパスな悪人と、万能な能力で戦う無敵の女主人公、そんな無秩序な世界を反芻して、脳裏に浮かべた。単純明快な勧善懲悪は、一種の出来すぎた洗脳のようだった。悪人は英雄に見せしめられるために生まれたような、出来すぎた芝居劇。芝居がかった物語には、都合よくトラウマな過去をかかえた悲劇のヒロインがいた。悪人にも悪人の正義がある、と嘆くヒーローは、結局何も学ぶことなく、再び悪人をやっつけた。作者は何を伝えたいのか、章Yは思った。悪人を裁く正論は物語でしか通じないのに、あたかもこの世の事実のように振り翳すヒーローは、むしろ悪人以上の険悪に見えた。
物語に登場する都合のよい悪人は、世知辛くも契約された仕事人のように見え、章Yは1人で納得した。人には、悪人にならないといけない時もあると思った。