「予感がするんだ。今夜、鬼に関してこれまでにない発見がある。だから燿哉、私と一緒に来て欲しい」
先見の明があるという産屋敷家の血は、二人に等しく流れているという。
けれどこれは、当主になる者ならではの予感だろう。
兄の耀哉が目を輝かせるさまを見ながら、即答できない自分もいた。
ひとつ大きく息を吸って、それから吐き出す。
心は決まった。
「はい、兄上」
私は今夜、責務を果たす。
呼吸法を教えて少しずつ体調を安定させた兄は、ゆっくりだが外を歩けるようになった。
必ず隣で一緒に歩く。いつもはそれが昼間なのだが、この日は夜を指定された。
珍しい夜更かしに備えて昼寝をする兄を見てから、身の回りの片付けを終える。
もうここへ帰ってくることはない。
呼吸法を身に付けた頃から、何度か夢で見たことがある。
兄のような先見の明ではない。具体的な時期もわからないし、漠然としていたから。
けれどそれが他の夢と違うことだけは幼い頃からわかっていた。
この日の為に生まれた。この日の為に鍛えた。この日の為に備えてきた。
だから私は、鬼から兄を護って死ぬ。
補佐という建前の身代わりとして生まれた身だ。
ほとんど同じ名前、同じ着物と髪飾り。同じ教えを受けて、同じ振る舞いを身に付けた。
与えられるものだけでなく、自分で揃えたものも多い。
十二歳になり少し声が掠れてきた兄と同じ声で話し、背丈の差は草履の厚さで調整をして、木刀を握っても手が変わらぬように手袋をした。
身体が変われば兄と差が出る。鍛錬は着物を着ればわからない程度に控え、十歳のまだ平らな胸にも用心のため晒しを巻く。
兄がいつも微笑むから、自分も同じ微笑みを浮かべる。
過去の記録からわかっているのは鬼の感覚の鋭さだ。鬼は聴覚に優れ、気配を察し、匂いを辿る。
呼吸音と足音を殺し、心を落ち着け、そして匂いの対処に少し困る。
普段から揃いの藤の花の香り袋を持ってはいるが、人の匂いとは一体何で変わるのだろうか。
そうして行き着いたのは食事だった。
全く同じものを食べ、兄が寝込んだ時には同じ粥を同じ量に控え、兄が全く食べられない時は絶食をする。
並んで双子に見えるのではなく、入れ替わっても同じ者に見えるように。
誰から言われた訳でもないけれど、それがあの夢を見てから己に課した責務だった。
外で水以外を摂らない私を見て、稽古をつけてくれる炎柱は時折何かを言いたそうな顔をしていた。
彼には私のひとつ下の息子がいるから余計に、理由を知ってもなお思うことがあったのだろう。
鬼殺隊の中では当主と炎柱だけが我が子に地位を継承させる。
藤の家や出入りの医師など代々協力者の家系もあるが、あくまでそれは隊外のことだ。
当主は寿命が短くすぐに死ぬ。だから短い代替わりを繰り返して辛うじて繋いでいく。
たまにいる在位の長い者は、その先代の早過ぎる死で幼児のうちに継ぎ当主の期間が長いだけだ。長生きした者は一人もない。
本人同士の相性を問わない幼い結婚、予備や補充にされる弟妹。
産屋敷家は己が何かを為すことよりも血を継ぐことを優先する。あまりに脆弱ですぐ死ぬからこそ、生きるだけで精一杯なのだ。
炎柱はかけがえのない家族を愛する心があるからこそ、組織の消耗品に徹する私を異常に思ったのだろう。
消耗品にも矜持はある。部品として役割を果たす為の努力だってする。
私の場合は課せられた役割が重かったので、準備の時間を貰えただけだ。
普通どころか脆弱な子供が備えも何もなしに、鬼から人を守れる奇跡などないのだ。
柱の呼吸を聞き分けた耳も、そのために与えられた能力だろう。
炎柱から剣術を教えて貰った後は日焼けせぬよう木陰や兄が寝た後の夜間に一人で練習を重ね、柱の皆に見せて貰った型通りに木刀を振るえるようになった。
並行して読み漁った指南書から理解を深め、精度を上げて自分の体形に補正しながら最適化する。
やがて型の力がはっきりと目視できるようになったところで兄に見せた。
そこで兄から指摘されるまで知らなかったが、一度見せて貰った型を忘れず覚えているのは普通の事ではなかったようだ。
耳だけでなく記憶力まで授かっていたとは。そうでもないと果たせない責務の重さに改めて気付かされた。
だから日輪刀を授かり鞘から抜くときに思ったのはあの夢のこと。あの夢で、確かに私はこの刀を振るっていた。
手に吸い付くようなその感覚に惚れ惚れとして、美しい刀身には目を奪われた。
周囲の漏らす息の音から周囲の反応にようやく自分が言葉を失っていたことに気付く有様である。
自分は護衛だ。鬼を倒すことそのものは正直なところどうでもよかった。
何故なら鬼を倒すために強くなったのではない。兄を護るために鬼を倒す力を鍛えているに過ぎない。
色が変わらないのは予想していた。呼吸の型を再現できても、どれかひとつを極めることはできなかったから。
当時は正統派と呼ばれる者達が柱の全てを占めていたので、見せて貰った型は大変に美しかった。
「美しいね、まるで舞の様だ」
兄が呟いた言葉と、私も同じ思いだった。
だからこそあの全てを覚えたまま忘れようとしない貪欲な自分は、極みの境地から一番遠い存在だろう。
柱でもない私が持つのは心苦しいほど刀は強く美しかった。
それなのに――刀はとても手に馴染んだ。まるで相棒に出会えたと思えるくらいに。
私は刀に見惚れていた。同時に、今の自分には過分なほどの素晴らしい刀に身の引き締まる思いだった。
刀鍛冶に心からの礼を伝え、そして改めて強く誓った。私は必ず兄を護ると。
「これからも、護衛の任を全うすべく精進いたします」
来たるべきに日に備えるため、この刀に恥じぬ使い手になるよう。
初めは木刀より重い真剣に苦戦したが、どうにか木刀の時と同じ精度で岩以外の型を振れるようになった。
「まさかこれほど正確に覚えておられるとは」
庭の木陰で刀を振る私に声を掛けたのは霞柱だ。
霞の型を全て見せるよう言われて振ったところ、刀の振りより呼吸の方に興味を持たれた。
生きる為に柱の真似事をしたことを話すと、何故かそのまま弟子のような立場にされた。
どうやって手に入れたのかわからない本物の隊服を着て、継子のふりして任務につく。
本来の責務のために自分の身にはかすり傷ひとつ付ける訳にはいかないから、帽子を被り顔を覆って眼鏡をかけ、継子というより隠のように見えた筈だ。
炎柱とは違い指導が上手い人ではなかったのだが、指示が短く的確だった。
「テル坊、弐ノ型だ」
外で呼ばれる名前とぞんざいな言葉遣いに最初こそ戸惑うも、擬態するには最適と気付いた。
付き従うのが柱だから、任務は全て上位の鬼との戦闘になる。柱と数名の隊士で戦地に向かい、初めは連絡役に徹した。
幼い頃に兄と雛の世話をしていたから、それを覚えている鎹烏が指示に従ってくれるのは有難かった。
一般隊士と柱の違い、鬼の力量とその見極め方。異形の鬼と血鬼術。知識としては既にあったが実戦に関する経験は、全てその時に得たものだ。
霞柱の指示を受けつつ弱い鬼を何度か倒した。一晩中戦う場に居合わせたことも何度かある。
角砂糖を齧り水を飲む私を見た霞柱が、炎柱と似た表情をしていたことも気付いている。
何度か誘われたけれど私は、彼等と同じ釜の飯を食う仲間にはなれなかった。
鬼は鼻が良いので匂いが違えば見分けられてしまう。だから兄と違うものを食べる訳にはいかないのだ。
任務の途中で倒れない為の摂取はするが、それは匂いのない砂糖と塩と水だけにしていた。
霞柱はそんな仲間にもなれない私に良くしてくれた。
担当地区から近い刀鍛冶の里へ連れて行ってもらった事もあるが、髪に残る硫黄の香りに困ったのは後からすれば良い思い出だ。
「鬼の視覚?そういや、目の無い鬼もいるくらいだもんな。だが嗅覚だか味覚だかはわからんが前に凄いのがいたな」
聴覚や嗅覚が極端に優れる生物は、視覚に頼らない場合もある。全てではないが。鬼は夜行性なのでそれに近いのかもしれない。
そして霞柱が以前に倒した鬼は、人間の血液から年齢や疾患、更には既往症まで言い当てていたのだという。
味覚は難しいが、視覚は工夫のしようがある。
霞柱が私の隊服を頼んだ隠を紹介してもらい、隊服の生地で継ぎ目のない特別な大きさの風呂敷を作るように頼んだ。
隊服の生地は光沢がないので夜の闇になじみが良く、通気性があるのも好都合である。
知り合った隠に頼み事も出来るような伝手ができたのも、霞柱のくれた縁だ。
それなりに経験を重ねたある夜、緊急指令で霞柱を含む数名と駆け付けた先で異能の鬼を自身の手により初めて倒した。
血鬼術の罠は計算すれば容易だった。その鬼自体は強くなかった。私はただ、居合わせた他の隊士より早く答えに気付いただけだ。
このまま本当に継子にならないかと言われたのは困ったけれど、努力を認められたのは嬉しかった。
柱のあたる鬼は強い。霞柱の任務で十二鬼月に遭うことはなかったものの、目の文字にバツの印がついた鬼は一度だけ見た。
素早い足捌きで敵の元に滑り込む霞柱の肆ノ型を見た時、基本の呼吸と派生の呼吸の違いに気付いた。
本部に残る指南書はもちろん霞柱の邸宅にある書物も全て目を通していたが、知るのと見るのでは大違いだ。
幸いなことに、師である炎柱と霞柱以外の柱も聞けば何でも教えてくれた。
私が正統派の型を正統派の解釈通りに振るうことが、彼等に気に入られた理由のひとつだろう。
霞の呼吸は派生といえど歴史が古いこともあって、書物はそれなりに残されていた。
始まりの呼吸と決定的に違うのは、最古の指南書が派生者本人による覚え書きだったことだ。
教えられて生まれた型と、そこから突き抜けるかたちで自分の生み出した型。
興味を持てば止まらなくなる。歴代柱の流派を調べ、討伐数とそのうちの十二鬼月討伐数、死亡や引退の理由。鬼殺隊における一般隊員の増減と流派の遍歴、全体での討伐数。
統計をとって答えを導き出せても、口に出すのは憚られた。
十二鬼月が戦場にいれば、今の柱はほとんどが死ぬ。
逸る心を鎮め、呼吸を深くして集中する。
呼吸が全ての始まりだった。
生きる為に習得した。柱の真似から始まった呼吸そのものが自分に極められた唯一のもの。
既存の型に呼吸を上乗せしたのが現在の呼吸の型だという自分なりの解釈は、この呼吸から導きだしたものだ。
剣技は真似ればいい。真似たそれに、自分の呼吸を乗せればいい。
炎か霞かで呼吸を使い分けてはいない。刀の技を変えるだけで、いつもの呼吸をしているだけだ。
呼吸の型を己の技として振るう柱のような強さが私にはない代わりに、使える型の多さはある。
あの異能の鬼を斬ってからは本格的に霞柱の指示を受け、今では上位の鬼も切れるようになってはいる。
ただ、握力も腕力も足りない。辛うじて頸は斬れるがそれ止まりだ。
本当ならば今も誰か柱を呼んで一緒に行くべきなのだろうけれど、そうすれば夜間に外へ出るのを止められることが目に見えている。
兄の予見を妨げてはいけない。
そして自分の考えが当たっているのならば、今の柱を呼ぶべきではない。
私は兄と同じ着物と袴を身に付けた後、馴染んだ刀を腰に下げて、袂には隠から届けられたあの大風呂敷を潜ませた。
隠の拠点のひとつである屋敷を出てしばらく歩いた先、兄が見つけた場所には二体の鬼がつるんでいた。何を話しているのか興奮し盛り上がっている。
兄の咳に気付かれたので、鬼が振り向く前に大風呂敷で覆って兄の姿を隠した。
鬼から見える位置に立ったままで、気配を消して透明になる。取り込む空気と融けるように、私という個のかたちを消す。
私は音を立てない。心を無にして、匂いは背後に隠した兄と全く同じだ。
だから鬼が察する気配は兄のものだけ、鬼に見える姿は私のものだけ。
驚いたのは群れていたのが下弦とはいえ十二鬼月の弐と肆であること。ただ何故か二体の関係が非常に悪く、こちらとしては運良く無傷で討伐できた。
あの夢で見た苦戦がない。努力はしたが、あの苦戦を変えることができるほど自分が強くなったと思えるような楽観的な性格でもない。
異様な気配は二体目を斬る頃から感じていた。
そうして目の前には、戦ったばかりの鬼二体を足しても遥かに上回るような圧倒的な気配を放つ鬼が姿を現す。
「宴の時間に、遅れたつもりはなかったのだが」
その眼には、上弦の参と書かれていた。
上弦が柱三人分と言われるのは、百十二年前に三人がかりで戦ってようやく倒したからだ。
当主が予見を得たのか、優秀な司令者がいたのか、はたまたただの偶然なのか。
理由はともあれ三人の柱が協力し、うち二人の犠牲と引き換えに当時の上弦の伍を倒している。
多くの記録を読み漁っても、一人の柱が戦い倒した記録はどこにもなかった。
ましてや今の柱は正統派ばかりだ。鬼殺隊の柱との戦闘経験が圧倒的に多い上弦に対してはむしろ弱い。
烏を飛ばして駆けつけられるのはこの地域を受け持つ水柱だけ。
上弦の報せにあと二人が駆けつけたとしても、到着の前に水柱は死ぬ。あとの二人も到着するごとに死ぬ。
烏は私の一羽しかいない。今この状況から、柱の三人が揃ってから加勢するように頼む器用な指示はできない。
それに本部経由で遠い警備地域の柱を呼ぶには時間がかかる。それよりもあと一時間後の夜明けを待つ方が早い。
そうだ。最初に誰か――霞柱を同行させていたとしても、少なくとも水柱を呼ぶことにはなった筈だ。それなら結果は今と変わりがない。
いつものように、息を吸って、吐く。
私の責務は今の鬼から兄を護ることだ。鬼を倒すことではない。そこが私は柱と違う。
「二体ともお前が斬ったのか」
繰り出される拳を、腰を後方に退くだけの動きで躱しながら兄の生存への道を探る。
この鬼は、気配で察知する鬼の様だ。
嗅覚ならば私の側は生死を問わない。むしろ多くの血を流して脳漿でも臓物でも広範囲に撒き散らすほうが兄を隠せる。
けれど気配で察するならば、たとえどんな状態であろうと夜明けまで私が生き残るしかない。
私が死んだ後に生きる気配が残っていれば兄の存在に気付かれてしまうからだ。
本格的な戦闘が始まればすぐにでもやられる。
だからこそ何故か私へ喋りかけているこの鬼の気を引くことで、時間を稼ぎ続けるしかない。
軽く拳を振るう姿はまるで虎が鼠をいたぶるようでもある。
間一髪で躱しながら、この鬼は視覚にあまり頼っていないこともわかった。布で覆った兄が見えていない。
そして聴覚も、近いとはいえ兄の呼吸音と私の声の位置の僅かなズレに気付いていない。
その誤差がこの鬼の隙を生んでいる。兄から離れられないのは難点だが対策はすぐに見えた。
鬼が兄の気配に向けた意識の直線上にいる時に私が声をかければ、この鬼はその違和感に気付かない。
「はい。鬼は群れないと思っていたので驚きました。宴の約束をされていたのですか?」
――そう、鬼は群れない。そういう認識だったにもかかわらず、何故ここに十二鬼月が三体もいる。
これが兄のいうこれまでにない発見なのか。それとも何か他の発見があるのか。そういう意味でも本当に興味があった。
相手は鬼だ、油断はしない。けれどその鬼から聞ける情報があるのならば出来る限り聞き出したい。
「そうだ。あいつらが入れ替わりの血戦をやるというから立ち合いに来た」
ご丁寧に入れ替わりの血戦について説明までしてくれる。宴とは、鬼同士の地位争いのようだ。敗者は地位と、場合によっては命まで失うらしい。
「久しく行われていなかった血戦に期待して来てみればこのザマだ」
それにしても本当に良く喋る鬼だ。先程の下弦は二体で喋っていたが、私との戦闘中はこの鬼のように喋り続けてはいない。
ただ、あの二体が地位の為に殺し合いをしようとする間柄だったのはわかった。それなら私と戦うために協力体制になる筈がない。
むしろ私と共闘して相手を殺し、その後に私を殺そうとしたのだろう。それぞれ単独で遭遇していたのなら、私が倒せていたかは怪しい。
この鬼に余裕があるのは確かだろうが、上弦というのはこういう生き物なのだろうか。
「弱者には虫唾が走る。これで十二鬼月を名乗るなど反吐が出る。淘汰されてしかるべきだ」
下の者から立ち合いを頼まれ喜んで出てきた割には、特に仲間意識がある訳でもなさそうなところが実に興味深い。
下弦が更に地位を上げるには上弦へ血戦を申し込むことになるのだろうから、仲間というよりは競争相手のような存在なのだろうか。
「目にバツを付けた鬼は、それに負けた鬼ということですか?」
こちらが向ける明らかな興味に、鬼が逆に尋ねてくる。
「お前が倒したのか?」
「いえ、前に柱が倒すのを見ただけです」
私の答えに鬼が牙を見せて笑った。
「それは弱さに呆れてあのお方に捨てられた弱者だろう。血戦の敗者はほとんど食われる。その身体に流れるあのお方の血を無駄にしないためだ」
上の一言で立場を失うあたり、随分と独裁的な組織らしい。
「お前はガキのくせにこいつらよりはマシなようだな」
何百年も生きている鬼から見れば人間は誰でも若いだろう。それにしても二体は運が悪かったとしか言いようがない。
下弦とはいえ十二鬼月だ。普通の状況で戦っていれば私程度にこうもあっさり殺されることはなかっただろう。
「お前はまだ至高の領域には遠い。しかしチビの割に見どころはある」
ガキだのチビだのと言われる割には、防戦一方のこちらを見て楽しんでいるようだ。
私のために作られた軽い木刀と違い、日本刀を片手では持てなかった。だから守りに強い二刀流の岩の呼吸が使えない。
今は柔軟な受けの技を持つ水の型で応戦してはいるが、この状態であと一時間はもちそうにない。
柱と違って筋力も基礎体力も足りない。もっとないのが持久力であることは痛感している。こうしているうちにも息が上がりそうだ。
それでも私が死ねば兄の存在が露呈する。
幸い、と言って良いのかわからないが、鬼がこうして技や血鬼術を使わずに遊んでいるからこそまだ生きていられる。
私が切り札に隠しているのは霞の型だ。こちらが顔に向けて多段攻撃を仕掛け視界を奪ううちに、兄に逃げて貰うしかない。
兄も自分の使命をわかっている筈だ。私には家を継げない。兄が生き残らねば産屋敷家に次代はない。
しかしその隙がこの鬼には無い。
「ほう、なかなかやる」
腕に僅かな切り傷のできた鬼が、見ているうちにその傷を修復させる。これまでに見た鬼と違ってそれが速い。
「そうだ、お前のつける傷など一瞬で元通りだ。だがお前は面白い」
何故か急に、攻撃が止んだ。
「お前の名は何だ」
何が起こったのかわからずに刀を構えたまま鬼を見る。
「名を名乗れ、お前の名は何だ」
「テルです」
兄の真似だが女の恰好をしているのだから、ここは一般的な女児の名前が自然だろう。
「そうかテルか。俺は猗窩座だ」
自分は普通に名乗るくせに鬼舞辻の名を慎重に口にしないあたり、何らかの制約があるのだろうか。
そして姓を聞かれなかったので、この鬼は明治より前からの鬼かもしれない。それともそういう記憶がない可能性もあるが。
少なくとも長くこの地位にいる鬼なのは間違いないようだ。
攻撃をされている時よりも今の方が圧を強く感じている。こちらへ向けられた手に、震えそうになる足を堪える。
「気に入った。良い提案をしよう。どうだ、お前も鬼にならないか?」
「えっ?」
全く予想もしなかった問いに、妙な声が漏れた。
「お前は闘気が薄い癖に俺に傷を負わせることに成功した。百年、二百年の鍛錬をすれば、お前の闘気は高まるだろう」
この鬼は何を言っているのだろう。
「お前はまだ弱いが見どころはある。その証拠に俺の攻撃を避け続けている。あの屑共を倒したのも、お前にその技量があったからだろう」
顎で指したのは下弦の頸を斬ったところだ。
「俺が血を分けてやる。お前もここで鬼になれ。老いることなく永遠に鍛錬できるぞ。お前はもっと強くなれる」
「今、ここで?貴方の血で、私は鬼になれるのですか?」
興味のままに訊ねてみると、鬼――猗窩座が牙を見せたまま笑みを浮かべる。
「そうだ。あのお方の許しがあれば、上弦である俺はその血を与えられる。鬼になって、至高の領域を目指して永遠に闘い続けよう」
笑顔で鬼が近付いてくる。この鬼の血を受け入れたら、私は鬼になる。
鬼舞辻無惨の血でなくても鬼は生み出せるのか。許可はいる様子だが、これは確かに初耳である。
「手を出せ。血を分けてやろう」
「待ってください!まだ聞きたいことがあります」
鬼がこちらを見て笑っている。質問が許されるらしい。
「今鬼になれば、私はこの子供のままの姿で鬼になるのですか?」
突如、猗窩座が大声を出して笑い出した。
「やはりお前は面白い。今までそんなことを聞いた者はなかった」
時間稼ぎにすらならないが聞けることは全て聞きたい。どんな鬼がいるのか。どうやったら鬼になるのか。鬼とは何か。
兄がいて、烏がいる。今夜ここで私が死んでも、その情報は伝えられる。鬼殺隊の糧にできる。
笑い続けた鬼が、思い出したように言う。
「確か下弦に子供の姿がいたな」
子供の姿で十二鬼月など悪夢である。その姿に油断して殺された隊士もいたのではないだろうか。
「だが姿など些末なことだ。鍛錬を積めばどんな形にもなり得るようだが、俺がそれを望まないだけだ。もう、それでいいか」
猗窩座と正面から目が合う。
まだ両手で刀を握り締める私に、彼が言った。
「刀を収めろ。上から垂らしてやるから両の手で受けろ。一滴たりとも零さずに飲め」
近付いてくる。
正直に言おう。
興味が湧いた。
もしもあの血を持ち帰ることができたら、それは鬼の事を知る大きな糧になることは間違いない。
もしもあの血を飲んでも自我を保てるなら、鬼の事を内部から探れるかもしれない。
刀を収めた私に猗窩座がまた一歩近付く。
「それでいい。お前は良い判断をした。褒めてやろう」
両手を出して窪ませ柄杓をつくり、そして。
刀を収めた状態から一番速く相手を斬る型――雷の型、霹靂一閃を繰り出す。
片手を斬り飛ばしたがその手首はすぐ元に戻った。
「雷か。面白い、いいぞテル。まずは存分に相手をしてやる。お前が鬼になるのは後からでもいい。」
別に敵の意表を突くつもりで刀を収めた訳ではない。
本気で鬼の血を受けようとしていた私がそれを止めたのは、それどころではなくなったからだ。
背後で兄が声を出した。それは、自分の姿が露呈するのを覚悟してまで私を止める声だった。
駄目だ!
その一言が、私を本来の責務に戻した。
猗窩座は気付いていない。私の真後ろにいる兄の呟きとその気配を、まだ私のものだと思っている。
まだ、出来ている。
気配を消して透明を保つ。取り込む空気と融けるように、私という個のかたちを消す。
鬼が察する気配は兄のものだけ、鬼に見える姿は私のものだけ。
だから、その攻撃は当たりにくい。
既に水と雷の技を使った私とは違い、猗窩座は出会ってから一度も技や血鬼術を使わず軽く遊んでいるだけに過ぎない。
拳が掠っただけで既に左足は折れかかっている。
こちらの限界がくるのは早かった。すでに脈が狂い始め、焼けるような喉の痛みに気道が切れたのがわかった。
咳き込みを庇った腕に血がつく。
立っていられず崩れそうになる身体に、猗窩座が近付き腕を取られる。
猗窩座の攻撃で傷を負ったのは左足だけなのに、口元に血を垂らす私を妙な目で見ている。
「妙な気配はそういうことか。技の割に闘気が薄いのは脆弱な身体のただの死に掛け」
そうして私の腕につく血を指で触った。その血を嗅ぐと眉を歪ませて呟く。
「女だったのか」
女児の着物を着て女児の名を名乗っていたのに、それは気にしていなかったらしい。
闇夜の中とはいえ、鬼の視覚は随分人と違うのかもしれない。
「興が失せた。女相手に手合わせをする趣味などない」
掴まれた腕を無造作に放られ、地面に打ち捨てられる。
声も出ない。
地面に身体が落ちる衝撃でまた酷く咳き込んだ私を、心底嫌そうな顔で見てから姿を消した。
鬼は去った。
本能的な恐怖を堪えて必死に待機してくれた烏を労ってから水柱と隠を呼ぶよう飛ばして、到着を待つ間に風呂敷を剥して呼吸を乱した兄に鎮静剤を飲ませる。
その身体を風呂敷の上に横たえると、兄が涙を零して私の腕を取った。
謝ろうとする兄の手を取り、首を振った。
「私が鬼にならなかったのは、兄上のお蔭です」
咳き込み過ぎて掠れた声は意図していないのに兄と同じもので、それが少しおかしくて笑った。
疲労困憊で眩暈がして、地面に転がる。視界を星空が占める。
やがて地面の振動から、水柱が近付いてくるのがわかった。
星が見えなくなり東の空が白み始める。
そうして、長い夜が明けた。