「十二鬼月のうち、上弦は柱三人分の力を持つと言われています」
百年以上前に上弦を倒したことは座学で聞いた。それ以来そう言われていることも。二人も知っているようだ。
「飢えて手近な人間を喰らう発生したばかりの鬼や、縄張りの中で定期的に人を喰らって生活する鬼とは全く異なる生物です」
そして彼が口にしたのは、恐るべき事実だった。
「十二鬼月は、鬼殺隊以上に十二鬼月の鬼を殺しています」
鬼に共食いの性質があることは知られている。しかし、彼の言葉には続きがあった。
「自分が生きる為に殺して喰らうのではありません。十二鬼月はその地位の為、娯楽の為、嗜好を満たす為にも殺すのです。人も鬼も」
彼が話したのは、鬼殺隊が把握していた筈の十二鬼月が異なる鬼に変わっていたこと。
鬼殺隊が倒さなくても十二鬼月が変わっていることがある。十二鬼月を倒したのは、その地位を狙う他の鬼。
上弦の入れ替わりはないと思われていたが、一年前に花柱を殺した上弦の弐はそれまで把握されていない新しい鬼であった。
ここ百年ほどは上弦の情報を生きて持ち帰った者がほとんどいないのだから、鬼殺隊の持つ情報が古いことは否めない。
致命傷を負った花柱が、亡くなる前に継子である実妹に伝えたことが最新の上弦の情報だという。
それを聞いて、彼が上弦と遭遇して生還したのはそれよりも前の出来事だとわかる。
戦闘になった花柱と違い相手にもされなかったというが、彼もまた上弦の情報を持ち帰った数少ない者の一人だ。
座学で伝達を学んでいる時に銀子が言ったことを思い出す。出現した鬼が十二鬼月だとわかった場合は本部に連絡しなくてはならない。
十二鬼月は柱をも殺し得る強い鬼で、上弦ともなれば柱三人分の力を持つのだから。
そして柱は自らの率いる少数精鋭の隊と行動を共にすることが多いので、一人であることは少ない。
複数の隊士が居合わせたのなら、それぞれの烏を飛ばして他の柱を呼べた筈だ。
一人ではない筈、他の柱を呼べた筈。
……もしその場に柱が三人集まることができたならば、上弦の弐を倒せていたのでは?
状況を考えながらも、考えがまとまらず手を握り締める。
「一般隊士の緊急連絡から十二鬼月がいると判明した場合、派遣される柱は二人です」
「えっ、どうして三人じゃないの?」
彼の言葉が思い描こうとしていた答えとは全く違うものだったので、思わず声が大きくなる。
上弦は柱三人分の相手だと言った。二人では一人足りない。下弦ならいいけれど、もし現れたのが上弦だったら柱は二人とも死ぬ。
彼がこちらを見て頷く。
「通常、任務に出ず本部近くで待機している柱は一人です。十二鬼月の出現地域を担当する柱にその待機している一人を足すのが精一杯、それが鬼殺隊の現状です」
待機中でない柱は、自分の警備地域の討伐を行っている。休む暇がないくらいに。
その討伐中の柱を呼び出すということは、その地域の犠牲を黙認するのと同義だ。一般人や、置いて行かれた部隊の隊士が死ぬかもしれない。
だから待機中でない柱をまわすことはできないのだ。
「上弦が鬼殺隊の前に姿を現すことは非常に少ないのです。少なくとも今の柱が就任してからは、花柱が犠牲になった一度しか記録にありません。ですが今後はもっとあるかもしれない。さらにその時、他の地域の要請と重なるなどして応援が来ないかもしれない。要請しても間に合わないかもしれない」
彼が三人を見渡した。
「その時にたった一人でも上弦と戦える覚悟と力を持つこと、それが今求められる柱の資格なのです」
すっかり冷めた茶を顔の覆いをめくりながら啜り、一緒に出されたおかきを頬張る。
「柱ってそんなに強いの?僕は良くわからないのだけど」
二人の師と彼だったら、彼の方が強いと言っていた。――だからこそ今の柱がどれほど強いのか想像もつかない。
「ええ。今の柱の皆様は大変強い方々ですよ。そしてそれぞれが、経験値の高い鬼にも見切られない技を持っていらっしゃいます」
全てが固有の技である恋柱はわかったけれど、他の柱はどうなのだろう。
「炎や水はいつの時代も柱がいるんだよね。過去に炎や水の柱を殺した十二鬼月からも攻撃を見切られないってこと?」
眼鏡の奥の彼の目が微笑み、そして頷く。
「お二人とも大変お強いですよ。水柱は基礎を極めた上で新たな技を生み出された方で、炎柱は文献に学び独自の解釈で新しい道を切り拓かれた方です。心身を鍛え、昔からある伝統的な型でさえ別格の力で振るうことができます。たとえ鬼が正統派をよく知っていたとしても、攻撃を見切ることは難しいでしょう」
彼はそうして他の柱についても話した。
「誰にも真似のできない特技を持ちながらそれ以上の鍛錬を重ねた方、新たな武器や戦術を鬼殺隊にもたらした方。柱の皆様はそれぞれが大きな強みをお持ちで、今もその上を目指して更なる鍛錬を積まれています」
きっとその柱の人達の事を思い浮かべているのだろう。彼からそう称賛されている柱の人達の事を、羨ましいと思った。
「それが、強い柱」
僕の言葉に二人が俯く。彼等の師で、下弦の弐に殺されてしまった鳴柱の言葉を思い出したのだろう。
「私の説得でも鳴柱が柱を引退されなかったのは、若い命を死なせたくなったからです。君達より経験豊かな分、自分の方が死ににくいから、とおっしゃっていました」
二人が嗚咽を漏らした。
そして彼は上弦に遭遇して亡くなった花柱についても言及した。
「花柱は若くして就任された才能豊かな女性でした。難易度が高く使い手の少ない花の型は、鬼から見切られにくい攻撃ができたでしょう」
ただ、と彼は言った。
その強い柱が亡くなったのは、様々な事情が重なったことが原因らしい。
最初に遭遇した分隊があまりに早く全滅してしまい、隊士が烏に伝言を頼む余裕がなかった。
さらにその上弦が範囲攻撃を持っていたせいで、鎹烏もその場を離れるだけで必死だった。鎹烏は状況を見る目は持つが、戦闘中はある程度の距離を置いて待機することになる。そのために強い鬼とは報告したが上弦であることまでは気付けなかった。
自らの警備地域での分隊全滅情報に、花柱は部下の烏を通じて本部へ連絡を入れてから自分の烏と共に駆け付けている。対応としては完璧である。
不運だったのはその日の討伐で多くの部下が怪我を負っていたこと。
任務終了間際の夜明け近くだ。疲労困憊した一般隊士には、同じ速度で花柱の後を追うことができなかった。
「花柱は本当に強い方でした。だから、夜明けまでの時間を稼げた」
結果的には亡くなったのだが、花柱は鬼に食われず上弦の弐の情報を遺した。
それだけではない。
「その夜本部で待機していた柱は別な救援に向かい不在でした。本部近くに待機していたのは花柱の継子であり実妹――現在の蟲柱です」
当時はまだ柱ではない一般隊士の上、腕力に欠けるので戦闘力と見做されておらず、どちらかといえば救護班としての待機だったという。
「花柱の機転により、鬼を屋外まで誘導することに成功しています。そのため夜明けを警戒した鬼が早めに撤退したのです」
致命傷を負った花柱が自分の鎹烏に鬼の情報を遺している頃、そこへ駆け付けた実妹や追い付いた部下が看取っている。
そう、他の者は上弦に直接遭遇していない。
「護ったのですよ」
柱三人分といわれる上弦の弐とたった一人で対峙して奮闘し、妹と部下の命を護った。それはどれほどの覚悟と力なのだろう。
「本当に、強い人だったんだね」
彼が頷き、二人が泣きながらそれに同意した。
花柱が亡くなったのは鳴柱が亡くなるよりも前だ。だから二人は、鳴柱が若く才ある花柱の死を嘆き悲しんでいるのを見たのだそうだ。
花柱を偲んだ後、彼が刀に触れて言った。
「私は花柱と違い戦闘能力に欠けます。正統派の真似事の範囲を出ることが出来ませんでした」
そう言いながら下弦の弐を斬ったのだから、たとえ謙遜でも厭味になりそうである。
「握力も腕力もない私が頸を斬ることができたのは、その鬼の組成を見極めることができるからです」
彼が人差し指で自分のうなじから首に沿うように触ってみせる。
「多くの隊士は鬼の頸を切断していますが、私は骨の継ぎ目に刃を入れているに過ぎません」
彼に倣って人差し指で自分の頸を触る。触りながら、教わった頚椎と筋肉の感触を確かめてみた。
人間の頸椎は七個だと言っていた。蛇は八個らしいが、蛇の頸と胴体の違いは骨格標本を見せて貰った今でも納得していない。
「私は力技で血鬼術を解除することもできませんでした。そこに巡らされた罠を読み解き、罠の発動を回避しただけです」
彼はそれだけだと言っているが、二人の表情を見るとそれだけには思えなかった。
「私が鬼殺隊の中で人より多く持っているのは情報と知識です。だから今、こうして君達と話しています」
あ、と声が漏れた。急に僕の中で様々なことが繋がった気がした。
だから彼が選ばれた。何も覚えられない僕に、身体が覚える助けをする役目。言葉を覚える必要はないから、動きに活かせと彼は言った。
そして今だからこそ気付く。彼の攻撃は、軽い。
力任せに振るわれた今日の木刀と違って、夜の鍛錬での彼は僕の攻撃を軽く弾いているだけだ。
速さや太刀筋の正確さで確実に回避できているけれど、あれが僕への鍛錬だからではなく鬼との戦闘でも同じだとしたら。
それは戦闘においては決定力に欠けているとわかった。わかってしまった。
口元を覆っていても、こちらの気持ちがわかったらしい。彼が僕に頷いてみせる。
「私の剣術は護衛の為に学んだものです。柱と違って強い鬼を倒すには力が足りません」
たとえ自分が三人いても上弦と戦える強さはない。彼はそう明言した。
「二人は私を強いと言ってくれましたが、買い被りですよ。私はたとえ鳴柱の攻撃を躱せたとしても、実戦においては鳴柱のような攻撃力がありません」
二人は妙な顔をしたが、今の僕にはその意味がわかった。
「だから隠なのです。私が学び経験したことを活かし、最も有効に活用するために」
これまで最高に強いと思っていた人が、最高ではなくて別な方向の強さを持っている人だと知った。
僕は、彼を目指してはいけない。彼は僕が目指すべき完成形ではないから。
彼は最初に言った。覚える必要はないから活かせと。
だから僕は、僕の目指すべき方向は――。
握り締めた拳が熱い。彼を見ると、眼鏡の奥の瞳が優しくこちらを見つめていた。
「さて、二人の処遇について話しましょう」
すっかり忘れていたと思って改めて二人を見ると、二人も急に落ち着きを無くした。
「藤原君より原田君の方が隊士としての年数が長く鬼の討伐数も多いのですが、なぜ地位は逆なのかわかりますか?」
もう二人は討伐数を誤魔化そうとしたり言い訳をしたりはしなかった。彼等は互いを見てから考え、原田という人の方が口を開いた。
「鳴柱は藤原さんを信頼していた。藤原さんに色々仕事を任せていたし、新しい隊士の教育係も頼んでいた」
生前の鳴柱の様子だけでなく、自身も慕っていたのだろう。討伐数が多い自分の方を盛り立てて欲しいという気は全くなかったようだ。
だから鬼の討伐数の多くを譲ったのだろうということも十分に伝わってくる。
「鬼殺隊の階級というのは、討伐数だけでなく貢献度による上昇もあります」
一番わかりやすいのは蟲柱だ。花柱を失ってから急速に討伐数を伸ばし五十に到達したので柱に就任している。
もし階級が低ければ、たとえ五十体の鬼を倒したとしても柱になる資格はない。つまり彼女は五十を倒した時点で、既に甲の階級にいたのである。
急速に伸びた討伐数に、通常であれば階級が追い付かない。それが追い付いたのは何故か。怪我人の治療数の多さによる貢献を認められて、元々の階級が非常に高かったからだ。
それが、貢献度による上昇だと彼は説明した。
「鳴柱が亡くなって七ヶ月。隊士となってまだ半年の永野君は、鳴柱とは直接の面識がありません」
言われて気付いて少し驚く。
「藤原君。君は指南書を読み鳴柱から教わったことを、わかりやすい形で後輩の隊士に教えました」
その永野とかいう一番短かった人は隠として働くことになったが、少なくともあとの二人は剣士として認められ、今後の成長の糧になるだろう任務を命じられている。
鬼殺隊には幼くして肉親を失い、読み書きもできずに入隊した隊士も多いというのは座学で聞いた。
そして実力があっても言葉で説明することが上手くできず、後進を育成できない隊士も多いと彼が続ける。
「君の功績は、忙しい柱に変わって隊士の育成を行ったことです。鳴柱はそれをとても感謝されていましたよ」
藤原という隊士の方が、嗚咽を漏らした。
「五人が分隊としてこれまで機能していたのは、君の指導力の賜物です。原田君が君を慕う理由も、よくわかります」
態度が悪かった原田という隊士も、今は俯き涙を零している。
「現在は分隊の組織改革を進め、長所と短所を補うように各種の呼吸が混ざった編成を提案しているところです」
今回の事がなくてもいずれ、同じ呼吸だけで固まっている隊は解散させるつもりだったのだと彼が言った。
戦って分かったのは、彼らは素早い攻撃には長けていても守りが弱い。
あの時僕が鬼だったなら、初手が決まらない時点で負けだ。こちらが反撃に転じた後、崩れるのがあまりに早かった。
「君達の助け合いの精神は素晴らしいのですが、同じ弱点を狙われたら揃って死にます」
だから隊士として残った二人は、それぞれ違う呼吸の型を使う柱の任務に同行することになった。きっと柱の連れた別な呼吸を使う隊士との戦いも目にすることになるだろう。
これからはどんな相手と組んでも正しく共闘できることが望ましいと彼が言った。
いつも同じ仲間と組めるとは限らない。急な応援要員として同行する機会もあるだろう。
そんな時も、仲間を邪魔せず確実な支援のできる隊士になる必要があるのだそうだ。
「改革は隊士の生存率を上げる為のものです。他にも私はいくつかの分隊に隠の同行を命じています」
戦闘に直接加わらずとも、連絡に専念できる者がいれば窮地においても正しい救援を求めることができる。
息をのんだ。もし正確な情報があったならば、花柱は一人で十二鬼月と戦わずに済んだのかもしれない。彼等の師である鳴柱も、救援さえあれば助かったのかもしれない。
現在同行している隠達は、彼が僕に教えたような鎹烏を通じた正しい伝達手段を身に付けているのだろう。
彼の改革でどれくらいの隊士が死なずに済むのだろう。これが彼の、鬼殺隊への貢献なのだ。
最初は何故隠が教えるのかと思った。教えて貰った後は何故柱ではないのかと思った。
ようやく理解できた。彼は柱ではなく本当に隠なのだ。
僕が彼の教えで身に付けたのはただの強さではない。彼は隠として、生存率を上げる戦い方を僕に教えたのだ。
覚える必要はないから活かせ。その教えが本当の意味で僕に染みた。
彼と目が合う。
生きなさい、そう言われた気がした。
「通常の分隊なら一般の隠で問題ありませんが、上の階級の分隊は移動が早くて追い付くことが難しく、危険な任務も多いのです」
そして彼は言った。
「藤原君。君は読み書きに長け、状況を言葉で説明すること、そして自分の身を守ることができます。君は近いうちに、岩柱の任務に同行してもらいます」
岩柱には既に同行する隠がいるのだそうだ。その隠を見て学ぶよう命じた。
最後に残った原田という人の方に彼が顔を向ける。
「原田君。君は私の攻撃から一度、藤原君を庇いましたね」
彼は僕の方の戦闘をよく見ていたようだが、同時に彼自身も二人と戦っていたのを思い出す。
「護りながら戦う、これがどれだけ難しい事かは私も身に染みて分かっています。君は訓練を受けた後で、要人の護衛に就いてもらいます」
鬼殺隊に直接所属する訳ではない協力者が、時に鬼に狙われる恐れがあるのだという。
柱の任務への同行と、要人の護衛。二人は驚いた顔をしたが、姿勢を正してその命を受けた。
「隠には鬼の討伐数という明確な評価が存在しませんので、階級は貢献度で決まります。頑張ってください」
任務や階級によって求められる能力や資格などもあるようだ。
そういえば、頭脳を使って鬼を追い詰める側に回れと言われた人は、大学を卒業しろと言われていた。
隠とは、僕が思う以上に複雑で難しい事を考えている組織らしい。
「まずは二人とも隠としての振る舞いを身に付ける研修を受けて貰いますが、その前に。何か質問はありますか?」
その、僕へ教える時と変わらない様子に思わず笑いたくなる。
彼はいつも穏やかに話す。
まだ子供の僕に対しても、大人の彼等に対しても。大声で恫喝されている時も、足元に縋りつかれている時も、そして今も。
質問をすべく顔を上げたのは、柱への同行を命じられた人の方だった。
「現在の岩柱は鳴柱亡き後、一番長く在籍される柱です」
何故か酷く緊張している。その言葉にもう一人の息をのむ音がした。
「前の、正統派の岩柱がいらしたのは、もう八年以上も前のことです。貴方は一体――」
僕は特に疑問に思わなかったが、彼等にしては震えるような何かがあるらしい。
首を傾げて彼を見ると、彼はちょっと笑った。
「君達が入隊するよりも前の事です。こう見えて私は、長くこの組織にいるのですよ」
驚いた顔のままで黙ってしまった二人を見てから、代わりに僕が尋ねる。
「誰の護衛をしていたの?」
こちらを見て微笑んだ彼が、軽く頷いてから答えた。
「一人の子供です。その方は今、皆からお館様と呼ばれていますよ」
姿勢を正していた筈の二人が、腰でも抜かしたかように脱力した。
「アンタ、何者なんだ……」
原田という人の問いかけに、彼が答えず立ち上がった。
「おや、丁度良いところに」
やがてどこからかエンジンの音が聞こえ始め、到着したのは一台のバスだ。そのバスから、一人の隠が下りてこちらへ走ってきた。
「免許取れましたァ!」
驚いたことに、彼が面白そうに笑っている。
「おめでとうございます。それにしても君は……うん、非常に良い時に到着しましたね」
いつもの微笑とは違い、何故か妙に楽しそうだ。
「無事に免許が取れたことですし、君もそろそろ次の階級へ進む頃です。つい今こちらの二人を新たに隠へ引き抜きましてね。君には彼等に隠のイロハを教えてもらいましょう」
二人が慌てて立ち上がるとその隠に向けて頭を下げた。何となく一人で座っているのもどうかと思って立ち上がると、彼の隣に寄った。
「わかりました!俺は後藤という者だ。よろしく頼む」
あれ、この人、早速名乗ったよ。隠なのに。大丈夫なのかと隣を窺うと、彼は肩を震わせ笑っていた。
何が面白いのか一人で笑っていた彼が三人の挨拶を見届けてから言った。
「それでは原田君。先ほどの君の質問に答えましょう。後藤君も、次へ進む前に知っておくほうが良いでしょう。先に言っておきますが、大声を出してはいけませんよ」
彼が自分の口元を隠す布の上から人差し指をあてて微笑んだ。
何をするのかと思ったら、彼が左手を握ると階級を示すよう告げる。
そこには、甲乙丙丁の十干ではない文字が現れた。
「どういうこと?」
尋ねたのは僕一人で、あとの三人は目を見開いた物凄い顔で硬直している。
「私は隠の責任者です。これから私の部下として、しっかり働いていただきますよ」
隠の布を付けていてもわかるくらい、にっこりと笑っている。
「それでは後藤君、藤原君と原田君のことをよろしく頼みますね。君は後で一緒に屋敷へ戻りましょう」
ちょっと用事を済ませてくるといって彼がその場を離れた後も、三人は物凄い表情のまま震えていた。
「嘘だろあんなん初めて見たわ、階級的には柱みたいなもんだろ、怖っ、怖すぎるわ、漏らすかと思った……!」
多分この蔵の責任者だろうってくらいに軽く思ってたわ、怖い怖い、笑顔が怖いと繰り返して震えながら笑っている後藤という隠は、こう見えて随分と肝が据わっているのかもしれない。
その傍の二人は、後藤という人につられて笑おうにも声さえ出せずに震えて歯を鳴らしているのだから。
彼の手の甲に現れた文字は「隠」だった。
その立場に納得した今はもう、早くあの屋敷に帰りたいと思った。