屋敷に戻って、元のように二人きりで座る。
何かを言いたいけれど上手く言葉に出来ず、燻る気持ちを持て余してしまう。
帽子と眼鏡と顔の布を取って顔を晒している彼が、まだ隠の制服を着たままなのにも苛立ちが募る。
夜の鍛錬で着ている時は気にならなかったのに。
しばらく黙っていると、彼は立ち上がりどこかへ行ってしまった。
呆れられてしまったのだろうか。
「お待たせしました」
着替えてきた彼が、二本の瓶を手に戻ってきた。ラムネだ。
促されて縁側に腰掛けラムネ玉の栓を押し込むと破裂音がした。
溢れる雫に手を濡らしながら瓶に口をつけると、冷えたラムネが喉をくすぐる。
渡された手拭いで手と口元を拭く頃にはもう、彼に向ける苛立ちが治まっていた。
彼のようにいつも落ち着いた人になりたい。そう思ったけれど、隣に座る彼は遠くを見て微笑みながら言った。
「自分の感情と上手く付き合ってください」
言っていることが良くわからなくて首を傾げる。
「我慢するのとは違うの?」
その疑問に、彼はこちらを向いて頷いた。
「興奮し過ぎて我を忘れるのは良くありませんが、無理矢理抑え込んで後に爆発させたり、抑え過ぎて何も感じなくなってしまったりする方が悪いと思いますよ」
炭酸の刺激を喉に感じながら彼の話を聞き続ける。
「君が感じている感情には必ず理由と意味があります。それを知り理解することで、利用してしまえばいいのです」
喜びや楽しみだけでなく、負に思える感情にも効果がある。
怒りは鬼と戦う強い力になり、悲しみは同じことを繰り返さない誓いになる。
疑いは真実の追求を助け、苦しみは現状の打破に欠かせないものだ。
恐れは命が脅かされている警報だとわかれば、注意深く立ち向かえるだろう。
「息を吸って、吐いて。そして考えてください。君が感じている、その気持ちを」
ゆっくりと、大きな呼吸をする。
彼は、僕の目指すべき先にいる人ではない。
さっきは隠の組織に取られたような気がしたけれど、彼は本来の場所に戻るだけだ。
それは、彼とこうしていられる日々が終わるということ。
腹の中に燻っていた何かがひとつひとつ消えて行った。最後に残ったのはひとつの気持ち。
「寂しい」
ずっとここにいたい。このままここで暮らしたい。けれど、それはできない。
それだけではない。きっと僕はすぐに忘れてしまう。教わったことも、そして彼の事も。
泣きそうになるこの感情をどう利用すれば良いのかなんてわからない。
飲み終わった瓶を置くと、膝を抱えて俯く。
きっと呆れられる。子供だと笑われてしまう。そう思ったけれど、こちらへ向けられた言葉は違った。
「私もですよ」
意外な返答に驚いて顔を上げると、彼が困ったように微笑んでいた。
「今感じている寂しいという気持ちは、成長の証です。君にとっても、私にとっても」
彼の手がそっと僕の肩にのせられた。
「君はここで学べることを終えつつあり、私もここで教えることを終えつつある。それを互いに気付けたということですから」
零れ落ちた涙を拭ってくれる手が優しい。
とても戦う者の手には見えない――最初に抱いた印象が、さっきの五人を見た今は余計に強く感じられた。
彼は本当に戦闘職ではなかった。
手も、身体の大きさも、話し方も、視線の先も。
二人だけでいる時には気付けなかったことを、今日は急に色々と突き付けられたような気がした。
彼は強いのではなく巧い。彼が鬼の固い頸を斬ることが出来るのは、情報と知識だと言った。
だけど、それだけではないと思う。
彼は前の柱に全ての型を見せて貰ったというが、見て覚えた知識だけで刀は振れない。
一体どれほどの鍛錬を重ねたのだろう。
雷の呼吸を長く使うあの二人が鳴柱である師に似ていたと言うくらいの再現だ、簡単には振れない。
単なる物真似で十二鬼月を斬れる筈などないのだ。
彼は数多くの指南書を読み解くことで、正統派の本質を見極めたのだろう。
きっとそれは他の隊士とは違う、彼だけの歩んだ道のり。
「僕は霞の型を、ちゃんと振れているかな」
彼に教わって今日で六日目。たった六日しか霞の型を振るっていない僕は、彼から見てどうなのだろう。
「時透君は今、霞の型を正しく振るえていますよ。私が教えた通りに」
教えた通りに正しく出来ている――その言葉に、強い柱の条件が頭に浮かんだ。
「正しいだけじゃ、駄目なんだね」
正しいのは誰かが既に振るった型と同じということ。彼が教えたのは前やその前の霞柱も振るった、十二鬼月が見たことのある型だから。
縁側に下りて立った彼が、森を向くと僕に背を向けて答える。
「ええ。けれどそれ以上を、私が教えることは出来ません」
振り向いた彼が手を差し伸べた。
「その先は時透君が自分で掴んでください」
差し出された手を掴む。
柔く繊細な手。それは、僕とは違う道で人を助けると誓った人の掌だった。
彼がラムネの瓶を受け取ると片付けに行く。
偉い人、なんだよね。一緒にいた三人が物凄い顔をしていたくらい。
けれど彼の動きがあまりにも自然で、出された手につい瓶を渡してしまった。
自分の手を見て、握り締める。――彼とは違う、固くなりつつある掌。
その違いに覚えるのは、向かう道がもう交わらないという予感。
縁側に置かれた木刀を手に取り、そこにあった草履を履く。
霞の型を一通り振ったところで彼が戻ってきた。顔だけ振り返って口を開く。
「鬼殺隊で一番重い処罰って、切腹なんだね」
さっきの一人が刀を抜こうとした時に彼がそう言って止めた。
「ええ。それが人として命じられる一番重い処罰です。斬首は鬼としての討伐扱いですから、処罰とは言いません」
「そっか」
彼から予想した通りの答えが返ってきた。
木刀を握る手に、力が入る。
明日が最後だ。それが終わったら彼は僕と離れてしまう。
寂しさは成長の証だと彼は言った。理解はできたけれど、まだその気持ちを利用できるほどには向かい合えてない。
離れたくない。
隊士に隠を付けると言っていたけれど、僕には付いてくれそうにない。
それは僕が柱になったとしても同じだろう。彼は隠を統べる者だから。
今なら彼は答えてくれる。
これまで誰を処罰し、討伐したのか。命じたのか、自身が手を下したのか。聞きさえすればきっと何でも。
今日の隊士五人に処罰――といっても実質的には配置換えに過ぎなかったが、その時の姿を思い出す。
もし隠の責任者である彼が僕と深く交わることがあるとすれば、それは重い処罰を下す時くらいだろう。
だから口を噤む。これ以上話せば、聞きたくなってしまうから。
鬼は討伐すべきだ。鬼になるつもりなんてない。けれどもし、僕が鬼になってしまったのなら。
僕の頸を、斬って貰える?
誰かにこの頸を斬られるのなら、僕は彼に――
「私は、君の頸を斬りたくなどありませんよ」
柔らかな掌が、頸に触れた。
「ですが、そうしなければならない場合は君の頸を斬った後で、私はすぐに腹を切ります」
壮絶な言葉にはそぐわない優しい目と視線が合う。
「たとえ君が覚えていなくても、私はずっと君の師ですから」
頸に触れていた手が肩に置かれた。
「君が偉くなった後に、私が教えたのだと師匠面をして差し上げますので覚悟しておいてください」
嫌がっても無駄ですよ、と彼が笑う。
「そんなこと……」
ないと言おうとしたが、僕が偉くなった後に弟子の前で師匠面をされたら、それはちょっと恥ずかしいのかもしれない。
思わず、笑ってしまう。
たとえ僕が忘れてしまったとしても関係は切れない。彼はそう言ってくれている。
いつか僕が彼の事を思い出した後に、彼が僕をからかう光景が見えたような気がした。
「さあ、木刀を持って付いてきてください」
草履を脱いで縁側に上がり廊下を歩いた先にあったのは、天井が高くて広い板張りの部屋だった。
「天気が良かったので使いませんでしたが、ここは道場です」
それほど大きな屋敷ではないと思っていたが、玄関や縁側から出た庭から見えない北側にこの道場があったらしい。
別に禁じられてはいなかったのだけれど、屋敷の探索をしたことはなかった。
座敷で学び、庭で稽古をつけて貰うのが楽しすぎて、暇を持て余すことがなかったからだ。
「少し打ち合いをしてみましょう」
流石に道場内では真剣を使う訳にはいかないらしい。
良い床だ。節のない目の詰まった無垢の板が良く磨かれて光っている。
流石にこれを斬ったりしたら勿体ないもんな、と思う。
座敷や縁側もそうだが、ここも良い木が使われていているのがわかる。
軽く構えを取り、呼吸の型を使わないただの剣技で打ち合いをする。
野外とは違う難しさはすぐに気付いた。
跳躍は天井までしか高さを出せず、着地すれば地面と違って床が響く。木刀を振る先に柱があれば、手を止めざるを得ない。
今は木刀の軽い打ち合いだから良いけれど、真剣で呼吸の型を使っていたら柱が斬れて屋敷が倒れる。
「市街地戦は石造りの建物も増えてきましたからね。より難しいかと」
石造りの建物を斬って刀が傷めば切れ味が格段に落ちる。それだと斬れるはずの鬼の頸を斬れない。
それだけではない。石造りの建物が崩れたなら、中の人は圧し潰されて死んでしまうだろう。
「鬼は世代交代が極めて少ないので、古くからの鬼は古い感性を持っていることが多いことがわかっています」
持てる技を高めることはあっても戦法そのものを変えない鬼がほとんどだという。
明治以降に生まれた鬼は現代の技術を使うこともあるそうだが、技術というのは日進月歩だ。
「人は鬼に対抗するために、より新たな技や技術を生み出していかねばなりません」
寿命が違いすぎるから積める経験には差がある。
だからこそ既にある技を高めるのは当然として、鬼の見たことがない戦い方をしなければならない。
それが派生の型だったり、彼のような隠がいたりする理由なのだろう。
彼が木刀を右側に置いて座ったので、同じように木刀を右側に置いて僕も座る。
木刀だと意味はないが、利き手の側に置くことで刀を鞘から抜きにくくなるので敵意がないことを表すと座学の時に教わったっけ。
道場、上座と下座、刀を置いて座る姿勢。
座学ではない今の状態は、鬼殺隊での一般的な師弟の向き合い方のように思えた。
縁側から山を望む開けた印象の座敷と違い、ここは戸を開け放っていても閉じた印象で静謐さがある。
こうして座ると何でも教えてくれる座敷での彼とは違い孤高の剣士のように見えるほどだ。
「こうしていると、いかにも師弟という感じがしますね」
彼が口を開けばせっかくの雰囲気は壊れてしまうのだが、向けられるいつもの笑顔に安堵する自分がいた。