記憶、朧に   作:貝柱 焼牡蠣

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夕食と休憩の後、日暮れの後に刀を握る。

縁側から出て草履を履いているうちに、急に身動きが取れなくなった。

「何?何をしてるの!?」

手首足首を縛られたうえに猿轡を嚙まされ、急に地面に転がされた。

酷いことをすると思ったが、不思議と目元は隠されていない。

地面から見上げれば彼の顔が見える。穏やかな、いつもと変わらない表情が。

だから今夜はこういう課題なんだとわかる。地面に転がされたというのに、身体のどこにも痛みがない。

彼が僕の視線を受けて微笑んだ。

「お気付きの通り、今夜は逆境からの反撃を学んでもらいます」

握っていた筈の刀も奪われており、猿轡は窒息するほどではないが全集中の呼吸を阻害している。

跳躍して地面に転がる体勢からは立ち直ったが、今度は頭から何かを被せられた。

視界を奪う黒い布は、見覚えがあると思ったら隊服と同じ素材のようだ。

布による急な暗さに目が慣れないうちに、彼の気配が正面から消える。

 

思い出すのは、座学の時に学んだ人間の身体。骨のかたちと筋肉のつき方から導き出される腕の可動範囲。

肩を捻り、腕を捩る。後ろ手に縛られた手首の縄に出来た隙間に小指をねじ込み強引に引っ張る。

思ったより頑丈な縄だったので千切れなかったが、片手が抜ける。そうすれば弛んだ縄からもう一方は引き抜くだけでいい。

黒い布を払い落とし、自由になった両手を前に出して軽く振るって痺れをとる。

手が自由になれば残りの拘束を解くのは容易い。

しかしそう簡単にはいかない。そうさせてくれる筈がなかった。

僕が立っていた筈の場所に風を切る音がして、木刀の切っ先が目の前を掠める。

足を縛られたままでは跳躍できても走ることはできない。猿轡を取らなければ全集中の呼吸ができない。

ギリギリで躱しながら、次の攻撃を読んで更なる攻撃を避ける。

躱し避け続けるだけでは勝負にならない。それどころか猿轡のせいで跳躍のたびに息が上がりそうになる。

優先するべきは何か。

足の戒めを解くことか、呼吸を戻すことか。

霞の弐ノ型、八重霞による多段攻撃を避けつつ目を走らせ、辺りを窺う。

木刀を躱す身体の向きを変えて、背後に跳ぶ。

数回跳べば縁側に到達し、置かれた刀を取って足を縛る紐と猿轡を切った。

「はい、そこまで」

手を打つ音と彼の声。それでは振り返ってみましょうと微笑む彼が、地面に転がされてからの僕の動きの無駄を指摘する。

悔しいけれど、確かに無駄が多かった。

 

縛られる場所を変え、手足の拘束方法を変え、終いは木に吊るされもした。

迷わず反撃に出られるようになったところで彼が今宵の終わりを告げる。視線を遣ると木々の向こうの東の空が白い。

今日の教えを振り返りつつ話しながら屋敷に向けて歩くと、木立を抜けて縁側に着く。

「戦闘中、同時に出来ることは限られます。優先順位を間違えないよう、常に考え続けてください」

彼が言葉を締めくくった。

惰性で動いてはいけない。常にその時の最良を考えるべき。

戦闘中、最も優先することは何か――そう考えた時、彼がラムネ瓶を背後に庇って戦う姿を思い出した。

「護衛をしていた時は、攻撃よりも護衛対象を護ることを優先していたんだよね」

確認するように尋ねると彼が歩みを止めたので振り返ると、僕を覆ったあの大きな黒い布を取り出し広げてみせた。

折り畳まれていたのに折り皺もなく、そして戦闘で使ったとは思えないほど破れや傷みもない。

「ええ。これは、その時に使ったものです」

朝日を受ける彼の向こうに木立と山が見えた。

光沢のない布がそこだけ真夜中を思わせる漆黒のまま、彼の手の下で揺らめく。

戦闘で使ったあの布はきっと彼の戦う力のひとつだ。しかしそれは彼自身を隠すのではなく、鬼の行動を阻害するものでもない。

「その布で、お館様を鬼から隠したんだね」

まだ子供だったお館様と同じくらいの背格好だっただろう影武者の彼は背後をあの布で覆い隠し、それを悟らせないようにたった一人でいる振りをしたのだろうと思った。

そして気付く。

「たった一人でお館様を護りながら、十二鬼月――上弦と戦ったんだね」

普通の鬼なら彼は難なく倒せただろう。彼が苦戦するとすれば、尋常でない力を持つ相手の時。

そして子供の上に隊士でない彼は、討伐を他の隊士に任せてお館様を連れて鬼から逃げる選択肢だってあった筈だ。

彼が僕に教えた様に本部へ烏を飛ばしてその場を離れることもできただろうに、何故自身が盾となって戦ったのか。

それは、お館様と二人きりの時に上弦と遭遇したからだ。

何故そんな状況になったのかはわからないが、彼の言葉を繋いでいけばわかる。

彼は当時の――正統派の柱達では十二鬼月に勝てないことに気付いていた。

ならば彼は救援要請で柱を呼ばない。そのうえ上弦なら一人呼んだところで無駄死にさせることがわかっているからだ。

「私にできたのは、夜明けまでの時間を稼ぐ事だけです。結果的にはその前に鬼が私への興味を失い、自ら去ったのですがね」

彼は護衛だ。だから彼の為すべきはお館様を護ることであり、決して鬼を倒すことではない。

上弦からは相手にもされなかったと彼は言うが、護衛として見事本懐を遂げたといえる。

結果的には確かにお館様の命を護ったのだが、そもそも何故お館様は彼と、子供二人きりで外へ出たのか。

なんだかわかってしまう。彼に向けただろう気持ちが。それはちょっと羨ましいくらいの、圧倒的な信頼だ。

 

子供の彼が護ったのが子供の頃のお館様なら、大人になった今の彼が護るのは何か。

その答えにも、もう気付いている。

全てだ。

彼の背後にある木々の一本一本が鬼殺隊員だとしたら、その木々を育むあの山こそがお館様だ。

ちょうど僕から見て山の前に立ちはだかるように見える彼が、あの山の守護者に見えた。

そう、守護者なのだ。彼は戦闘職のように苛烈に戦い鬼を倒すことで味方を護る人ではない。

それはまるで。

「霞みたいだ」

口を突いて出た言葉が映像として頭に浮かぶ。彼が山全体を覆い隠す霞となって敵から覆い隠すことで護る様子が。

人を鬼から護るのが鬼殺隊だとすれば、彼は鬼殺隊を護る隠だ。

隠とは元から使われている名称らしいが、まるで今の彼そのものではないか。

そして納得もする。

様々な呼吸の型を使う彼が、霞の型を特別だと言っていた。

前の霞柱の呼吸を戦闘中に見たのが理由だと言っていたけれど、それだけではないと思った。

彼が向いているのは霞の呼吸の型ではない。彼そのものが、霞のような存在ということ。

刀を振るえることを隠の隊服で覆い隠し、わざわざ見せなければその地位すらも気付かれずに、穏やかな声と微笑で煙に巻き本心を悟らせない。

まるで実体がないかのように掴みどころがなく――それでいて人の視界を奪い船を漂流させるほどの深淵に迷い込ませることのできる存在。

敵対すればこれほど戦いにくい相手はそういないだろう。

「僕が鬼じゃなくて良かったと思うよ」

そう言うと、彼が珍しく妙な笑みを浮かべた。

「君は鬼になりませんよ」

僕が鬼になったらその手で頸を斬って自分の腹を切ると言っていた彼だが、その時とは違う表情をしている。

「君は過去を覚えていなくても、鬼に対する怒りを知っています。正しい感情との付き合い方も理解した今、時透君が鬼になることはありませんよ」

静かで、穏やかな声。けれどその口元に浮かぶのは何故か、少し皮肉な笑み。

「逆なのです。鬼になっていたのかもしれないのは、私の方ですから」

そうならなくて良かったと思いますよ、と布を畳んでいる顔はもういつもの表情に戻っていた。

「えっ?どういうこと!?」

食事にしますよと言いながら縁側から屋敷に上がる彼の後を追って質問攻めにする。

「ねえ、何で!?何で鬼になってたかもしれないの?どうして?ねえ何で?」

 

食後のデザートに出されたアイスクリンを食べながら、彼からお館様の予見による鬼の新しい情報を得る為に二人で出掛けた話を聞いた。

そしてお館様は新しい情報を得てそれを鬼殺隊にもたらすところまで視ていたのだという。つまり自身が生還することまで知っていたのだ。

「二人きりで出たのは、当主である産屋敷家は柱を護衛にする習慣がなかったからです」

本音としては、うるさい大人が一緒だとその新しい情報を得られなくなるのが明らかだったからだと笑った。

「危ない橋を渡ったことは私もお館様も承知の上です。お蔭でそれだけの情報を得られました」

鬼は群れなくても同時に居合わせる可能性があること。

鬼は鬼同士で入れ替わりの血戦という地位争いで殺し合いをすること。

鬼舞辻無惨でなくても、上弦の鬼が新たな鬼を生み出せること。

一夜とは思えないその情報量に、お館様の予見の凄さを思い知らされる。

「つまりその時、鬼は複数居合わせたんだね」

「ええ。地位争いをしている下弦の二体と遭遇しました」

下弦の肆は入れ替わりを申し込むだけあって勢いがあり果敢に攻め、下弦の弐が防戦にまわっていたという。

肆が弐を倒したところで弐の頸を斬り、上位の鬼の打倒成功に興奮し油断している肆の頸を斬った。

「ほとんど私の出番はありませんでした。鬼同士で自滅したようなものです」

一体ずつと遭遇していたら勝てなかったと彼は笑うが、隙をついて二体の頸を斬ったのだからその戦果は偶然などではない。

そしてその入れ替わりの血戦に立ち会うつもりで現れた上弦の参。

「十二鬼月が、一夜で三体」

「そうです。その上弦の参こそが、新しい情報をもたらした鬼です」

何故か良く喋るその鬼が、彼に鬼になるよう誘ったという。

「誘われて、鬼になろうと思ったってこと?」

目の前にいる彼がまるで何でもない事かのようにあっさりと肯定する。

「ええ。もし私が鬼になったら、鬼の内部情報を持ち帰ることができるのではないかと思ってしまいましてね」

子供の浅知恵だと彼は笑うが、本気で考えたらしいことに心底驚く。

「鬼と人の違いは何か、鬼舞辻無惨の血はどのようにして人を鬼に変えるのか、――鬼とは、一体何なのか」

鬼は鬼ではないのかと尋ねると、彼は頷く。

「鬼は鬼、それも考え方の一つでしょう。ですが私は特別に諦めが悪いのかもしれません。今も考え続けています」

鬼になろうとしたことには驚いたが、理由を聞けば納得もする。

考え続けている、その言葉をとても彼らしいと思った。

僕に考え続けることを教えた彼も、ずっと考え続けている。

考え続けることで到達できるどこかで、いつか彼と肩を並べられるような気がした。

そんな気持ちで眠ったら、霞柱の彼に同行する隠になった夢を見た。

本音を言えば立場は逆が良かったのだけれど、彼に必要とされるのは嬉しいと思った。

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