「おや、今日は美しい朧月夜ですね。知っていますか?朧月は春の季語で、それ以外の季節はこのような月を薄月と呼ぶそうですよ」
雲に覆われ月の際が滲み、照らされた雲が虹のような淡い光を帯びる。
星は見えないが満月に近い月は明るく、彼の薄灰色の羽織を白く浮かび上がらせていた。
その腰には木刀でなく、色が変わらなかったあの日輪刀。
いつもの夜の鍛錬とは違い、油断すれば死ぬと言われた。
「今夜の私は血鬼術を使う鬼です。私が鬼になったら、呼吸の型を使い罠を多用する鬼になっていたでしょうからね」
笑っているが、本当に鬼になる機会のあった人が言うと洒落にならない。
本気で殺しにかかってくるよう言われて最初は戸惑っていたが、開始の声とともに横へ薙ぐ刀の勢いに手加減はなかった。
後ろに跳んでその刃を避けようとしたら縄に触れた。
その感触に驚いていると、見えない場所から微かな音がしたので慌てて避ける。竹矢だ。
崩れた体勢を立て直そうとしたところに、月の光を受けて白く光る日輪刀が襲い掛かる。
今の彼は鬼だ。本気でかからないと、本当に死ぬ。
覚悟が決まっても木立の中には多くの罠が仕掛けられていて、その仕掛けに気付くことができても彼の刃を避ける時は見落としてしまう。
二度目の落とし穴を踏み抜いた時は腕を伸ばして落ちるのを防ぎ、底の中央に突き立てられ槍のように尖らせた竹を避けた。
もう呼吸は乱さない。
全集中の呼吸を保ちながら高く飛んで木の枝に乗り、彼を迎え撃とうとするも見失ってしまった。
そして見えなかった場所からの静かな斬撃。
足場の枝を斬られて着地しながら、回避ばかりで攻撃できないもどかしさに苛立ち、思わず我を忘れそうになる。
かっとなればようやく見つけた彼への攻撃が単調なものになり、簡単に躱されてしまう。
このままではいけない。
握り締めた手を解くと深く息を吸って吐いた。
急に見えてくるものがある。
最初に気付いたのは、飛んできた竹矢の先端。
初めに射られた矢は木に当たって落ちたが、今の矢は木に刺さっている。
この木立には他に誰もいない。彼と僕の二人きりだ。隠が設置した弓矢は罠に張られた縄の振動で射る仕掛けだ。風がなくしっかりと固定されているから狙いにぶれはない。
だからその差は射られた角度ではない。鏃の有無だ。
落とし穴もそうだ。最初の穴には木の葉が敷き詰められ、次の穴には削った竹が中央に一本だけ。きっと次は穴に落ちたら最後、避けることもできないくらいの竹が突き出しているのだろう。
上がる危険性は意図的なものだ。
何故ならこの木立こそ、彼が人の身で使う血鬼術の罠なのだから。
隠に罠を設置させたのは彼だ。彼はこの設置の指示を出し、その全てを覚えているということ。
時折加えられる斬撃は彼による誘導。つまりこの罠から抜け出さなければ、彼との戦闘どころか罠の中で朝を迎えてしまう。
血鬼術から抜けられずに朝を迎えるのは、鬼を取り逃がすのと同義だ。
罠の危険度は上がる。この罠ごときで死ぬようならば、鬼にやられて死ぬのも時間の問題だと言わんばかりに。
観察しろ、見極めろ。そうしなければ先へ行けない。
今の彼は鬼。それも、この場を操る血鬼術を使う異能の鬼。
この罠からどうすれば脱出できる、どうすれば彼を出し抜ける、――あの鬼を、どうすれば倒せる。
空からの視界が欲しくても銀子はいない。
強い鬼に遭遇したことを想定し、本部への連絡で飛ばしていることにするため屋敷で丈夫な籠に入れられたからだ。
だから今は自分の感覚を高めるしかない。目を走らせ、耳を澄まし、呼吸を深く速いものにする。
姿は見えず音もしない。けれど彼がそこにいることに気付く。
刀を振るうと、黒い大風呂敷が取り払われ薄灰色の羽織が浮かび上がる。
月明りに目立つ羽織を目印に追っていたら見付けられない筈だ。もうあの大風呂敷は意味を成さない。
彼はそれを手早く仕舞うと刀を抜いた。
さきほどまでの迎撃だけでは辿り着けなかった距離だ。攻撃に回らなければ、いつまで経っても鬼を倒すことは出来ない。
壱ノ型の垂天遠霞を繰り出すと、今宵初めての金属音が響く。
僕の刀を刀で弾いた彼が、少し跳んで繰り出して来たのは弐ノ型、八重霞。
応戦される。それが、罠を脱した瞬間だった。
互いに枝の落ちた木の上から降りて向き合う。
雲が切れて差し込んだ月の光が、抜身の刀身を白く光らせていた。
白く見えるその刀身から繰り出されるのは霞の呼吸だけではない。炎、水、風、雷。そして一刀ながらも岩の呼吸を繰り出してくる。
彼の呼吸は変わらない。型の名を口にすることもない。だから次に何の呼吸のどの型がくるのかが読めない。
切っ先を下に刃を上に向けているからといって、昇り炎天とは限らない。風なら黒風烟嵐。いや違う、雷の熱界雷だ。
使える技の多さは次の攻撃の読み難さを、動きの素早さは躱し難さを。
更には彼の羽織の袖は腕の角度を隠し、幅のある袴は足の構えをわからなくする。
次の手を相手に悟らせずに切り込んでくる刀は容赦のないものだ。木刀ではない攻撃は僕の新しい隊服の袖を裂き裾を刻む。
誰が護衛で誰に力がないだって?
持っているのは木刀でなく研ぎ澄まされた日輪刀だ。触れただけでも斬れる刀でこれだけ戦えば鬼の頸も斬れる筈だ。
何故この人が柱じゃないのか。
今も耳のすぐそばで風を切る音がする。一瞬前まで僕が立っていたところを斬った音だ。
感情の見えない瞳で正確無比な攻撃をする様は鬼でも人でもない、まるで絡繰のようなある種の怖さを感じる。
息を呑んだ。
だから柱じゃない。だから真似事に過ぎない。
そう、彼の攻撃はあまりに正確過ぎているのだ――正統派の型に。
基本の呼吸の全てを使う彼には手札が多い。けれど、その中のどれを使うかがわかればもう避けることができる。
これが経験を持つ鬼の視点、これこそが正統派では強い鬼に勝てない理由。
避けられるだけではない、見えるようになるのだ。水の呼吸の流流舞いを使う彼が、次の瞬間どこに立つのか。
そこへ滑り込み斬り上げる。
肆ノ型移流斬りは、弾かれなかった。
「降参です」
手ごたえのない、切れた何かが僕の手を掠めるようにして落ちた。
僕の刀を後ろに避けようとして体勢を崩した彼が、地面に尻もちをついた姿で微笑んでいる。
切れたのは、彼の前髪。
西に沈みかけた月明りでも見えるくらいの傷が、彼の額に走っていた。
血は出ていない。今切れたのは髪の毛だけで、額にあるのは古傷らしい。
それまで必死で保っていた呼吸が乱れ、地面に膝をついた。
疲れましたねと笑っている彼も、その呼吸は乱れている。
彼が一つ大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。乱れていた呼吸が整い、立ち上がって刀を収めると手袋を外して袂にしまった。
そしてこちらへ手が差し伸べられる。
「実に良い攻撃でした。こちらの動きを読む目も、太刀筋もばっちりでしたよ」
彼に倣って深い呼吸をしてからその手を取り、立ち上がる。そして刀を収めてからもう一度彼を見た。
額の傷は斜めで、そして深く抉れたような跡まである。その歪さは刀によるものではない。
隠の隊服の時は頭を覆う布があり、隠の姿をしていない時はいつも前髪を下ろしていた。
この傷を隠す為だったのだろうか。
「ごめんなさい。前髪が……」
彼は微笑んだまま首を振った。その表情はいつもの穏やかさとも違う、とても優しいものだった。
「じきに夜が明けます。鬼殺隊にとって特別な朝日を、ともに迎えましょう」
跳躍し、屋敷の屋根に上る。
月が沈んだ後の暗い空の東が赤みを帯び、そして徐々に白み始める。
「必ず夜は明ける」
徐々に濃い霧が辺りを覆い、屋根から見る景色はまるで雲海の様だ。微笑み、それを眺める彼の横顔を見るうちに悲しみが溢れる。
「もう、終わりなの?」
僕の問いに彼はこちらを向いてから頷いた。
「君はもう、全ての型を身に付けましたから」
彼の姿が涙でぼやける。
「覚えて、いられないと思う」
声が震える。だからそばにいてよ。僕が忘れたら、またこうして教えてよ。言いたいことは言葉にならず、涙が零れ落ちる。
「そうならないために、身体で覚えたのでしょう?」
頬に触れるのは柔らかい掌。
「僕はすぐに忘れてしまうから……」
手拭いで涙を拭われ、その手が僕の頭に置かれる。
「君自身の霞の型は、私を忘れる事で完成します」
息を呑んだ。これまでずっと腹の底に燻っていた、彼を忘れてしまうという恐怖が目の前に現れてしまう。
「忘れたく、ないよ」
正統派に忠実すぎる彼の型を忘れることで鬼の初見となる型が完成するというのならば、型なんて完成しなくたっていい。
次から次へと溢れる涙が、拭かれたばかりの頬を濡らす。
「時透君。君の記憶は消滅したのではありません。日々の忙しさや突発的な衝撃でうっかり取り零してしまわないために、一番奥深くへ仕舞われただけです。君が忘れたのはその取り出し方に過ぎません」
あの秘密箱のように、ただ開き方を忘れてしまっただけだという。
「いつか君がそれを持ったままでも失くしてしまわない強さを手に入れた後、外からの刺激で思い出せるようになりますよ」
彼が僕の頭を撫でた。
「何故だかわかりませんが、こういう事は一人だけでは無理なのです。君は、誰にその刺激を受けるのでしょうね」
目を細めてこちらを見る彼に尋ねる。
「貴方じゃ、ないの?」
そうであれば忘れる心配なんていらなかった。今だってこうして泣かなくて良かった。
わかりきっているのに聞いてしまう自分はまだ彼を忘れることが怖い。
暗闇の中に差し伸べられる一本の手。それを離して独りぼっちになるのが、心の底から怖い。
「ええ。君の奥深くへ仕舞われた大切な記憶に、刀や戦いはありませんでした。鍵となるのはきっと、ささいな言葉だったり優しさだったりするのでしょうね」
微笑む彼の表情は優しい。
「貴方は、優しかったよ」
そう言うけれど彼は首を振った。
「本当に優しい人は、君をこの戦いに巻き込んだりしません」
彼は僕から視線を外すと、屋敷の向こうで霧に覆われて霞む山のほうを向いた。
零れた涙を手の甲で拭おうとして長い袖が擦れる。戦闘で破れかぶれになった袖は水を弾く素材だから涙を吸わず、ただ強く目元を擦っただけになった。
「また会える?僕が忘れてしまっても、怒ったりしない?」
こちらを向いた彼が再び僕の涙を拭い、ひとつひとつに頷いてくれる。
「怒りませんよ」
拭われるそばから零れ落ちる涙をもう一度袖で擦ってから、僕は意を決した。
「貴方の名前を教えて」
これまで何を聞いても教えてくれる彼に、唯一聞けなかったこと。聞いてもすぐに忘れてしまうのが怖かったから。
けれど彼は怒らないと言った。そんな約束がなくても彼は怒らないとは思うけれど、それでも忘れてしまう自分が嫌だったのだ。
「僕の記憶が戻ったら、必ず貴方の名前を呼ぶから」
微笑みと共に、ゆっくりと頷きを返された。
「私は様々な名前で仕事をしています。だから私の名前を聞いても意味はなかったのです」
隠が知らない、今の柱で知っている人もいないという彼の名前。
彼は立ち上がると僕の方を向いて膝をついた。
「私の本当の名前は産屋敷
お館様と同じ姿で影を務め護衛をして鬼を倒した――妹。
「産屋敷、燿哉」
口の中で何度もつぶやく。
「この額の傷は鬼と戦った翌朝、ちょっとした事故で負ったものです。護衛を引退するきっかけのひとつにもなりました」
僕が刀で前髪を斬ってしまったせいで露わになっている傷を、指で示して微笑む。
「元々は護衛というより身代わりでしてね、兄と良く似た名前で同じ格好をした攪乱要員です。襲われた時に兄の振りをして兄の代わりに死ぬのが私の役割でした」
同じ姿をしていても額の傷の有無で見分けが付いてしまう。そのための引退なのだろう。
女の子がお兄さんと同じ格好をして、何かあったらお兄さんの身代わりになって死ぬつもりでいた。
鬼殺隊の当主が大事だというのは教わったからわかるけれど、それにしても子供の頃からそんな悲壮な覚悟で暮らしていただなんて。
紙飛行機のことを知らなくて、刀や戦闘を常に身近に感じていた人。きっと僕の忘れてしまった過去とは大きく違う子供時代だったのだろう。
「襲ってくるのが鬼だと気付いて刀を振るう力を身に付けましたが、所詮は子供の力です。十二鬼月と遭遇した夜に私は死ぬ覚悟をしていました」
けれど生き残った。そして額の傷を負って護衛から外れた。
「ですからこの傷は、身代わりではない自分自身に生まれ変わった証なのですよ」
この人は女の人だ。なのに今も自分自身といいつつ男の人の、書生のような恰好をしている。
基本の呼吸の正統派の型をすべて振るい、諦めが悪く考え続け、護衛から隠になった人。
この人の本当の姿は、いったいどんなものなのだろう。
産屋敷の姓は流石に鬼殺隊で名乗ることはないだろう。燿哉という男の人の名前を名乗っているとも思えない。
他に使い分けている様々な名前というのも、便宜上で使っている名前のような気がした。
「貴方を、何て呼んだらいいかな」
彼の目が少し大きく見開かれた後、楽しげに細められた。
「私の事は、テルと」
しっくりきた。きっとこれが、この人が自分を表す名前なのだろう。
「テルさん。また、会えるかな」
勿論と明るく頷きが返された。
それから真面目な表情をしたテルさんが、僕の肩に手を置いた。
「時透君、君には力があります。だからまずは柱になるのでしょうけれど、私は君に健やかに成長して大人になって欲しい。そしていつか、鬼のいない世界での暮らしを、普通の幸せを、君には知って欲しいのです」
穏やかな声。ずっと聞いていたいと思っていた、いつもの声。
僕は知っている。この人の、本当の姿を。
甘いものが好きで、紙飛行機を喜んで、そして。
戦う者ではない、柔らかな掌をした人。
そうだ。
この人は、鬼のいない世界を思い描ける人。
霧が晴れて春の日が差す。
木立が、そして向こうの山が、その全貌を露わにするのが見えた。
通ってくる隠の人が炊事を始めた音と香りがする。
屋根から降りて、籠から銀子を出すと大きな声で叫び出した。
「一体ウチノ子ニ何ヲシタノヨ!」
僕の袖や裾の破れを心配した銀子が叫びまくり、怪我はしていないと伝えても小さなかすり傷を見付けては怒りまくった。
それぞれ風呂に入って汗を流した後で、テルさんがちょっと染みる傷薬を塗ってくれる。
食事の時に夜の鍛錬の話をして、歯磨きをして。
そしていつものように布団に入る。
隣の布団に入った姿を見て、今更だけど女の人だということに気付いてちょっと照れて、でも最後だからとお願いしてみる。
「手を、繋いでもいい?」
拒まれることはなかった。
届かなかったので離れている布団をくっつけて、そして手を繋いだ。
「おやすみなさい」
目を閉じて訪れるのは星一つない暗闇。
僕を導くのは一本の手の感触だけ。
一人じゃない、まだ。
次に目が覚める時も、その次もずっと、同じ日々が続けばいいのに。