後藤という隠――いや、先輩の指導を受けて、隠になる訓練を受ける。
隠になってしまえば剣士の時の階級は関係ないし、俺と原田が年上だと知っても容赦などない。
彼の態度はいっそ清々しい程のもので、階級に固執したことで過ちを犯した俺達の目を覚ますには丁度良かった。
隠とは何か。
これまで隠が戦闘前の補助や後処理を担っているのは知っていた。
しかし今回初めて隠というものについて真剣に考えたことで、隠に所属する者を個人として認識していなかったのだと気付いた。
任務に必要な物を手配する者、情報を運ぶ者、戦闘の後始末をする者、怪我人の救助と遺体の回収を行う者。
目元以外を覆い隠している姿を見て、隠だとしか思わなかった。それ以上を意識したことなどない。
他の者につけられた鎹烏と同じくらいに無関心だった。
隠の装束に視線をやっても、唯一露わになっている目元で個人を見分けようとしたことがない。
だから本部との伝達のやり取りはあってもそれ以上の言葉を個人的に交わしたことがない。ましてや名前を聞くはずもない。
名乗られたのは、後藤氏が初めてだ。
俺達の指導役を任されたからなのかもしれないが、自分から名乗った後藤氏を見て責任者は笑っていた。
そう、あの方は自らの階級を明かされたが、それでも俺達に名乗ることはなかった。
驚いたことに後藤氏も名前を知らないという。あの方の階級を見たのはもちろん、そのような階級があることも初めて知ったそうだ。
手の甲に刻まれた階級は十干を超えた存在であるというのに、その意味は剣士の柱と随分違うらしい。
「いやまあ、隠ってそういうもんだからな」
数名の目立つ者は顔を覆っていてもわかるらしいが、基本的に隠は隠同士でしか名乗り合わないという。
「剣士の死亡を遺族に伝えることもあれば、隊士本人に階級が下がるのを伝えることもある。任務で恨まれることは多いさ」
剣士の死を伝える時など、それを安全な場所からただ見ていたのかと罵られるのはまだいいほうで、殴られたこともあるらしい。
隠は同じ鬼殺隊に所属していても軽んじられる。戦闘に加わる剣士と違って、ぬるい身分だと思われている。
――軽んじていた。そう思っていた。あの方に負けるまでは。
なにしろあの方に出会ったのは、柱への昇格を却下されたことによる苦情だ。
いや、苦情なんてものではない。責任者を出せと怒鳴り散らし、胸倉を掴んで脅した。
思い出したのは同じことだろう。隣で原田が俯き、握り締めた拳を震わせていた。
「鬼殺隊といっても剣士と隠は同じじゃない」
重い沈黙を破ったのは後藤氏だった。
そうして彼は、隠になるための方法について話し始めた。
隠も剣士と同じで、家族を鬼に殺された者がほとんどだ。
たとえ非戦闘員だとしても、鬼殺隊を支える藤の家の一員になるのではなく隠に入るのは、寺の檀家になるのと出家するくらいには差がある。
市井の暮らしを捨てるのだから。
昔は親を鬼に殺された孤児を片っ端から鬼殺隊に入れて剣士か隠にしていたらしいが、今は違う。
孤児達は、そういう子供の預かりを行う藤の家で心身の傷を癒した後、一般の家へ貰われていくことの方が多い。
鬼殺隊に入るのは、心の痛みを癒すことなく鬼への怒りに変え、その怒りを鬼への滅殺に向けた者だけだ。
そうして孤児の一部が育手を介して鬼殺隊への道を拓く。
鬼殺隊の中でも鬼を倒す剣士ではなく、隠を目指す理由はそれぞれだ。
剣士を望んだものの、育手によってその適性なしとみなされた者。
襲われた時の恐怖を忘れられず、戦闘職を望めなかった者。
鬼の後処理に家へ訪れた隠の働きを見たことで、自分を入れてくれと望んだ者も多い。
剣士を目指して育手に託される孤児より、隠を目指して育てに託される孤児の方が、年齢が高いのも特徴である。
今は戦国時代ではない。だから剣を一から始めるとなれば年齢が高い者ほど剣士になるのは困難なのだ。
そうした隠候補達もまた、選別を受ける。
戦闘力の有無を問われる剣士の選別とは違い、隠の場合は安全に暮らせる市井の暮らしを捨てる覚悟の有無を問われるものだ。
だから隠を目指す者と剣士を目指す者では選別の難易度が違う。
藤襲山で七日間を生き残るという突破条件こそ同じだが、隠候補者のために行われる選別に用意される鬼は極端に少ない。
剣技を教わり鬼を討伐して生還を目指す剣士とは違い、借り物の日輪刀さえ持たずに参加してただひたすらに逃げ隠れすることで七日間を過ごす。
そのため剣士の選別を突破した者が隠になることはできるが、隠の選別を突破した者が剣士になるにはもう一度選別を受ける必要がある。
候補者たちが隠の育手から選別前に仕込まれるのは、ひたすらの走り込みと息を潜めて隠れること。
隠の任務は戦闘の後処理が多い。
鬼の出没が人目のない山奥なら朝になって後処理をすればよいが、市街地だとそうはいかない。
夜のうちに行う後処理には危険が伴う。更には不幸にも剣士の死んだ現場では、まだ鬼が残っている可能性すらあるのだ。
だからこそ鬼を倒せずとも己の身を守る術がそれなりに必要なのである。
そのうえ配属によっては荷物だけでなく筋肉質で大柄な剣士を背負って走ることもあるから、業務の合間に鍛錬も行っている。
そう。隠は戦闘職でなくとも、決して一般人ではない。それでもなお、隠の側にも思うところはあるらしい。
「隠ってのは選別で生き残ったが、正直――生き残っただけって奴がほとんどだ」
だから隠の方も劣等感のような、剣士になれなかった自分を卑下する気持ちがどこかにあるという。
後藤氏はあの責任者から次の階級に進む頃だと言われていた。そんな彼ですら今も燻る気持ちがあるのかと驚く。
驚く俺達を見た彼が、少し眉を下げて零した。
「そりゃあ俺だって、鬼を倒せるようになりたかったさ。自分の手で、家族の仇を討ちたかったよ」
その気持ちがあるからこそ、戦闘職でないにもかかわらず命の危険があるこの任務を辞めずに続けているのだろう。
「最近ではあの方――、まさか責任者だとは思わなかったんだが、あの方が拾ってきたそれ以外の者もいる」
剣士だったが怪我の後遺症で戦闘に向かなくなった者の採用が増え、最近では選別を突破していない者の採用も始まっているという。
「特殊任務の事は正直よくわからない。俺はバスを運転できるようになれって言われたんだが、車の整備の資格を取らされてた奴もいたな」
後輩の永野の事を思い出す。
復学して来春卒業しろと言われていた。大学へ行くくらいだから、良い家の坊ちゃんだったのかもしれない。
先ほどの後藤氏の話を振り返れば、いかに永野が特殊だったかがわかる。
二十歳を過ぎた年齢で鬼殺隊に入ったにもかかわらず選別を突破できたのは、彼が剣道部でかなりの腕前を持っていたからなのだろう。
半年もの間一緒にいたつもりだったが、鬼殺隊に入る前の話をしたことがなかった。
それなのにあの方は、突破してまだ半年の永野の事を知っていた。
鳥肌が立った。鬼を前にした時とはまた違う恐怖だ。
「あの方は、一体どこを見ておられるのでしょうね」
緊張が喉を絞り、小さな掠れた声になった。
後藤氏に話した。
隠に配属された経緯とあの日の事。後藤氏が合流する前の、全てを。
勝負に破れ、裁かれ、そして柱と鬼殺隊の改革に関する話を聞いたこと。
後で時計を見たら、あの方と共にしたのは小一時間程度の僅かな時間だった。
鬼を家族に殺され鬼殺隊に入って五年。その五年が、その僅かな時間でひっくり返った。
息を詰めたような妙な顔をして俺の話を聞いていた後藤氏は、聞き終わった後で長い息をついた。
「アンタ達があの方と木刀でやり合ったって話は他の奴から聞いていたんだが、そんな話をしていたんだな」
木下と宮本が柱への同行を命じられ、永野が隠に引き抜かれた時にはまだ周りに他の隠がいた。
しかし敷物に座って茶と菓子が運ばれてからは全てが蔵に退いた。他の隠が来たのは、呼ばれてあの方の刀を持ってきた時だけだ。
だから後藤氏が免許取得の報告に来るまで、あの方の話を聞いていたのは三人。
俺と原田、そしてあの方から霞の呼吸を教わっていると言っていた剣士の子供。
彼はいつか、あの方の言われる強い柱になる人材なのかもしれない。
後藤氏の教えを受けた後は護衛の任務につく原田と別れ、岩柱につく隠の指導を受けた。
その隠は名乗らず、そして隠らしく支援に徹する人だった。剣士の経験はないが、身体の鍛え方は剣士に劣らないものだ。
鬼殺隊に入る前は空手の経験があったという言葉に納得するほどの身体つきである。
巨大な岩柱が全力で走っても、付いて行く俊足も持ち合わせている。
それほどの身体の持ち主だが、どうしても剣を使う戦闘に馴染めず隠への道を目指したらしい。
岩柱につくよう命じられて五年。
盲目の岩柱は戦闘こそ支障がないものの、手紙の授受には問題がある。
極秘の指令を烏に喋らせる訳にはいかないし、下の隊士や隠との連絡で順番に喋らせるために烏を待機させる訳にもいかない。
手紙を読み、捌き、必要な物だけを岩柱に伝え、返事を書く。そういう補助を彼は担っていた。
日輪刀を使えないから鬼を倒すことはできないにしろ、鬼の攻撃を躱し自分の身を守ることには長けている。
あの彼の働きを、自分は求められているのだ。
俺はどの柱につけられるのだろう。そう思う間もなく、夜半に見知らぬ烏の持ってきた手紙で呼び出された。
向かったのは市街地の中にある隠の拠点のひとつ。
表から見れば畳屋の倉庫にしか見えないが、これは市街地の拠点ならではの事情である。
屋内で鬼の被害にあった家は血まみれの凄惨な状態になる。その家を夜のうちに畳を変え襖と障子を変え、元に戻す必要があるからだ。
だから市街地の拠点は畳屋や建具屋が多い。
明かりを付けない倉庫に忍び込み、奥へ向かうと座敷の間は明るい。
招かれてその隠の向かいに座ると、茶と菓子を出される。
鬼殺隊らしからぬその様子で相手に思い至り、慌てて頭を下げた。
「君の報告は聞いていますよ。頑張っているそうですね」
顔を上げるように言われ意を決して顔を上げると、そこには眼鏡をかけた隠の姿があった。
思っていた人の、記憶のままの穏やかな声。
その声が、俺の名を呼ぶ。
「藤原君。君には、新しく甲の階級に上がったばかりの剣士について貰います」
現在就任する柱につくという予想が、いきなり外れた。
かつて剣士として甲の階級にいた俺が、新しく甲になった剣士の補佐。
昔の俺ならば、反発していた筈だ。けれどその声に逆らう気持ちは欠片もなかった。
この方は俺を柱につく隠にすると言われた。ということは、その甲の剣士はいずれ柱になる実力者なのだろう。
「承知しました」
彼の伸ばした指が、烏を撫でる。
ああ、釦だ。
柱と違い、その地位を感じさせなかった理由に気付く。
彼が着ている隠の隊服は、柱と違って釦の色が一般の隠である俺と同じだ。
そして数名の隠と身近に接した今なら気付くことがもうひとつある。
手袋をしている。
日に焼けた農家の手、皺が多く細い老人の手、ふくよかで小さな子供の手。
同じ隠の中でも、剣だこのある自分や拳だこのある岩柱付きの隠と違って縫製係の手は柔いが染料の跡が残っている。
手というのは、思った以上にその人となりを表す。
彼は隠の隊服を着て手袋をつけているのでそれさえわからず、目元以外の全てが隠された姿をしている。
だから彼が表に出している特徴は、その目元と声だけしかない。
口調こそ丁寧だが、相手を従わせることのできる不思議な声。
「君がつく剣士には、補佐を必要とする事情があります」
頷く。岩柱の悲鳴嶼様の隠につくよう言われたのは、もとよりそのつもりだったのだろう。
「彼は大変若くして剣技に秀で、実力も十分にあるのですが、記憶を保持できない状態にあります」
記憶?
声に出すことを抑えたつもりが、顔――といっても俺も目元しか出ていないのだが、そこに出ていたらしい。
「人の身体は良く出来ていましてね。身体に害を与えるほどの辛い記憶は、思い出せないように封印しまう機能があるのですよ」
鬼殺隊に所属する者は、剣士でも隠でも鬼に家族を殺された者がほとんどだ。
鬼に家族を喰われるところを目にした者も多い。
孤児になり藤の家に引き取られた後も、心の痛みを癒すことなく鬼への怒りに変え、その怒りを鬼への滅殺に向けた者が鬼殺隊へ入る。
癒されない心の傷を封印してしまった剣士は、どんな力で鬼に立ち向かうのだろう。
「彼は過去を覚えていなくても、鬼に対する怒りを知っています」
だから大丈夫だと彼が言った。ならばきっと、大丈夫なのだろう。
「ところで藤原君。君は、人に優しくするために必要な物が、何かわかりますか?」
考えてわからないと答えると、彼は烏を撫でる指を止めた。
「それは、余裕です」
手袋をした片方の掌を上にして開くと彼が話し始めた。
ここにひとつの握り飯がある。目の前に飢えた人がいれば、差し出そうと思うだろう。
片方の手をこちらへ差し出されて頷く。
けれど自分が極度に飢えている場合は、同じように差し出せるだろうか。
飢えているのが自分だけならまだしも、飢えて死にかかっている己の子に渡すための握り飯を、目の前の相手に差し出せるだろうか。
時間も同じだ。
平時なら受ける容易な頼み事を、急いで必死に走っているまさにその時、その時間を割いてまで引き受けることができるだろうか。
できない。
無い袖は振れないのだ。
心もまた同じだという。
「彼は自分が記憶を保持できないことを自覚しています」
いっそのこと何も考えなければ楽になれるのかもしれないが、彼には正常な思考力がある。
だからこそ忘れてしまうことが大きな不安をもたらすだろう。
身体で覚えなければならないと鍛錬に励み過ぎるのは、不安が尽きないから。
「尽きない不安から余裕のない彼は、自分のことで精一杯です」
記憶が保持できないといういわば致命的な欠点をもって余りある実力が彼を甲の地位につけた。
「君の事を覚えることを諦め、君の事を思いやる余裕もないでしょう」
信頼で結ばれていた悲鳴嶼様と隠の二人とは、随分違う関係になるのだろう。
それでもこの方の選んだ、強い柱になるべき剣士だ。
一方的で厳しい関係になるだろう覚悟を決めると、こちらを見ている目が微笑むように細められた。
「どうか君は、彼に余裕を持って接してください」
平伏して承知を伝えると、羽音がした。
「君には、私が育てた鎹烏を預けましょう。よろしく頼みますね」
顔を上げると、もうそこには気配がなかった。
代わりに畳の上には烏と、あの試合の時から戻ってこなかった刀が置かれていた。
翌日、鳴柱の月命日に墓参りをしていると、そこでかつての仲間の一人に会って近況を話した。
話が終わると、烏が俺を導く。
「貴方がつく剣士のもとへ案内します」
他の烏と違い、片言ではなく人と遜色ない口調で話す。
烏の導きで訪れた屋敷へ向かうと、そこには任務へ向う準備が整ったばかりの剣士がいた。
着任の挨拶をするこちらを興味無さそうに一瞥した後で、そう、とだけ言った。
知っている。
あの試合の後で音柱の任務へ同行した木下から聞いた。
初任務で鬼を討伐した後、救援要請に応じて下弦の陸を討伐した天才。
この人が、強い柱になる剣士。
「行こう、銀子」
銀子と呼ばれた烏が剣士の肩から勢いよく飛び立つと、それを追って剣士が跳躍した。
そうして俺は、時透無一郎様に付く隠となった。