良い香りに目を覚ますと、彼が夕食をよそっているのが見える。
こちらを振り向いた顔を見て安堵の息をついた。忘れてはいない――まだ。
鼻から息を吸って、口から強く息を吐きだす。
覚えている。維持できている。身体が、この呼吸を習得しようとしている。
椀によそわれた味噌汁を運びながら、その香りを纏う空気を大きく吸って盆を置く。
向かい合って食べる食事は軽いものだがとても美味しく、話しながら食べることが楽しかった。
その後は一緒に残ったご飯を握り飯にして包み、水筒を淹れた茶で満たした。
明かりを消してから屋敷を出る。
庭は月明りに照らされて視界は良い筈なのに、向かい合う彼の身体が霞んで見えた。
「これが、霞の呼吸……」
壱の型から最後の陸の型まで一通り見せた後で、次は右隣に立つと少しだけ速度を落とした状態で全ての型を見せてくれる。
そうすると一度目で霞のようにぼんやりと白く光って見えていたのが、月明りで光る刀が高速で動く残像だと気付いた。
鳥肌が立つような興奮を覚えるのに、そこに一切の怖さはない。
太刀筋をわかりやすく見せるようにゆっくりと振るってはいても真剣である。鋭く光る真剣の帯びる凄味は確かに感じる。
けれどそれよりはるかに強く感じるのは、習得したいという思い。
いや、思いなんて生易しいものではない。腹の底から湧き上がる様な、焦がすような。自分にあったことを驚くほどの渇望。
昼に教わった呼吸を使いながら刀を動かし、下半身の動きを連動させていく。
もっと速く、もっと鋭く。
何度繰り返した頃だろうか。真似事ではあっても、どうにか全ての型を一通り振れるようになったところで腹が鳴った。
汲んでおいた水で手を洗うと、縁側に並んで腰かけて月を見ながら握り飯を食べる。
いつと比べて良いのかわからないけれど、明らかに今までと違う力を身に付けた気がした。
まだ真似しかできなくても、たとえ頭で覚えられなくても、いつか身体で覚えてみせる。
身長が伸びたら、長い手足で動けるようになったら。もっと強くなれるだろうか。
最後の一口を食べてから両腕を空に向けて伸ばして、地面に僅かに届かない脚をぶらつかせる。
隣で食べ終わった彼は縁側に腰掛けた脚が地面についているのを羨ましく思い、そして違和感に気付いた。
「脚絆を使わないの?」
股で分かれた馬乗袴を履く彼の足元は足袋に草履。他の隊士と違って無防備にも思える装備だ。
すると彼は縁側から降りると月明りを背にこちらへ向いた。両腕を広げると小袖が微かな風を孕む。
「私は鬼殺隊の中では小さい方と言えるでしょう」
一般的には普通の身長なのだろうが、確かに大柄な者の多い隊士に比べればその体格は見劣りしてしまうかもしれない。
「だからこそ、工夫しなくてはなりませんでした」
彼は懐から出した紐でたすき掛けにしてから壱の型を振って見せた。
先程と同じ動きをしているのに、その動きはより腕の位置が解り易く、その後の予測ができるように思った。
「明日からは私も君と同じ様に隊服を着て行いましょう。隠の隊服ですがね」
自分の身体を見る。
支給された隊服は腕の形に添う形状の袖をした洋装の上着に対し、乗馬袴に脚絆をつけた和洋折衷の服装である。
足元は靴も草履も支給され本人の好みや天候で使い分けるらしいがいつも草履だ。靴はどこかへ行ってしまった。
そして自分と彼を見比べて気付いたことはもう一つあった。
「手袋……」
日輪刀を持つ彼の手はざらついた素材の手袋をしている。
指摘を受けて気付いたように彼は刀を納めると、両手を開きその手元を見せた。
「本来なら素手の方が良いと思いますよ。手というのは良く出来たもので、良く鍛えた掌は固く強くなりますから」
手袋を外してその手を洗い、手拭いで拭う。
「別な事情もあってつけていますが、私に足りない握力を補う役割も果たしています」
開いた掌は柔く繊細で指も細く、とても戦う者の手には見えなかった。
「別な事情?」
「ええ、――今は手や指先の感覚を鈍らせたくないのが主な理由です」
つまり昔は違う理由があったということだろう。
それにしても彼は、これまで出会った中で一番強いと思った。
最初に刀を教えた誰かよりも、選別の時に山で出会っただろう鬼より、その時一緒だった者達より。
選別の後に預けられた先で数名の隊士と暮らす生活が始まったが、そこにいた大人達やその指導者よりもずっと。
目の前の彼は、別格。
出会った時に抱いた不思議だと思った理由が解ったのは、昼に呼吸を教わったからだ。
呼吸が違う。使い方が全然違う。刀を振るう時の呼吸と座学の時の呼吸が同じなのだ。
「これが、常中……」
強く吸い、強く吐く。言葉にすればただそれだけのことだが、上手く出来ないと咳き込んで苦しい。
そういえば自分が預けられた場所の隊士達は何と言っていただろうか。
彼等は刀を振るうその時に強く息を吸って吐いていた。それが強い者のする呼吸だと言っていなかったか。
彼は違う。普段から強く吸って吐いているからこそ、刀を振るう時も同じ呼吸をしているだけに過ぎない。
とても強いと感じるのに怖さを感じないのは、昼間の彼と変わらないから。
闘気を露わに大声で叫んでいた誰かと違い、刀を持つ手に無駄な力みや強張りがない。
強く力を入れて握る時と、刀身の向きを変える為に手首の力を抜いて返す時。
足の運びもそうだが緩急の切り替えが巧みなのだ。
だから動きが早い。
こちらが考え事をしている間に屋敷から持ってきた脚絆を巻いたらしい。
続きを促されて刀を手にしたところで、彼の振る刀がより解り易くなる。
たすき掛けにしたことで腕の動きが露わになり、脚絆を巻いたことで足さばきが明らかになる。
改めて壱の型から陸の型まで見せて貰ってから真似ると、明らかに精度が上がったのを感じた。
何度繰り返した後だろう。随分と疲れた筈なのに、呼吸が急に楽になった。
「いいですね。呼吸も上手くできていますよ」
呼吸が上手く気道を通れば、素早い動きが苦でなくなる。苦でなくなれば呼吸をもっと太く出来る。
空気を取り込める量が増えれば活動量が飛躍的に伸びる。その手ごたえを得られた。
「それではここで踏み込んで跳躍しましょう」
走りながら真似をして真上に跳躍すると屋根の上に乗った。
「見えますか?東の空が白んできました」
今日はここまでと微笑まれ、そのまま二人で朝日が昇るのを並んで見た。
「鬼殺隊にとって朝日とは特別な存在です」
どんなに苦しい時が続いていても、どんなに辛い戦いが続いていても。
夏の蒸し暑く息苦しい短い夜も、冬の肺が凍るように冷たく長い夜も。
「必ず夜は明ける」
穏やかな声に不似合な程、東の空を見つめる視線は強かった。
「さあ、風呂と食事が待っていますよ」
屋敷からは湯気が上がり、通いの者が風呂と食事の支度をしてくれているのがわかった。
汗を流して食事をして、少し話して歯磨きをして。寝るよう促されたところで、ねだってみる。
「一緒の部屋で眠ってもいい?」
彼は少し困ったように微笑んでから頷き廊下に声を掛け布団の移動を頼んでくれた。
仮眠の後で彼を覚えていたことに強く安堵した気持ちが、今度は強い不安になる。
眠るのは好きだ。けれど長く眠ることで、今日覚えたことを忘れるのが怖い。
「この屋敷で君は、何も遠慮する必要はありません。ここでの全ては、君の成長の為に」