産屋敷邸の座敷で当主と向かい合せに座った者は伏したまま、顔を上げない。
「無一郎がね、あっという間に選別を突破してしまった」
初めて刀を握ってからまだ二週間だよ、と当主が笑う。
「日輪刀が白に変わった。だから君に、育手をして欲しいと思っている」
育手は鬼殺隊の中でも階級の高い者が引退して後継を育てる場合に使われる地位だ。
階級が低すぎたり、そもそも鬼殺隊の剣士でない者は教育係になっても育手とは呼ばない。
霞は現在柱と甲の階級こそ不在だが、乙以下ならいないこともない。正式な育手の地位の者も二人はいる。
しかし当主がそれをわかった上で命じているのは明らかだった。
「ここにはあと一週間と少し居られるのだろう?その期間だけで構わない」
断ることを想定しない命令。
「君しかいないんだ。よろしく頼むよ――
「御意」
答えたのは、知らぬ者が聞けば同じ声だ。
命に応じて上げた顔は、当主と鏡を合わせたかのように同じもので、違いはそこに呪いの
しかし顔が似ている事にも気付かない程、その様相はまるで違う。
額を出して肩につく長い髪で和装をした耀哉と、丸眼鏡にかかる前髪を下ろした短髪でモダンな洋装をした燿哉。
顔も背格好も良く似た彼等は、耀哉が十三歳を迎えるまで揃いの女童の恰好をしていた。
ただし、双子ではない。
産屋敷家の者は代々虚弱で短命である。三十歳を越えて生きた者は一人もいない。
現当主である耀哉もそれは同じで、顔は既に呪いの爛れが半分を占め、目は片目が僅かに光を捉えるだけになった。
それでも歴代の当主に比べればまだ不幸とは言えない。
何故なら父は十三歳で耀哉が結婚するまではどうにか生きてくれたからだ。享年二十八歳、当主の中で最も長命だった。
幼くして父を失い、柱や隠の教えを受けつつ指揮を執らねばならない当主に比べれば長い親子の時間を得られた方なのである。
しかし幸せな子供時代だったかと問われたら、それはどうかと言わざるを得ない。
耀哉には、二つ下の妹がいた。
よく似た顔をしたきょうだいとはいえ女児だ。後継は男児と決まっているから、妹はその補佐役である。
兄妹の仲は良かったが揃って虚弱な身体だった。よく熱を出しては寝込み、興奮すれば脈を狂わせ、何度も生死の境を彷徨うほどだ。
そんな子供達に父はとても厳しかった。生きているうちに伝えられることを最大限伝えなければならなかったからだ。
補佐役としてだけでなくもしもの時に備えて同じ教えを受ける妹は二歳下だったが、決して手加減などされなかった。
父の厳しい教えを投げ出さずにいられたのは、隣に妹がいたからだ。
だから我慢できた。辛くても頑張ることができた。
頼れる兄でありたかった。妹を守れる兄になりたかった。
ある頃を境に妹の体調が安定し出した。何を始めたのかと聞くと、呼吸だと言う。
まだ五歳の幼児だ。拙い語彙力で懸命に説明するが、聞き手も七歳の子供である。
どうにか理解できたのは、強そうな人の呼吸を真似したということだった。
屋敷にいるのは両親と身の回りを世話する隠で、たまに出入りするのも柱くらいだ。
どうやら柱の使う呼吸が皆と違うことに気付いて真似たのだという。
妹は耳が良いのだろう。耀哉にはその違いがわからなかった。
寝込むたびに優しく看病してくれていた母がどこかおかしくなったのは、その後しばらくしてからだと思う。
父に怒鳴ることが増え、やがて妹に厳しくあたるようになった。
最初こそ父は母をなだめて妹を庇っていたが、なにしろ体力がないので庇い切れない。
親子の仲は、それから随分変わってしまった。
母の変貌の理由を知ったのはもう少し大きくなってからだ。
「どうしてあの子まで死ぬの。あの子はあんなに元気なのに!」
当主を継ぐ定めの耀哉と違い、妹は呪われた産屋敷家から出せば長く生きられるのではないかと一縷の望みを抱いていたらしい。
子の健康は夭逝しないためには重要だが、長生きできない運命に変わりはない。
遠くない先に夫が死ぬだけでなく自分より先に子が死ぬ運命を、母は受け入れられなかったのだろう。
諦められた側の子である耀哉はそれを悲しいとは思わなかった。むしろ同じ気持ちだった。
今あれほど元気にしている妹が早く死ぬなど、一体どうして信じられようか。
妹を家から出すよう父へ強く主張していた母は、既に心を病んでいたのだと思う。
辛くあたることで妹を家から追い出そうとする姿は夜叉のようだが、その本心を知れば父が強く言えない気持ちもわかった。
当主の妻は御内儀様と呼ばれ、当主の体調が悪い時は代理を務めることもある立場だ。
隠は勿論のこと、柱の皆も表立って妹を庇うことは憚られた。
やがて母は女性特有のヒステリーと片付けられ、屋敷の奥に隠されることが増えた。
日々弱っていく父と、日々不安定になっていく母。
当時の柱は皆、妹に同情的だった。だから妹が何かをねだると叶えてくれる。そしてそれは意外な願いだった。
呼吸の型を見せて欲しい。
入れ替わり立ち替わりで任務を終えて報告に来る彼等は、妹がねだると全ての型を見せてくれた。
父もこれまで間近で見たことはなかったらしく、珍しく浮き立つのが伝わってきた。
父の身体を妹と両側から支えて縁側に座らせたところで、庭に立つ柱が刀を振るう。
実戦とは違うのかもしれないが、丁寧に振られる型は美しく舞の様に思えた。
水がないのに飛沫が跳ね、風もないのに砂塵が吹き上げ、そこにないはずの岩が聳え立ち、晴れた庭に雷鳴が轟き、明るい庭が霞に包まれた。
最後に来たのは炎柱だった。
彼は奥義までの全ての型を振り終えた後、縁側にいる父や耀哉と違い間近で見ていた妹を見て妙な顔をした。
「その呼吸を、どこで覚えられましたか?」
それをきっかけに、柱の中で唯一の家庭持ちでもある炎柱が妹に刀を教えることになった。
教わったのは一年くらいだろうか。
妹よりも一つ下の嫡子がいる炎柱は、任務のない在宅時に限るとはいえ意外なほど熱心に教えてくれたらしい。
生まれた頃から木刀を握って育つという嫡子の隣で、基本の教えを受ける妹の姿を見たことはない。
全てを知るのは炎柱と出産を終えたばかりの奥方だけで、まだ幼い嫡子には妹の素性を説明できなかったらしい。
隠のように頭部を目元以外隠して稽古着を着た妹のことを嫡子がどう思っていたのか知らないし、今は柱となった杏寿郎にも聞いた事はない。
ただ――妹は父の教えを守って感情を抑制していたが、煉獄邸へ行くのを密かに楽しみにしていたのを覚えている。
表情には出さない。両親はもちろん身の回りの世話をしてくれる隠の誰も気付いていない。いつもそばにいる耀哉だけが僅かに気付く程度。
ある日、出掛けようとする時に偶然廊下ですれ違った。
「楽しんでおいで」
そう声をかけたら振り向いた妹が笑みを浮かべて頷いた。
父の厳しい教えを受けるようになってからは見たことのない、子供らしい満面の笑顔だった。
炎柱から基礎的な剣術を教わった後の妹は、空いた時間に屋敷の庭で一人木刀を振るようになった。
やがて妹が耀哉に見せてくれたのは、前に見た炎、水、風、岩、雷、そして霞と、当時在位する柱が見せてくれた全ての型を正確に再現したものであった。
羨ましかった。けれどそれ以上に、身体の脆弱さを克服した妹が誇らしかった。
だからこそここまで出来るのを隠しておくのは惜しい。そう思って耀哉は父に伝えた。
父には珍しく難しい顔をしていたが、数名の柱を巻き込んで説得した。
そうして妹が十歳を迎えた時に日輪刀を与えることになった。
とある柱合会議の日、妹の為に打たれた刀を一人の刀鍛冶が納める。
初めて鞘から抜くその時に日輪刀は色を変える。そこに居合わせた六人の柱は全員が期待に満ちた目を向けて息を呑んだ。
日の光を反射して鋭い光を放ったその刀は、そのまま色を変えることがなかった。
妹は自分の為に打ってくれた刀鍛冶に丁寧な謝意を伝え、そして言った。
「これからも、護衛の任を全うすべく精進いたします」
珍しく顔を出していた母が何かを叫びながら奥へ連れ戻される声、柱の誰かから零れる溜息の音、背後で聞こえる父の喘鳴。
妹の声はいつもと変わらず、穏やかだがよく通る――とても十歳とは思えぬ声だった。
妹の言った護衛という言葉が耀哉には重い。
いつの間にか同じ背丈になっていた妹は、耀哉と見分けのつかない容姿をしている。
女児の着物を着て揃いの髪型に色違いの髪飾りを付けた姿は姉妹というより双子のようで、危険があれば妹が身代わりになる手筈だ。
妹が刀を振るうようになってからは下が馬乗袴になったが、華やかな布で胸高の女袴に見えるよう特殊な誂えをしている。
燿哉という耀哉とほとんど同じ男児のような名をつけられたのも、同じ姿をしているのも、狙われた場合の攪乱のため。
普通の兄妹ならば兄である自分が妹を守る筈だ。そして自分の方こそ、身体一つで人の命を守れる強い剣士になりたかった。
なのに現実は残酷である。
命を賭けて嫡子を守る使命を帯びた妹を哀れに思い、二歳下の妹から庇われる己を惨めに思った。
「元より護衛の為に刀を教わったのです」
妹からそう言われるのが辛く悲しかった。堪らなかった。
刀の色が変われば、その色を持つ柱が弟子に取るかもしれないと思っていたのに。
以前、父に言ったことがある。妹の方が後継に向いているのではないかと。
妹は健康で、柱の皆の心象も良い。同じ姿で同じ役割を交互にこなせるくらいだ、二歳下でも自分と同じことを出来るのは既に証明されている。
しかし父は首を振った。
理由を聞くまで退かないと詰め寄ると、父は妹を呼ぶよう言った。
寝床から身体を起こした姿の父は、兄妹を前にしてようやく口を開いた。
三十歳になる前に死ぬ。それは一族の皆と変わらないし幼い頃から覚悟していたことだが、妹に告げられたのはそれだけでなかった。
発症すれば五年以内に死ぬと言われる一族の呪いが、普段健康に振舞っている者は激化しやすく発症すれば二年以内に死ぬ傾向にあること。
そして健康に見える者は何故か、産屋敷家史上誰一人として子を成した者がいないということ。
「だから身体が丈夫になったとしても、嫡子は耀哉なんだ」
普段から様々な資料を読んでいる妹は父に言われる前から知っていたのだろう。顔色ひとつ変えなかった。
その運命を、どうにかして変えたかった。
虚弱な体質を克服した妹だからこそ、きっと運命を克服できると思っていた。
なのに刀の色は変わらなかった。
耀哉が勝手に期待しただけの事だ。柱の弟子になれば、継子になれたら、その運命が変わるのではないかと。
結局、産屋敷家から追い出そうと叫ぶ母と変わりがない。
狭い世界で暮らす十二歳に出来ることなど少ないとわかってはいる。それでも悔しく悲しかった。
初めて覚える無力感に震える耀哉とは違い、妹は刀の鍛錬をやめることはなかった。
意外だったのはその後のこと。
庭の片隅で日輪刀を振って型の練習をしていた妹に、一人の柱が声を掛けた。
彼は一度見せただけの型を再現した記憶力に感心するだけでなく、呼吸の精度について様々な質問をしていた。
「幼い頃から呼吸が苦しく、死なない為に柱の皆様の呼吸を真似しただけです」
謙遜ではなく心からそれを伝えた妹は、その柱から実戦的な手ほどきを受けた。
霞柱だった。
やがて妹は鬼を倒すことに成功する。
こうして、選別を突破しない剣士が生まれたのだった。