六日目の昼の座学を始めたばかりのところで、銀子ではない烏が入ってきた。
手紙を開いた彼が困った笑みを浮かべる。
「すみません、少し中断しますね」
謝罪して部屋を出た彼は、別室で隠の隊服に着替えると頭と顔を覆って戻ってきた。
この姿だと完全に隠の一員である。まあ本当に隠なのだけれど。
そして変装のつもりなのか辛うじて見える目元にさえ丸眼鏡をかけているので、その表情はわかりにくい。
手首と足首の締まった隊服で眼鏡まで掛けていると、一見ひ弱そうに見えるのがちょっと面白くすらある。
彼の着替えが終わったところでちょうど縁側に隠が現れた。小声で彼に何事かを伝えると、何度も謝る様に頭を下げている。
「仕方ありませんよ、私が行きましょう。時透君、君も顔を隠して私についてきてください」
そう言うと、隠に何かを命じてから跳んだ。
鼻から下を覆う布をつけて彼の後を尾ける。帽子は被っているが髪は入らないので諦めた。布は息苦しくないけれども、何とも変な感じである。
彼の跳躍は静かで軽い。その真似をすれば身体に余分な力を入れずに楽に追えるのがわかったのはちょっとした収穫かもしれない。
木立を抜けて到着したのは大きな蔵のある広く開けた場所だった。
「隠が管理する蔵です。私が声を掛けるまでは、ここで動かず静かに待機してくださいね」
小声で言った彼に頷きを返すと、眼鏡の奥の目が微笑む。
蔵の前には大柄な隊士が五人いて、その中でも一番体格の良い者が隠の胸倉を掴んで責任者を出せと怒鳴っているところだ。
「お待たせしました。私が本件の責任者です」
胸倉を掴む手をあっさり解いた彼が隠と隊士の間に入る。手の合図で隠を全員下がらせると、彼は一人で五人に向かい合った。
動くな声を出すなとは言われたが、見聞きするなとは言われていない。
刀は屋敷に置いていくよう命じられたので丸腰である。それはあそこで対峙する彼も同じだ。
隊士五人が腰に刀を下げているので、彼と自分の丸腰がなんとも心許ない。
しかし彼の指示で下がった隠の全員が丸腰であるのを見ると、この場においては刀が無い方が自然なのだと気付く。
隊服そのものは背中の文字以外同じだ。
だから顔を隠している今の自分は、背中さえ見せなければ隠の一員にしか見えないだろう。
「どうして柱への昇格が却下されるんだ!隠ごときに一体何の権限がある!」
大きな声を出したのは、先ほど隠に怒鳴っていたのと同じ隊士だ。五人全員が威圧的に彼を睨みつけている。
彼はいつもと変わらない声の調子で、穏やかに言った。
「隠は情報を選別して正しく評価する権限を持っていますよ、原田君」
大声を出していた隊士が名前を呼ばれたことに驚き動きを止めた。
「甲の階級にある藤原君が五十体目の鬼を討伐したとの昇格申請を受けていますが、内容に誤りがありましたので却下しました」
恫喝されている最中とは思えないほどに平然とした口調だ。彼より頭一つ大きな隊士を前にしているのに、その声が変わりないことに安心する。
丸腰の不安が治まったところで、改めて五人を見渡してみた。
そうすればすぐにわかる。彼は強い。あの大声を出している者より。
「甲の藤原君が倒したのは三十五体です。乙の原田君が九体。戊の木下君が三体。庚の宮本君が二体。壬の永野君が一体」
一人ずつ手で示しながら、顔を向け目を合わせて討伐した数をすらすらと口にしていく。
全員が妙な顔で硬直した。階級が下の二人は急に威嚇をやめ、目を逸らして俯き地面に汗を垂らしている。
「柱になるための条件は、甲の階級の隊士でかつ鬼を五十体以上倒していることです。他の隊士と同時に倒した鬼を按分して加算するとしても、藤原君はまだその条件を満たしていません」
他の者が倒した数まで合わせて五十体倒したと偽り、柱への昇格申請をしたということなのだろう。
威嚇をやめた二人の明らかな動揺を見ても、彼の指摘が正しいとわかる。
「原田君、君はその九体を足せば自身の討伐数が三十八体になります。階級こそ乙ですが、これは藤原君よりも多い数ですね」
原田と呼ばれた隊士が足元に唾を吐いた。
「九体は藤原さんの指示の下で倒したんだ!それなら文句ないだろうが!」
憎々しげに悪態をつく原田とかいう隊士に彼が一歩近付く。
「その九体のうち三体は、藤原君とは違う任務に就いている時の討伐ですよ」
やることが甘い。そんなことで彼が見逃す筈なんてないのに。
その上、隊士が腰の刀に手をやると全身から闘気を露わにし始めた。
これでは甘いどころか下の下だ。策が無いにもほどがある。馬鹿だな、と思う。
「誰だァ、誰が裏切りやがった!」
地の底から響くような声で怒鳴った男に動じることなく、彼が軽く左手を上げて何かを招く。
すると隊士の傍にいた五羽の烏が一斉に飛び立ち、彼の背後に下りた。
「ここにいる者達は誰も裏切ってなどいません」
真実を隠に報告したのは、隊士達の烏らしい。
きっと鎹烏は隠の指示に従うよう教育されているに違いない。
ちょっと我儘なところのあるあの銀子が、彼の手の合図だけで膝の上から畳に下りたことを思い出した。
「隊律違反は処罰の対象です。藤原君、申し開きはありますか?」
柱への昇格を申請したらしい者が、両の拳を握り締めたまま歯を食いしばった。
「正副の責任者である藤原君と原田君は隊士の身分を剥奪、他は罪状に応じて階級を下げます」
「それだけは!」
膝をついた藤原とかいう隊士が、見苦しくも縋ろうとする。
「私は後から如何様にも処分を受けます!しかしどうか、師範の仇だけは!」
仇を討たせてくれと必死で乞う様子に嘘は無さそうだ。
師範の仇、という言葉にそれまで俯いていた下の二人も涙に濡れた顔を上げた。
「君達の師、鳴柱の仇である十二鬼月の情報を得る為に柱への昇格を望んでいることはわかっています」
「ならばどうして!」
彼の声があまりに変わらないので、五人との温度差は開いていく一方だ。
「隊律違反の中で何が重い処分の原因となったのか、君達はまだ気付いていないのですか?」
向けられた問いに五人は何も思いつかない顔をしている。
まるで物わかりの悪い子供に諭すように、彼がその罪状を告げた。
「君達は鳴柱の仇を調べようとして、隠だけでなく柱の皆様へも烏を飛ばしました。更にはお館様にまで烏を飛ばそうとしたようですね」
柱でもない一般隊士の鎹烏がお館様の屋敷を知る筈がない。だから不発に終わったようだが。
「大変多忙であられるお館様と柱の皆様の時間は、君達の時間とは全く価値が違います」
鬼殺隊の組織についての座学で学んだ。
柱は警備担当地域が広大な上に情報収集や自身と継子の訓練で多忙である。お館様はその柱を束ねる立場なのだから言うまでもない。
「君達がその貴重な時間を無駄にすることで、守られるはずだった人の命がいくつも失われます。邪魔をするというのはそういうことです」
いつもの穏やかな声だからこそ、この場においては冷たく響く。
「昇格申請における虚偽の報告よりも重いのはこの妨害行為です。まるで初めて聞いたような顔をしていますが、少し考えればわかる筈です。そして」
彼は言葉を切って五人全てを見渡した。
「隠に探りを入れることを悪いとまではいいませんが、度を越えた執拗なものは同様の妨害行為と見做しますよ」
歯を食いしばって何かを堪える五人に対し、続く言葉に容赦はなかった。
「鳴柱を殺したのは下弦の弐です。今の君達五人が束になっても勝てる見込みはありません」