(大丈夫)
(何も問題は無い)
(自分を信じろ)
そんな言葉を何度口から吐き出したのか。
正確な回数など忘れても、これは小さな頃からだとぼんやり思っているが、子供である自分が『小さな頃』と言うのもおかしな話だ。
(これくらいの事がなぜ出来ないんだ? できて当然だろう。お前の頭には脳が詰まってないのか?)
塾に通って答案用紙を親に見せた時、『出来の悪い馬鹿なクソガキだ』と言われ、鼻で笑われて殺意が湧くのを必死で抑えて我慢する。
父の口から突いて出てくるのは、いつも自分を下に見る言葉の数々。小学校に通う前から続いたせいで自己評価は低く、自分を肯定できないくせに、いつしか自然と反対言葉を覚えた。そうやって言い聞かせなければ、親による言葉と物理的な暴力を
1年ほど塾に通った後、あたしと父は静岡から宮城に引っ越した。母は別居を選び、1人三重に残る。さらに距離が離れても寂しいという感情は湧き上がらなかったのは、彼女からも愛情を注がれていないからで、涙ひとつ流さず感情を表に出さないことが普通だと思っていたのに、小学校に通い始めてから自分の家庭環境が異常だと思い知らされた。
(……んぬん)
(…? なに? 君、だれ?)
ある日、廊下にボールを持った目付きの悪い男の子が立っていた。
(っ! 俺、影山飛雄)
(黒崎紬だ。なんか用?)
(く、黒崎さん。一緒にバレーやるか?)
引っ越したことで環境がまるっきり変わり、父の暴力に耐える毎日を変えたのは、隣のクラスだという男の子の一言だった。
何かが変わるかもしれない。
息苦しい環境から抜け出せるかもしれない。
足踏みする暇は無かった。
いや。あったのかもしれないけど、考える時間が無駄に思えて、『この機会を逃せば次は無い』と自分に暗示をかけるようにしてすぐに行動に移り、ボールを持つ男の子の誘いに乗った。
(やる。教えてくれ。影山君)
始めた動機は、暴力と無関心で息が詰まる家庭環境から抜け出すためだったとは言え、友達に誘われて踏みこんだ世界がとても
その日から、汚いものであふれていると思って無関心だった世界の中に、きれいなものがあると気づいて違って見えるようになった。真っ暗な視界に色がついたみたいで、居心地がいいこの場所にもっといたいと思えた。
昼休みには、影山君と都合が合えば体育館でバレーボールを追いかけるようになり、体を動かして遊ぶこと自体が楽しく、うまく相手にボールを返せた時は嬉しいという感情を学んで、勉強にも集中できて学校に通えることが一番幸せだと感じる。だから、学校に行けない休日や長期休暇が苦痛で、筋トレや授業の予習復習で部屋にこもったり、走りこみで家を出たりして親と接触する時間を極力減らした。
(遊んでる暇があったら勉強しろ。馬鹿の相手は疲れるんだぞ?)
テストで満点を取れなければ、見下して
言うだけ無駄だとわかってはいたが、今思えばそれまで反抗せずにおとなしくしていた自分が、初めて『バレーをしたい』という欲求を伴った意思をきちんと言葉にして伝えられた出来事だった。
(…好きにしろ。お前には何も期待せん)
父は、娘とも思ってない自分に期待する
(そんな下らないことでいちいち相談するな。俺の貴重な時間が減るだろ)
下らないと一蹴されて腹が立つ。
宮城に引っ越して以来、母とは一切連絡が取れなくなっていた。
何はともあれ父の許可が下って、地元のバレーボールクラブに入り、教室で会うクラスメイトとは違う戦友ともいえるチームメイトと出会った。そこで家の中にいる時とは別種の緊張感を分かち合い、試合中に得点が決まった時は胸中に満たされる喜びと、勝利からくる愉悦と達成感が心地良くて、沼にはまるようにだんだん
色々とポジションを変えて体験していく中で、自分が無意識に異常な家庭内で培い、両手の年数を生き抜いた能力を最大限
バレーボールクラブに入った年。
影山君のおじいさん・一与さんの家へ、孫である彼に連れられて1度だけ遊びに行ったことがある。当時高校生だった影山君の姉・美羽さんと一緒に対面した途端、息を
(はじめまして。黒崎紬です。よろしくお願いします)
(あ…、うん。よろしくね、紬ちゃん。飛雄のおじいちゃんのカズヨです)
(はじめまして。飛雄のお姉ちゃんのミウだよ)
彼らの反応に困りつつも、すでに玄関に上がっている影山君に視線をやる。すると、遠慮がちに服の袖をつままれて、靴を脱いた直後に有無を言わさずに無言で居間に引っ張られた。
そこで初めて、録画されたものでもバレーボールのプロフェッショナルの試合――たしか、シュヴァイデン・アドラーズとブラック・ジャッカル――をテレビを通して観て、当時は言葉にできなかった感情――興奮――を表に出し、影山君と一緒になって『すごい』とか『かっこいい』とか、とにかくその二言ばかり言っていた気がする。
語彙力が低下して二人して擬音語を使いまくって話していくうちに、一与さんにこう言われた。
(セッターがいなきゃ、トスは上がらないだろう?)
(はい…)
『それは当然だ』と心中で思ったが、言葉にするのは失礼だと思って口には出さずに、喉元まで出かかったそれを飲みこむ。
(紬ちゃんの居場所は、どこにあるの?)
(バレーをしてる時です)
(家には?)
(ありません。『いなくてもいいガキだ』って、普段から父に言われてるので)
(いなくてもいい人間なんていないよ。みんな、何かしら役割があって生きてるんだ)
(役割…ですか?)
『いなくてもいい』という言葉の呪縛を解いてくれる人がずっと欲しかったとしても、あの頃は居心地が悪く思えてオウム返しをしてしまった。
(うん。急いで居場所を作っちゃダメだよ。紬ちゃんのペースで、ゆっくり確実に作ればいい)
(…分かりました)
結論から言うと、クラスの子達は自分を上っ面だけ見て判断し、深入りしようとしないため、教室に本当の居場所は作れなかった。
クラブに入って2年が経った頃。
小学6年生の冬休み直前――終業式の日に、影山君と一緒に帰る機会があった。
(影山君。バレーって楽しいな)
(今さらなんだ。当然だろ)
彼が満足そうな笑みを浮かべたが、それは溶けていく雪のごとく、すうっと消えていく。
(…なぁ。黒崎さんは、どこの中学に行くんだ?)
(ク…、ごほんっ。父の仕事で、また東京に戻ることになったから、椚ヶ丘かな。…影山君は?)
『クソ野郎』と言いかけた言葉を咳払いでごまかし、卒業を機に別れることを告げると、心なしか彼の表情が沈んだ。しかし、すぐさま質問したことによって一時的に忘れてくれるのを望む。
(俺は北一に行く。入るなら、バレーが強いとこだ)
(そうか。あたしも強豪を選んだけど、それだけじゃなくて、文武両道なところがいいと思ったんだ)
(へぇ…。がんばれよ)
(ん。がんばる!)
自分と同じく、ひたむきに強さを追い求める彼の姿に憧れたのは自分だけの秘密にしようと決意し、互いに拳を突き合わせた。