女王の秘密   作:白天竺牡丹

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第28話 それぞれの過去

(殺すのやめるって言うまで、噛み続けるからな)

 

 生死を伴わない脅迫を受けたのは初めてだった。

 誰もが、あたしの死を望んでいたから。

 いや。誰かは望んでいなかった。記憶があいまいで、はっきり思い出せない。

 首筋に影山君の吐息がかかるたびに、未知の感覚に体が震え、噛みつかれる際に苦痛による短い悲鳴が意思とは関係なく喉から漏れ出ていく。触手細胞による激痛とは別の──外部から直接的な痛みが痛覚を通して、ぞくぞくする感覚が『正気に戻れ』と言わんばかりに全身に広がった。

 

 もう耐えるのは無理だ。

 これ以上されたら、恥ずかしさのあまり疑似的に死んでしまう。

 

 そう意識の片隅で思い、大人しく両手を上げて降伏の意を示すと、満足そうに彼が(うなず)いた。それで終わりかと思えば、今度は力一杯抱き締められてから、ようやく影山君の手先がかすかに震え、心音が早鐘を打っていることに気づく。

 

「…これ以上心配かけさせんな。ボゲエ」

「……ごめん」

「おう」

 

 そして、BB弾をこめた支給品の銃と熱が残る愛用の銃から減音器を外して所定の位置──ズボンとインナーの間にねじこんでから、壊れかけの人形のようにぎこちない動きで、両腕を影山君の背中に回した。

 先々月の救出作戦の時とは正反対の立場をこんな形で味わうことになり、心配される側になってようやく自分も誰かに必要とされていることを知った途端、胸中に暖かいものがこみ上げてくる。家族や知人よりも信頼し、自分の安全地帯と定めている幼馴染に身を預けて、安らぎを感じながら意識を手放した。

 

 

 再度目を覚ますと自分は地面に横たわっていて、1年弱(さいな)まれ続けていた激しい頭痛が綺麗さっぱりなくなり、触手細胞から解放されたのだと知った。そして、幸いなことに神経に支障はなく、手足も問題なく動く中で左手を誰かに握られている感覚がする。

 数度瞬きした後にゆるりと眼球を動かして視認したのは、頭上で涙をこらえる影山君の姿で、安心させるように無言で大きな手を握り返した。本来なら影山君は部外者だが、あたしを説得した上に命を救ったとして、彼がこの場にいることを烏間先生が特別に許可したらしい。そこまでの報告を受けて、腹筋と自由な右腕に力を入れて上半身を起こす。

 やがて、カエデの過去が明らかになり、全員の視線が自分に向けられた。彼らの無言の意見に従って、自分がなぜ暗殺者になり、どうやって触手細胞を手に入れたのか。その経緯を話し始めた。

 

「暗殺者になりたくてなったわけじゃない。そうなるしか、道がなかっただけだ」

 

 

 一番古い記憶は、今から10年前。5歳の夏頃。

 研究員だった今は亡き父・黒崎は、意識が朦朧(もうろう)とする幼かった自分を部屋に放置し、男の知人の女は後の母となり、娘となった自分に母は『紬』と名付けた。そして、母から『護身術』と称した知識や技術を吸収していく。

 父から許される外出の機会と行き先は、研究所と暗殺の仕事を行う際、偽装のために鳶色に近い茶色のカラーコンタクトを必ず入れていたが、なぜそうする必要があるのかは聞かなかった。『いらないこと』を尋ねて、父に言葉と物理的な暴力を振るわれるのが怖かったからかもしれない。

 

「『大人の事情』が変わったのは、1年半が過ぎてからだった」

 

 2003年2月末日。

 父に偽造旅券を眼前に突き出すように乱暴に渡され、『海外旅行へ行く』と言われた。

 静岡の家から羽田空港へバスや電車を乗り継ぎ、飛行機で羽田からトルコを経由してレバノンに入国し、帰国を翌日に控えた夜に父が強盗に襲われ、隣にいた幼い自分は拉致されて消息不明の扱いになった。拉致された先はテロリストのアジトで、生き延びるために銃を含めた武器の扱い方を覚え始めた矢先に、イラク戦争が勃発した。

 

 2年後の3月上旬。

 女性が、ショッピングモールで買い物中の当時9歳の自分に接触してきた。

 監視を兼任している者にうまく言いくるめて店の外にいたタクシーに乗りこみ、車で10分ほどの距離にあるベイルートの国際空港へ直行。世話になった女性と合流した男性が手引きをして、無事日本に生還した。その方々が、現在居候先の山鹿(やまが)夫妻だ。

 

(あの家に帰らないほうがいい)

 

 しかし、世間で『娘が拉致されたかわいそうな父』と報道されていたため、夫妻の猛反対を押しきって(かえ)してもらう。あの頃の幼い自分は、なぜ反対されるのかよく理解できず、たとえ暴力を振るわれても『家』と呼べるのはそこしかなかった。

 探しもせずに置き去りにして静岡の家で生きていた父は『よく帰ってきた』と言ったが、その瞳は、大して愛着のない道具を見つけた時のような冷めたものだった。

 生還の報酬として、それまで微々たる金額が大金になって銀行口座に振り込まれる。半年後に学校に通わせる諸々の手続きをするものの、肝心の日本語を完全に忘れるという事態に陥り、駅近くにあった塾に通い、平仮名の読み書きから学び直して、1年かけて小学3年生までの内容を必死に勉強していった。

 翌年の3月末に住所を静岡から宮城に移し、父の命令で伸び放題の髪を切り、印象を変えるためだけにベリーショートヘアにした。

 

「暗殺の訓練が終わって仕事を始めたのは、バレーを習い始めたのと同時期。呼び名が無いと仕事に支障が出るから、担当研究者から破壊(ハヴォック)のコールサインを与えられ、それを暗号名(コードネーム)に使った」

 

 名前に執着がないのはただの記号に過ぎず、研究員が1度だけ自分に告げた『クロハバキ』というのも、呼び名のひとつだと思っていたから、それが自分の本名だとは知らなかった。

 

 去年の7月20日。

 連休明けの学校帰りに、静岡の研究所に寄るよう父に命令され、研究段階の触手細胞を移植される。

 そこで、すでに実験を進めているという者と対照的な実験が行われた。実験となるものを提供した組織が、指定した条件は、女で10代。暗殺者として実績が十分ある者。研究内容は、頭部に近い場所に特殊な細胞を埋めこみ、定期検査(メンテナンス)を行わずに放置して様子を見ること。

 自分に拒否権はない。

 便宜上、父と呼んでいた男が敷いたレールに沿って、ただただ黙して歩んでいく。

 もし、自分の感情に従って反抗できたとしても、彼らのやり方で処分されて遺体が運び出される子供達を幾度も目にし、反抗したり仕事に失敗すれば、自分も殺処分されると理解していた。

 

「死ぬのは全然怖くなかった。移植されて……、1年と5ヵ月前だ。触手細胞に侵食されるうちに、『誰も知らない自分(ハヴォック)として死ぬこと』を望んで、まともな思考ができなくなった結果が、この惨状。…これで、あたしの話は終わり」

 

 あっさりとした口調で話を締めくくったが、皆の表情は暗かった。

 どうしたものかと考えても結局わからず、独り悩む中でメグと優月二人と視線がかち合い、うやむやにするよりもここで謝罪すべきだと考え、(だる)い体を無理矢理動かして、地面に額をこすりつける勢いで土下座する。

 

「…それから、皆に銃口を向けて撃ったことを謝る。ごめんなさい」

「…謝らなくてもいいわよ。紬」

「え…?」

「そんなの、紬から心身と思考と自由を全部奪って抑圧した研究員達が悪いんだから。…紬自身が生き延びるためには、そうするしかなかったんでしょう?」

「……うん」

 

 怒号や罵詈雑言が飛ぶかと思っていたが、メグの言葉を筆頭に彼らなりの叱咤が飛び、ただただ呆気にとられておそるおそる頭を上げると、頭上からぺたりと触手の感触がしてそのまま撫でられた。

 ゆるゆると上半身を起こして正座の姿勢を取ると、影山君がずいっと距離を詰めて、こう告げる。

 

「黒は──」

「黒崎」

「く、黒崎さん。カラー? ってヤツを取れるのか?」

「あ、ああ…。ちょっと待ってくれ」

「おう」

 

 4時間ぶりに両目に着けた茶色のカラーコンタクトを外して、再度彼に視線を合わせると同時に力強く抱き締められ、あっけなく指先からコンタクトが落ちたが、今はどうでもいい。

 

「青だ…」

碧眼(へきがん)ってやつ」

「変わってねぇ…!」

「そうか…? 全然思い出せないな」

 

 影山君は噛み締めるように言って、安堵からか大きなため息をついた。

 今年の夏に、黒脛巾紬という女の子が誘拐されて行方不明になってから10年になる、という報道があった。

 自分は、それまで報道される顔写真が他人の空似だと思っていたけど、裏表がなく、まっすぐで嘘がつけない幼馴染の反応から、自分が誘拐された張本人だとようやく理解できた。

 

 

 そんな時、一人の気配が急いですすき野原へ近づいてくる。

 烏間先生が対応していることからどうやら直属の部下で、膝に手をついて呼吸し、喉から苦し気な喘鳴音が漏れ出るのも無視して顔を上げ、地面に流れ落ちる汗もそのままにしている。現場責任者である先生は彼と視線を交わし、無言で深々と頭を下げ続ける部下を評価していた。

 

「さて…、私の話をする前に、あなたはどちら様ですか?」

「あ。はいっ」

 

 ぴしりと背筋を伸ばして姿勢を正し、一度咳払いしてから、汗だくの背広姿の男は自己紹介を始めた。

 

「防衛省臨時特務部所属、黒脛巾(はばき)護と申します。つ、げほっ。紬の実兄です」

 

 皆が驚くのも無理はない。

 そもそも、自分に兄がいたことすら知らなかったからだ。

 

「…どうして、今まで姿を見せなかったんですか?」

「本部長に接触を禁じられていたからです。それに、俺に会っても、紬が覚えている確証は持てずにいました」

 

 殺せんせーは『ふむ…』と(うな)りながら考え、眼前の男の次に烏間先生に視線をやる。

 

「烏間先生も、この命令を知っていましたか?」

「いや。初耳だ」

「護さん。上司の命令を破ったのはなぜです?」

「妹の命がかかっていたからです。なので、本日ご両親に許可を取って、影山君を中学校から連れ出しました」

「触手細胞のことは?」

「特務部に配属された際に。紬がE組にいる事も、そこで知りました」

「にゅや? それまで黒崎さんと連絡は取っていたんですか?」

 

 そこで、初めて彼がゆるゆると首を横に振った。

 

「取れるわけがないでしょう。10年間ずっと探し続けてたのに」

「…良ければ話していただけませんか? 10年前に何があったのかを」

「はい」

 

 そうして、あたしの『兄』と名乗る男が過去を話し始めた。

 事の発端は、10年前の8月10日。

 仙台七夕祭りの前夜祭が終わった1週間後のことだった。

 幼稚園に次女を迎えに行ったはずの家政婦が、1人で帰ってきたらしい。曾祖父母の介護をしていた家長の父が珍しく激しい口調で問い詰めると、いけしゃあしゃあと『妹を欲しがる人物に引き渡した』と告げる。

 

(どうしてそんな真似をした!?)

(金が欲しかったからです)

 

 その家政婦は、母の旧知の友人で、その伝手(つて)で雇っていた。

 2001年当時、まだ人身売買罪が制定される前で、警察に連絡をして誘拐罪が適用された。防犯カメラもそれほど普及しておらず、捜索が難航した結果、数ヵ月後に打ち切りになった。

 

「家政婦の有罪判決がされたのは、翌年の10月末。俺と父は、父の会社の伝手を頼って、母の異動先から各駅に止まり、チラシを配りながら東に向かいました」

 

 誰かが紬を見かけたかもしれない。

 その思いにすがっていた時に、別の事件が起こった。

 

「3月1日の夜に、『しのぶ』と呼んでいる人工知能を経由して、紬が中東に行ったと連絡を受けました。誰が情報を流したのか、まだわかりません」

 

 あたしは、母か山鹿さんあたりだろうと推測するも、確証が得られない今は、何も言えないので黙って聞く姿勢を継続した。

 数日後、レバノンで女児が行方不明されたと報道された時、手を差し伸べる方法を失ったらしい。

 

「助けに行きたかったけど、紬が言ったように、イラク戦争が勃発して断念した。……正直言って絶望しました」

 

 しかし、幸いなことに若い頃――と言っても、母と同世代だが――、中東で傭兵をしていたという社員が、関東支社に勤務していたため彼を頼り、レバノンを中心にした中東を捜していただいた。

 そして、案外早く半年後に成果があった。

 レバノンから動いていないことが判明して、さらに詳細な情報を掴むために、半年ごとに現地に社員2人を派遣。ベイルートの空港から車で10分の場所にある大型ショッピングモールで、半年に一度買い出しに来ていると知り、元傭兵の夫と妻が旅行客に扮した。

 

「それが、今、紬が世話になっている山鹿夫妻だ」

 

 話や昔の出来事の辻褄が合いすぎて、どうしても疑ってしまう。

 

「彼らは、こう言ったはずだ。『何があっても、《瑪瑙(めのう)》が守る』って」

「……ああ」

「山鹿さんと母親の勤め先知らない?」

「警備会社としか…」

「民間警備会社《瑪瑙》。紬みたいな子を保護するために創られた会社だ。もちろん、通常業務もこなす」

「は…? 守る…? 山鹿さんはともかく、(あいつ)があたしを? …いや。そもそも、なんで母のこと知ってるんですか?」

「紬の母親は、俺の母でもある。つまり、本当の母親ってこと。まあ、母も母でこの10年音沙汰なくて、先々月再会したばかりだけどな」

 

 からからと笑う『実兄』に視線をやれば優しい笑みを向けられ、薄い唇に人差し指を当ててこの話を終わらせたが、警備会社云々(うんぬん)の最後の話は自分にとって不気味に思えた。

 

 

 次は影山君の番で、口下手な彼を助ける形で殺せんせーが、下衆(げす)な笑みを浮かべながらノート片手に尋ねていく。嫌な予感しかない。

 

「今度は、影山君に尋ねます」

「ウス」

「黒崎さん。えー。クロハバキ紬さんと出会ったのは、いつですか?」

「カズ…。えっと…。俺の祖父が、黒脛巾さんの祖父と友達で、初めて会ったのが5歳になる年で、…たしか春でした。桜が咲いてたの覚えてます」

「ほう…。その時は何を?」

「シュヴァイデン・アドラーズの試合を家で観戦しました」

「次に会ったのは?」

「七夕祭りの前夜祭です。その時写真取ってたから覚えてます。その後に、祖父経由で『紬ちゃんがユーカイされた』って聞いて…」

「そうですか」

 

 事実よりも呼び方が気になって話の腰を折ってしまう衝動を抑えて、ちらりと殺せんせーを見ると、肌が桃色になりニヤニヤとしている。他の面々も見渡すと、烏間先生と兄以外は予想通り同様の顔をしていた。

 

「…それで?」

「再会したのは、小学4年生の4月です。目の色が青が混ざった茶色になってましたけど、俺は、転校生が黒脛巾さん本人だってわかりました。…でも、前と雰囲気が全然(ちげ)えし、俺のこと完全に忘れて初めて会ったような反応されて……。だから、俺からバレーに誘ったんです。そうすれば、きっと思い出すと思ったから」

「でも、思い出さなかった…と」

「はい…」

 

 中学に進学するためにまた離ればなれになり、最近は中2の総体で再会し、今は受験勉強を手伝ってもらってると堂々と告げて、だいぶはしょられたものの重要な部分はかいつまんでいたため、幼馴染から見た10年分の話に幕が下ろされた。

 そして、殺せんせーの過去話を聞き終えた後、シロこと柳沢が姿を現し、白頭巾(ずきん)に白装束に身を包んでいる彼が、自分がいた研究所に触手細胞を提供した者だと知る。柳沢と頭部まで黒い服で包まれた者がE組の敷地から去っていった後、警戒を解いた自分と同時に言葉を発した者がいた。

 

「紬。何かあったら、にぃにに任せな」

「嫌です。烏間先生のほうが頼りになります」

「昔は『まもにぃ』って呼んでたぞ」

「そうですか」

 

 黒脛巾さんが会話を試みるが投げやりな返答に、クスクスと笑う同級生の声が耳に入る。それを無視していると、彼から質問された。

 

「じゃあ、影山君と俺。どっちを信頼──」

「影山君」

「ですよねー」

 

 食い気味に答えて距離を取り、兄と自称する男から幼馴染に視線を向けると、嬉しそうな照れているようななんともいえない顔になっていたが、確実に頬が緩んでいる。

 

「…アザス」

「うん」

 

 沈黙を保っていた自分達幼馴染の様子に満足しても、皆の足取りは重く、あたしは立ち上がろうとしてうまく力が入らずに、すすき野原の地面に膝から崩れ落ちた。どうにか手をついて顔面をぶつけることはなかったものの、両手の平を少し擦りむいてしまう。

 

「っ…」

「大丈夫か!?」

「大丈夫…。ちょっと力が入らないだけ」

 

 影山君が駆け寄るも、匍匐(ほふく)前進の体勢で文字通り()ってでも山を降りようとした自分の眼前に、がっしりとした男の背中が映る。

 

「乗るか?」

「……」

 

 兄と名乗る人は、必死に笑顔の仮面を被っているように見えた。

 信頼できない大人達の薄っぺらい(たぐい)ではなく、泣きたいのを懸命にこらえるようで、なぜかこちらの胸がぎゅっと締めつけられるような錯覚に陥る。しかし、そう演じている可能性を捨てきれないため、あたしのショルダーバッグを持っていた影山君に頼んだ。

 

「…影山君。お願いしてもいいか?」

「お、おう…!」

「あと、ショルダーバッグは自分で背負うから、ちょうだい」

「おう」

 

 明らかに、彼の声が弾んでいる。頼りにされて嬉しいのだろう。

 対して、黒脛巾護の真意はわからず、確証も得られない。これは決して嫌がらせではなく、今まで信頼する人がいないに等しく、かつ少ないほうが良いという自分の経験からきている。

 おぶられるのを断られたのに、後ろで微笑んでいる自称・兄は、(ふもと)にある職員用駐車場にあるイリーナ先生の車の助手席に、影山君の助力で転がりこむように乗せられたのを見届けて、影山君を連れ出した責任を果たすために仙台まで同行すると言う。

 エンジンをかける前に彼女に待ってもらい、見守る2人に礼を言うために助手席の窓ガラスを動かして、電動スイッチを押して下げた。

 

「あの…」

「?」

「…ありがとう、影山君。……黒脛巾さん」

「うん。どういたしまして」

「冬休みはゆっくり休めよ。黒崎さん」

「ん。了解」

 

 幼馴染と拳を軽く突き合わせるのを見届けてから、イリーナ先生は車のエンジンを起動させた。

 

 

 居候先に到着したのは21時前。

 出迎えたのは当然ながら山鹿(やまが)家の家主である武彦さんで、珍しく血相を変えている。

 食卓の上に置いていた手紙(いしょ)を読んだのだろうが、こんな表情を目の当たりにして向き合うのは初めてで、どう反応すれば良いか困ってしまう。

 夜分遅く居間に入ると、なぜか母親がいた。

 

「なんでここにいるんだ…!」

「美空さんに呼ばれて、全部話すためよ」

 

 美空さんは、自分の背後でイリーナ先生に車を駐車場に停めるように指示している。夫妻の車を前に詰めて、金髪美女の車がどうにか縦に細長い車庫に入るのを視認した後、再度家に招き入れて居間に上がってもらった。

 食堂と隣接する小部屋に鎮座するソファーに座るのも正直しんどいが、ここで倒れるわけにはいかない。もはや、執念だけで身を起こしている状態だ。山鹿家の顔を見て一呼吸おき、国家機密を伏せて今夜の出来事を大まかに説明する。

 

「今日、防衛省の黒脛巾護って人に会って、彼から見た10年分の顛末を…。その人とあたしの本当の親だってことも含めて、あなたの視点から今日までのことを聞きたい」

「…わかったわ」

 

 美空さんがホットミルクを注いでくれたマグカップから手を離し、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

 7月中旬から続いた1ヵ月の出張から帰る日。

 顔馴染み程度の高校時代の先輩に『珍品を入手した。このメールを見たら、下記の場所まで来てくれ』と連絡を受け、全くと言っていいほど心当たりがないまま指定の場所――静岡の家に行くと、瞳の焦点が一向に定まらず意識が朦朧とした末娘が居間の冷たい床の上に寝転がされていた。

 激昂したい衝動を抑えて問い詰めると、『娘を助けたいなら、誰に対しても知らぬ存ぜぬで通せ。従わなければ、子供の体を(いじ)って殺した後、お前も同様の手段を使ってやる』と脅迫された。その後、直接上司に異動を申し入れ、上層部の配慮により民間警備会社《瑪瑙》本社がある三重県に異動になったらしい。

 

「私も研究所の監視下に置かれたの。それは今も変わらない。静岡の家も椚ヶ丘の家も、彼らの所有物の一部に過ぎないし、紬を道具のように扱うから、私は彼らに気付かれないように接するように(つと)めたわ」

 

 思い返せば、彼女が自分に無茶なことは要求しなかった。理解力に合わせて『護身術』と称した訓練を施し、『家で父といるよりマシだ』と感じたことが多々あったのを思い出す。

 山鹿夫妻は、帰宅後に居間に置いた1通の遺書を読み終え、自宅前に車が停車するまでの時間は絶望を感じていたらしい。母は暗殺教室に関わっているが、娘に触手細胞を移植されているとは知らず、娘が生存を目の当たりにするまで生きた心地がしなかったそうな。

 

「…監視から逃れることは?」

「それができてたら、紬も連れて10年前に逃亡してるわよ」

 

 盗聴器やら盗撮機材などの見つけ方も彼女から教わったことだが、研究員に対して吐き捨てるように告げた母の話が終わる。

 

「…とにかく、無事で良かったわ。今夜はゆっくりお休みなさい。紬」

「……了解」

 

 にこりと柔らかく微笑む母を前にむず(がゆ)く感じると同時に、どうにも『温かい家庭』に慣れなくて、意図的に視線を()らした。

 突然『本当の家族』というものに出会った自分には、どこか縁遠く思えて居心地が悪く感じ、居間から逃げるように出て行き、照明を()けずに暗い自室に(こも)った。

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