女王の秘密   作:白天竺牡丹

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第29話 警戒と決別

 自分とカエデと殺せんせーの、三者三様の過去が明らかになって、一夜明けた翌朝。

 目覚めてから過呼吸と精神状態が落ち着いていることに気づき、日本語で話せるかを確認してから、イリーナ先生が昨夜の山鹿家から病院に運ばれるまでの状況説明をしてくれた。

 

 

(…なんの音?)

(イリーナさん。美鶴さんも、一緒に来てちょうだい)

 

 何か重たい物が倒れる音がして、あたしが間借りしている部屋に駆けつけると、過呼吸で倒れていたらしい。かろうじて意識は失っておらず、いつも背筋を伸ばしている姿を見ているせいで、体を丸めている今はひどく小さく見えたようだ。

 家主といえど、大人の男性に距離を詰められることや母に触れられること。畳に伏しているのを見られることが苦痛で、さらに呼吸困難になるという悪循環に陥る。そこで朦朧としているあたしが、母でも美空さんでもなく同業者のイリーナ先生を頼ったことで、母と距離を置くという提案を持ちかけると、美空さんと母が二つ返事で同意した。

 

(紬。律の言うこと聞ける?)

(っ…)

《では、始めます》

 

 しかし、過呼吸の対処法を告げる律に反応を示さず、浅い呼吸を繰り返すばかりで、1時間半前に聞いた自分の過去の話を思い出し、美空さんと一緒にフランス語で話しかけると了承を伝えるように2回瞬きをした。それを人工知能は学習し、素早く日本語からフランス語に説明を切り替えたと言う。

 

(病院に送るわ。悪いけど勝手に――)

《赤いボストンバッグに必要な物は詰めてあります》

(さすが紬ね。救急車は?)

(もう呼びました)

 

 武彦さんが伝えてきて頷き、準備中に律経由で烏間先生からイリーナ先生へ、自分を入院させる許可が出た。

 文字通り一刻を争う事態に、イリーナ先生はあたしの容態が落ち着いてからボストンバッグを病院に持ってくるよう指示し、体調や言葉の問題を考えて、付き添い人として同行した。

 医者には、当然国家機密を伏せて、過去の家庭環境がうまくいってない事情を説明している間、あたしは薬品の匂いに怯える様子を見せ、最終的に痙攣(けいれん)を引き起こし失神してしまった。過呼吸症候群と診断され、過酷な環境が精神的ストレスの原因だと説明されて納得し、入院手続きを済ませる。とりあえず一晩様子見ということで話をつけられて、明日の出勤時間ギリギリまで私が通訳として同伴して残った。

 

(では、私は烏間さんに報告してきます)

(わかったわ)

(失礼します)

 

 遅れて駆けつけた園川さんを見送り、彼女は収納棚にボストンバッグを仕舞ってから、今まで溜めこんでいた不安や、自分を自分たらしめるアイデンティティーが根本から崩壊し、一気に爆発したと推測してしまう。そして、ただ(そば)にいることしかできない無力感に(さいな)まれそうになる自分を心の隅に追いやり、無意識に手を組んであたしの回復と目覚めることを祈っていたらしい。

 

「状況報告は以上よ。…そろそろ行くわ」

「ありがとうございました。行ってらっしゃい。イリーナ先生」

「…なんて返せばいいの?」

「『行ってきます』って言うらしいですよ。山鹿夫妻に教えてもらいました」

「そう…。行ってきます」

 

 宣言通り、出勤時間ギリギリまでイリーナ先生が付き添い額にキスを落とされる。まるで、洋画の一場面を体験しているような感じで、くすぐったいような嬉しいような感じがした。

 混乱してフランス語でしか話せない自分に対して、医者と患者の通訳を買って出た彼女は、烏間先生の部下で交渉役の園川さんと役割を引き継ぎ、面会時間ではない早朝に病室に出向いて『烏間に報告を済ませた』と知らせてくれる。

 

「園川さん。黒脛巾さんの経歴を教えていただけませんか?」

「…知ってどうするんです?」

「情報の一部として自己処理します」

「……。わかりました。私の分かる範囲であれば」

「構いません」

 

 兄と名乗る男──黒脛巾護は、防衛大学校を卒業後、今年3月に陸上自衛隊幹部候補学校を主席で卒業。その後に例の三日月事件が起こり、防衛省で急遽設立された臨時特務部に配属になったという。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。では、放課後にまた来ますね。お大事に」

「あ。カーテンは開け放していただけると助かります」

「はい。わかりました」

 

 お互い一礼して、園川さんが退室する。

 そして、彼女とすれ違うように人の気配が近づいてくるのを察知した瞬間、無意識に警戒を最大まで高めていて、隣の収納棚にあるボストンバッグからボールペンを取り出し、芯を出した状態で逆手に構えた。

 

「おは、っ」

「……」

 

 イリーナ先生と園川さんが開け放して下さったカーテンのおかげで死角がなく、全方位をくまなく見渡せる。四角いお盆に朝食が盛られた蓋つきの食器類を乗せた状態の年配の女性と対面し、変な真似をしないか茶色の瞳をじっと見て、挨拶も微笑みもせず警戒した。

 数秒の沈黙を破ったのは、相手の女性だった。

 

「こ、ここに置いておくわね…?」

「……」

「じゃあ、ごゆっくり…」

 

 会釈すらしなかったのは、視線を外した一瞬で距離を詰められて殺される可能性があるからだ。

 英語教師と交渉役の女性2人が医師に説明した結果、夜勤の医師が個室を(あて)がってくれたのはありがたいが、それで自分の周囲への警戒を怠っていい理由にはならない。逃げるようにして部屋から出ていった女性を見送ったものの、普通の人なら『あり得ない』と一蹴するかもしれないが、毒や睡眠薬が混入される手口もある。

 放課後になる時間に、園川さんとE組学級委員長──メグと磯貝──が見舞いに来て、一切病院食を食べていないという自分の報告に驚かれた。

 

「ってことは、1日絶食!? 黒崎さん、つらくない?」

「大丈夫だ。毒が混入している可能性が──」

「ないよ。紬」

「……」

「環境が変わって警戒されているんですね。…明朝、毒見役の方を手配しましょう」

「殺せんせーはアテになりません」

「はい。なので、黒崎さんの性格をよく知る人に依頼します」

「母はやめて下さい」

「ええ、もちろんです。ご家族の方は面会謝絶にしてますから」

「…ありがとうございます」

 

 深々と頭を下げて園川さんにお礼を言い、E組から見舞い品として贈られた小さな(だいだい)色のプリザーブドフラワーを受け取った。

 

 

 明朝に毒味役がとして来たのは、山鹿夫妻だった。

 

「おはよう。紬ちゃん」

「大丈夫?」

「おはようございます。武彦さん。美鶴さん。大丈夫です」

 

 初めて会った時から変わらず優しさにあふれていて、それまで張っていた警戒を緩めて話を弾ませる。

 彼らの説得と持参された数本の箸で実践された後に、1日半ぶりに飯にありついたが、念のため、病院食に関わっている者達の身辺調査を依頼した。しかし、結局怪しい人物はいなかった。

 

 

 緊急入院から10日後の朝に退院した。

 触手細胞から解放された今、入院中に母や兄が言ったことを考えつつ、美空さんの車から降りて山鹿家の敷地を(また)ぐ。

 洗濯機に入院中に使用した衣服類をまとめて出して、午後出勤の彼女を昼前に見送り、昼休みの時間に合わせて烏間先生の番号に電話をかけてみた。

 

『はい。烏間です』

「こんにちは、烏間先生。今朝退院しました」

『そうか。良かった』

「それで、先生にひとつ頼みたいことがあるんです」

『なんだ?』

「母の連絡先をご存知なら教えて下さい」

『…いいのか?』

「はい。細胞のせいで憎悪が増幅される形になっていたので、今のうちに、母と兄にちゃんと向き合いたいんです。お願いします…!」

『……わかった。二人に連絡を入れるから、週明けまで待ってくれ』

「ありがとうございます」

『お大事に』

「はい。失礼します」

『失礼します』

 

 とりあえず、現場責任者に要望は出した。

 たとえ過呼吸が再発しても、過去から目を逸らさないと決意している。

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