「おはよう。メグ」
「おは…」
「どうした?」
「いや…。一瞬、青のカラコン入れたのかと…」
「こっちが裸眼だぞ」
「そっか。体調は?」
「良好」
今日は、12月19日。退院した週明けだ。
今まで黒崎に言われるがまま10年被り続けてきた『黒崎紬』の仮面はもう使えなくなったものの、武彦さんに『卒業までは黒崎でいる』と進言し、ご家族もそれを了承した。
「澄んでて綺麗ね」
「ありがとう」
「どう? カラコンを入れない生活は」
「最高。その分、自室でゆっくりできる」
触手による激痛から解放されたことと引き換えに、いまだに体の節々が痛んで指先が震えるが、まだ動けると判断して終業式がある22日まで耐えてから、あとは自宅療養すれば良いと考えている。
「おはよう、紬! 終業式終わったら、カラオケ行かない?」
「行く」
「わかった。またね」
走り去っていく優月の背中を見送りながら、忘れかけていた用事を思い出した。
12月22日は、影山君が15歳になる日だ。
「今日中に買いに行かないと…」
「何を?」
「バレー好きが喜ぶもの」
「影山君?」
「なんでわかるんだ」
「顔が緩んでたからね」
「え!?」
反射的に顔の下半分を片手で覆うが、すでに後の祭りだったが、そんなことなど知らない堅物教師から、廊下で出会い頭にあいさつされる。
「黒崎さん。おはよう」
「おはようございます。烏間先生」
「少しいいか?」
「はい」
靴から上履きに履き替えてメグと反対方向に別れ、教員室に入る。壁掛け時計をみると、ホームルームが始まるまで15分あった。
「これを」
「?」
「二人分の連絡先だ」
半分に折り畳まれた紙片を受け取り、一瞬なんのことがわからなかったが、情報を付け加えられて理解する。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
頭を下げて感謝を告げ、退室前にもう一度一礼をして教室へ入った。
昼休みのうちに連絡先を登録して、帰宅後に電話をかけようとして勤務中だと思い至り、定時と思われる18時過ぎに液晶画面に表示された通話ボタンを押す。
『…もしもし?』
「あ……。かあ、さん?」
『っ! 紬なの?』
「ん…。久しぶり」
この流れだけだと横行している詐欺を思い出すが、今はどうでもいい。世間話を抜きにして本題に入る。
「今日は、話があって…」
『なに?』
「高校進学したら一人暮らしをしようと思う。だから、一緒には暮らせない」
『そう……』
今回入院した原因は精神的また心理的なもので、医師からも別離を進められた。簡単に治るものではないらしい。
「仕送りもしなくていい。全部、今まで稼いだ中から払う」
『わかった…。でも、まだ未成年だから、保証人は必要よね。山鹿さんにする?』
「いや。わざわざ東京から来てもらうわけにはいかないし、その時はよろしくお願いします」
『え…。あ、はい』
あっけにとられ我に返るまでの反応が面白くて、内心笑ってしまう。
『話しづらいんだけど…、検査には行くの?』
「ああ。放置してた分、正常に機能してるか確かめるらしい」
『…気をつけてね』
気遣いの言葉や優しい
「うん……」
『どうしたの?』
「あたし、あの教室で過ごす中で、命の価値がわかってきた。…母さんは、あたしの命を守るために距離を取ったんだよな」
『……捨てられたって思ってないの? …恨んだりしたでしょう?』
「倒れるまではそう思ってた。でも、入院中に考え直してみたんだ。長くなるから割愛するけど、あたしがこうして話せるのは、母さんが心構えも含めた生き延びる術を教えてくれたからだと思う。だから、あたしを『紬』って名付けてくれたあの日。アイツの要求を全部呑んだ決断は間違ってない。……あたしを助けてくれて、強くしてくれて、ありがとう」
「っ…!」
母親として失格だと思っていたであろう彼女は、電話口の向こうで号泣していた。
終業式後にカラオケから直帰して、手洗いとうがいを済ませて自室に入った直後に気が緩んだのか、強いめまい。体のだるさや手足のしびれなどを自覚した。整理
《そうなるのも当然です。茅野さんがまだ入院してるのに、黒崎さんが退院できるのがおかしいんですからね。大人しく自宅療養して下さい》
「……律の見立ては?」
《冬休み丸々休めば、ある程度回復します。受験勉強も無しです》
「やだ。新山に行っ、げほっ!」
喉の渇きから何回か咳きこみ、プーマのスポーツバッグから飲みかけの緑茶が入っている水筒を取り出し、一時的に喉を十分潤して、すぐ飲めるように傍らに置く。
《今はおとなしく寝て、治して下さい。話はそれからです》
体調を
体力が回復した冬休み明けに、E組で一騒動が起こった。
「…黒崎さんはどうするの?」
「あたしは――」
中立を自ら選んだ律とも、『殺せんせーを守りたい』と言ったカエデとも違い、自分の意志はすでに固まっている。
「『個』のハヴォックの暗殺が失敗しても、『全』の黒崎紬の暗殺はまだ失敗してない。たとえ触手から解放してくれた恩があっても、殺せんせーを殺すことは変わらない。与えられた任務を果たす。それだけだ」
赤いペイント弾と刃先に同色の塗料が塗布されたナイフを持ち、赤組に入ってさっさと準備を始めた。
「黒崎さん。俺達の援護ついでに、敵を全滅させても構わないよ」
「了解」
赤羽が告げる命令に淡々とした口調で答える。
E組に支給された特殊な体操着に身を包み、コルト・ガバメントを模した自動拳銃と、M4を模したアサルトライフルにペイント弾を込め、弾帯に同様の弾を入れた予備弾倉をねじこみ、烏間先生の合図が告げられるまで持ち場で軽い準備運動を行う。
やがて、フードに内蔵された通信機から聞こえた無線の合図で、戦いの
今や目を閉じても
「テメェら。赤羽の命令も理解できないほど馬鹿か? 戦場では、命令を無視した奴から死ぬ。本気で殺せんせーを殺すなら、もっと真剣に取り組め。わかったら撤退しろ」
『…はい』
「黒崎より寺坂へ。渚は6時方向にいる。今すぐ迎撃し――」
戦場で無情に響く悲鳴に舌打ちし、独り悪態をつく。これで赤組は赤羽と自分が残り、青組は前原と渚の生存が確定した。
ペイントが付着した者は、即刻戦場を出る決まりになっている。そのため、目的地――赤組の旗にたどり着くまでに誰とも遭遇しなかった。だから、木々から木々に飛び移るまでのわずかな滞空中に、スパイクと同じ要領で、赤の塗料が付着したナイフの切っ先の照準を指先が旗に触れる寸前に合わせ、奪取しかけた前原に投げつけた。
「うわっ!」
それは、枯れ葉が覆う地面に鋭く突き刺さるだけに
「危ねっ!」
「よく避けられたな、前原。…赤羽。前原はあたしが
「任せた」
ナイフを拾い上げてから、バイザー越しにあえて生かしておいた彼を見れば『ひっ!』と情けない声が出ており、眼前の崖を身軽に登って逃走される。
「青の生存者は、渚を除いて君だけだ。もちろん、逃がす手は無い」
「え、ちょっ、速ッ!」
「まだ序の口だぞ」
一定の距離と速度を保って背後につき、ライフルで断続的に射撃を加えて逃げ道を
「…おいおい。ここって――」
「あたしが原さんを射殺した
笑顔で彼に告げ、頭の中でペイントの残弾数をざっと弾き出す。
片手で構えたライフルの銃口を、自分より10センチ背の高い男子の眉間に、照準が一切揺れ動くことなく正確に合わせ、引き金に指をかけた格好を間近で見た前原は引き吊った笑みを浮かべた。
「片手で照準を合わせ続けるって、黒崎さんは普通にやってるけどさ。結構腕力使うだろ?」
「ああ。だが、実銃に比べればずっと軽い。心配してくれてありがとう」
コンマ数秒の機会を逃すような
「…やっぱ、黒崎さん強ェな」
「強くなんかない。努力し続けた結果さ」
「クソカッケェ…」
「ありがとう」
地面に倒れ伏す前原を放置して、足下に落としたライフルを再度肩にかけてから、赤羽と渚の行方を追った。
「気は済んだか?
「ああ…。どうする? 黒崎さんが最後の一人だけど」
渚にしてみれば、片腕で放り投げた自分を
赤羽を倒すために全力を使い果たした今の彼は、立ち上がる気力すらない。どうにか動く両手で青いペイント弾を
「『援護ついでに全滅させていいよ』と言われたけど、隊長が戦意喪失して降参するなら、隊員のあたしはそれに従うまでさ」
赤羽に背を向けたままの自分は、あえて意見を
「たしかに、俺はもう
「当然」
あたしは、もう笑っていなかった。
無感動な瞳で無表情のまま。他人から見れば、目鼻立ちが整った人形のように見える『暗殺者』の顔つきで、躊躇なく渚に発砲した。
華奢な彼は、
その一瞬を見逃さずに、即座に肩からたすき掛けに提げていたライフルを捨て、脚力で距離を詰め、立ち上がろうとする渚を仰向けに蹴倒し、両肩の上に両膝を乗せて馬乗りになる。クラップ・スタナー封じとしては有効なやり方だと自分でも思うが、拳銃とナイフ双方を抜く気はない。
「っ…!」
「降参するか?」
空いた左手で、彼の鼻から口元にかけて乱暴に
「そこまで! 青チームの戦闘不能により、赤チーム・殺す派の勝ちとする!」
最後まで言い終えるのを待ってから、まず塞いでいた鼻と口を解放し、プールから上がった時のように呼吸を
「…大丈夫か?」
「うん」
首を圧迫して本当に息の根を止めようとしたことは、全然謝らない。彼も赤羽に同様の真似をしたから、これでおあいこだ。
すすき野原での一件もそうだが、親友のメグと優月とは、今回も意見や姿勢で対立し、前のように笑顔で語らう機会が減っている。
「紬」
「なに?」
「さっき、本気で渚のこと殺そうとしてたよね」
「ああ。それが?」
「それがって…。紬は、躊躇ってものを知らないの?」
「言葉は知ってるけど、実践する気はない。味方を殺す事態も含めて、長年訓練してきたからな」
「人の心が欠落してるのね…」
二人が交互に意見しても聞く耳を持たず、メグが最後に発した言葉には、思わず鞄に教科書を詰める作業の手を止めてしまった。メグは同情の気持ちで言っていると頭でわかっていても、自分には非難に聞こえた。
だから、無言で席を立って鞄を背負い、彼女達と視線を合わさずに吐き捨てるように告げる。
「…そんなの、10年前から自覚してる」
ぴしゃりと教室の引き戸が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。