バレンタインデーの当日。
1週間ぶりに食料品を買い出しにスーパーへ行き、帰路でコートの中に入れていたスマートフォンが震えて着信を知らせる。液晶画面に表示された相手を見て、反対側のポケットに入れていたマイク付イヤホンを端子に接続した。
《…もしも~し。紬、聞こえてるかい?》
「ああ…、聞こえてる。どうだった? しのぶ」
《大当たりだぜ。触手の種の培養に成功してるが、今のところ、まだ誰も移植されてねェな》
「他には?」
《地上勤務の研究員は白。地下で働いてる奴らとは、過去に何かしらやらかした。いわゆる左遷先ってことで、誰も彼らに寄りつかない。倉庫番の役割しか与えられてないんだ》
「その情報と境遇を隠れ
《ご名答》
信頼している山鹿夫妻に情報提供し、ファイル名だけで中身をろくに見ずに全て渡したが、杞憂に終わらずに済みそうだとひとまず安堵する。
「解析早かったな」
《そこは俺がいるし、情報部の者を戦時中から潜入させてる。だが、犠牲になった人も子も大人も多い。救えたり救えなかったりの繰り返しだ》
「……」
《紬。お前さんは、運がいいほうの子供だ。今回の作戦で、被検体の立場での情報は些細なことでも助かる。…それで、気になるのが――》
信号が青に変わり、山鹿家へ向かう最後の横断歩道を渡る前に遠くからクラクションが鳴って、しのぶの声がかき消される。渡り終えてから、画面に映る少年の姿をした人工知能に、マイクを通して謝罪と共に呼びかけるとあっさり許してくれた。
「気になるのがなんだって?」
《去年、地下に異動になった情報部のヤツから聞いたんだ。お前さんとこの変化は、体以外でどうなんだい?》
「あるぞ。目に見える形でな」
やたらと建設ラッシュが続いているが、帰宅してここ数週間で走りこみと称した偵察の結果と、グーグルマップの航空写真版で印刷した周辺地図と照合すれば、E組校舎がある山を取り囲むように建てられていることに気づていた。
音速での世界一周から学校に帰った後、帰りのホームルームを終えてから教員室に
「烏間先生。今、お時間よろしいですか?」
「ああ。なんだ?」
「先生個人に頼み事があります」
「頼みごと?」
「はい。防衛省の人で信頼しているのは、烏間先生だけですから」
スポーツバッグから取り出した10枚程度の報告書を手渡し、『問題の研究所について』という表紙を一読した彼は、視線のみで中身を見て良いか尋ね、自分はそれを了承する。そして、話が終わるまで殺せんせーとイリーナ先生に席を外してもらい、自分と二人しかいない室内に沈黙が支配した。
『東亜総研』は静岡を本拠地にしており、研究所と偽装している。
報告書の内容は最小限で、触手の種が培養に成功していること。盗んだ情報の中に『シロ』こと柳沢の名前があり、生物兵器のさらなる運用段階に進んでいること。培養場所も、手書きの見取り図と共に記載していた。
これを基に最悪の事態を退けるため、現在の暗殺計画が成功した場合、使用している武器や衣服を作っている各社と取引をしたいが、防衛省の
「……本当なのか?」
「はい。協力者からの確かな情報です。この計画を進める許可を出していただけますか?」
現場責任者である烏間先生は、否と言えない状況に苦悩し、さらに事実を伝える。
「烏間先生が、黒
「目に浮かぶな…。わかった。2週間後に答えを出す」
「ありがとうございます」
嬉々として深々と頭を下げて感謝を示す自分に対し、報告書を整えて鞄にしまわれる音を聞きつつ、頭上からしっかり釘を刺された。
「ただし、うまくいくとは考えないでくれ」
「はい。わかりました」
『その時は別の作戦を考えていますので』という言葉が喉まで出かかり、どうにかそれを飲みこんで頭を上げると、烏間先生は微笑むでもなく、生徒である自分を
3月2日、金曜日。
この日は『検査』というより『暴行』になっていた。
性格がクズでも優秀な研究者を一人失ったことへの腹いせで、二人態勢に改善されたらしい。
部屋の外側にある電子錠が機械的な音を立てて、扉が自動的に開いた。中年3人と若者1人という年齢が違う男達が次々に入室し、自分を品定めする中、自分に前回同様強力な媚薬を投薬した男が
「これが試験で生還し、触手の種を移植しても生き延びた個体か。従順でない不良品でも、闇市で通常より高値で売れるぞ」
「
「黒脛巾一族は東北か。完全な碧は珍しい」
中年共とは違って唯一の若者は無言を貫き、会話に入ってくる様子がない。
「これより検査に移行する」
中年男が言うや否や、両足首を縛るベルトがきつく締め直され、下心があるいやらしい手つきでふくらはぎから太腿へ向かって触られる。下腹部を下着越しに押しつけられ、その感覚に恐怖を覚えたが声はどうにか我慢できた。
「我々で楽しんだ後で
5発の銃声。
弾丸は正確に眉間を撃ち抜き、視界にグロック19の銃身と若々しい片手。体に覆い被さる白衣が映る。
「はい。君は、外のヤツらを頼んだよ」
「り、了解」
若い男は裸同然の自分から視線を逸らし、銃口を下にして、自動拳銃と予備弾倉を握らせてくる。男の顔に見覚えがあったが、確証は得られない。
「あなたは…?」
「暗号名は、
「はい」
お互い暗号名だが素性を明かし、彼が爽やかな笑顔で言った。
「介入が遅れた上に、嫌な思いをさせてすまない。『敵を
「そうですけど…」
「この部屋の安全は、しのぶと僕が保証するから、君は着替えて」
しのぶと《瑪瑙》の名を出されては、今はとりあえず信じるしかなく、素早く私服に着替えた。
「味方は?」
「地下6階から7階まで、各階に5人ずつ潜入してる。救出部隊としては少ないけどな」
「わかりました」
しかし、その割に外は静かだ。武器を点検し終えて、今日のために購入したブルートゥースヘッドセットを片耳に装着すると、しのぶが勝手に回線を繋いで話しかけてきた。
《準備はいいかい?》
「ああ。……『ハヴォック』より《瑪瑙》各員へ。これより、『頂上作戦』を遂行します」
独立した回線の向こうで、総勢10人がそれぞれの暗号名と共に、自分の呼びかけに応える。