「……」
年が明けた、2011年2月上旬。
眼前に1枚の通告書がある。
内容を端的に言えば『来月からE組に行け』というもので、朝のホームルームで担任から手渡されたそれを、自分はたいして驚きもせずに数秒眺めていた。
「黒崎さんがE組に?」
「嘘だろ?」
同級生の同情が聞こえたが、それを無視して文面を内側にして四つ折りにして、何気ない顔でB組の教室を出た。廊下の窓を背にして立って、ひらりと手を振る男子生徒に事務的な口調で淡々と事実を告げていく。
「最近、授業に集中できなかったのは事実だ。潔く受け入れよう」
「それは、君が父親の介護を自分の時間を
「いや、大丈夫だ。浅野学園長の決定に間違いはない。だから、それ以上何も言わないでくれ。榊原」
「ッ…」
彼の言う通り、これは不可抗力だ。
毎日翌日の弁当を仕込むついでに父の分の夕食を作っては、介護が終わって筋トレをやり、早朝に走りこみをしてから父と自分の朝飯を食い、登校時間ギリギリに間に合うように通学する。唯一の楽しみと言ったら、去年の2月から通っている、クラヴ・マガという実戦を想定したイスラエルで考案された近接格闘術教室に参加することくらいで、正直気が滅入っていた。
何はともあれ、隣のクラス――A組――にいる幼馴染と同じ声を持つ榊原の肩を軽く叩き、1時間目の授業の準備をするために教室へ戻った。
「来月からE組になる」
「はっ! 元々落ちこぼれだ。対して変わらん」
「黒崎さん! それは言っちゃダメです。紬さんが勉強と並行して、あなたの介護をしてるのにあんまりじゃないですか!」
「いいですよ、高野さん。結果が全てですから」
「過程も必要なの! 紬さん解ってないわ!」
彼女だって父の介護で心配なのに、自分に対して心配して怒ってくれることに感謝して、涼しい顔で食事を続ける。
幼少期に物理と精神双方で暴力を振るっていた父は、娘を心配せず何も言ってこないため、自分が下して要求した決定は投げやりに近い言葉で了承される。だから、去年優月と2人で仙台に女子旅をするなど、普通の親なら心配して猛反対する提案に二つ返事を返した。
月明けの3月1日。
今日からE組に通うことになり、本校舎から1キロ先にある山小屋の校舎へ向かう坂道の途中で、見慣れた後ろ姿を駆け足で追い、声をかけながら軽く肩を叩く。
「おはよう。メグ」
「おはよう…? え。紬?」
「ああ。今日からE組に転入したんだ」
もう一人の親友・片岡メグとは、1年の文化祭の委員会で出会い、責任感が強いことや統率力があり、なぜか女子にモテるという共通点から気が合って、優月同様一緒に出掛ける仲だ。
「紬は元気ね」
「そういうメグは、どうして落ちこんでるんだ?」
この発言を耳にした周囲の同級生に、『マジか、コイツ』とでも言いたげな表情をされるが、そんなことでウジウジされても
唇を
「だって、エンドのE組よ? 落ちこぼれの烙印を押されたのよ?」
「だからなんだ。落ちこぼれでも、まだ学校に通えて勉強ができる環境にあるだろう。そんな下らない烙印なんざ、好きにつけとけ」
ひらひらと手を前後に振って
「どうして楽観的なの?」
「ただの現実主義者だ。死なない限り、与えられた環境に適応するだけさ」
山道を登りきって木造校舎にたどり着くと、周りは緑に囲まれており、校舎は想像とは違って頑丈な造りをしていた。正面玄関を突っ切れば、古びてはいるが靴箱も見受けられる。
「今日から森林浴し放題だな」
「考えが積極的過ぎる」
「消極的過ぎるよりかはマシだろ? おはよう。優月」
「ああ…。うん。おはよ…」
どうやら、この環境を積極的に受け入れているのは自分だけらしく、他は全員沈んだ顔をしていた。
E組担任は女性の雪村あぐり先生で、1人で全教科を受け持っており、ゆえに教室の隣にある教員室は、大量の教科書や教材であふれている。
「優月、メグ。探検しに行こう」
「そんな小学生じゃあるまいし…」
「紬1人で行きなよ」
「わかった」
『え?』
「ん? ただ誘っただけだから、断られば潔く諦める。無理
弁当を食べ終えて正面玄関口まで突っ切り、靴箱の前で上履きからニューバランスのスニーカーに履き替え、まず校舎の裏側に回り、運動場と相
自然に囲まれていると心踊る。
いや。休まると言えばいいだろうか。
風に揺れる葉っぱの音や水のせせらぎが耳をすませば聞こえてきて、木漏れ日の下にいると居心地が良かった。
しかし、そんな心地いい環境は、すぐに途絶えた。
E組に転入した3日後の深夜。
寝たきりの父の容態が急変して、搬送中に口から血をこぼして
翌日の土曜日。速報でなんらかの原因で月が爆発し、三日月の形になった。状況を報せるアナウンサーが、『一生三日月しか見れない』と嘆いていたのを覚えている。
三日月になって2日後に登校すると、担任の雪村先生が一身上の理由で退職されたらしく、その翌週に1人の転入生が窓辺の席に座っていた。
「おはよう」
「おはよう。私、今日から転入してきた茅野カエデ。よろしくね」
「あたしは黒崎紬。よろしく。茅野さん」
緑に染めているのだろうか。髪をツインテールにした彼女に握手を求めれば、笑顔で握り返され、隣を見ると自分の見間違いではないと確信する。素通りしてしまったのが申し訳ないくらいだ。
「渚。髪型変えた?」
「うん。茅野さんにやってもらったんだ」
「そっちのほうが似合ってる」
「ありがとう。黒崎さん」
首元でひとつに結っていた頃に比べれば、すっきりしている。彼の顔にいくらか笑顔が戻ったことに安堵し、
「ねぇ。それ重いでしょ? 置いてきたら?」
「ん…。そうだな」
本当は教科書の類と弁当だけなので重たくないが、転入生の厚意を無下にしないために一言断って、一旦スポーツバッグを自分の席に置きにいってから、再度茅野さんのところへ戻った。
「茅野さん。今日の昼休み、一緒に弁当食べる?」
「いいね」
「本当は外で食べたかったんだけど、こんな天気だからな…」
「ううん。その気遣いだけでも嬉しいよ。ありがとう」
転入生がE組に来た日は、あいにく朝から雨だった。