仄暗い。
未だ宵闇が明けない昏がりの山岳。
冷たい風がそよぎ草波を撫でる緑丘の草原。
「惜しい。今一歩といったところだったか。残念だ。刻限切れだな」
切り立った岩山の上に胡座を描き座る人物、いや、人というには異様な出で立ちと背格好の偉丈夫。
額には捻れた左右非対称な大角が二本。口元には長い牙。長い朱入り混じりの白髪に丸太のような手足と胴体。
それは人の姿ではなく『鬼』と呼んだ方が相応しい。
口元に生え揃う歯牙でバギンッと半身の刀を噛み砕き破壊する。
その巨軀の鬼が坐る大岩の下に這い蹲るズタボロの着物を着た男は全身血濡れの傷だらけで荒い呼吸を繰り返して死んでしまいそうだ。
「嫁も娘も髪の一本から骨まで柔らかくとても美味かったが、夫のお前はたいして旨くはなかった。やはり喰うなら女子供が一番いい」
今にも息絶えてしまいそうな瀕死の男が折れた血濡れの刀を震える手で握り締め、途切れ途切れの吐息と血と言葉を吐き出す。
「…………妻、と…………娘を…………返、せ…………っ!」
「返せ、と? これは異なことを。献上品として差し出された供物を頂いたまでのこと。我は対価として其方ら人を天の災厄を退け、病を癒し、敵から護ってきたというのに。我、朱天童子はお前たち人とは違い約束を違えたこと一度たりとてないぞ」
「…………殺、して、や…………るっ! 貴様、も…………奴ら、も…………っ!」
足掻き、悶餓き、すでに視えない虚ろう眼で愛する者を奪った憎き仇を睨む。
「同じ人に自らの身内を差し出されたというお前を不憫に我も想う。故に我が血を委ね、お前を眷属にしてやるというのだ。そら、肉体がそろそろ変化し始めた。我の血を受けて堪え生き得ればの話だが」
「────ぎぃっ────がぁっ────あぁぁア"ア"ア"────」
「人として最後に強く思い描いた事柄がお前の『型』を造り、姿となる。お前はどんな形の鬼になるのだろうか。そういえば前にひとり薬師が我に訪ねてきたことがあったな」
戦うために鍛え上げられた筋骨隆々だった肉体が収縮する。太い骨格が軋み上げ嫌な音を立てて変形する。
臓腑が綯交ぜに、骨々が組み変わり、肉が内側から溶ける。それはまさに地獄の苦しみ。数多の拷問すら温く笑い飛ばす痛み。
男の焼けた脳裏に廻るは、美しく儚い自分には勿体無いくらい出来た最良の妻。来月には幼馴染と婚姻を控えた微笑みを浮かべる綺麗な可愛い愛娘。
これからももっともっとずっと生涯幸せに生きていくと信じて疑わなかった。
それらはもう二度と叶わない。
人の陋劣なる悪意と腐り濁りきった負なる邪まさに堕とされ汚され目の前の忌まわしい鬼に喰われてしまったのだから。
すまない…………すまない…………すまない…………すまない…………
弱い自分で。力無き自分で。
守れず。救えず。
自分が代われたらどれだけ良かったのに。
自分が身代わりだったらどれほど良かったのに。
「ん? これは…………なるほど。お前が最後に想うは妻と娘。その『型』か」
男の身体は新たなる肉の器を形作る。
しなやかで細くもしっかりと膨らみと柔らかさを持って。刈り込んだ短い黒髪は白く色が抜け長く艶やかに伸びて。
額に歪んだ片角先が生えて。
視えなかった瞳を朱く染めて。
可憐な麗しいげな唇からは似つかわしくない鋭利な牙を揃えて。
「うむ。よく似ているな。我が喰ろうたお前の妻と娘に瓜二つだ」
「コロ、ス…………キサマヲ、コロス…………コロス、コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」
変わり果てた異形が咆哮を谺せる。
薄っすらと差し込む明かり。
山裾の遮蔽、深い嶺から少しずつ陽が昇り覗き始める。
照らす山間。
夜明け。
辺り一面に青い彼岸花が咲き乱れていた。
気が向いたら書く駄文。