テスト。それは実に退屈で憂鬱な作業。それでいて、学校に通う上では避けては通れないもの。
社会を知ったように語る大人達が言うには、勉強すれば如何様にでもなるらしい簡単なことらしいが生憎私たちは学生。まだ若いので勉強こそが一番面倒くさいものであるのは間違ったことじゃあない。
(ま、困ってんのは美鈴の方なんだけど)
今頃補修なる面倒くさいことこの上ない作業を強いられている友人を思いながら、さっき買ったクレープを食べていく。……うん、ホイップが甘い。
「──やあ。一昨日ぶりだね?」
歯の浮くような言葉が似合いそうなくらいには爽やかな声が聞こえてきたのは、クレープがほぼ食べ終わりこれから何をしようかと考えていたときだった。
溜息がどうにも最近多くなったと感じるがそこについては気にせず、ゆっくりとその声の主に目を向ける。
平均よりも大きな背丈で綺麗な黒いスーツを着こなし、如何にも社会人ですと言わんばかりの男。こんな夕暮れ間近の公園には似合わないこいつの名前は確か、そう──。
「あー、確かあんたは──」
「翼だ。
そうだ。確かにそんな名前だったなと、一昨日のことを思い出す。
一昨日──あの少しばかり嫌な気分になった日の帰りに声を掛けてきたやつこそ、この男だったのだ。
「……何のようだよ? 今日はうるさく言われなきゃいけない夜じゃねえーぞ」
「まあ……確かにそうだな」
ちょっと強めに言葉を発すると、虹原は困ったような表情をしながら首に手を当てて近づいてくる。
そういえば、この間も似たような顔をしながらこちらに声を掛けてきた気がする。普通、帰りの遅いな女子高生にはもっと違う風に言ってくるもんだが。
「……んで? またくだらない勧誘か? 生憎受けるつもりはないぞ?」
とりあえず、牽制に近い形で先日のことを会話に出す。この見るからなお人好しに敵意はないが、あの話題について出されると癇に障りそうだし。
「──ははっ、随分と手厳しいな」
「当然だろ? アンタの面、まったく諦めたように見えないからな」
見れば分かる。この男は内に情熱を秘めた目をしている。
こういうやつはよほどのことが無い限りは折れない。少なくとも私のような中途半端が──あの一言でちょっとでも揺らぎそうになるようなやつが負かせるわけがない。……認めるのはしゃくだが、それは私が身をもって理解している。
だからこそ、取り合わないのが一番。少しでも早く日常に──なんてことの無い退屈に逃げるためには最善の選択肢のはずだ。
「──そうだな。正直言うと、諦めきれないってのが本音かな」
虹原は意外にも誤魔化してくることなく正直に答えてきた。
「君を見たときピンときたんだ。君には素質がある。──アイドルの素質が」
恥ずかしくはないのかと思うくらいまっすぐな言葉。それなのに、この男が言うと不思議と様になっているように感じる。
そう。よりにもよってこの男がスカウトしてきたのはアイドル。かつて何よりも憧れた──届きようのない
「……はっ、何度も言わせんな。やるわけねーだろ」
一昨日と同じように、不必要に強い拒絶の言葉を口にする。
どうかしている。私に出来るわけがない。私が
動揺を出さないよう注意しながら鞄を持ち直し、今すぐにでもこの場を離れようと椅子から立ち上がろうとした。
「──待ってくれ」
それは立ち上がって虹原に背を向けた私に向けられた言葉であることは間違いなかった。
それでも答えるつもりも振り返るつもりもない。もう会話は終わったのだ。とっとと家にでも帰ってゲームの続きでもしよう。そうすれば、もうこんな辺鄙な奴のことは忘れられるはず──。
「──待ってくれ!!」
少しだけ先程よりも大きい声と共に、私の片腕が虹原に掴まれる。
こいつ馬鹿か!? 私がここで叫び声の一つでもあげりゃここで捕まるんだぞ!? いくらせっぱつまってたとしても、普通そこまでしないだろうが!?
「……んだよ。もう話は終わっただろうが」
「理由を……理由を聞けてない。君の口から、ちゃんと」
言葉にした後、自分の行動の意味に気づいたのか少し不安そうな表情に変わる虹原。それでも琥珀を思わせる飴色の綺麗な瞳がまっすぐに──逃げることを許さないと言わんばかりに、こちらを見据えて離れない。
また一つ零れた溜息を自覚しながら虹原の手を振り払い、再度彼に向かい合う。
「あんた馬鹿だろ。一歩間違えば牢屋行きだぞ?」
「……それでも、諦めきれなかったんだ。だって君は──」
本当に興味の無いようには見えなかったと、虹原は先程よりも熱のこもった声色でそう口にした。
二回話しただけのこいつにそう見られるなんて、私はどこまで滑稽なんだろうか。それとも、自分が誤魔化せていたと思っていただけで、皆見ない振りでもしてくれていたのだろうか。
だとしたら実に滑稽、まごうこと無き道化じゃないか。そこらで遊んでいるどんな子供よりも幼く拗くれた存在。いや、それすらも分不相応な評価であるくらいのゴミだろう。
「……あれ奢れ。そうすりゃ掴んだ行動分くらいは話してやるよ」
「──ああっ!!」
広場にあった出店を指しながらそう言うと、虹原の表情が子供のような笑顔に変わる。
こんな我が儘言われたならちょっとは嫌な顔を見せろよと呆れながら店に向かって歩き出す。……とりあえず、何を頼もうかな。
先程のベンチに座り直しぺろぺろと螺旋に巻かれた白色の甘味に味わうが、先程とは違った気まずさを感じる。
なりゆきとはいえ、無駄に金を使わせてしまったことに申し訳なく思うし謝った方が良いか。
「……あー、悪い。奢らせちゃって」
「──ん? いいさ、俺も食べたかったし」
少し離れた隣でアイスを食べながらそう答える虹原。
なんていうか、少しくらいは文句が出ても良いと思うのだが。普通こんな年下のガキに物集られたりしたらちょっとは嫌になるだろうに。
やっぱこいつ馬鹿なのか。それとも馬鹿だと思えるくらいにお人好しなだけなのか。……別にどっちでも良いか。
「それで……あー、何だっけ? 理由だっけか?」
「ああ。君がアイドルをやりたくない、そのわけを聞きたいんだ」
アイスを食べきって一息ついた後、ようやく話を再開する。
といっても話すことなんてしょうもないこと。それこそ、さっきのアイス一つですら釣り合わないどうでも良い──私の恥。
それでも、今だけは話しても良いかなと思えるのはどうしてだろうか。こいつの人柄だと思うのは何か気にくわないのでそれっだけは違うと考えよう、うん。
「……似合わないかもしれないけど昔はさ、アイドルになるのが夢だったんだ」
一度言葉にしてしまうと、実にするすると零れ出てくる私の恥。
そして中学のある時思ってしまった。あの人は唯一にして絶対の光で、かつて見た──誰もを虜にする
忘れてしまえば良いものをは思う。けれど、時々忘れることすら言わんばかりに脳裏を過ぎって離れない。
自分でも言うのもあれだが、なまじ他よりも外側が良かったのも自惚れた原因の一つ。歌も踊りも少し練習すれば熟せていたのだってそうだ。──もう少し頑張ればきっと
「……だから嫌いなんだ。あの至高の輝きよりも淡いくせしてアイドル名乗ってる奴らが。……それにすら届かない
噛み締めながら零したそれ──今日まで貯めに貯めてきたアイドルへのやっかみはただの嫉妬。こんな意味の無い言葉を並べずとも折れたの一言で済む。そんなありきたりでつまらない話でしかなかった。
「アイドルってのは自分に誇りを持てないと輝けないってのは知ってる。──だから、私にはできっこないってこと。分かった?」
過去の自分を、今こうして過去を後悔している私を罵るように言葉を締めた。
こんな女々しく人に話すのは初めてだ。普段は比較的仲が良い親戚にですらこんな風に言うことはないし、もしかしたら初めてかもしれない。
こんな情けない感情の吐露に律儀に付き合ってくれた虹原には悪いが、これで私が拗くれてて相手する価値のない人間か理解してくれただろう。ちょっと容姿が優れていたとしても、今のアイドルにリスペクトを持てない奴が芸能界に相応しくないことくらい、仮にもプロデューサーなら知っているはずだし。
「──ははっ」
「……んだよ? 何かおかしかったかよ」
「いや悪い。ただ、君がアイドルに興味が無い訳じゃないってことが嬉しかったんだ」
──何を、言ってるんだこいつは。今の話を、これっぽちも聞いてなかったのか。
「だって君は、自分にとって絶対に譲れない
……どうかしている。さっきの気持ちの悪い──それこそヘドロに負けず劣らずな濁りきった言の葉を聞いてどう頭を回したらその結論に辿り着くのか、生憎私の頭では理解できそうにない。
「君がどれほど高い星を見ているのか、俺は君じゃないから何となくしか分からない」
「……」
「だけど、それは君がアイドルにならない理由にはならない。──君が夢を追い掛けない
それは
……自分では区切りは付いていた気になっていた。けど、人に言われるってのは随分と堪えるもんなんだな。
「だからもし。もしもう一度夢を、君の
ここに連絡してくれと、私に一枚の紙を握らせてこの場から離れていくのをぼんやりと見つめる。
もう一度、か。何ともまあ安っぽい──単純で直線的な勧誘だ。
空はすっかり夜に近くなってきた。けれどどうしてか、この場から離れる気にはなれなくて、もらった名刺にただただ視線を向けるだけで時間が過ぎていった。