初めてのバレンタイン
音無夢唯。それはちょっとだけ世間に浸透し始めたアイドルの名前だ。
アンティーカや放課後クライマックスガールズ、アルストロメリアなどの有名ユニット達が所属する283プロ。そこに新たに名を刻んだアイドル。一般的には、最近注目されている新人アイドル達が凌ぎを削る登竜門的存在──通称W.I.N.G.で頭角を表した類稀なる新星。そして誰にも知られてないことではあるが、某SNSにて炎上常習系アイドル夢見りあむと1時間にも渡る不本意的公開レスバを繰り広げた、色々と期待されている新人である。
──そんな彼女は今、かつて無いほどの選択を迫られていた。
事の発端は何気ない日常の切れ端だった。
『いよいよ今年もこの季節!! もう冬も開けようというこの時期のメインイベント!!』
それは最近では珍しくなった完全オフの日。どうせやることもないし、体を動かそうとレッスン室の鍵を拝借しようとした時のこと。事務所内でどうしたか付いていたテレビが原因だ。
2月中旬。冬と春のちょうど中間の、寒くもあり暖かくもある微妙極まりない季節。そして多くの若者達の胸をざわつかせる行事──バレンタインデーの到来である。
最近は初々しい男女の一幕というよりも、ただ慣習に便乗した形でチョコを送り合うものに変わりつつあるだとか眉唾な話もある。それでも、街がピンクな雰囲気を抱き始めることには間違いないイベント。いかに縁がなくとも、慕われていなくとも愛想は良くしておけば、もしかしたら一つくらい恩恵がある……はずである。
──まあ私は浮かれる大多数とは違い、今ようやくこんなものがあったなと思い出したのだが。
……しょうがないと言えばしょうがないのだ。だって、ちゃんともらったことないし、自分からあげたこともないのだから。
一度仲の良い親戚の方に『素直にならないとどんどん機会がなくなりますよー』とクソほど真面目な顔で言われたこともあるが、生憎献上する人もいなければばら撒く気にもなれなかったのが今までだ。
だが今年は少し違う。ちょっとだけ、ほんの僅かだが、悩まなければならないくらいにはあげるべきか迷う人が近くにいた。
虹原翼。それは私を星に押し上げようと毎日を駆けるプロデューサー。──私よりも私を信じる大馬鹿者の名前だ。
別に卑しい下心とかいうわけではない。仕事においては頼もしさも感じさせてくれる男ではあるが、こんな
しかし、やっぱり日頃お世話になってる身としては、こういう場を借りてでも感謝を表すべきなのだろうかと考えてしまう。好きか嫌いかで言えば好きではあるし、あげたいからあげたくないかで言えばあげたいと思ってはいる。
ここで問題なのは、何をあげるかということだ。
一度事務所内で待機中に本を読んでいる時、同じようにプロデューサーを待っていたアイドル達が会話しているのが聞こえたことがある。
全部は聞いてなかったし、私が会話に参加していたわけでもなかったからよく覚えてもいないが、それでもプロデューサーになんかこう、形容し難いくらい重い感情を抱いてそうなくらいにはしっとりした声色だったのは覚えている。
恐らくだが、あの男は尋常じゃないくらい気持ちのこもったチョコを大量に貰うのだろう。少なくとも、今年の甘味には困らないくらいには充実した記念日になりそうだというのが容易に想像できてしまう。
……だとしたら、私はあげても良いのだろうか。目下最大の悩みの種はその点である。
特に何か籠もっているわけでもなく、桃色の気持ちというわけでもない物。──そんな程度の感情で、あの意気揚々と準備を進めている集団に割り込むのは失礼ではないのか。そんな風に考えてしまうと尻込みしてしまうというものだ。
……でもなぁ。あげなきゃあげないで、何かもやっとしたものを残して今年を進めなきゃいけない気もするし、それはそれで嫌なんだよなぁ。
『そんなわけでこちら!! 今流行りの一品!! 間違いなく、彼の心をほっこりさせる一品でしょう!!』
最早レッスンどころではない、最近では珍しい頭を使う葛藤に悩まされていた私。そこに舞い込む情報はまさに天からの救い──神からの啓示にも等しいほど思考を貫いた。
──これにしよう。これなら迷惑にもならないだろう。
意外とあっさり決まったことに驚きながら、すっきりとした思考でテレビの電源を落としてレッスン室に向かった。
そんなわけでバレンタイン当日。月日が経つのは早いものだ。
こんな甘ったるい日だというのに、あいも変わらずデスクに向かい、せっせこ作業に勤しむ我がプロデューサー。変化があるとすればデスクの上にいくつかの贈り物が置いてあることくらいか。
予想通りラブコメ並みに貰ってるのを確認しながら、ゆっくりと準備に入る。
……お節介にならないだろうか。いや、考えても仕方ないな。あげてみて苦い顔したら忘れて貰えばいいし、出たとこ勝負で良いだろう、うん。
「プロデューサー。コーヒー入れたけど飲む?」
「──頂くよ。丁度、なくなったところなんだ」
知ってるよと内心呟きながら黒い液体の入ったカップ、そして小洒落たデザインの袋を2つ、デスクの上に置く。
「──これは?」
「……バレンタインってやつ。あんたは充分貰ってるたぁ思ったけど、まあ気持ちくらいはな?」
意外と照れ臭いのを態度に出さないように気を付けながら、近くの椅子に腰掛ける。
「ありがとう。……開けてもいいか?」
「……良いよ」
ゆっくりと丁寧に袋の紐を解き中身を取り出すプロデューサー。中から出てくるのは小さく透明な袋で一つ一つに分けられたもの──一口サイズのチョコマフィンであった。
「……美味しそうだな。手作りか?」
「ああ。お菓子作りなんざ初めてだったが、まあ味見はしたし問題はねーはずだぞー」
予想よりもバクバク言ってる鼓動音を実感しながら、それでも何てことないように話を続けていく。
「コーヒーの方もちょいと考えてな? 巷で話題らしい、チョコに合う銘柄ってやつを入れてみたんだよ」
そう、あの日流れていたのはこのコーヒーである。
こういう女──いや、アイドルたらしに必要なのは甘さではなくそれと合うもの。故にこのコーヒーを見た時ピンと来たのだ。
マフィンの方はおまけだ。コーヒーだけ贈っても何かつまんないなと、ふと謎のテンションが到来してしまったのだから仕方ない。まあ味の方は問題ないし、このコーヒーにも合うのは自分で試したから大丈夫……だと思う。……多分。
そんな風に若干不安に思っていたら、目の前のプロデューサーはもう既に袋を開けマフィンを口に放り込んでいた。
「──ん。美味しいな、これ。コーヒーもよく合ってる」
こっちの気持ちも露知らずといった様子で感想を口にするプロデューサー。
何てことない一言。けれど、どうにもむず痒くなる一言だ。
「……そか。なら良かった。…………んじゃ、レッスン行くわ」
「──ああ。行ってらっしゃい」
今は何でかプロデューサーの顔も見れる気がせず、どうにもこの場から離れたいと、レッスン室の鍵を借りて事務所から飛び出る。
これが初めてのバレンタイン。なんとも形容し難いフワフワとした季節行事だ。
──ああ、春はまだ遠いというのに不思議と熱のこもる1日であった。
おまけ的なやつです。
ちなみにこの話ではほとんど関係ないですが、イルミネとストレイはほぼ同期。ノクチルはまだ未加入。他は先輩となっております。