黒死牟は無惨と共に、とある波止場に来ていた。人の気配の途絶えた、月の明るい深夜である。
波止場には、釣り人の捨てた小魚やフナムシ、カニの死骸があちこちに散らばっていて、潮の匂いに混ざった腐臭が鼻をつく。無惨は係留された黒い船影に向かって迷わずスタスタ進んでいて、黒死牟はその歩みに従って、黙って歩いている。
兄が異国から帰ってくる────無限城で無惨にそう告げられ、次の瞬間、琵琶の音とともに二人はこの波止場に送られた。
今まで無惨から兄の話なぞ聞いたことがなかったので、黒死牟は少々面食らっていた。鬼の始祖に血縁がいるとは思ってもいなかった。
付き合いの長い黒死牟でも見たことも聞いたこともない、鬼舞辻 無惨の兄という存在。
いくつか疑問が湧いたが、無作法に問うことは憚られた。明るい月光に照らされて長く伸びた無惨の影に、黒死牟は黙って着いて行く。
「私の実兄だ。千年前に、私が鬼にした。私の許可なく勝手に異国へ出奔した、頭のゆるい愚か者だ」
黒死牟の思考を読み取ったのだろう無惨が、後ろを振り返ることなく告げた。内容のわりには怒っている風でもない。どこか苦々しく、げんなりした口調だった。
「……長い事異国に……居られたのですな」
兄弟との再会に良い思い出などない黒死牟であるから、常とは違う、無惨の煮え切らない態度にも訝しく思うことはない。
無惨は背中を向けたまま、ヒョイと肩をすくめた。
「青い彼岸花を探すと言ってな。唐あたりを網羅して、現在は欧州に渡っていた。三度ほど帰ってきた事もあったが、お前と顔を合わす機会はなかった──必要なかったからな」
鳴女もいなかった、と無惨は添えた。
確かに、鳴女が血鬼術を開花させるまで、鬼の会合はここまで気軽でも、頻繁でもなかった。数十年顔を合わさぬこともザラだった。
「……これだけ時間を掛けても成果を出せなかったというのに、先月、呑気に帰国すると連絡があった」
吐き捨てるように無惨が続けた時だ。
目指していた船の一隻から、ヒラリと人影が飛び降りた。明らかに人でない跳躍力と速度で、こちらへと距離を縮めてくる。
黒死牟は自身より強い主の前へと踊り出た。
「無惨! 会いたかっ──ひでぶ‼︎」
グシャッ!
両手を広げて駆け寄ってきた人影の上半身は、黒死牟をまたいで伸びた太い鬼腕によって潰された。
「コレが兄だ」
異形の鬼腕をジュルジュルと戻しながら、無惨が淡々と言った。冷たく光る赤い瞳に、黒死牟は「……承知」とだけ返した。
わざわざ迎えに来るくらいだから、そこまで不仲ではないのだろうと考えていたが。
「ハッハッハッ、置いていかれて寂し──あべし‼︎」グシャッ。「兄も寂しか──うぼべ‼︎」グシャッ。「そんな無惨も可愛い──あわびゅ‼︎」グシャッ。「土産を沢山──うわらば‼︎」グシャッ。「笑顔を見──べがふ‼︎」グシャッ。グシャッ、グシャッ、グシャッ、グシャッ、グシャッ、グシャッ──
そんなやり取りが五十回は続いた。
見事にミンチになった兄上の肉体は、驚異的な速度で復活を繰り返していた。恐ろしい回復速度で、いささかの衰えもなく、瞬く間に元通りになる。血鬼術を使っている風でもない。
身のこなしから、兄上が武芸に秀でているわけではないと確信した黒死牟であったが、もしこれを抑えるとしたら少々面倒なのでは、と思い始めるくらいには、際立った回復力を有する鬼だった。
流石は千年生きた始祖の血縁だ、と黒死牟は感心していた。断末魔は汚いが。
「そんなに怒るな。この兄が悪かった!」
無惨が飽きた頃合いに、キリッとした男らしい眉をハの字にして、兄上が笑顔で嘆いた。
彼が月光を背にして背筋を伸ばすと、大きな影が波止場に落ちた。無惨と同じハイカラな洋服を着こなした、堂々とした大男である。黒死牟よりこぶし二つ分は背が高い。健康的な筋肉に覆われた巨躯に鈍重さはなく、溌剌とした活力に満ちていた。
歳の頃は、男盛りの三十代半ば。鼻筋の通った男らしい顔立ちは端正な作りで、朗らかで落ち着いた男性の色香があった。太陽のような笑顔が良く似合う、惚れ惚れするような偉丈夫だ。
生き生きと明るい表情といい、立派な体格といい、青白く不健康な風情の無惨とは全くもって似ていない。これと言った共通点を無理に上げるなら、品のいい美形、ということぐらいだろう。
「貴様、悪いと思っているのならすぐさまこうべを垂れろ。這いつくばって私に赦しを乞え」
ひどく冷酷な表情でツンと顎をあげて言い放った無惨に、兄上は喜色満面で破顔した。
「ああ、無惨! お前は本当に母上そっくりだ、なんて愛らし──ちにゃ‼︎」
性懲りもなく弟を抱き込もうと両手を広げ、兄上は再びグシャリと潰された。これが兄弟の挨拶らしい。
黒死牟は三歩下がったところで静かに血糊を避けていた。
「そろそろ懲りろ。それに貴様、何故さっきから抱きつこうとする。気色が悪い」
「ハッハッハッ! そう冷たいことを言うな無惨、ハグは良いぞ! 西洋の素晴らしい挨拶だ! 久々に会えた兄弟の絆を温めるには持ってこいだ!」
無惨は肩をあっさり抱かれて「醜い挨拶だ」と額にビキビキ青筋を立てた。こぶしで何度も脇腹をブチ抜かれている兄上は、白い歯を見せて闊達に笑い続けている。
「ひとまず、この兄の不甲斐なさには目を瞑って積もった土産話を聞いてはくれないか、可愛い可愛い我が弟よ」
「はぁ……。貴様の相手は、ほとほと疲れる」
肩を組んで覗き込んでくる兄上の顔面に片手で穴を開けながら、鬼の始祖は苦々しく諦めを見せた。諦め──苛立ちを引っ込めたのである。黒死牟が初めて目にする無惨だった。
「無限城に行く前に、双方に紹介しておく」
六つ目を見開いていた黒死牟は、主に顎をしゃくられ、夜の波止場に膝をついた。
「これは私の第一の側近で、黒死牟という。十二鬼月で最も強い有益な鬼だ。これが居なくなると私は困る」
「…………黒死牟と……申します」
もう少し気の利いた挨拶があったが、思いがけない手放しの評価に舌がもつれてしまった。垂れた頭を上げぬまま、黒死牟の心は仄かに沸き立ち、恐縮し、なんだか嫌な予感に襲われた。今宵は始祖の珍しい面ばかりを見せられている。
「黒死牟、コレは無情という。不快なばかりで取り柄はない。コレが居なくなっても私は特に困らない」
「そんなに拗ねた真似をせずとも良いぞ〜無惨」
真顔で言い放つ無惨の頬っぺたをつついた無情兄上は、弟に指をバキバキ、ゴキャリと粉砕骨折させられながら、黒死牟にはじめて視線を向けた。
「我が弟を満足させるとは、中々に見上げた子だ」
にこやかな笑顔は、爽やかに傲慢だった。生まれながらの貴人の覇気が、嫌味を感じさせない自然さで黒死牟を見下ろしてくる。ああ、ご兄弟なのだな、と黒死牟はようやく実感した。
陽の気を放ち、健康的で、鷹揚。陰の気を放ち、不健康的で、狭量。見る者に真逆の性質を印象付ける二人だったが、どちらも紛う事なき千年越しの高貴の生まれである。
「勿体なきお言葉に……ございます」
「何とも真面目そうな子だ」
兄上はのほほんとした人好きのする笑顔を浮かべて、うんうんと頷いた。目尻の皺を深くした彼から、大きな手のひらが伸び、黒死牟の頭目掛けて降りてくる。
「時に、黒死牟には兄弟はいるのか? 人であった頃、鬼になった今、どちらでも」
「は、……。人であった頃に……弟が一人……おりました……」
頭を撫でられている、という事態に黒死牟は六つ目を白黒させながら答えた。
「おお、そうかそうか! 君はさぞかし良い兄上だったろう。ほんに真面目そうだからなあ!」
ハッハッハッ、と底抜けに明るい笑い声が波止場に響いた。ガッシガッシと勢い付いた撫で方に、黒死牟は軽く頭を揺らしながら、足元にあるカニの死骸を見つめた。カラカラに枯れた、醜い死骸だ。
「……私は…………悪い兄でした……」
──ゴインッ! と激しい音を立てて、黒死牟の頭が波止場にめり込んだ。頬骨が割れ、鷲掴みされされた頭皮がブチブチと千切れる感覚がした。
「──悪い兄なのか?」
底冷えのする低音が降ってきた。兄上のもの。先程までの様子と一変した、憎悪を含んだ抑揚のない声だった。
「黒死牟、遠慮はいらんぞ」
無惨が軽々しい物言いをした。
「……」
兄上の膂力は鬼としてはそこまで強くない。返り討ちにするのは容易だった。そして幾ら始祖の兄といえども、世は弱肉強食である。身の程を弁えぬ弱者の鼻面を折ってやるのも、強者である黒死牟の役目だった。
けれど、黒死牟は黙して低頭を保っていた。歪な笛の形を思った。潮騒がごうごうと耳を打ち、頭蓋がパキパキとひび割れる気配がする。
「悪い兄は、無惨の側にはいらんなあ」
真夜中の波止場に、暗い声が落ちた。
すると、黒死牟はぞわ、ぞわ、と奇妙な流れに気付いた。漏れ出た自身の血が、頭を鷲掴みする兄上の手のひらへと吸い込まれている。
それは不吉な流れだった。逆流して、なにかが失われていく感覚があった。
なにか、と考えて、黒死牟が思い至ったのは、鬼の血だった。無惨から賜ったそれが、兄上へと流れ、吸い込まれているのだ。
「おい」
心底面倒臭そうな無惨の声がした。
「私はつい先程、これが居なくなると困ると言ったはずだが。もう忘れたのか?」
「大丈夫、この兄がかわりに頑張れば良いのだ!」
諭すような物言いとともに、鷲掴みされた手のひらの吸い込みが一層強くなる。黒死牟は自身の肉体修復の速度がどんどん弱まっていくのを感じた。良くない兆候だった。
けれど、身を起こそうとする度に兄、兄、と騒がしい主張が鼓膜を打つ。黒死牟はこの騒々しい兄上とやらに、少なくない嫌悪を感じ始めていた。感情の薄まった昨今にしては珍しい濃さの情動であった。
やはり切ろう、そう思った時だ。
「良い兄上が、かわりにお前の側に──」
「──貴様なぞいらん!」
絶叫のような無惨の拒絶とともに、強風が吹いた。押さえつけられていた手のひらの重みが消えたので、黒死牟は顔を上げた。
兄上の胴体が、半月の形に大きく欠けていた。無惨の膨れ上がった鬼腕が満足そうに咀嚼音を立てている。
鬼の血の濃い黒死牟でも、致命傷になりかねない始祖の一撃が行われたのだ。
「無惨〜何故怒るのだ」
そんな状態からでも、兄上は瞬時に回復した。空恐ろしい回復力である。
「……貴様は自分で言った事も忘れた阿呆だ。黒死牟のかわりになどならん」
「んん? またそれかあ、お前はいつもそう言って兄を責めるなあ」
ますます眉をハの字に下げた兄上が、不機嫌さを増す弟を見下ろした。
「可愛い無惨、そろそろ何の事だか教えてくれないか。この兄を憐れだと思って──あぶば‼︎」
「その愚かな頭に刻んでおけ……黒死牟は必要だ。手を出す事は許さん」
無惨は形の良い鼻に皺を寄せ、犬歯を剥き出しにして怒りをあらわにした。兄上はそれにパッと頬を染めた。
「ああ無惨──ひでぶ‼︎ その表情は──あべし‼︎ 母上に──ては‼︎ そっくりだ──げび‼︎」
大型の畜生がブンブン尻尾を振っているような喜び様だった。削られても潰されても、全く意に返さない。「やめろ! よせ! 近付くな!」と激しく嫌がる無惨との温度差が寒々しい。
真夜中の波止場に血が流れ、肉が飛び散った。騒ぎに誘われたように、潮騒が激しさを増す。ざぶんざぶんと波打つ海面が、月光を映して銀色に輝いていた。
黒死牟は兄弟の血まみれのジャレ合いを黙って見ていた。ひび割れた頭蓋はすでに回復している。出来の良過ぎる弟を疎ましく思い続ける悪い兄の頬骨も、頭皮も、すっかり元通りだ。
黒死牟は無性に剣を振りたくて堪らなくなった。全てを置き去りにして、ひたすらに型をなぞり、無心で強さを求めたい。
腰に刺した刀の柄を撫でながら、黒死牟は短いため息を吐いた。
「黒死牟」
「はっ……」
結構な時間を経て、げんなり顔の無惨から声が掛かった。弟の肩を抱いた兄上が至極満足そうに白い歯を見せてくるものだから、黒死牟もげんなりした。彼は表情を動かさないまま、始祖に対して尊敬の念を抱いた。こんなものを鬼にしたまま、千年も殺さないでおくなんて。
「コレはおかしな妄執に取り憑かれた病人だが、言って聞かせたので今後手出しはさせない」
遠い目をした無惨の言葉に、黒死牟は頷くしかなかった。
「帰るぞ」
──ベベン。
琵琶の音が鳴り、三鬼の姿は波止場から消えた。
鬼舞辻 無情
初対面で兄弟姉妹、家族関係に突っ込んできて、思ってた答えじゃなかったら自分棚上げでブチ切れるヤベェやつ。
その話題以外なら、いたって温厚。
マザコンでブラコン。ファザコンではない。
回復能力が凄い。
始祖の鬼にめっちゃ近いので、それっぽい能力がある。
吸い取っちゃうオジサン。
血鬼術は、なんかある(はず)