響凱は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の虫を除かなければならぬと決意した。響凱には作法がわからぬ。響凱は、屋敷持ちの鬼である。鼓を打ち、人肉を食して暮らして来た。けれども礼儀知らずに対しては、人一倍に敏感であった。きょう薄暮、響凱は屋敷を出発し、野を越え山越え、十里離れた村から守備よく稀血の母娘を攫って来た。
久方ぶりの成果である。鬱々しがちな響凱の心向きも、緩やかな高揚に転じていた。苦悩の末にたどり着いた、十二鬼月復帰計画への自負心に、心が満ち満ちていた。
「口笛……?」
であるのに、帰宅すれば、無人であるはずの屋敷の奥から調子っ外れな音がする。伸びて切れて、高まったかと思えば低くなる音程は、遠く離れた異国文化のものに相違ない。和音を打って生きてきた響凱からすれば、奇妙奇天烈、相容れない調べだった。
「余所さまの家にづかづかと入り込んだ挙句……!」
呑気に口笛を吹くなど、厚顔無恥も甚だしい。響凱は、手足を縛って猿轡をかました稀血の母娘を台所へ放り投げてから、怒髪天を衝く勢いで廊下を進んだ。
しかし、不快な音源へ近づくごとに、荒々しい怒りの大股が、焦燥感を募らせた駆け足へと変わる。口笛が、大切な執筆部屋から聞こえてくるのだ。屋敷で最も尊い部屋から、虫唾の走る音がする。
「虫けらが……!」
響凱はドタァン! と手荒くふすまを開け放ち、濃厚な同族の気配を放つ邪悪な害虫と対峙した。
「やあ、お帰り。ずいぶん遅かったなあ」
片手を挙げて馴れ馴れしく響凱を出迎えたのは、当然身知らぬ鬼であった。面の皮のぶ厚い陽気さを放ち、南蛮風の椅子にふてぶてしく大きな身体を預け、悪びれもしない態度である。長い足を偉そうに組んでいるので、畳の上で、飴色の革靴がツヤリと目立つ。その膝の上には、紙束が置いてあった。ヨレヨレの原稿用紙だ。執筆途中の伝奇小説で、著者は響凱である。
「──ガ、ァアア!!」
響凱は、絶叫とともに無礼千万の虫けらへと殴り掛かった。血鬼術を使う考えもなかった。プッツンきていて視界が真っ赤だった。
「うわ──あぶ‼︎」許さん!
「どうし──たわっ‼︎」決して許さん!
「怒っ──てはっ‼︎」虫けらが!
「悪かっ──たわばっ‼︎」虫けらの分際で!
「まあ待──ふぴゃん‼︎」小生の小説を!
「響が──いひ〜〜」その資格もなしに……!
「こりゃ──あびっ‼︎」虫め!
「いか──ああ〜」消えろ!
「ん──プア‼︎」死ね!
「なきめ──」死ね……っ!
────ベン。
唐突に、琵琶の音が響いた。その瞬間、馬乗りだった響凱の身体はガクッと支えを失った。全身全霊で害虫退治に励んでいたこぶしがメシャアッ! と畳床にめり込んでいく。
「なっ──」
「やれやれ、ビックリしたぞ」
呑気な声に振り向けば、虫けらが隣の部屋から響凱を見下ろしていた。ボコボコにしてやった傷はすでにない。恥知らずな笑顔で、いけしゃあしゃあと笑っている。
「ちょこざいな……っ!」
響凱は即座に、自身の腹部に埋め込まれた鼓を打った。ポンッ……! と小気味良い音が立つと、爪状の斬撃が虚空から飛来して、隣室へと襲い掛かる。虫けらは「少し落ち着──」などと両手を差し出していて、反応が鈍い。取った。
──ベン。
と、響凱が確信した瞬間、またもや琵琶の音色が響いた。すると、不届き千万の虫けらの姿は、いつの間にか廊下へと移っている。
響凱は、舌打ちしながら右脚の鼓を、左肩の鼓を、背中の鼓を打った。
──ポンッ、ポンッ、ポン……ッ!
──ベン、ベン、ベベン。
その度に、間髪入れず琵琶の音が響く。
二つの音が鳴る度に、図々しい虫けらの姿がパッパッパッ、とあちらこちらに消えては現れ、浮いては落ちた。天地左右、距離お構いなしで、隙あらば追い討ちの斬撃も見舞われる。振り回された虫けらは「あら──うわ──ひえ──ふお──のわわ──」と間抜けな声を漏らして苛立ちを煽ったが、すぐに響凱の眼中になくなった。
──空間を操る血鬼術……っ! しかも小生の鼓に、ついてくるだと……っ!
忌々しさに吐き気すら込み上がってくる。響凱は唾を飲みながら、我が身に埋め込んだ鼓を連打した。──プッツンしていた時も、その疑問は頭の隅にあったのだ。どでんと我が物顔で置かれた、南蛮風の大きな椅子の存在である。大柄な虫けらの身体を支えていた、重厚な作りの異国家具は、屋敷でも奥まった執筆部屋にあるべきでは無いものだった。必須、持ち込んだ方法に考えがいく。阿保面下げて鬼の膂力で運んで来たか、それとも、不可能を可能にする血鬼術か──。
──どこだ! 何処にいる……っ!
もう一匹の害虫を炙り出す為、響凱は目にも止まらぬ高速で、我が身に埋まった鼓を連打した。ただの連打ではない。夜の捕食者として力をつけて、ようやっと開花した血鬼術である。
──尚速、鼓打ち……!!
ポンッ、ポンッ、ポンポンポポポポポッ……、と切れ間ない快音が立てば、琵琶の音も続けざまに追って響いた。
ベンッ、ベンッ、ベンベンべンべべべン──。追って追われて、二重和音が屋敷を覆う。
空間を操る二つの血鬼術が、哀れな虫けらを軸にして、惜しむ事なく展開されていく。
「こ、のお……っ!」
しかし、響凱はギリリと歯噛みした。琵琶の音色に、余裕があるのに気付いたのだ。
琵琶の血鬼術は、ただの音でなく、流れる調べとなって響凱の鼓を追ってくる。このような状況でなければ、響凱をして見事、と聞き惚れるほどの響きであった。
──舐めおって……っ!!
彼はメラメラと対抗心を燃やした。琵琶の繰り手が、己より一枚も二枚もうわ手であることを理解した上で、このまま終わってなるものか、と奮起した。
同じ和楽器使いとして、同じ空間操作の血鬼術使いとして、両者は似通い過ぎていた。そのくせ、技量は隔たっているのだ。
──せめて、せめて! 舐め腐ったこの態度だけでも、崩してやらねば……っ! 小生は……小生は……っ!
「ぐぅぅううおぉっ……!」
響凱は奥歯をバキバキと噛み砕きながら唸り、鼓の連打を研ぎ澄ませていった。術を使うという意識すら薄まり、ひた向きに旋律を生み出していく。より洗礼された音色を。聴く者の心を捉え、動かし、天晴れよと認められる音を──。
その音は、ポンッ、という快音の連なりだ。
鼓は、太鼓とは違い、素人が打ってすぐ音が出る、というものではない。構え方や作法から、まず稽古が要る。打者の骨格や手のひらに合わせた打ち方を模索し、どこまでも試行錯誤を重ねるのだ。
そして、右手で打ちながら、左手は常に鼓の紐を操らねばならない。紐を握っては緩めて、音を引き締め──そうやって小気味良い快音を作り出す。
息もつかせぬこの連打術は、響凱の日々の稽古の集大成であった。
彼は人であった時から、鼓を打つことと、小説を書くことに、真摯に向き合ってきた。二足のわらじだ、と罵られもしたが、それでも響凱なりに、二つの事柄に一生懸命、心を傾けてきたのだ。それは鬼になっても変わらなかった。
響凱はずっと一心一意だった。
数字を剥奪されてからは、求める事柄がもう一つ増えたが──元より二心あらず。三つなら三つ分、増えた分だけ、苦しみを背負うのみ。
そうやって響凱は、辛く厳しい道を自らの意思で進んで来た。
そして今。幾百の快音が立ったのか──集中が過ぎ、己が何のために打っているのかすら、覚束なくなってくる。
──小生は……小生の生き様は……っ!
研ぎ澄まされていく一打一打に、ポンッ、と記憶が弾けては消える。『もう書くのはよしたらどうだい──』鬼になっても食わなかった人間が吐き捨てる。『数字は剥奪する──』期待を掛けて下さった恩ある御方が切り捨てる。
──努力は……っ、心は……っ!
快音が立った。立ち続けて、琵琶の音色と競い合った。『──紙と万年筆の無駄遣いだよ』踏みつけられた誇りがぐしゃりと。『──それがお前の限界なのだ』刻まれた誇りが、無様な傷跡に。
──決して、無駄ではない……っ!!
もちろん、全身全霊の追いかけっこの最中、ふと、響凱の気力体力が底を着きかける時もあった。誰にでもある、弱気な鬱々しさが首をもたげる一瞬だ。疲れた、もういい、どうせ──そのような諦めが、自然と浮かんでしまう瞬きである。
その度に、琵琶の音色が分かりやすく緩んで、響凱の鼓を待つ。──もう? こんなもので? と煽ってくる。その都度、誇り高き響凱は、人の身を超えた鬼の力を奮い立たせた。──まだまだ! 見ておれ! と底力を出して、己のこれまでの頑張りを鼓舞した。こんなものではないのだ。響凱のこれまでは、この程度で諦められる重さではない。
そうして昂って、鬱々として、また昂って、憤って──やがて思考のすべてが消えた。
理由を忘れ、ただ打つために、鼓を打つ。
音を出すために、全身を動かす。
打たねば、でも、打ちたい、でもない。ただ音色を生み出すことにのみ、心を傾けていく。
響凱は、忘我の境地に達していた。
ポポンッ……! ベベン──!
一心不乱の鼓の音。美しい琵琶の響き。
立ち響く二つの音色は、しばらく競い合い、やがて溶け合って合わさり、今や合奏となった。
──ああ……。
響凱の精神は真っ白になった。
法悦すら感じる音の連なりに、入り込んだ。
「────ハッ、ハッ、ハッ、ハァ……ッ」
荒い息を整えながら、響凱は強くしびれた手のひらを見つめた。いつの間にか、静けさが屋敷を覆っている。
あたり一面ボロボロだ。ふすまは破け、柱は折れ、家具や照明も砕けて、壁や、床や、天井にまで斬撃の爪痕が残っている。壊滅的な我が家の只中で、しかし響凱は、確かな充足感を得ていた。
──小生の頑張りは、認められた……。
取り戻した己の誇りを、噛み締める。忘我の彼方で、響凱は自信を掴み直していた。
──小生には、まだ先がある……っ!
琵琶の音色に、教えられたのだ。
彼の鼓を、簡単に抜き去っていく事ができただろう琵琶の奏者は──何度でも、響凱を待ってくれた。緩み、たわむ琵琶の音色の隙間に、確かな期待が乗っていた。──まだ行ける。もっとやれるはず。お前には、こうやって待つだけの価値があるのだから──と響かせてきた。
それは、格下への手心というには、真摯に過ぎる試みであった。
「小生はいまだ未熟……っ。未熟ゆえ、これからも精進するのみ……!」
決意とともに、響凱は己の手のひらを握り締めた。否定され続け、粉々になっていた元来の気高さが、憂鬱を払って真っ直ぐ立ち上がっていた。
「鼓に精進し、物書きに邁進し、再び数字を戴けるよう……小生は進み続ける……っ!」
今までと、目標に変わりはない。これまでは、鬱々とうつむいて進んでいた道を、これからは、顔を上げて歩んで行くだけだった。