珠世様は今日も美しい──愈史郎の日記は、いつもその一文から始まる。
続く文章は、例えば麗しいお髪の艶色がとか、白々した額の曲線がとか、優しく垂れた目元がとか、ふとした仕草のたおやかさが、とかの美貌に関して。もちろん、哀れみ深い内面の美しさ、比類なき知性の美しさを讃える文章も、つらつらと続く。書かねばならない美しさが沢山あるのだ。書き切れない美しさも、沢山ある。
それほどの美を有した女性だった。
一瞬一瞬が、これ以上ないという程に美しいのに、見る度に愈史郎の意識をハッと惹き込む魅力を放っている。慣れというものを覚えさせない瑞々しさで、何度も愈史郎の心を奪っていく。思考を、時をさらっていく。
しかも、その美には終わりがない。
何故ならば、彼女は不変。
いささかの衰えもなく、美しいまま、幾千幾万の夜を超えることの出来る存在なのだ。
まさに、至高の女性である。
ほぅ、と夢見るようなため息をもらして、愈史郎は万年筆の動きを止めた。
「珠世様……」
かの鬼の名を熱っぽく呟いては宙を見つめ、ハッと我に返っては日記を書き進める。書いては止まり、ため息。書いては止まり、呟く。それを繰り返して、日記帳が何十枚も埋まっていく。
やがて、机の上の置き時計が十六時を指したので、愈史郎の若々しい瞳がキラキラと輝いた。自由という名の残念な孤独から、解放されるのだ。彼は、仕事という名の共同作業に従事する時間帯を待ち侘びていた。
意気揚々と、終わりなき賞賛に一区切りつける。締めくくりの一文を綴り、日記帳を棚に仕舞い込んでから、彼は地下の自室を出た。
愈史郎はまず、暗い階段を登った。一階の長い廊下には、日光を遮るための分厚いカーテンが掛かっている。彼は、重たいそれをチラリとめくり、外の様子を窺った。
二人暮らしの大きな館は、高い壁に囲まれた敷地にも余裕がある。広い庭には古木や薬草が生い茂っているが、どれも冬に備えて寒々しい装いだ。今は、早めに実った南天が紅一点の彩りを見せている。
愈史郎は、夕暮れ前の空を上目遣いで睨んだ。低くなった橙色の光を、どんより曇ったねずみ色の雲が追い立てている。鬼の鼻腔が、はっきりと水気を捉えていた。朝方よりも湿気った空気だ。夜になれば、いよいよ天は泣き始めるだろう。──雨か、みぞれか。いっそ初雪であればいいのだが。
「チッ」
愈史郎は憎々しげに舌打ちした。目つきを常より釣り上げ、荒々しくカーテンを戻して足早に階段を降る。目指すは珠世の自室だ。
日記を書くことと、天気を確かめること。この二つが、鬼になり、珠世と共に暮らすことになってから身に付いた、愈史郎の習慣だった。
彼の愛する女性は、雨音を聴くとひどく気鬱になるのだ。
「珠世様、天気が良くありません。往診は控えるべきです」
ノックもそこそこに、愈史郎は開口一番諭した。焦燥を前面に押し出した、険のある言い方だ。
「……今日の方は、新しい薬を試して貰っているから、経過は直接小まめに見ておきたいのです。冬になるまでに容態を持ち直させないと。私なら、大丈夫よ」
沈んだ美声が、遠回しな拒否をする。物書きの手は止まっていたが、彼女の美しい顔は書斎机に向かったままだ。
室内灯に照らされた後ろ姿も大変に優美だったが、愈史郎は満足出来なかった。椅子に座る彼女にズンズン詰め寄って、愛らしいつむじの渦巻く流れを脳に刻む。
「いいえ、大丈夫ではありません。当面の診察なら俺で十分です。珠世様は家にいて下さい」
「……」
憂鬱な沈黙を挟んでから、美の象徴が上目をする。黒目がちな瞳をうるませ、小鳥のように震えている儚い姿に、胸が引き絞られる思いがした。
「……愈史郎、いつも心配かけてごめんなさいね。でも、本当に大丈夫だから」
「毎回毎回、大丈夫そうには見えないから言っているんだ。まだ雪には早い、雨が降るんですよ」
愈史郎は、心を鬼にしてキツい口調を保っていたが、内心は珠世の美しさに感極まっていた。自分を後回しにしてでも、人の為に身を削る彼女の美徳に、くらくら来ている。
「貴方は雨、苦手でしょう」
「……そうね。でも、ちょっと苦手なだけ。ちゃんと診察は出来るわ」
珠世が長いまつ毛を伏せた。青ざめて震える頬に、美しい影が出来る。
「っ、貴方がそこまでする必要はないんだ。人間の治療は明日以降でもいいでしょう」
「……貴方も身に染みている筈です。病いに侵された人には、明日の保証がありません。一日一日が貴重なのです。比べて、私のこれは、ただの気の持ちようで、病いでも何でもありません。それに鬼の身だから──」
「──鬼でも気は病むでしょう!」
とうとう愈史郎は、美声を遮ってしまった。例え本人であっても、美しいその身を蔑ろにするのは許せないのだ。彼は、気迫を込めて彼女を睨み下ろした。湧き上がる罪悪感にも、決して引かぬ構えである。
珠世は少しばかり目を見張ってから、悩ましく柳眉を寄せた。血の気の引いた唇をキュッと噛む様に、壮絶な色気がある。
「……ごめんなさい、貴方には心配ばかり掛けていますね」
「そう思うんなら、ちゃんとご自愛して下さい」
「そう、そうね……本当に、いつもごめんなさい」
「なら」
「大丈夫よ」
珠世は静かに椅子から立ち上がった。愈史郎は、前のめりに過ぎていた身体を慌てて下げた。薄荷に似た清涼な香りがふわっと匂う。──近い。
「愈史郎」
「あ」
白魚のような両手が追いすがり、片手を取られる。恋する男の心拍数は更に跳ね上がった。
「私は大丈夫。貴方が側に居てくれるようになってから、本当に調子が良くなっているの。まだ少し……気持ちが沈んでしまう事はあります。でも、昔ほどではないのよ」
固まった片手を包む彼女の指先は、氷のように冷たい。けれど絹よりも滑らかで、薄い爪先は桃色だ。ふっくらした唇からは、健気な言葉ばかりが紡がれる。細い小首が傾くと、一筋の黒髪が、真白な額をはらりと横切った。しっとり濡れたまつ毛の艶やかさが、目に痛い。慈愛の籠った深い眼差しに、心を絡め取られる。彼は息も出来ない有様だった。
「いつも有難う、愈史郎。貴方が居てくれるおかげです。私も頑張らないといけません」
憂いを帯びた微笑みの、その美しさと言ったら──。
愈史郎の背筋に、電流がビリビリと駆け抜けた。
「新しい薬が良く効いているようで、安心しましたね」
「はい」
「娘さん達も、すごく喜んでいたわ」
「はい」
「天気も持ち堪えているし」
「はい」
「雨、降らなかったわね」
「はい」
「傘、要らなかったわね」
「はい」
「愈史郎も、怒っているわね」
「は──いえ、怒っていません」
献身の美しさに射られていた愈史郎は、往診の帰り道で、ようやく我に返った。細い路地を、隣り合って歩いている最中である。
「本当は?」
「本当ですよ」
珠世の奥ゆかしい微笑みの奥には、少女のような悪戯な色があって、軽やかに覗き込まれると、愈史郎は内心どぎまぎした。
「結局、貴方の心配を無碍にしてしまって……悪いことをしました」
かと思えば、歳経た女性の思慮深い横顔を見せる。愈史郎は、二本分の傘の柄を砕けるほど握って、夜目の効く鬼の身に感謝した。
「謝罪はもういいです。貴方は人の事になると、途端に強情になるから」
「……これからも、私は貴方を自分の我儘に付き合わせてしまうでしょう」
「その時は、また怒りますよ」
「……そうね。また怒ってちょうだい」
愈史郎の本心を正しく汲んで、珠世は匂い立つような笑みを咲かせた。太陽をたっぷり浴びた花の笑顔ではない。日陰でひっそり開花した白百合のような、美しい微笑みだった。
「明日も怒る予感がします」
「ふふ、そうかしら」
「明後日も、明明後日も怒るでしょう」
「まあ、私は怒られてばかりなの?」
「ええ、珠世様はずっと俺に怒られっぱなしだ」
今日も、明日も、そのまた先も。愈史郎はずっと珠世と共にいるのだから。日記にも、そう書いてある。──珠世様は、きっと明日も美しい。
二人の鬼はくすくす笑い合って、曇天の夜を歩いていた。
昔ながらの日本家屋が軒を連ねる、閑静な住宅街の路地である。分厚い土壁が両側を塞いでいて、道幅は、車が一台通れるかどうか。見通しの良い直線を、門扉の明かりが、ぽつぽつと街頭のように照らしている。垂れ込めた雨雲が、今か今かと待ち構える秋の夜長だ。
「やあ、珠世。久しぶりだなあ」
その大柄な鬼は、愈史郎たちが通り掛かった民家の門扉の内側から、ひょっこりと現れた。長い手足を、最先端の洋服に詰め込んで、高そうなコートを羽織っている。片手にステッキ、片手に帽子。脱帽する動作は、腹が立つほど様になっていた。
「君を見つけるのには中々に苦労した。再会出来て本当に嬉しいよ、我が炎の君」
愈史郎は大男がほざいている間に、不可視化の術を施した呪符を散布し切っていた。発動までに時間の掛かる、攻撃符だ。逃亡を第一に選べなかった事態に、愈史郎は地団駄を踏みたくなった。──どうやって彼女を見つけた!
珠世は鬼の始祖に追われる身だ。彼女を人の目、鬼の目から隠しているのは、愈史郎の血鬼術に他ならない。館にいる間も、外出する間も、現に今も、目隠しの術を掛け続けている。それを看破されたのだ。早急に元凶を抹殺するか、対抗策を調べるかせねば、二人きりの夜はすり減っていく一方だろう。──彼女と過ごす時間を邪魔する者は、絶対に許さない!
「……っあぁ」
激情を吹き上げる愈史郎の背で、か細い悲鳴が上がった。
「た、珠世様っ?」
珠世は腰を抜かしたように地面に手を突いていた。花の顔は蒼白を通り越して、蝋のように白い。黒目がちな瞳は恐怖に見開かれ、美しい歯をカチカチと震わせている。尋常な怯え様ではなかった。
「ん? どうしたんだ珠世。具合でも悪いのか、大丈夫か?」
「あっ! 嫌! こないでっ嫌あ!」
大男が心底心配したように一歩近付けば、珠世は下半身を地面に擦って忌避をした。美しい顔が悲痛に歪んでいる。普段の冷静沈着さをかなぐり捨てて、幼な子のように感情が露わだった。
「──貴ッ様ぁっ!! 珠世様に何をしたっ!」
愈史郎は憤怒に駆られた。実際に、頭の血管が何本か千切れるほどの怒りだった。
元凶の大男はえ、の形に口を開けたまま固まっていたが、やっと動きだせばハの字眉で「いや、いや。俺は何もしていないぞ」と場違いに呑気だ。人の良さそうな空気を出して、出した足を刺激しないように一歩も二歩も下げながら、大きな手のひらを振った。
「なあ、おい、珠世。どうしたんだ。なにか事情でもあるのか?」
「ぁぁっ……嫌……! 聴きたくないの……っ、嫌、いやっ許してください……っ」
労る呼び掛けに、珠世の悲鳴はどんどん小さくなって、とうとう泣きながら耳を塞いだ。嵐に耐える小鳥のように、冷たい地面にうずくまって震えている。
「このっ貴様ッ、貴様はァッ! た、珠世様をっ!? まさか、貴様はっ珠世様にっ!!?」
そうであって欲しくはない、けれどそう問うしかない愈史郎である。彼は、子猫を庇う親猫のように逆毛を立てて、彼女に半ば覆い被さり守りを固めていた。どんなに知己らしき大男をぶち殺してやりたくとも、相手の実力も分からない状態で、こんな様子の彼女から離れることは出来ないのだ。
「えっ?! まっ待て待て! 違う! そんな訳がない、俺は女性に無体を働いたことなど一度もないぞっ」
「性犯罪者の言葉を誰が信じるかっ!」
「んなっ、俺は性犯罪者じゃないわっ! た、珠世お、大丈夫そうなら、君から何とか言ってやってくれえ。おおい、本当に大丈夫かあ?」
「あぁぁ……っ、許してぇっ……ごめんなさいっごめんなさい……っ」
珠世は白々した両手で、頑なに耳朶を塞ぐ。見る者の胸を引き裂くような悲嘆だ。
「そんなっ、なんで珠世様があやまるんだっ! ああっ、泣かないで下さいっ、あんな奴ッ俺が! 俺が殺してやりますからっ!!」
「ああ、珠世。そんな。気の強い君がそんなに嘆く事があったのか。なんと哀れな……」
「このっっ────っ!?」
愈史郎は息を呑んだ。しらばっくれる犯罪者に般若の面を向けた時、民家の門扉から、もう一匹の鬼が姿を現したのだ。
そんな、まさかという思いが大きかった。愈史郎はここまで、激憤に駆られながらも、撒き散らした呪符の管理を怠っていなかったのに、新手の気配を見逃していた。数十枚の符は、時間が足りず、まだ攻撃として使用出来ないのだが、敵を感知する効果はあったのだ。それを、すり抜けられている。──まずい。不味い不味い不味い不味い。
探索、それと隠蔽に優れた異能。
愈史郎は、敵方が保持する血鬼術の種類を冷静に推測した。と共に、肌が泡立つ戦慄に襲われる。愈史郎と術の系統が同じで、愈史郎の上を行く血鬼術の使い手の存在。攻撃符は見切られ、敵の数はもっと増え、彼女は戦闘不能のまま、そんな嫌な予測ばかりが脳裏を巡るのだ。
隙を見て逃亡するしかない。最優先は、もちろん珠世である。そう決断しながら、愈史郎は新たな鬼を素早く見定めた。
二匹目の鬼は、門扉に絡みつくようにして立っている。短髪の青年で、着物姿の鬼である。首輪のように短い大玉な数珠を着けていて、それが重いのだと言わんばかりに首を垂れている。足元は、酔っ払いのように覚束ない。門扉の柱にひしと捕まったまま「汚された……」とか「儂は汚れた……」とか「汚されてしまった……」とかブツブツ呟いている。俯いた口元から、新鮮な人の血がヨダレのようにボタボタと滴っていた。正気ではない様子だ。
愈史郎はいささかホッとした。頭の回転が鈍そうな大男と、頭のイカれた数珠の着物。この二匹なら、せめて珠世だけでも逃げおおせる隙を稼げる算段はつく。
「おいおい、食べ残しはいけないよ。俺は優しいから持ってきてやったぜ」
三匹目の出現に、その楽観は瞬時に消え去った。白橡の髪色が特徴的な新手の鬼は、その両手に人肉を抱え、血塗れの口元を三日月にして現れた。