「君は行儀のいい、良い子だなあ」
「そうだろうそうだろう、俺は礼儀には人一倍にうるさいんだ」
「ほら、矢琶羽。童磨が君のを持って来てくれたぞ」
「汚されたのだ……儂は……汚れてムグゥ!」
「さあさあ、たんと食いなよ。若い女を残すなんて勿体ない事はしちゃいけないぜ」
「んぐ、んムグゥッ!? ………………うおぇっ」
「あ、吐いてしまったぞ。可哀想に」
「うわあ、汚い。矢琶羽殿は本当に汚い奴なんだなぁ」
「……っ! わ、儂は、儂は……っ」
「ハハッ、鼻から指が出てる。なんて汚い奴なんだ。自分で汚い汚いと呟くのも頷ける汚さだねぇ。次は目から出すのかい? もっと汚くなれるねぇ」
「っ……ち、ちが、違うのだ、儂は、儂は汚くな……っ、う、うぅ」
「こらこら、そう泣かすものではない。ほら矢琶──ばっふ‼︎」
「儂にっ触るでないィっ! お前こそが汚物そのものじゃろうがァ!!」
「落ち着──ぐはあ‼︎」
「お前のっ! お前のせいでえっ!!」
「なんだなんだ、二人は仲が良いんだねぇ。羨ましいよ。俺も猗窩座殿とは──おっと、駄目駄目」
「──チッ!」
シャラン、という涼しげな音が、背後で鳴ったと思ったら、愈史郎の前に氷人形が現れた。それは腰丈程度の小ささだったが、童磨と呼ばれた白橡の髪色の鬼と、全く同じ形状をしている。路地の直線に一体、両側の日本家屋の屋根に、二体。
門扉に揃うと同時に、三匹がぎゃあぎゃあと騒ぎ出すものだから、ここぞとばかりに目隠しの術を掛け直して、逃亡を企てた愈史郎だった。しかし、そこまで上手い話は転がっていないようである。愈史郎たちから、全員の意識が完全に遠ざかっていれば、再び術が掛けられたものを。
「それが兄上殿の言う美人さんだろう? 俺はそれを見るために来てやったんだ。逃しはしないぜ」
「珠世様をそれ呼ばわりするなっ! 下郎の分際で!」
愈史郎は、彼女を抱きかかえて童磨に吠えた。対立した虹色の瞳に数字があるのを、至極冷静に確認する。上弦の弍。大した大物である。──流石は珠世様。
「おいおい、下郎とはまた酷い事。俺ほど身分確かな者はいないよ。人を救う善行だって積んでいる」
「戯言を抜かすな! 人食い鬼めが! か弱い婦女子に目の色変えるその浅ましさ! 貴様もその性犯罪者と同列だ!」
「ええ? そうなのかい、兄上殿?」
虹色の目をまん丸くした童磨が、ボコらている最中の兄上とやらに問うた。
「いやまさ──カハッ‼︎ そんなわ──ゲホォ‼︎ 不幸──な‼︎ ぐあ‼︎ 行き違──いて⁉︎」
「ちょっと聞き取りづらいなぁ。うーん、仲良しな友人の仲を引き裂くのは心が痛いんだが、仕方ないか」
童磨が対の扇をシャラン、と重ねると、氷人形が簡単に増える。愈史郎は冗談じゃない、と珠世を抱える両手に力を込めた。
彼女をこれ以上冷やさぬよう、ギュッと強く抱え込む。夜風に冷たさが増している。鬼の呼吸が凍てつく程の冷ややかさだった。
「何故止めるっ! 邪魔をするなっ、儂はこの汚物を滅殺してやらねばならんのじゃ!」
「うわあ、御子でも触りたくないくらいに汚いねぇ。吐き出したものが着物にべったりだよ。よくもここまで汚くなれるものだ」
「あっ!? あ──あああぁ!! 着物、儂の着物にお、汚物が付いておるぞぉっ!」
「自分で汚物の上を転がっていたんじゃないか。友人と遊ぶのはいいけれど、こんなに汚くなるまで熱中し過ぎるのはどうかと思うぜ。本当に汚い姿だよ。全身が汚物だ」
「ああ……そんな……汚れた……着物、儂の着物……儂の身体があぁ……」
「やれやれ、助かったぞ童磨。矢琶羽は時たまこうなるんだ。困った子だ」
「兄上殿が弱っちいのが駄目なのさ。それに性犯罪を犯したのも駄目だぜ。女に飢えた男はこれだから困る」
「待て、待て。この俺が女性を襲うような男に見えるか?」
「琵琶の君にも何かとへばり着いていたものねぇ」
「ハッハッハッ! いやはや、見られていたか! 鳴女は押しに弱いところがあってなあ。慌てる様子がうんと愛らしいのだ!」
「そうかいそうかい。今後一切俺や猗窩座殿に近付かないでくれるかい? 兄上殿の仲間だと思われるなんて、いくら心の広い俺たちでも耐えられない仕打ちだよ」
「ハッハッハッ! 冷たい子だなあ、だが友達思いの良い子だ! よしよし、褒めてやろうな──あふあ‼︎」
「うわあ、汚い汚い。性犯罪者だから重ねて汚い。触られると矢琶羽殿みたいに汚れてしまう」
「ヒッ! 儂はっ汚れてなど……っいや……っ汚されてしまったのじゃ……儂は……汚れて……」
再び、ぎゃいぎゃい騒ぎ出した三匹を脇目に、愈史郎は腕の中の珠世を優しく揺さぶっていた。
「珠世様っ珠世様っ、立てそうですかっ!?」と小声で問うても、涙に濡れた美しい瞳は、愈史郎を見返してはくれない。
許して、ごめんなさい、と繰り返しながら、耳を塞いでうずくまるばかりだ。無垢な小鹿のように、危うげに震える彼女の傷ましさよ。
愈史郎はふと、自身の記憶に結び付きを感じた。こんなご様子、前にも見た事があるのでは──
「あっ」
愈史郎は空を振り仰いだ。
今の珠世の状態は、雨の音に気鬱になる症状によく似ていた。症状の程度は段違いだが、雨の日の彼女そっくりだ。雨音に怯え、こうやって白魚の手で、貝殻のような耳朶を塞いで、憂鬱に震えていた。
「珠世様、大丈夫ですっ雨は降っていませんよ!」
愈史郎は、何度も小声で彼女を励ました。繰り返し、雨ではないと根拠のない励しをする。
彼一人の力で逃げ切ることは困難なのだ。何度も逃げようとしているが、御子と呼ばれた氷人形に、常に阻まれている。手慰みのように小さな扇が振るわれると、凍った蓮の花や蔓が、愈史郎たちの行く手を塞ぐのだった。それから発生する冷気を吸い込むと、キリキリと肺が凍て氷る。
人食いでない愈史郎は、溜め込んだ栄養が少ない。──連続であれを受け続け、全ての氷人形を撃破し、さらには三匹の鬼から逃げ切る。内一匹は上弦の弍──これは絶望的であった。気鬱の珠世に正気づいて貰わねば、守ることすら出来なかった。
愈史郎一人では、美しい花を手折らんと迫る下衆の手を、退けることが出来ないのだった。
──力が欲しい。
愈史郎は歯痒さに目眩がした。ブチブチと唇を千切る。愛する女性一人守れない男の血が、美しい頬に落ちて、つう、と滑った。
「ぁ……」
黒目がちな瞳がふらふらと揺れてから、愈史郎を捕らえた。
「珠世様っ!?」
「……ゆし……ろう?」
「珠世様ぁ……っ!」
悪夢に囚われていた珠世が、愈史郎の声に応える。
それを待っていたかのように、分厚い雨雲が意地悪く涙をこぼし始めた。ぽつ、ぽつ、と雨音が響く。
「あ……あぁっぁぁ!」
「あ、た、珠世様、しっかりして下さい! 珠世様っ!」
冷たい雨粒に晒された珠世は身悶え、死化粧を施されたように真っ白な顔で震えた。命絶たれる寸前の生き物がする、もがきに似ている震えだった。それでも乱れた黒髪に幽玄の美がある。
愈史郎は、そんな彼女をキツく抱いて、その額に自分の頬を擦り付けた。体温を分け与えるように縋り付く。
「珠世様、お願いします、俺を見て、俺だけを見て下さいっ、お願いだ!」
彼は切ない懇願を続けた。母に見捨てられる子、あるいは妻に先立たれる夫のように、我を忘れた女に必死に乞うた。
永遠に感じる時が過ぎる。
やがて腕の中のか弱い痙攣が治まって、愈史郎は彼女を濡らさぬよう丸めていた身体を恐る恐る解いた。
「……ゆしろ、ゆしろう……愈史郎」
「珠世様っ」
「あ、ごめん、なさい。……ごめんなさい、わたし……」
「大丈夫だ、珠世様、俺が居ます、俺が側に居る」
負の感情に冷え凍った珠世の頬に、額に、温かな希望の涙が滑った。なよやかな手が、雪山で遭難した者のようにそれの跡をなぞる。
「そう……そうね……そうだったわ」
「そうですよ、ちゃんと逃げ切れる。大丈夫、俺が貴方を逃します」
珠世が、理性を取り戻した美しい瞳で、愈史郎を強く見つめた。
「いいえ、いいえ……逃げるなら、二人でないと」
「それは──」
「──私なら、もう大丈夫です。心配を掛けましたね。帰ったら、また叱ってちょうだい」
儚く、力強い美しさに魅せられた男は、無理だという言葉を飲み込んで「……はい」とだけ答えた。
冬が近づいた夜空から、凍りかけの水分が落ちてくる。雨混じりのみぞれが、抱き合った二人をぱらぱらと淡く打った。
「やあ、少しでも元気になったようで安心したぞ、珠世」
「さあさあ、噂の美人さんとご対面だ! ほら、汚い矢琶羽殿もこいよ。その汚い目を美しいもので浄化してやろうな」
「ぎゃああ! 目がっ! 儂の目がぁ!」
喧しい三匹が門扉から離れて、愈史郎と珠世に向き合った。
どこからか巨大なコウモリ傘を出してきたスーツ姿の大男。一人だけ氷製の植物の下で雨を避ける白橡色の髪の青年鬼。氷人形に引きずられ顔面を弄ばれている着物姿の数珠鬼。
大、中、小の体格の悪鬼たちが出揃うと、人の血の匂いと鬼の気配が強まった。冷たい夜風には、肺を凍らす冷気が混じっている。
こんなにも騒がしいのに、軒を連ねる日本家屋のどこからも、起き出してくる人の気配を感じない。不吉な静寂が支配する路地で、悪鬼たちだけが楽しそうだ。
話題の珠世は、愈史郎に肩を抱かれながら、もたれ掛かってやっとのこと立ち上がった。
「わああ、本当に美人だねぇ! びっくりしたよ。兄上殿の女の趣味はゲテモノだって評判だったのに。鬼なのが残念なくらいだねぇ!」
童磨が手を叩いて無邪気な顔ではしゃいだ。「ハッハッハッ! だろう? 俺の目は確かなのだ」なんて大男が得意満面なのが胸糞悪い。「これなら俺の女たちも安心して見せられるよ。いつ来る?」「遊郭の帰りはどうだ? 妓夫太郎にも見せてやろう」「いいねいいね。壺を増やしておかなくちゃ」だなどと、二匹して盛り上がっているのが心底おぞましい。
「性犯罪者の下衆どもがっ! 反吐が出る醜悪さだ!」
愈史郎が珠世を隠しながら怒り立つ。大男はハの字眉で何やら弁明しようと口を開いたが、上から巨大なつららが降ってきて「ぶわ‼︎」と潰れた。隣の童磨が「そうだったそうだった、兄上殿は俺とは違う底辺の醜男だった」とポンッと手を打って明るく笑った。
「俺はずっと可哀想な女たちの訴えを聞いてきたからね。悪辣なことをする男は絶対に許せない質なんだ」
軽々しい言葉とともに、つららが大男に追い討ちを掛ける。そのまま死ね、共倒れしろ、と愈史郎は強く念じた。
「きっ、汚い! 儂に汚物が掛かったぞっ!」
呟くだけだった矢琶羽が、氷人形に剥がされたまぶたを修復しながら喚いた。──こいつ、下弦だ。
愈史郎は、その閉じ掛けの目玉に『下弦』の二文字が刻まれているのを見た。数字の入った方の目玉は、先に修復が終わっていて固く閉じられている。だが、数字などどうでもいい、と愈史郎は思った。上弦がいるだけで絶望的なのだ。不吉の証明が堅くなっただけである。
「どうにも騒々しい子たちだなあ」
一人だけ十二鬼月でない大男が、他人事のように騒ぐ二匹から離れて、一歩前に出た。折れ曲がったコウモリ傘を拾い、開こうとして開けず、曲がりを力付くで直している。
この大柄な中年男の悪鬼だけが、なんの異形もない人の形をしていた。犬歯が尖るでも、瞳孔が縦に裂けるでもなく、珠世のように人間と何一つ変わらない姿だ。鬼の気配も、これ程の至近距離でなければ分からない程に薄い。小賢しい事だった。化け物なら化け物らしくしろ、と唾を吐き掛けたくなる。
愈史郎は珠世を庇いながら牙を剥き、逆毛を立てて威嚇した。
「下がれ! この畜生以下の屑が! 地獄まで下がって死ね!」
「まあそう言うな。それは悲しい誤解だぞ」
「なにが誤解だ! 性根の腐った塵カスが! 自分のした極悪非道を思い出して死ね!」
「ハッハッハッ! なんとも元気で口の悪い子だ」
大男は闊達に笑った。凍てついた夜風を吹き飛ばすような、太陽の如く明るい笑顔だ。尋常でない鉄面皮である。愈史郎は昆虫と会話しているのだと悟った。
「なあ珠世、疲れているところを悪いが、君からもなんとか言ってやってくれんか。このままでは美しい君に酷い仕打ちをした男の汚名を被ってしまう」
昆虫が、ゾッとするほど申し訳なさそうな声音で珠世に言う。愈史郎の背後に下がっていた珠世から、猛禽に狙われた野うさぎの震えを感じた。
「…………貴方は、本当に、何も覚えていないのですか?」
美しい被害者が問うた。その美貌は幽霊を見た者のように蒼白だが、強く区切った語調には、真実の重みがある。
「んん? え、いや……ええ?」
しらばっくれていた犯罪者は途端に挙動不審になって、大きく息を吸い込んだ。
「……貴方はあの日、私の耳を塞いだ」
「あ、あの日……?」
「……泣き叫ぶ私を見て、貴方は笑った」
「な、泣き叫ぶ……?」
「……そう、私はやめてと泣いて……っ」
「や、やめて……っ?」
珠世は可憐な両手を震わせ、憐れな唇を覆った。羽を折られた小鳥を思わせる痛々しさに、愈史郎の視界が赤、黒、白と高速で明滅した。「もう、もういいんです、珠世様、珠世様……」と唱える自分の声が、ごうごうという血潮に混じって遠くから聞こえる。「うわぁ……最低」「汚物……汚物の中の汚物じゃ……」と呟いた二匹の足音が、じゃりじゃりと地面を踏んで離れていく音も遠い。
「…………貴方は、全て、忘れたのですか?」
健気な告発だった。過去の罪を突きつけられた大罪人が、真っ青になってはくはくと息を吸った。
雨混じりのみぞれが、夜空から真っ直ぐに落ちている。風の弱い深夜である。ここは両側を高い土壁が覆う、狭い路地だ。真実を暴く香りが、密やかに充満する夜道での、詰問。
──白日の魔香。
鬼の脳にすら効果を発揮する、珠世の美しい血鬼術の香りを、愈史郎の鼻はしっかり捉えていた。
それは脳の機能を低下させ、虚偽を述べることを許さない香りだ。
「俺は……忘れているのか?」
大男は撫で付けた黒髪をぐしゃりと乱して、混乱を抑えるように頭を抱えた。
「そう、貴方は……いつも忘れている。あの日、貴方が初めて術を使った夜のことも」
珠世の声には、寝た子を起こす母にも似た甘やかす響きがあった。
「術……? 何の術だ……?」
「聞こえるようにしてやろう、そう言って貴方は私の耳にその手を添えた──」
彼女は思い出すように、自分の耳に手を当てた。
「──私は聞こえるようになった……声が──殺した人たち全ての声が……! 聞こえるようになったっ!」
魔香に乗せて、悲痛な懺悔が大男に届く。ぶるり、と震えた罪人の黒い瞳が、芒洋と影った。
「声……そう、そうだ。声だ。声が聞こえたんだったな」
「ええ……貴方も、聞いたもの。自分の耳に手を添えて、自分が殺した者の声を聞いた……」
ああ、と目元を手で覆った大男が、低いため息を漏らした。
「貴方も泣いたわ。泣いて、悔いた。それから貴方は、私に言った。弟を、鬼舞辻 無惨を──」
ベベン、と琵琶の音が鳴った。
愈史郎は息を呑んで、咄嗟に珠世を抱き寄せた。景色が、一変している。
路地に居たはずの愈史郎と珠世は、空間が奇妙に歪曲した暗い回廊に、二人きりで立っていた。
「──殺してやらないと、だったか?」
頭上から響いた嘲りに、愈史郎は上を仰ぎ見る。
回廊の歪みは、天井にまで及んでいた。愈史郎たちのいる回廊とは、天地が逆さまになった洋室で、一人の青年が椅子に腰掛けていた。
洋服を着た、青白い肌の青年姿の鬼である。
そいつの右腕の先は、別の生き物のように肉が伸び、膨らんでいた。異形の腕だ。先には醜い口があって、不揃いな牙の間から、ぐちゃぐちゃと咀嚼音がする。
べちょり、と汚い食い残しが愈史郎たちの側に落ちてきた。大男の腰から下だった。