「よっ、元気してたかな?」
スタッフが待機するダグアウトに顔を出すと珍しい顔がそこにいた。さっぱりとした短髪に極端な猫背。頬杖をつきながら手を振っている。犬井信二さん。今となっては数少ない先輩アルバイト。僕がバイトリーダーになってからはシフトを散らされることが多い。だから年に一度か二度しか会わないレアキャラだった。
「ええ、何とか。犬井さんこそどうなんですか? 大学も三年だと忙しいんでしょう?」
「まあ、それなりに。でも、流石に高校三年生と比べるとまだましだよ。受験勉強だってないしね」
彼は「だから君ほどじゃないよ」と締めくくるけれど、僕は就職組だ。受験勉強はしないし、最後の大会に向けての追い込みなんてものはもうない。だからとっさに言葉を返せなかった。
「……犬井さんはこれからシフトですか?」
「いいや、もう終わったよ。帰る前に賄いを食べて帰るんだ。店長が用意してくれるって言うから楽しみでね」
「そいつは良いですね」
店長の作る賄いはなかなか貴重だ。何せ店長は仕入れに接客とせわしく動いていることが多い。基本的に賄いはスタッフが自分自身で作ることになる。
けれど、例外はある。新メニューの開発中や、レシピの微調整を行うときは店長が腕を振るって、スタッフに意見を求めるのだ。
「だろう? いやー、最近のボクはついてる」
「何かいいことでもあったんですか?」
「おっ、気になる? 聞きたい? 聞きたいのかい?」
その言葉を待っていたかのように犬井さんがぐいぐいと食いついてくる。この人は悪い人ではないのだけれど、こういうところは面倒だった。それをなるべく表情に出さないようにして、当てずっぽうに返答する。
「……ああ。また彼女できたんでしたっけ?」
「そう! 十五日はシフト変わってくれてありがとう。その日、彼女がどうしても出かけたいって言うからさ。この恩はいつか必ず返すよ」
「僕は別にいいですけどね。稼げれば。今月ピンチなんで」
というかピンチじゃなかったときはない。重ね重ね言うようだけれど、うちは火の車で絶賛回転中なのである。シフトが増えて、給料が増えてくれるのはありがたい。少なとも身体が持つ範囲であれば。
「ちなみに、今回の彼女はどこで?」
「つい先日運命的な出会いをしてしまってね。雨に濡れる彼女に僕が傘を差しだして……彼女はボクの行為に心打たれたそうなんだよ。人助け、やってみるものだね」
「……僕だったら話しかけませんけどね」
どや顔の犬井さんを一言でぶった切った。
そんな面倒くさい地雷抱えていそうな女はトラブルの種にしかならなそうだ。僕は自分の保身が先に来る。だから僕は根っからの善人にはなれないのだろうと思う。どうしても利己的なのだ。
「おいおい、やっかみか? 羨ましいのかい?」
「いや、犬井さんのことは……別に」
「なんだよその反応!」
「いやだって、犬井さんの彼女ことごとく地雷持ちのクズ女ばっかだったじゃないですか」
「そ、それは忘れろ!」
犬井さんは惚れっぽい。なんというか、ちょろいのだ。ちょっと優しくされたら好きになっているし、今回だってシチュエーションに酔っているのが見て取れた。
加えて女運がない。交際で失敗して落ち込んで、また別の女性にひっかかる。この連鎖回数を僕は覚えていない。それこそ永久機関のようにぐるぐる回していた。あの反応からして今でも変わっていないようだった。
「でも今回のマキちゃんはそんなことないよ。すっごくいい子だし、話してると愛されてるって感じがするんだ!」
「それ、前の彼女にも言ってませんでした? いや、僕の知ってる前の彼女はもっと前か」
いくら犬井さんが惚れっぽく、別れやすいとは言っても決めつけは良くない。僕と会っていない間に長続きした期間もあったかもしれない。確認はしておくべきだろう。
「えっと……あれから何人と別れました?」
「聞き方のささくれ具合エグくない!? せめて『付き合った』にしてよ!」
「ああ、それはすいません」
心のこもっていない謝罪をする。頭は下げなかった。
「まあ見てなって。今度の彼女とは絶対に幸せをつかんでやるからさ!」
それから再び犬井さんの惚気話を少し聞いた。それから僕はシフトに入る。今日は特に特筆すべき点がないというぐらいに平凡な日であった。
妹が襲撃をかけてくることもなければ、山川がいないから堂々とサボりをしている人間も見当たらなかった。黛がいないのは残念ではあったけれど、それだってちょっと前の僕からしてみれば当たり前のことだ。規定時間の仕事を終えて、退勤。風呂に入って寝た。
そんな生活をすること一週間。十月九日。僕はいつも通りに学校から直接『三島コーヒー』に向かった。そしてダグアウトにはまたしても、極端な猫背の犬井さんが居座っていたのだった。
ただ、この間柄までのカラッと晴れた夏場の陽気みたいなテンションは失われている。今はじめじめとした湿気を含む梅雨という方が正しいだろう。足音に反応した彼は僕を見るやか細い声でつぶやいた。
「五股かけられてた……んだけど」
「流石に発覚が早くないですか?」
一週間での破局。犬井さん観測史上過去最速での破局っぷりだ。いや、今回はいつから付き合っているのかは知らないけれども。
「実は、新しく入った黛さんと山川さんが彼女の写真を見せたら、他の男といるのを見たことあるって言ってきて。……いろいろ聞いて、一緒に調べたんだ。そしたら浮気現場が……」
何やってんだあいつら。僕のいない所で急に探偵物始めてるじゃん。別にいいけど、いつどんなところでそんな技術を身に着けているのかものすごく気になる。
「まあ、良かったじゃないですか。まだ付き合いが浅いタイミングで」
「まあね。でも、なんで気が付かなかったんだろ。そこまで見る目がないとは思っていなかったんだけどな……」
「そりゃあそうでしょうね」
自覚していれば毎度毎度そんな目に合っていないだろうし。
「それで、その彼女さんとはどうしたんですか?」
「昨日のうちに彼氏たち全員で突撃して話をつけてきたよ。もう彼女は金輪際僕たちに係らないって。いやー彼女たちにはいろいろ力になって貰っちゃったな」
「……彼女たち?」
「山川さんと黛さんだけど」
犬井さんが当然のように言った言葉が未だに頭に入ってこない。疑問符が某動画サイトのごとく右から左へ流れて止まらないんだけど。
え? 本当に何をしてるのあいつら。人の浮気現場を特定して、浮気相手全員とコンタクトと取って……えぇ……。
もう考えるのは辞めよう。まとまらない。人のプライベートの話をほじくり返すのもどうかと思うし。彼女たちがどのような活動をして、結果を出そうと僕には関係のないことなのだから。
「……まあ、円満に別れられてよかったですね」
「うん、間違いないね」
犬井さんは頷いて、「ところで入江君」と話題を切り替える。僕は「はい」と返事をした。
「これは提案なんだけど、十五日のシフト無理言って替わって貰っちゃったでしょ?」
「別に無理ってほどではないですよ。よくあることです」
「まあ、ね。でもまあボクとしては後輩に迷惑をかけたままって言うのも納得いかない。理由が理由だったしね」
確かに『彼女とデートしたいから変わってくれ』は褒められた理由ではないかもしれない。
「だから、もし良かったらなんだけど、シフト元に戻さないかな?」
「いや、替わらなくていいっすよ。僕もっと稼ぎたいんで」
「そうだよな。やっぱり休みたいよね……って断るの!?」
別に稼ぎたいんだから、シフト増やしたいって言うのはそれほど変わったことではないだろうに。
けど、休みたい理由もないわけではない。黛の誘いを断ったことを悔いている。生涯に一度あるかどうかわからないチャンスを棒に振ってしまった。
けれど、背に腹は代えられない。今月は他にもイベントが控えている。お金は必要なのだ。
「……休んだらもらえるお金減っちゃうじゃないですか」
「まあ、それはそうだけれど……」
「いや、そうとも限らないさ」
ダグアウトの入り口に佇むダンディなおじさま。店長が僕たちの話に割り込んできた。どうやら話を聞いていたようだった。犬井さんが店長を見て問う。
「店長、どういうことですか?」
「君たち、有給休暇のこと忘れてるんじゃないかな」
『……あっ』
二人そろってお互いの顔を見た。そうか、一応ではあるがアルバイトにも有給が発生する。詳しい条件は割愛するが、僕たちはそれなりに古株。権利はすでに持っていた。存在はすっかり忘れていたけれど。
「それなら給料が出た上に休める。入江君も文句あるまい?」
「……ええ」
「君にはこれからも頼らせて欲しいからね。手続きは私がやっておくよ。適度に休んで、英気を養ってくれたまえ」
店長はそう告げ、僕の肩を叩くとこの場を去った。たぶんまだ仕事がまだあるのだろう。店長と入れ違うように黛と山川が一緒になってこちらに来た。
仲良さげに雑談をしている黛は学校ではあまり見られない。クラスメイトが見たらびっくりするどころの騒ぎではないだろう。本当に山川のコミュニケーション能力には脱帽せざるを得ないな。
彼女らと目が合って「おつかれ」と挨拶をした。
「随分と仲良くなったみたいじゃないか」
「別に、たまたま一緒になっただけ」
「え~つれないな、レイちゃん。私たち仲良しじゃダメなの?」
そう言って山川は黛の腕に抱きつく。「だめなの?」と上目遣いでの訴えに黛は目をそらしながら屈する。
「……まあ、ダメじゃないけど」
「なら、良いじゃん」
山川は弾む声でそう言うと黛から離れた。こいつ、本当に何でもありだな。怖いもの知らずかよ。「大丈夫、行ける、行ける!」って言ったら紐無しバンジーとかやってくれそう。やらせないけど。
そんなアホなことを考えていると山川は僕に向かって近づいてきた。
「ところで、リーダー。明日の約束覚えてる?」
忘れるわけがない。山川との予定は僕にとっても大切なことだった。だいぶ前から予定してあったから、事前にシフトは空けてある。
「もちろん。当日はよろしく頼む」
「だよね。忘れてなくてよかったよ」
「おっ、なに? 入江君、山川さんとデート?」
「そんなんじゃありませんよ」
犬井さんが茶化してきて、僕は顔を
「何? リーダー照れてるの? 二人で出かけるんだからデートじゃん」
「まあ、言葉の定義的にはそうなのかもしれないけどさ……」
ため息をつきながらふと前を見る。黛が不機嫌そうにこちらを見ていた。呼吸するのも躊躇するほどのプレッシャー。自分の中の危機感知センサーが爆音の警報と共にパトランプを光らせている。あんな黛を見たことないぞ。
山川、後ろ後ろ! 気づいて察して今すぐ離れてくれ……! 頼むから……! 腕を掴む彼女に視線を送るけど、当の彼女はどこ吹く風。首を傾げるに留まった。仕事中は察しがいいのに何でこんな時に限って鈍感なんだお前!
最終的に諦めて、掴まれている腕を振るった。
「や、山川、離れろ。こういうのは時、場所、場合、加えて相手を選別してやれ。黛からも言ってやってくれよ」
「そうだよ。山川さん、そろそろ離れて、ホールに行こう」
「……まっ、そうだね。あんまりやりすぎると店長に怒られちゃいそうだし」
パッと左腕が解放されて、彼女たちがダグアウトから出ていく。あれ以上あの環境にいることにならなくて良かった。ホッと胸をなでおろす。
「入江君、やるね」
「犬井さん、何がですか?」
「いや、なんでもないよ。ただ、羨ましい限りだなって思っただけ」
「羨ましくはないだろう」と思ったけれど、口に出すことはなかった。