机に上半身を預けて、うとうとしながら朝礼が始まるのを待っている。徐々に人が集まってざわめき始める教室。この時間は思う存分に気が抜けて僕は好きだった。けれど、平穏はいつの時代も長く続かないもので、自分の前髪が何者かにかき上げられる。日光が当たって顔をしかめた。こんな悪戯をしてくる奴は一人しか思いつかない。うっとおしいと思いながら目を開けた。
「ひっでぇ目つき、今日も相変わらず眠そうだな。ケイ」
「ヨッ」と陽気な声の直後に椅子を引く音がした。バスケ部所属の坊主頭。筋肉質で羨ましいほどの背丈を持つ。常に女子から熱い視線を送られる男だった。
眠い目をこすって上半身を起こす。こいつが来たということは朝練を切り上げた後で朝礼まであと少しなのだろう。伸びをしてから彼の顔を見た。
「まあな。昨日もバイトもあったし」
「ここんところずっとだな。そんなに稼いで何が欲しいんだ?」
「別に。うちは貧乏だからな。小遣い出ないんだよ」
ついでに言うなら生活費も怪しい。うちは母一人、子三人の火の車で絶賛回転中だ。わがままな双子の妹は中学に上がったばかりだし、母も会社員をしているとはいえ、無理は利かない。だから僕も立派なバイト戦士として立ち回らなければならない。眠気はその代償と言えた。
「そっか、大変だな。俺も冬に短期バイトしないと」
「なんか欲しいものでもあんのか? お前は小遣い貰ってただろ」
確かそれなりに家から支給されていると聞いたはずだ。正直、すごく羨ましい。自分が思春期の数時間を生贄にして手にした賃金を身内だからと言って簡単にポンと渡される環境が。無いものをねだっても仕方がないことはわかっているのだけれど、そう簡単に割り切れない。
「んや、交通費と食費にほとんど消えてな」
「交通費はともかく、食費って……あの家から持ってきてるデカい弁当箱はどうしたよ。ごはん数リットルとおがずがアホみたいに敷き詰められてる奴」
身体作りの一環として彼らバスケ部にはタッパーが部活から支給される。それに大量の米とおかずを敷きつめることが義務なのだ。あれを食べきるのはなかなかに骨が折れそうだった。
五十嵐はぺろりと舌を出して親指を口元に添え、どや顔を決めてこう続けた。
「ああ、あれは……早弁で消える」
「一日何カロリー摂取してんだお前は」
「今更数える気にもならないな」
こいつと同じ家計簿をつけるのは絶対に遠慮したい。多分ハゲる。食費だけでいくらかかるんだろうな。
そんなことを考えていると、がらりと教室の扉が開く音がした。時間は八時二十五分。朝礼きっかり五分前。この時間に規則的に表れるのが彼女、黛玲子の特徴だった。一年、二年と同じクラスだけれど、記憶にある限りではこの時間を逃したことはない。
黛は誰にも目をくれることなく真っ直ぐに自分の席へと向かう。クラスの男子がほとんど彼女に目を奪われている。このまま視線を「どうでもいい」と言わんばかりに受け流して、席について気だるそうに窓の外を眺める。それが彼女のルーティンだった。
でも今日はそれが乱れた。波形にノイズが入ったみたいに一部分だけ行動が変わった。ちらりと、
「ケイ、じろじろ見すぎ」
軽く頭にチョップが入った。五十嵐がにやにやと僕を見下ろしている。こいつには僕が黛のことが気になっているのは知られていた。彼と過ごしたのは高校に入ってからのたかだか一年強だが、それだけ僕は隠し事をできないタイプだった。
「相変わらず好きだよな。お前」
「……悪いかよ」
「別に。ただ、怪しまれても知らねーぞってだけ」
「それは、まあ……確かにそうだな」
妙に納得してしまう。彼女の視線は自分に対する警戒の表れだとしたら頷けるものがあった。そうでなければ彼女の行動に説明がつかな──いや、僕の視線を感じ取って警戒って、エスパーかよ。余計説明できない。
ため息を一つして、自分の脳内での審議に決着をつけた。それから入ってきた担任の話を聞き流していると限界を迎えた。意識がゆっくりと落ちていく。
▼
「おい、起きろ。入江! おーきーろ!」
机が揺さぶられる。意識がはっきりとする。その声は普段もっと遠くから聞こえてくるからだ。数学の先生が近くで直々に僕を起こしに来ていた。
バッと体を起こして先生と向き合う。小太りの中年体系の彼は意地の悪い笑みを浮かべていた。こういう時はたいていろくでもないことを考えている。それは他の生徒が彼の餌食になっているのを見て把握していた。よりにもよって数学で寝たらダメだろうに……。
「ようやく起きたな。昨日はさぞ熱心に夜中まで予習をしていたと見える」
してない。ギリギリまでバイトをしていた。というかそれを知っていて言っているのだろう。まあ教師になるような人間からすれば学生の本分である勉強を放ってバイトをする、なんて行動が許せないのだろう。いや、単純に僕のことが気に食わないだけかもしれない。
「でも、それで授業中寝てしまっては駄目だろう。ちゃんと成果を発揮してもらわなければな」
「はぁ……」
「黒板に書いてある問いの二番をお前に解いてもらおう。いいな! ……ったく今日は居眠りが多くて困る」
そう言って黒板の近くへ戻るとパイプ椅子に腰を掛けた。軋む音が派手で、怒っていることをそこまでわざとらしく表現したいのかと腹が立つ。まあ、寝ていた僕が悪い。全面的に。
仕方がなく席を立ち、ひそひそと話を続ける同級生の間を縫って黒板の前に向かう。問一の場所には既に生徒がいて、それが黛であることは一瞬でわかった。ほんの少し足を止める。
別に気まずいとかそういったことはない。けれど、彼女と意図的に近づくというのは初めての試みだった。多分初めてアイドルの握手会に行く感覚に近い緊張感が僕の中にはあった。
「どうした? 入江、早くやらんか」
「は、はい」
先生に促されて、前に出た。自分のした失態と、黛の近くにいるという緊張感がごちゃ混ぜになって訳が分からなくなる。とりあえず、問題。問題を解かないと。
僕は白のチョークを手に取ろうとして、自分の近くにはないことに気が付いた。全てが黛の近くにある。彼女は今背伸びをしながら書いているから、黒板と体の隙間はあまりない。
手を伸ばせば接触することは間違いない。無言で取るのは気が引けた。でも、声をかけるの? あの黛玲子に? 僕が?
悩んでいると彼女が背伸びをしながら僕の方を見た。近くで見るとまつ毛が長かった。
「何?」
他の人すべてを突き放すような冷たい声色だった。キッと睨む目つきに気圧される。まあ、そうか。問題も解かないで自分のことをじっと見られていたら誰だっていい気はしない。
だからその理由をきっちりと話すことにした。失敗しないように一呼吸を置いて、彼女を見る。
「ごめん、いや、あの、その……えーと、チョーク、チョークが取りたくてさ」
いや、そこまでどもることないだろ。バイト先でもここまで緊張して言葉が出てこないなんてことはないのに。これじゃ日本語ネイティブかどうか疑われる。
けれど、黛はそんなことを気にしていないようだった。
「チョーク……ああ、なるほどね」
彼女がちらりと視線を落として三本まとまっているチョークを見た。そのうちの一つを引き抜いて僕に手渡した。
「ん」
「どうも」
軽くお辞儀をして受け取った。問題に目を向ける前に先生の貧乏揺すりが目に入った。そんなにプレッシャーをかけないでくれよ。頼むから。そんなに僕が賢いわけじゃないって先生だってわかっているでしょ? 時間をくれ、時間を。
えーと。これはどうやって解くんだ? 予習なんてしてないし、授業も聞いてなかったんだからわかるわけもない。「わかりません」とも言いにくいしな……。
どうしたものかと、左手で頭をかいた。仕方がない。わからないものはわからないんだから怒られてでも素直に──
「入江君」
ぼそっと黛がつぶやく。目線は黒板のまま、考えるふりをして僕にだけ聞こえるようにしてくれている。聞き逃さないようにチョークを手に持ったまま意識を向けた。
「私のが例題の復習。解き方の参考にして。それと、六乗は三乗の二乗だから。それじゃ」
一行の問題に一行の回答。その言葉を残して彼女は立ち去っていく。いや、情報量少な。そりゃあ六乗は三乗の二乗だろうけどさ。で、肝心の問題は……
(1)x3-8
=(x-2)(x2+2x+4)
これも情報量が少ないけど、とりあえず因数分解をしているのは分かった。黛の口ぶりからして僕の問題も因数分解。で、僕の問題は?
(2)a6-b6
……いや、6ってなんだよ。2までならわかるよ。中学レベルだしさ。6? 6って6でしょ? 本当に因数分解できんのかこれ? 貧乏揺すりの音が激しくなってきたしさ……本格的にまずいぞ、これは。
どうする? 諦めるか? いや、待て。さっき黛はなんって言ったっけ? 「六乗は三乗の二乗」だろ? あのときは理解できなかったけれど、黛が無意味なことをいうわけがない。きっとこれもヒントなんだ。とりあえず変換してみるか。
(2)a6-b6
=(a3)2-(b3)2
……ああ、わかった。これ、中学レベルだったのか。やっと黛が言っていたアドバイスを理解できた。確かに一言で言うなら「六乗は三乗の二乗」だな。答えは、
=(a3+b3)(a3- b3)だ。
チョークで解答を書き終えて席に戻る。わずかに舌打ちが聞こえて、そのあとに解説が始った。首の皮一枚で乗り切ったことにホッとして、黛の方を見る。彼女も僕を見ていた。目が合ったのはこれが三度目、微笑んでいるのを見たのは初めてだった。
妙な満足感を抱きつつ、席に着くと先生と目が合う。
「入江、これまだ因数分解できるぞ」
あれ?
解答
(2)
(a+b)(a2-ab+b2)(a-b)(a2+ab+b2)