約束を交えた僕たちは放課後になってからは言葉を交わすことはなかった。五十嵐は部活へ行き、僕はバイトへ向かう。黛は今日、シフトには入っていなかったから、おそらく帰路に着いたはずだ。
いつもの帰り道を通って『三島コーヒー』に顔を出す。正直なところ、ここに顔を出すのは億劫だった。けれど、来なければならなかった。従業員としての義務感も勿論あるけれど、一番大事だったのは山川とシフトが被っていることだった。
黛に宣言した通り、僕は山川に謝らなければならない。僕が彼女に傷をつけたという事実はもう覆ることのない真実なのだから。この謝罪がどのようなものになったとしても。彼女にいかなる罵詈雑言を浴びせられることになったとしても、僕がしなければならないことだった。それが筋ってものだろう。
けれどそんな僕の覚悟は空回りしてしまうった。理由はもちろん、山川がバックレたからだ。彼女の代わりに犬井さんが顔を出した。事務連絡は来ていなかったから、山川が直接交渉して代わってもらったのだろう。
「や、最近は良く会うね。元気してたかな?」
「まあ、それなりに。というか
「それもそうだね。二日前の入江君は美女に囲まれてウハウハだったし、元気じゃないはずもなかった」
そう言って彼はダグアウトの席に着いた。
正確に言えば僕は彼女たちのおかげでここ最近は慌ただしく、心乱される日々を送っているのだけれど、それは今犬井さんに関係のないことだった。
「今日は山川の代わりですか?」
「ああ、なんでも体調を崩したらしい。彼女には借りがあるからさ。これぐらいはね」
「借り? ……ああ」
そういえば犬井さんは黛と山川に女性関連で助けられていた。ひどい目に合うのは毎度のことではあるけれど、いつも以上に悪化せずに別れられたのは二人の尽力が大きい。彼なりに恩を感じているということなのだろう。
「山川には話したいことがあったんですけどね……弱りました」
「話したい事? メールじゃだめだったのかな」
「いいえ、大事なことだったので直接話しておきたいんですよ」
「そうか。大事なことだったら直接がいいだろうね。……別れ話かい?」
「僕と山川は付き合ってなんかいませんって」
僕は首を振った。
でも、話す内容としては似たようなものなのかもしれない。彼女が向けてくれた好意に答えることができないと伝えるのだから。
「そうか。ボクはてっきり付き合っているものだと思っていたよ。僕はアルバイトを始めてそろそろ六年になるけれど、君たちほど息の合うコンビはそうそういない」
「息が合っているからって、付き合ってるっていうのは単純すぎませんかね」
「でも、大事なことだよ。今にして思えば、ボクと付き合った人たちは何というか……歯車が噛み合わなかった」
それ以前の問題のような気がする。犬井さんと付き合っていたのは本来であれば避けなければいけないような人たちだったし。彼はもう少し関わる人を選別する必要があると思ったけれど、指摘することなく言葉を飲み込んだ。
「だから、もし彼女に別れ話をするのだとしたら……もったいないなって思ったんだよ」
「もったいない?」
「ああ、君たちは真っ当で誰もが憧れる関係性を築けそうだった。ボクと違ってね」
「それ、自虐で言うぐらいなら直してくださいよ」
「直せたらここまで自虐的には話さないって」
笑う犬井さんを横目に見つつ、山川と僕が付き合ったのなら……なんて想像してしまう。
たぶん会うたびに振り回されて、どうでもいいことを話して「馬鹿だなー」ってお互いに思いっきり笑いあう。そんな関係になる。それはきっと居心地が良いことだろう。
でも、僕がもうその方面に進むことはない。
犬井さんを正面から見た。
「犬井さん、後学のために一つ教えていただきたいんですけど、別れ話をされるのって……
犬井さんは一瞬しかめっ面になった。けれど、からかうつもりじゃないとわかったのかすぐに警戒を解く。それから一呼吸おいて口を開いた。
「辛いね、とっても。自分に非があるわけじゃないって分かっていても、辛い」
「……ですよね」
呼び出しのチャイム鳴って会話を中断した。僕と犬井さんは慌ててホールに出る。
それから僕らは閉店時間まで働いたけれど、この話題を再び振る気にはなれなかった。だから、お疲れ様ですと挨拶をして僕は帰路に着いた。
山川に会えなかったのはちょっとした誤算だ。まあ、よくよく考えてみれば山川は僕とは顔を合わせづらいはずだ。だからサボることも納得はできる。
となると問題は彼女とどのように対面するか、なのだけれど、電話で呼び出すにしても出てくれる気がしないし、メッセージを送っても煙に巻かれる気がする。
どうしたものかと悩んでいるうちに、僕は家の近くのバスケットコートまで来てしまった。五十嵐との勝負は明日だ。ボールを取りに行って練習もしておかなければならないだろう。
そんなことを考えながら公園を眺めているとベンチに人影を見た。見覚えのある三つ編み。うつむいているから眼鏡は見えなかったけれど、それでも僕はその正体を看破する。
声をかけるかどうか、少しだけ悩んで僕は一歩踏みだすことを決めた。
「何サボってんだよ」
公園の敷地に入って、声をかけた。顔を上げると眼鏡が見える。彼女は間違いなく山川美海だ。彼女はなぜだか胸に抱えていたバスケットボールをより強く抱きしめる。彼女の口からバスケの話を聞いたことはなかったから、少し驚いた。
「何しに来たの」
「何しにって……まあ、いろいろだよ」
「いろいろって何さ」
言葉が上手く出てこない。覚悟は決めたはずなのに、自分の気持ちは確定しているはずなのに、それでも僕は山川の正面に立つと揺らいでしまう。
だから苦し紛れに彼女が抱えていたボールを指さした。
「ひとまずそれ、借りていいか? 久々にバスケの練習をしたいんだ」
山川は僕からボールを逃がすように体を捻る。
「えー、これ? 使うための物じゃないんだけど」
「使うためじゃなかったら何のためのボールだよ」
そうやって抱きかかえる用か? だとしたら変わった趣味だ。
「でも、まあ……リーダーになら良いよ。貸してあげる」
彼女は少し考えた後、僕に向かって下投げでボールをパスする。僕は受け取って、シュルシュルと感触を確かめるようにスピンさせる。
「……随分とツルツルだな」
「だから、使うための物じゃないって言ったでしょ?」
「だったらさっさと新品に取り替えたらいいのに」
「大事なものだから。替えが効かないんだよ」
山川は目を細めた。使い込み具合から言っても彼女は相当このボールを大切に使ったのだろうと思う。それだけバスケットに入れ込んでいたのかもしれない。
「……そんな大事なものを貸すなよ」
「貸せって言ったのはどこの誰でしたかね?」
「悪かったよ、返すって」
下手投げで彼女にボールを返却しようとすると、首を横に振られた。
「ううん、いいの。使って」
「いや、でもな……」
「いいって言ってるでしょ? 使ってあげて」
山川に気圧されるようにして僕は頷いた。なんだか彼女の意思を尊重しなければいけない気がした。バンと軽い音が公園に響く。空気はしっかりと入っているみたいだった。
彼女に背を向けてバスケットゴールへ向けて、ドリブルしながら歩く。スリーポイントラインの一歩手前。そこで僕は山川に声をかけられた。
「ねぇ、リーダー。初めて会った時のこと、覚えてる?」