「なんだよ、いきなり。……そりゃあアルバイトを始めた時だ。山川は俺よりも一週間早く働き始めてた」
振り向くと、山川が僕に聞こえないように何かを呟いていた。彼女は僕に向けて首を振ると、ベンチから立ち上がった。
「違うよ。私たちはもっと前に会っているんだよ」
「……全然記憶にないな。だいたい山川だってあの時『初めまして』って言ってただろ? しょうもない嘘をつくのはやめろ」
初対面の時の彼女を鮮明に記憶している。一週間しかいなかったくせに一丁前に先輩風を吹かせる同級生。働いている人数が少ないのだから尚更だ。
けれど、僕の記憶を彼女が「いいや」と否定する。
「あの時は本当に『初めまして』のつもりだったの。だって、同一人物だって気が付いたのはそれからしばらく経ってからだったからさ」
山川が近くに来るまで僕は手持無沙汰に二度ボールを突いた。
彼女が何をしたいのか、何を言おうとしているのか、僕にはまだわからない。けれど、彼女にとってこの話題が大事なことなのだということは、空気で感じ取れた。だから自分の目的を脇に置いておくことにした。
『誰にだって、誰にも負けない可能性が眠っている』
かつての自分が掲げていた座右の銘。こっぱずかしくて、ほとんどの人に話したことがなかったそれを、山川が口にした。心臓を直接つかまれたような驚きが僕の中に生まれる。
彼女は本当に
「……嘘じゃないみたいだな」
「嘘なんてつかないよ。私にとって大事なことなんだから」
山川は一度目を伏せて、それから僕と目を合わせた。
「私は、リーダーに言われたことをずっと支えにしてきた。なんでもない、私にだって何かやれることがあるはずだって、信じることができた」
僕は目を細めた。
あの座右の銘。かつての志。それを僕は諦めざるを得なかった。怪我をして以来、捨ててしまった。だから山川はまぶしく、輝いて見えたのかもしれない。他の誰でもない僕自身が、憧れ、実践したかった生き方だったのだから。
彼女が「でもね」と顔をしかめる。それはあの日、買い物に行ったときの別れ際で見せた表情に似ていた。
「最近、信じることができなくなりそうになるの。私はそうありたいのに、別の私がそれを否定している。諦めたほうが楽だって……そう、言ってるんだ」
今にも崩れ落ちそうな、震えた声。それを聞いて僕は彼女もかつての
自分の追い求めてやまない物。誰にだって譲りたくない憧れと、諦めの境界線で揺れている。
それはとても辛いことだ。自分は耐えられなかったけれど、あの場に今もなお立ち続ける山川はそれ以上に辛い戦いを強いられているはずだった。だから彼女になんて言葉をかけていいのか、わからなかった。
だって彼女が譲りたくないものの正体。それを僕はもう知ってしまっているのだから。
山川が僕に微笑みかける。それがやけに痛々しかった。
「ごめん、何言ってるのかわからないよね。忘れて」
山川はさっきまでの雰囲気をかき消すように目の前で両手を振って見せた。いつものようにおちゃらけていて、明るい彼女に戻ろうとする。
けれど僕はそれを阻んだ。彼女の手を握って、首を横へ振った。
それではこれまでと変わらない。知っていて、それでも目を背けて、逃げさせて……。彼女にとって一番不誠実な態度をとることになる。これからも彼女に傷をつけることになる。そんなことをもう一度したくはなかった。
「ちゃんと話してくれ。今度はちゃんと聞くから。山川だけを見るから」
僕は言う。あの日の後悔、自分のした過ちを清算するために。
山川が二度パチパチと瞬きをした。それからゆっくりと息を吐く。
「リーダーは……意地悪だな」
「よく言われるよ」
「自覚的なのもどうなの? まあ、いいけどね」
山川が僕に向けて一歩近づいた。僕が掴んでいた手を握り返す。掌と掌を合わせて、指を絡めた。それから僕のことを正面から見た。
「私はリーダーのことが好きだよ。ここ昨日と今日、ずっと考えていたけどそれは変わらなかった」
山川は隠すことなく想いを口にした。
これまでも感じ取れるはずだった、僕がこれまで無視してしまっていたもの。それが重くのしかかってくる。
「……でも」と彼女が言葉を区切る。収まっていた声の震えが戻ってしまっている。合わせていた瞳にははっきりと涙がにじんで見えた。
「リーダーは……そうじゃ……ないんだよね」
彼女の確認。煮え湯のような罪悪感を飲み干して、僕はのどの奥から絞り出すようにして「悪い」と口にした。覚悟はしていたつもりだったけれど、想像以上に息苦しかった。
山川は僕を見て微笑むと、絡めていた指を解いて、手を離した。
「いいの。分かってたことだったから。リーダー、レイちゃんを見るときだけなんか違ったもん」
「そんなにつもりはなかったんだけどな」
「女の子はその辺は敏感なんだよ。次から気を付けるべし!」
茶化すように彼女は言う。僕はそのノリについていくことができなかった。どう声をかけていいのかわからなくて、一瞬の間が空くと、重く、息苦しい空気が戻ってくる。
「……ねぇ、リーダー。最後に一つ教えてよ。なんでレイちゃんのことが好きなの?」
山川が僕に問う。
誤魔化すつもりはなかった。彼女が納得できるように、自分が誠実であるために僕は慎重に言葉を選ぶ。
「……バスケをやめて、今までしてきたことが全部無駄になった。どうしたらいいのか分からなくなった時期が続いた。黛と会ったのはそんな時だった」
僕が黛と初めて会った時を思い出す。忘れられない、自分にとって指針になった彼女の姿が僕にはあった。
「不器用で、不愛想で……でも、努力家。誰に見せるわけでもないのに。ひたむきだった」
当時の彼女は決して、器用で要領のいい人間には見えなかった。もちろん外見は突出していたけれど、それでも一般的な女生徒だった。
けれど、忘れもしない一年の春。夕暮れの校舎、室内プールに一人、最後まで残って練習をする彼女を初めて見た。ただ真っ直ぐに前を見据えて積み上げていく、その姿を。
何もない自分がもし次に進むべき場所を決められるのなら……そうありたいと願った。
「そんな人間としての在り方が好きなんだと思う。最近は見失っていたけれど、諦めていたけれど……僕はやっぱりあんな風に生きていきたい」
「……そっか」
黛自身にも明かしたことのない心の内を、傷をつけた女の子に
山川は最後まで聞き届けるとうつむいて表情を隠す。背中を向けて空を見た。日は沈んで、星がうすぼんやりと見え始めていた。
「ありがとう、話してくれて」
「いや、礼を言われることじゃない。罵倒されたって、文句は言わない」
「しないよ。私が頼んだんだから」
山川は首を振ると三つ編みがゆらゆらと宙を舞う。夕焼けに馴染んだそれは今にも消えてしまいそうな儚さを持ち合わせていた。
「あ」と思いついたように山川がつぶやく。
「でも一つ、頼みごとしていい?」
「ああ」
「練習したいリーダーには悪いけどさ、しばらく一人にして欲しいんだ。ボールはそこに置いて行ってかまわないから」
不自然な指示。この距離なんだからボールは直接受け取ればいいのにと思った。けれど、背後から見た彼女の肩が震えているのを見て、ボールをそのまま地面に置く。
「……わかった」
山川に背を向けて歩き始めた。家に帰るまで振り返ることは無かった。もう僕は進む道を決めたのだから。彼女にどのような言葉をかけても、優しさにはなりえないのだと知っていたから。
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彼が曲がり角に消えたのを確認して私は長く息を吐いた。
答えはあの日に出ていた。それ以前からもその傾向があった。圧倒的に不利な戦いであることを知っていた。
全部分かっていたことだったはずなのに、結局私は受け入れることができずにいる。
本当は彼の目の前で思いっきり泣いてしまいたかった。どうして私を選んでくれないのと駄々をこねたかった。面倒くさい女を演じて、彼にもっと深い傷をつけたかった。
けれどそれはできなかった。自分が好きになった人をそんな自分勝手な理由で歪めてしまいたくなかった。彼は彼のまま、可能性を信じ続ける入江圭のままでいてほしかったから。
地面に彼がおいたボールに触れる。腕に抱えていたそれにはわずかに熱が残っていた。すり減って、ざらついて、乾いた私の分身。
それを力強く抱えて、顔を押し付けた。今の表情を誰にも見られないように。この気持ちを落ち着かせるために。
身体が勝手に震えて、落ちた雫はボールに馴染んで溶けた。
私の行動は利己的で、常に好まれるキャラクターを演じ続けてきた。けれど、抱いていたこの気持ちには嘘偽りがなかったのだと、ボールにできた数滴の染みが証明してくれていた。
サブタイ:教えて、バイトリーダー!